市川喜一著作集 > 第23巻 > 第5講

第四節 宗教現象学 ― レーウ 

ヘラードゥス・ファン・デル・レーウ

 先に見たドイツのオットーやスェーデンのゼーデルブロムのような宗教学に進んだ神学者はその国において例外的な存在でしたが、宗教や思想の自由の伝統が強いオタンダでは早くから神学部に宗教学の講座が設けられて(一八七六年)、神学者にして同時に優れた宗教史家や宗教学者を輩出していました。すでに一九世紀末に宗教史学の父と呼ばれたC・P・ティーレや、宗教現象学の先駆者とされ有名な『宗教史教科書』を生み出したシャントピー・ド・ラ・ソーセイらがオランダの宗教学を開拓していました。このソーセイの意図を継承し発展させたのが本項で取り上げるヘラードゥス・ファン・デル・レーウ(1890〜1950)です。レーウはオランダ改革派の神学者ですが、近代の宗教現象学を代表する宗教学者と目されています。彼は一九三三年に大著『宗教現象学』を出していますが、その前に『宗教現象学入門』を書いてこの新しい学問を概説しています(一九二四年)。この『入門』の方が邦訳されていますので、本項ではそれによって宗教現象学という宗教学の新しい分野の概略を見ておくことにします。

 G・ファン・デル・レーウ『宗教現象学入門』の邦訳は田丸徳善・大竹みよ子訳で、優れた訳注と解説をつけて、東京大学出版会から出ています(一九七九年)。

 レーウの『宗教現象学入門』の内容に入る前に、宗教現象学とはどういう性格の学問であるのかを見ておきます。レーウ自身がこの書の序論でその性格を説明していますが、それによると宗教現象学は宗教史と同じ対象を扱うので宗教史と一体であるが、その扱い方が違うということになります。宗教史は人類が過去においてどのような宗教的な営みをしてきたかを記述します。もちろんその記述が歴史となるには、それが単なる過去の事実の収集と羅列ではなく、一定の視点にもとづいて整理され、宗教の一般的理念を基準にして配列されなければなりません。宗教史は人類の宗教的な営みの通時的な記述であると言えるでしょう。それに対して宗教現象学は諸々の宗教現象がどのように見えるか、どのようにわれわれの前に現れるかを問い、それに対する価値判断は差し控えてその意味を問い、その意味に従って諸現象を分類し、一定の理解可能性、一定の体系にもとづいて序列づけます。すなわち人間の宗教的な営みという所与の事実の構造を明らかにしようとします。宗教現象学は宗教現象の共時的な記述であると言えるでしょう。

 レーウはその『宗教現象学入門』の本論で、宗教諸現象を41の項目に分けて叙述し、それを五つの部門に分けて序列づけています。その項目のすべてを紹介することはできませんので、五つの部門の大要を紹介することになります。そのさい、各項目名は項目番号をつけたカギ括弧を用います。なお、本項で( )内は、本項の著者(市川)の解説的挿入の場合が多くあります。

