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第五節 「ヒエロファニー」の宗教学 ― エリアーデ

ミルチア・エリアーデ

 ミルチア・エリアーデ(1907ー1986)はルーマニア出身で、後半(三三歳以降)はルーマニアから出て、フランスのソルボンヌ高等科学研究所や米国のシカゴ大学(一九五六年以降)を拠点として活動した宗教学者です。第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の不安定な時代に、ルーマニアというヨーロッパでは周縁の国で青年時代を送ったエリアーデは、若いときから自然科学や人文学に広く関心をもち、その天性的な鋭い感受性をもって時代の問題点や苦悩を敏感に感じとり、時代の先端を切り開く思想家また作家として、数多くの論文や作品(小説も)を発表して活動しています。しかし、宗教学者としてのエリアーデに決定的な転機となったのは、二〇歳代前半の三年間になされたインド留学時代の体験です。彼はこの時期の体験から、インドにはウパニシャッドやヴェーダに代表される一元論的精神の宗教だけでなく、アーリア文化のもっと下層にある農耕文化の宗教があることを発見します。それは植物の生命に特有な生と死と再生の循環が人間や宇宙の生成を支配し、そのモデルとなっている宗教です。また彼はインドでシンボルの宗教的意味を発見し、シンボルを用いた宗教儀礼の生における重要性を見いだします。彼は帰国後、このようなインド体験から出た論文『ヨーガ ― インド神秘主義の起源について』を発表、ヨーロッパの宗教学界で高い評価を受け、国際的な宗教学者としての活動を始めます。
 エリアーデは諸々の宗教現象に柔軟に開かれた態度で接しています。学術的には現象学的エポケー(判断中止)によって客観的な観察を貫きますが、一方、宗教学的探求の対象となる宗教現象に没入して、人間としてその現象を生きるとは何を意味するのかを身をもって理解し解釈しようとします。彼は対象への没入についてこう言っています。「私は資料の中に溺死して、私の中にある個人的なもの、独自のもの、生きているものが消え去り死んでしまう。私が再び自分に帰るとき、私が生き返るとき、私は物事を以前とは違った形で見ている。私は理解しているのだ」。
 このような柔軟で真摯な探求の結果、ソルボンヌやシカゴでの活動の時代に多くの重要な作品が生み出されます。その多くの著作の内容を検討することは本書の課題ではありませんので、ここではエリアーデ宗教学を代表する二つの著作を取り上げて、その内容を概観し、エリアーデの宗教理解を追求してみましょう。
 その一つは古今の宗教現象を共時的に通観して、それぞれの宗教現象の意義を解明した『宗教学概論』(一九四九年)です。これはソルボンヌでの時代にパリで初版が刊行され、フランス語で書かれています。これが現れると直ちに宗教学に携わる者の必須の文献としての地位を獲得します。これは小節Aで扱います。
 もう一つは人類の宗教的な営みを先史時代から現代に至るまで通時的に記述した『世界宗教史』四巻です。これはシカゴ時代の一九七六年に第一巻が刊行され、第二巻は一九七八年に、第三巻は一九八三