宗教現象における神

 レーウは宗教的諸現象を大きく五つに分けて叙述しています。第一部は「神」と題されていますが、この神は特定の宗教の神とか神話の神々ではなく、人間が日常的なものとは異なる「何かあるもの」を体験するときの対象を広く指しています。そう断った上で、レーウは「3原始的な力」という項目で、マナをはじめ未開の諸部族の人たちの間に見られる非人格的で道徳と無関係な異常な力に対する信仰を、将来の一神教や汎神論の端緒として最初に置いています。この未開社会で体験される様々なマナのような力を、文化の進んだ民族では一つの力に組み込もうとする傾向が出てきます。この傾向をレーウは「4 思弁的な力」で考察しています。実例としてレーウはインドのブラフマンをあげ、もともと未開のマナ信仰を示す語のブラフマンが宇宙の魂とか法則となり、それとの合一が救いとされる神秘主義的な一元論になった経緯を解説し、さらに法則という観点からシナの道(タオ)の思想を取り上げ、ギリシアのゼウスを頂点とするオリュンポスの神々の統一などもこの視点から扱っています。また新約聖書における《カリス》(恵み)もこのような力の一つとして扱い、救いの恵みを教会の資産のように扱うカトリック教会は新約聖書の人格的宗教から非人格的力という未開の観念に逆戻りしたという注目すべき発言をしています。続いて「5 力ある物―呪物崇拝」で、人が手近にある物品を特殊な力のある呪物(フェティシユ)として崇拝する呪物崇拝を取り上げます。これは現在でも各民族に見られる各種の御守りの習慣に生きています。さらに「6 力ある世界」で、世界を構成する諸物質、木、石、水、火などを聖なる力をもつ対象(聖木、聖石、聖山、聖水、聖火)として崇拝する未開の人たちの宗教は、歴史的な諸宗教にも、また現代人の思想や習慣にも深く浸透している実例を多く挙げています。それは天上にまで及び、「7 天と天体」で天体、とくに太陽に対する崇拝になります。人間は天体の永遠に規則的な運行から宇宙の法則性を認めただけではなく、天体とくに上り沈み再生する太陽に人間の生命の範を認めて崇拝します。この太陽崇拝はとくにエジプトの宗教に顕著です。この天体と人間との生命の結びつきの信仰は占星術が生まれる基盤となります。さらにもう一つ「8 聖なる動物」で、人間と生命のつながりをもつもの、神的な生命を分け与えるものとして崇拝される動物に対する信仰が取り上げられます。ある動物が特定の個人または部族と一体関係にあるという未開部族のトーテム信仰もこの聖動物信仰の一場面です。同時に動物を殺して生きる人間の動物に対する感謝と贖罪の儀礼が人間の宗教の一つの形態を形成します(たとえばアイヌの熊祭り)。
 レーウは「9 意志と形態―アニミズム」で初めて、宗教の起源としてもっとも重視されているアニミズムを取り上げます(ゼーデルブロムは最初に取り上げていました。アニミズムについては34頁参照)。夢や死などの体験から身体から自由に離脱する非物質的で人格的な実体すなわち霊魂の存在を確信するようになった人間は、この霊魂の観念を周囲の動物や植物、さらに無生物にまで及ぼし、それらに宿る霊魂との交流を生活の重要な要素とするようになります。このような霊的諸存在への信仰を最初に「アニミズム」と名付けて、それで宗教の起源と本質を説明したのはタイラーですが、レーウはタイラーのアニミズム説がすべての事象の原因を求める未開人の合理主義から説明しているのを批判し、もっと生活の逼迫や危機という生活のプロセスから説明されるべきだとしています。タイラーのアニミズム説には問題があるとしても、この用語を人格的に考えられた霊による生気の付与という意味に限定すれば、宗教上の現象を説明するきわめて重要な用語でありうるとします。環境の中の有力な潜在力に対して人格的な意志が付与されるところではどこでもアニミズムが見られます。このようにすべての存在はそれぞれ独自の形態と意志をもつとするアニミズムは、多種多様な非人格的な力を崇拝するデュナミズム(項目3〜8で扱われた宗教形態)と対抗する独自の宗教理解の分野を形成することになります。
 レーウは項目9でアニミズムを解説しましたが、項目10以下で人間に現れる異常な力が取る多様なアニミズムの形態を順次取り上げて検討します。最初は「10 母と父」です。命を生む両性の生殖器を神として崇拝する儀礼は広く分布しています。とくに母が命を産む力として、大地と比されて太古から人類の崇拝の対象(地母神)とされてきました。この人類太古の宗教性が父の宗教であるキリスト教にもマリア崇拝として入ってきていることが指摘されています。命のつながりとしては父は母ほど強固ではありません。父との関係は法律的で建前的なものになります。レーウは「父なる神のもとで生起するのは誕生ではなく歴史である」と言っています。次に「11 救世主」の項で、レーウは息子という形態で現れる救世主の意義を論じています。人は生の困難の中で救護と生の安全を求めます。健康、幸福、成功、勝利、平和など、渇望しつつ持たないものの総和が「救い」と呼ばれ、すべての宗教はこの救いを得るための営みとなります。このような救いをもたらす力が象徴をもって崇拝される段階ではその宗教はデュナミズムの一種ですが、それが人間の形でもたらされるときはアニミズムとなります。古代の神話や密儀宗教の神々やその息子、また王や各種の文化導入者などが救いをもたらす救世主として崇められ、それが時代と共に民族や時代を超えた全世界的・終末的救世主の期待となっていくとされます。次の「12 祖先と王」では、神的なものを人間を通して人格化する一般的な傾向の現れとして、レーウは最初に死者崇拝をあげます。死者は特別な力で生者に禍福をもたらすとされて崇拝と供犠の対象となります。それが先祖崇拝の基盤となります。生きている者でそのような力を持つとして崇められるのは王です。王は自然を含め存在するすべてを覆う力を持つとされて崇拝されます。さらに「13 霊鬼と天使」で、普遍的な霊魂的存在の中で恣意的でしばしば悪意ある働きをするものを霊鬼(デーモン)と呼び、アニミズムの暗い面を描いています。霊的存在の天使にも善悪両方の天使がいるとして、聖書に出てくる天使の種類を解説しています。
 このように人間が非日常的な力と遭遇する体験をデュナミズム(項目3〜8)とアニミズム(項目9〜13)に分類してまとめた後、レーウは項目14以下でそれらの力がある構造をもって神として崇拝されるようになるさいの様々な形態を解説します。まず「14 形態と名称」で、人間が遭遇した力に名称を与えるときに構造が始まるとして、神名の重要性を指摘しています。人間が生活の様々な状況で体験する異常な力にそれぞれ特別の名が与えられ、結婚の神やお産の神、水の神、火の神などなど、多くの「特殊神」が現れます。現代でもカトリックの諸聖人は古代の特殊神たちの継承者となっています。次に「15 最高存在」で、ラングやシュミットの原始一神説は妥当せず、未開宗教や古代宗教における最高存在 ― 古代中国の上帝やゼーデルブロムのいう起因者など ― は、理神論者のいう神、すなわち万物を美しく造り、その後はそれ自身の運行に任せて身を引く偉大な時計師のような神であり、「背景に退いた意志」とされ、自然的宗教はそのような最高存在への崇拝を継承するものとされます。続いて「16 多神教」で、これまでに見てきた様々な崇拝対象が入り乱れる中に秩序と規則を樹立した宗教を多神教と名付け、ギリシアの宗教を実例として説明しています。オリュンポスの神々は古くからの祭祀を吸収し、その崇拝対象の名を別称としたり、臣下や息子や友人として吸収し、ゼウスを家長とするオリュンポスの大家族が形成されます。この秩序の中に吸収された女神も多かったので、ゼウスは正妻ヘラの他に多くの愛人をもつことになります。ホメロスらの詩人たちはオリュンポスの神々を美しく歌いましたが、その人間化によって上古の宗教の動物的な形態は脱しましたが、同時に神々の脱神格化も起こり、その神人同型説的思想が哲学者から厳しく批判されることになります。多神教に対する一神教も神の数の問題ではなく、多くの神々の中で唯一の意志の絶対性の確認であるとされます。そして「第一部 神」の最後の項目になる「17 有神論と汎神論」で、レーウは今一度デュナミズムとアニミズムを対比します。デュナミズムは力が異常な形で現れるときの宗教性であるので、通常と異常の対立が現れ、それがやがて聖と俗、自然と超自然の対立となり、宗教史に計り知れぬ重要な役割を果たします。そして人格化された力は論理的に全能とされ、一元論ないしは汎神論に向かう傾向があり、一元論的で思弁的な近代思潮と結びつきます。汎神論的傾向の宗教では神はその名を失います。それに対してアニミズムでは意志が主体となります。人が自分や他者の中に霊魂の存在を前提とすることは、出来事や生命現象を行動する行為主体のせいにすることであり、神や人間に意志を認め、自分を人格として自覚するようになります。このことがやがて我と汝の関係において成立する人格神、唯一神信仰となり、有神論に向かうとされます。 

聖なる力と関わる人間

 「第二部 人間」では、以上の聖なる力と関わる人間の姿が解明されます。最初の項目「18 聖なる生」で、未開人は人生を連続した諸段階の継起と見ており、前の段階から次の段階に移行する時に宗教的儀礼を行い、人はその儀礼ではじめて次の段階に移行するのだと考えていることが説明されます。そのような儀礼は通過儀礼と呼ばれ、誕生、成人、結婚、死が通過儀礼を要する主要な区切りとなります。そのような通過儀礼の思想は現代の風習や宗教にも多くの痕跡をとどめていることが指摘されます。未開人は生は死で終わらず次の生に続くという周期的円環と考えていることが、多くの文化宗教における再生や輪廻思想の基盤になっていることも指摘されます。
 続いて「19 力の顕現」で、聖なる力の顕現を媒介する聖なる人間の様々な姿が描かれます。すでに述べられたように、原初期ではまず王がそのような力の顕現を媒介する人間であり、そのための祭儀を執り行う祭司である(古代の王は同時に祭司である)ことが再説されます。さらにシャマンと呼ばれる呪術者または呪医はマナの担い手であり、熱狂、恍惚、脱我の状態で超自然的な力を現します。同じような脱我・憑依の状態で自分からではない言葉を語る預言者の実例が、カッサンドラ、バラム、ピュティアのような違った思想圏からの実例で示されます。そして、聖なる力の顕現を、以上のような特別な憑依の状況ではなく、日常的に規則正しく担う者としての祭司の役割が解説されます。続いて同じ題名の次項「20 力の顕現」で、力の顕現は聖別された人間、すなわち神に仕えるために他の一切の関わりを断った人間に起こることが、様々な実例をもって説明されます。この面では性的観念が強く、キリストの花嫁として処女を貫いた修道女も、神殿に詣でるすべての男性に身を許した神殿娼婦も、宗教史では等しく聖なる力の担い手とされます。また殉教者や生前に力を示した聖者は、死後も力の担い手として崇拝され、その遺骸や遺物の力が信仰され、その所持が争われます。また、霊鬼(デーモン)が宿ると信じられた人間、デーモン的人間も、異常な力の媒体として畏怖の対象となります。
続く三つの項で共同体の問題が扱われます。最初に、宗教を一つの社会現象として説明し、神とは結局社会のことであるとするフランス社会学派(デュルケムなど)が批判され、その上で人間の様々な共同体がもつ宗教的意義が検討されます。最初の「21 聖なる共同体」では、これから統一を作り上げる団体とか結社と、統一が所与のものである共同体が区別され、任意契約で成立した夫婦が血と共有財産による最も基本的な共同体である家族を形成し、家族が最古の祭祀共同体となることが描かれます。そして家族の祭祀から支族の祭祀が生まれ、その祭祀は成員を強力に結びつけ、その祭祀から離れては生きていけないことが示されます。血の復讐という習慣もこの関連で説明されます。この祭祀共同体は支族から部族へ、さらに部族から民族へと拡大されます。二つ目の「22 聖なる共同体」では、任意に形成された団体である結社が、前項の共同体と対立併存する宗教現象となることが解説されます。家族や部族の祭祀が血縁性を失い次第に秘教的性格(部外者には秘密とされる祭祀)が強調されるようになり、未開社会に見られる秘密結社(秘密の儀礼で結束する年齢集団など)とか地中海文化圏に見られる密儀になる消息が語られます。有名なエレウシスの密儀ももともとはギリシアの一地方の秘密の部族祭祀でしたが、ただ儀礼による浄化だけを条件として、だんだんと部族外の者にも広く加入を認めるようになります。このようにして成立した密儀共同体は部族や民族の中での、あるいはその枠を超える結社、すなわちセクトとなります。教会は、人が自由意志で加入する結社としての性格と、人がそこに生まれ落ちる共同体としての性格の両方をもつ民とされます。教会はキリストによって設立されたキリスト教独自の共同体であり、セクトは全体としての教会から分離した結社とされます。三つ目の「23 聖なる共同体」では、部族や民族の聖性が国家に移行することが、ギリシアのポリスを実例として解説されます。ポリス(国家)は宗教共同体であり、他の宗教と衝突する場合があることが、ローマ帝国と初期キリスト教との衝突と戦前の日本の状況が実例としてあげられています。セクトや教会や国家を超えて人類に聖なる共同体の実現を求める場合がありますが、人類には共同の聖なるものが欠けており、影が薄いとされます。
 「第二部 人間」の最後の二つの項でレーウは人間の霊魂と不死の問題を扱います。「24 人間の霊魂」で、霊魂を「人間が自身の上に発見する聖なるもの、人間の中にありながら彼を超えて彼の外に出て行くあるもの」とし、霊魂は己の内なる神の一種であり、神は一種の外在魂であるとします。デュナミズムでは人間や動植物に吹き込まれた霊質は非人格的な力ですが、アニミズムでは人格であり、霊魂は独自の形態をもつので、自由であり、肉体を離れることができるとされます。人間の生命力や霊魂はよく肉体の一部に宿るとされますが(その典型は息、多くの言語で息と霊魂は同じ語)、息が人間から外に出るように霊魂は肉体を離れるとされます。肉体から離れた霊魂は「外在魂」と呼ばれますが、それはしばしば守護霊として人を守り、人の死にさいして現れるとされます(エジプト人のカーやワグナーのワルキューレなど)。この外在魂が死後も生き続ける完全に独立した不死の霊魂という観念の発端となります。霊魂の観念は人間の内なる力という根本経験に依拠しており、この経験が系統立って展開すると、霊魂は唯一の力あるもの、身体やこの世に依存しない独立した存在となり、死後も生き続け、誕生前から存在するものとなります。プラトンによって大成されるこのようなギリシア的な霊魂論に対して、ユダヤ・キリスト教やイスラム教では人間全体が救済されなければならない霊魂とされます(次項)。第二部最後の「25 不死と復活」では、様々な形での不死の信仰が描かれます。死に脅かされる生に満足できない人間は、その本性である憧憬から生の目標を死後の世界に置き換え、死後の世界に最終的な故郷を見いだそうとして、死者の国を思い描きます。死者の国である冥府は、遠くの島、太陽が沈む西方、天空の彼方や大地の底などに想定されます。そこは死ではなく生を宿す場所です。埋葬は死者がその国で新しい生を受けるための儀礼となります。未開人においては生と死は連続・循環・再生として理解されていましたが、死の冷酷な現実はその境界を通過しがたい深淵とし、彼の地での生をこの世の生と隔てます。未来の生との隔たりを超える資格として、悟りによる解脱だけを求める仏教のような純粋に宗教的な立場と、それに道徳的な資格が加わる場合があります。すなわちこの世で善を行った者は祝福された豊かな生を、悪を行った者は苦しみだけの生を受けるとされます。ここにパラダイスと地獄の思想が生まれます。このような霊魂の不死を前提とする宗教とは別に、霊魂を含め人間全体を死ぬべきものとし、神からの賜物としての霊による新しい創造としての生、すなわち復活を信じる宗教があります。すなわち、ユダヤ教の流れを汲むキリスト教とイスラム教です。

神と人間 ―聖なる行為―

 「第三部 神と人間 ―聖なる行為―」は 「A 外的な行為」と「B 内的な行為」に分けられ、Aでは祭祀の中にみられる外的行為が項目26〜31で、Bでは内面の体験が項目32〜35で扱われます。両者は区別できないことが強調された上でAに入ります。「26 浄化、供犠、聖餐」では、この三つの代表的な宗教儀礼が取り上げられます。浄化とは生理的とか道徳的な浄化ではなく、俗なる領域から聖なる領域に移る通過儀礼であり、密儀の加入儀礼やキリスト教の洗礼もその一種です。宗教儀礼の中心をなす供犠は人間に直接神的力を得させる儀礼として、1神への捧げ物(神に義務を負わせる)、2神に飲食を提供する(神の生命を維持する)、3贖罪の供犠、4聖餐の会食(食を共にして命を分かち合う)などの種類があるとされます。贖罪の供犠は、神に対して間違ったことが行われた時、その間違いを帳消しにするため、その間違いに相当する犠牲が捧げられます。その究極の形は人身供犠です。アンセルムスに見られるキリスト教の贖罪論も、贖いきれない人間の罪を神自身が人となってゴルゴタの丘で贖ったとされ、礼拝はこうした供犠への参加とされます。
 「27 聖なる時間」では、宗教において人間は時間を、時計の文字盤に見る等質で連続的な時間という虚構(フィクシヨン)ではなく、難関を越えて生の車輪を進める儀礼をもって介入すべき境界・通過点と見てきました。人間は時間を太陽や月の運行とか耕作の必要に合わせて年、月、週、日、時間に分けましたが、その各々が生を支配する諸々の力の関わりで固有の価値を持つとされます。暦は期間の順序の連続性と共に人間の生のリズムをも規制しかつ保証します。しかしその中で移行や危機的な時点は救済の時(カイロス)なのであり、神の到来、神体顕現(エピファニー)の時として祭りが行われます。その典型が古い年から新しい年への移行を祝う新年祭です。その中でイスラエルでは、周期的な生の更新を祝う農業祭が民族の歴史への神の介入を想起する歴史的な祭りとなりましたが、この転換は宗教史上で起こった転換の中で最も重要で原理的なものとなります。「28 聖なる場所」では、自然科学では空間はすべて等質で交換可能ですが、実際にはこのような空間は存在せず、どの空間も独自の特性と価値を持ちます。その中で力が啓示される空間は特別なものとなり、他から分離されて聖なる場所となります。未開人や古代人にとっては自分たちが住んで耕している土地が聖なる場所であり、その外は自分を守る力が及ばない危険な場所です。彼らにとっては追放は極刑となります。その聖なる場所の中心となる場所が(広い意味での)神殿です。人間の共同体の中心には神殿があります。多神教ではそれぞれの神の住まいであり、一神教では宇宙の中心となります。この力が啓示される場所(聖地)に、人々は遠近を問わずやって来ます。これが巡礼です。
 「29 聖なる言葉」では、言葉がもつ聖なる力が扱われます。未開の思考では言葉は行為そのものであり、決定的な力をもちます。祝福の言葉は現実に幸いをもたらし、呪詛の言葉は実際に不幸をもたらします(日本では言霊(ことだま)信仰)。この思考は後の宗教でも様々な形で現れます。祝祭で唱えられる言葉が呪術的な力を持つことが、インドのブラフマンやローマの巫女のカルメンなどの実例を挙げて説かれ、呪文は理解しがたい言語で際限なく繰り返される傾向があるとされます。宗教(神や他の聖なる力とのかかわり)で人が用いる言葉には、人や物を神に捧げたり、ある行為を約束したりする誓約、誓願、宣誓、請願などがありますが、中でも中心にあるのが祈りです。祈りも元来は呪術的文句であった面がありますが、それと並んで願望の成就を含まない神への信頼、感謝、依拠の自発的表現が出てきます。そして多くの宗教集団では祈りは習慣ないしは義務となり、時間や姿勢や方角まで定まってきて、儀礼となります。自発的な祈りは二つの方向に発達し、神への自己の投入としての神秘主義的な祈りと、神との人格的な触れ合いを求める対話型の祈りとなっていきます。さらに「聖なる言葉」で重要なものとして、人間以外の力が行動の指針を与える託宣があります。イスラエルの律法は託宣の集合です。宗教的教説、とくにその本来の形式である信仰告白も力をもつ聖なる言葉です。文字を持つ民族では、書かれた言葉は二重の力をもちます。書くこと自体がすでに力の行使であり、呪術を行うことです。託宣や啓示を書き記した文書は「聖なる書」となります。ユダヤ教における「聖書」やイスラム教における「コーラン」がそういう性格の文書となります。キリスト教においてはキリストが神の言葉であって、新約聖書はその証言にすぎないのですから「文書宗教」とは言えないとされます。最後に「聖なる言葉」の最も重要なものの一つとして神話があげられます。神話とは原古の諸々の力についての物語であって、語られることによって力を再生産し、それを現実化し現在化するのです。したがって神話と祭祀は密接に関連しています。神話は空想や詩ではなく、人間と世界の全存在がその規則正しい繰り返しにかかっている言葉なのです。
 第三部Aの最後の項になる「30 タブー、命令、習俗」において、レーウは未開社会におけるタブーの観念を説明し、その極めて非合理的性格の観念が人間の宗教や習俗にいかに深く組み込まれているかを見ていきます。「タブー」というのは印をつけるという意味のポリネシア語ですが、未開の人たちはマナ的な力(超自然的な力)を集積する人や物の恐ろしさや危険を強調して印をつけ、その印をもつものに近づいたり触れたりしないように警告します。その警告(タブー)を犯すと、タブーとされた力は自動的に破壊的な力として働くとされます。タブーは恐るべきものとしての聖なるものの啓示であるので、宗教史では極めて重要な概念となります。自らを最も敬虔な民と自負していたローマ人の言語で、religio(宗教)は relegere(集める、繰り返す、反対は neglegere)から派生した語であり、もともとタブーの尊重を意味しました。ローマ人は聖なるものの尊重に宗教の本質を見ていたわけです。イスラエル人がカードーシュ、ギリシア人がヒエロス、ローマ人がサンクトゥスと呼んだ「聖なる」ものとは、オットーがその名の著書で明らかにしたように、「われわれから隔離されたもの」のことです。それは道徳的完璧さでも理性的完成でもありません。聖なるものは反対感情の併存(アンビバレント)を引き起こします。それは戦慄すべき神秘であり、同時に無限の魅力で惹きつけ、人間の最高の愛を要求する神秘です(mysterium tremendum et fascinans)。宗教にとって本質的なものは、ゼーデルブロムが言うように、神信仰ではなくむしろ別の領域、現実の二元性、聖と俗の対立の意識です。そして最後に、規則化されたタブーは聖なる法となり、習俗となることが言及されます。
 第三部B「内的な行為」の最初の項「31 宗教経験」で、宗教においては儀礼のような外的な行為と内的な体験は切り離せないことを再度強調した上で、力との出会いとしての宗教体験は純粋に個人的なものではなく他者との分かち合いという共同性があり、また純粋に感情だけのことではなく意志や理解を含む全人的な経験であることが強調されます。「32 脱我」では、先にシャマニズムの項で扱われた脱我と憑依の問題が扱われます。脱我、憑依、陶酔、熱狂において人間は何らかの力とか霊によって自己が追い出されて、自己でないものに満たされることを経験します。神的な力に満たされている状態(エンスージアズム)は宗教的体験の重要な一面です。
 「33 回心」で宗教的経験の中心に位置する回心が扱われます。未開人に見られる通過儀礼は生の繰り返しという周期性を示していますが、その生の周期性という宗教性とタブーから発する定言命法の道徳性(その内面的自覚が良心)の間の緊張ないし闘争が回心へと導くとされます。悪から善への転回は有意義ですが宗教とは無関係で、回心は宗教的出来事です。様々な宗教で回心について用いられる、古い人と新しい人、再生、死と蘇生などの表現は、未開人の聖別の宗教儀礼に酷似していること(名前が変わるなど)が指摘されます。回心の心理的過程についてはジェイムズが見事に描いているとします。それは潜在意識なり前意識から意識へという体験複合の推移(潜在意識に蓄積されたものがあるきっかけで意識に持ち込まれる出来事)として理解できますが、体験する主体には神の直接介入、奇跡として体験されます。同時にレーウはこの意識に移行が急激に起こる場合だけでなく、完全に異なった意識内容が併存する緊張としての回心があることに注意を促しています。回心は重要な宗教体験ではあるが不可欠のものではないことについて、ジェイムズの「一度生まれ」と「二度生まれ」の区別を引用しています。こうして回心は生の円環の一章、通過の一つであることもあるが、また絶対的な意味での神の行為、根本的な終末と全く新しい始まり、新しい創造として体験されるものであることになります。
 「34 神秘主義」では最初に、宗教において通常主体と客体として意識される神と人の関係が、神秘主義においてはその分裂の距離が収縮し、その最高段階では無となって、神と人間、ついで人間と世界が融合して一つとなることだと、その基本的性格が説明されます。その実例として最初に一〇世紀にペルシャ人のイスラム教の中に起こったスーフィズムがあげられます。その代表的神秘主義者のマンスール・ハラージは「わたしは真理である」と唱えたので(イスラム教では真理は神です)、人間を神とする異端者として処刑されます。セム族の神意識は神と人間の同一化を最も厭うべき異端とします。このような主客の分裂がなくなる神秘主義の心理学的前提は、現代人が異なる対象を区別することで知るのに対して、異なる対象の間の移行と相互流入を見、自分がその事柄になることでそれを知る未開人の心性に求められます。人間の精神的生の大部分は分析ではなく、直観、感動、追体験、つまり対象との合一からなる限り、その極限に至福を求める神秘主義は絶えず求められることになります。至福に至る方法としてどの神秘主義も黙想とか厳しい自己訓練などの道を説きます(たとえば仏教の八正道)。この道は脱我(エクスタシー)によって加速されるので、未開人では酒や音楽や舞踏が用いられますが、精神化した宗教では瞑想などの中で脱我と合一の至福が追求されます。脱我の目標は自己の破棄、至高者への解消です。その道の到達点として涅槃を説く仏教は、神秘主義の最も典型的なタイプであるとされます。その反対として人格的で特殊なものを強調して、合一とか融合に反対する潮流があります。イスラム教やキリスト教もその中に含まれます。それでキリスト教神秘主義では、キリストは神と人間の分離の止揚のシンボル、神秘的合一(ウニオ・ミスティカ)の徴に止まります。「36 信仰」で、レーウはその対概念である不信仰が未開宗教や古代宗教では見当たらないという理由で、信仰を現象学的には宗教経験とか宗教的生とは区別します。信仰は宗教的生の一要素ではなくその前提であるので姿を見せることはない、すなわち現象とはなりえないものとされます。信仰とは本来人間固有の性質ではなく、神からの賜物です。それが人間のものとなるとき、信仰と不信仰、信仰と懐疑という対概念が出てきて、人間は両者を体験し、信仰を不信仰の克服として体験します。このような意味の信仰は、特定の宗教、すなわちイスラエルの宗教、キリスト教、イスラム教、イランの宗教などの預言者的宗教のみに現れる特別な現象としています。キリスト教では、信仰は新しい事柄に対する新しい概念になります。

神と世界

 「第四部 神と世界」では、まず「36 呪術と祭祀」で、両者は異なるものとして区別はされるが分離できないものであることが指摘されます。祭祀とは力(神)との関わりに立つ人間が、その関わりに確たる形式を与えようとする営みですが、それは見え、聞こえ、触れられる象徴によってのみ可能になります。象徴において人間は力に参与(participation)します。呪術も力と交渉しますが、その交渉において人間が支配しようとします。呪術も宗教も共に超自然の生命力を得ようとするが(この点で両者を切り離すことはできない)、呪術は事態を見下し、己の価値を感じ、強制し命令します。それに対し宗教的人間は諸々の力にひれ伏し、己が無であることを感じ、身をかがめて祈り、嘆願します。呪術と宗教は区別されても分離できず、多くの宗教で呪術が全く欠如することは希です。レーウは呪術から解放された宗教として、人間的な面を強調したホメロスが歌うギリシア人の宗教が比較的呪術から自由であり、逆に神の力だけを承認したイスラエルのヤハウェ信仰が呪術を追放した宗教だとしています。
 次に「37 理論」で、いかなる宗教も完全に思惟なしには存在しえないとして、宗教と思惟の関係が論じられます。宗教は言葉で表さなければなりませんが、すでに話すことは思惟だからです。そして思惟とは原理上、自己をできるかぎり世界から解き放ち、巻き込まれている状況から自己を救出することであり、その結果、世界を客観的に見ることができるようになるとされます。ただ未開人の思惟と現代人の思惟は別の論理構造をもっていて、現代人がその分析的思惟で「あれかこれか」と言うところを、未開人は融即の思惟で「あれもこれも」と言います(訳書では融即という訳語が使われていますが、即融または一如と言ってもよいでしょう)。同一律と主客の対立との止揚を目指す神秘主義は、未開の思惟の徹底、継承にほかならないとされます。この未開の即融の思惟は童話の中に手つかずの形で現れます。そこでは因果律は無効で、無名の主人公たちは無限の時間と空間を自由に飛び回ります。それが歴史の中に姿を現すと主人公は名前を得て、その行為は特定の時代と場所の出来事となり、伝説となります。そして伝説は出来事を事実として正確に知ろうとする学問的(科学的)態度によって歴史となります。この過程で時間的な出来事が永遠の事柄とどのような関係にあるかを知ろうとするとき、伝説は宗教的歴史、すなわち救済史になります。このように未開の即融の思惟を本質とする宗教が「形態化の思惟」によって自己を形成するとき、神話(ミユトス)と論理(ロゴス)の緊張が避けられません。この緊張に耐えて、前論理(未開の即融の思惟)と論理の両者を公正に扱い、両者を調和のとれた形で総合することが神学の課題とされます。
 そして次の「38 神学」でこの問題が扱われます。もともと人間は世界を支配しようとし、その途上で出会うすべての力を利用しようとして、学問、技術、また宗教を発展させます。これが文化です。しかし、この関係が逆転し、人間に出会う力の方が人間を捉え、人間に服従を強いること、すなわち信仰を要求することもありえます。このような関係において神や人間や世界についての反省がなされるとき、それは神学の形をとります。そして、宇宙論(コスモロジー)から始めて、神学の主要な二つのタイプが概観されます。第一の型は、宇宙万物は神が創造し、その後の歴史も神が創ると、一切を人格神の行為とする神学です。モーセ五書の神学です(有神論の方向)。第二の型は、万物を神からの生成とする神学です。未開の神話では、世界の諸物は一人の巨人の身体から生じたとされています。この形から後代の様々な流出論が出てきます(汎神論や一元論の方向)。多くの民族に見られる数層の霊界からなる世界像も人間の魂の宗教的欲求から生み出されます。彼岸の観念も魂がその故郷とする世界の他者性が、それをはるか彼方の西方とか孤島、地の底、天上などの姿を取らせます。また、第一の型では神の創造という最初の行為に完成という最後の行為が対応するように、第二の型でも一者からの多者の流出に対して、多者の一者(神)への回帰という観念が対応します。両方とも終末論的です。両方とも世界の初めに対応する終末を期待し、そこに理想の実現を求めます。ただ両者は終末を違う風に描きます。前者は審判を伴う完成と考え、後者は初めへの回帰、連続する生の円環を閉じ、終わりを始めと同じにする神から神への循環と考えます。両者は重なって現れることがあります(パウロにおいても)。世界をプロセスと見るこの方向(第二の型)では、万物はその中で流れる連続性の中で生きています。それに対して第一の思惟の方向では、連続性は消滅し緊張が生を支配します。因果論的にも進化論的にも連続しない全く別の事態が神の行為として起こります。二つの世界は順次に起こるのではなく並列して起こり、激しい緊張をもたらします。この緊張は捉えがたく受けるに値しない賜物としての跳躍によってのみ解消されます。第二の型では宗教体験はより大きな全体への解消として体験されます。太古からあるこの二つの世界観の根本型は、現代において今まで以上に激しい抗争状態にあるとされます。

歴史的形式と人格

 最後の「第五部 歴史的形式と人格」では、まず「39 独自の形式を持たない宗教」の項で、宗教一般というものはなく、われわれが出会うのは常に一つの具体的な宗教であり、様々な宗教的要素が混じり合った一定の構造をもって現れているものです。これらの諸宗教を一定の特徴に基づいて区別することが諸宗教の類型学となります。しかし、明確な独自の性格をもたない宗教も多くあります。そのような宗教を、宗教学では「未開宗教」と呼び、一括して扱うことが多くあります。それは世界のどの地域の未開宗教も、小さな違いはありますが構造そのものはほぼ同じだからです。この構造が宗教の基盤であり、明確な独自の様式を持つ「高等宗教」(レーウはいやな表現としながら用いています)もこの共通の基盤の上に成立します。
 次の「40 宗教の力学」で、このような明確な独自の性格をもつ諸宗教も自己完結的な体系ではなく、他の諸宗教との間断なき相互作用の中でのみ存立する生命体であるとして、その相互作用を宗教の力学(ダイナミツクス)と呼んで扱います(宗教の動態と呼んでもよいでしょう)。それはまずシンクレティズムを指しています。普通「混淆」と訳されるこの用語は、ある宗教が独立して存在することはどこにもなく、常に他の宗教との混淆の結果であり、それがまた新しい混淆に導くという普遍的な現象を指しています。ギリシアの宗教やエジプトの宗教は多数の地方的な神の祭祀の合成から生じたものであり、ローマの場合のように由来の異なる多種多様な宗教が混交して、あらゆる神があらゆる神と同一視されて、同一の人物あるいは共同体が異なった複数の宗教の信者である混和状態にもなります。シンクレティズムは多神教となりがちですが、多くの神々を包括統合して一種の一神教に向かう場合もあります。この包括による一神教は、ある宗教が他の宗教に対して自己防衛することで成立する排除による一神教(ユダヤ教やキリスト教)とは別です。宗教の動的展開の他の形として、形式は保持されるが意味が変わる推移、宗教経験に内在する課題として自覚された伝道、生命を失ったものを一掃し新しい生で満たす覚醒、それが別の宗教形態を取るに至る改革などがあげられます。いくつかの大宗教も他の宗教の改革と見ることができます。仏教は改革されたバラモン教、キリスト教は改革されたユダヤ教です。宗教はこのような様々な仕方で動いていきます。
 次の「41 独自の性格を持つ宗教」で、宗教類型学の対象は、非常にはっきりと独自の性格を示し、その独自性から見ればそれが他の宗教と共有している未開の基礎はさして意味を持たない宗教であるとした上で、レーウはこのような宗教の主要なものを列挙し、その独自の性格を簡潔に描いています。
 最初に中国と日本の宗教が取り上げられます。ここでは共通の(未開の)基礎が異常に幅広く、独自の性格を持つことが問題視されています。ただ「怪力乱神を語らず」として、鬼神や神々に畏敬を示しはするが人間の道徳行為に依拠する儒教は、自己確信に満ちた伝統主義的ヒューマニズムに導くとされます。日本では事情が違い、ヒューマニズムは人間よりも民族に向けられ、「神道は未開の自然宗教の形をとった、日本民族の自己自身に対する信仰である」というグンデルトが引用されます。ここではヒューマニズムは帝国主義となり、仏教でさえここでは帝国主義に奉仕するもの(鎮護国家の仏教)となり、禅の神秘主義さえもここでは灼熱の愛国主義に、すなわち武士の宗教になるとされます。
 イランの宗教、ことにザラスシュトラの宗教(ゾロアスター教あるいはマズダ教)では世界を善神と悪神の戦いと見なし、最終的には善神が勝利し、善の王国、神の王国が実現するとされます。人間は善を選び取らなければならないとされます。
 ギリシア宗教は多くの未開宗教の複合であり、創唱されたものではなく、自然に成長したものです。未開宗教を基盤として、その上にエロス(衝動)と形態という二つの形式が現れます。両者は打ち消し合うように見えながら、実際には対照的な調和をなしてギリシア宗教を豊かに形成しています。エロスは密儀や悲劇作家やディオニュソス宗教などに見いだされ、一方この世界の諸現象を神的かつ永遠の形態と見るギリシア人の素質がホメロスや彫刻などに美しく表現されているとされます。
 インドの諸宗教は全く別の姿を示し、無限と禁欲という二つの概念で特徴づけられます。無限への志向は我(アートマン)が世界にして神(ブラフマン)であるという宣言に極まります。こうした無限の更新を達成するためにヴェーダの供犠が行われ、後には儀礼が禁欲・ヨガに道を譲ります。バラモン教の一派として始まった仏教においては禁欲が無への洞察に道を譲り、いっさいの愛着や苦や感性を滅却した無の境地、涅槃が目指されます。この無は世界からの離反ではなく、神や世界の否定は道を見いだすための手段であり、解放は完成となります。このことは仏教がインドやインドネシアや日本で達成した歴史的文化的実績を見れば分かります。
 イスラエルでは全く別の道、意志と服従が前面に出てきます。ヤハウェは神であり、人はその意志を行うことで神に仕えます。ヤハウェは極めて力強く、あらゆる力、悪しき力(民を滅ぼす力)さえ含まれます。ヤハウェは一方的にその力を主張しますが、愛と赦しをも与える神です。ここでは形態が放棄されています(偶像やあらゆる人間的形態の禁止)。人間は啓示された神の意志である律法に従うことで神に仕えます。
 イスラム教はユダヤ的・預言者的宗教の一宗派であるが、神の尊厳と人間の卑賎をより一層徹底させています。イスラム教では神の意志以外には何も存在しません。力も尊厳もアッラーの神のもと以外にはどこにもありません。キリスト教はその母胎であるイスラエルの宗教と分かちがたく結びついています。しかし、キリスト教では神はふたたび一つの形態、すなわち人間となり十字架にかけられた者という姿を取ります。人はキリストの中に神を見ます。力としての神を見るのではなく、愛としての神の力が現れているのを見ます。ヤハウェの激しい意志は、神が人を愛した愛として現れます。神の僕の服従は、赦され受容された子の父への愛として現れることになります。
 「42 創唱者と改革者」で、ギリシアやゲルマンの自然発生的宗教と区別された創唱宗教が扱われます。創唱者は特別な神体験の証人です。その神体験が多くの人の神体験の出発点と模範となるような特別な神体験の証人です。仏教におけるブッダ、ゾロアスター教のザラスシュトラ、イスラエルの宗教におけるモーセ、イスラム教のムハンマド、キリスト教におけるイエスという人物が創唱者となります。ただ創唱の仕方はかなり違います。イエスの場合は、彼が創唱した内容ではなく、彼自身が問題であり、彼が世に来たこと自体が神の偉大な行為となります。創唱者と改革者を明確に区別することは不可能です。いかなる創唱も所与の土台の上に築くのであり、改革者も所与の真理の一部改訂者ではなく、神体験の証人として創唱者でもあります。マニ、フランチェスコ、ルターらは創唱者です。「43 教師と仲介者」で、教師と呼ばれる特殊な創唱者が取り上げられます。それは、その創唱が体験から切り離されて教説の形で告知される場合です。ブッダはその典型です。イエスも神の言葉を説明する教師の一面がありますが(すべての創唱者は言葉で自分の体験を伝えるのであるからある程度みな教師です)、その面はイエスの全生涯が神の顕現であるという仲介者の姿によって排除されています。

 以上、レーウの『宗教現象学入門』の概要を紹介しました。人類の宗教的な営みという膨大な内容を、その現れに名を与え、その意味内容に従って整理分類し、体系的に叙述することは至難の事業です。レーウはそれをこの比較的小さい書で行っているので、それをさらに縮小して数頁にまとめて紹介しました。レーウは豊富な実例で肉付けをしていますが、その実例は省略せざるをえませんでした。それでこの紹介は、その体系の中の用語を羅列する骨格だけの紹介になりましたが、それでもあえてこのような紹介をしたのは、人類の宗教的営みの全体を理解しようとするときに、このような宗教現象学は必要でかつ有益な見取り図になるからです。事実、現代の宗教学はこのような宗教現象学の成果の上に築かれていると言えます。そして二〇世紀の後半には、このような宗教現象学の成果に基づいて、それまでの宗教学を集大成し、世界の宗教史の全体を叙述するような大著が現れます。それが次節で扱うミルチア・エリアーデの『世界宗教史』四巻です。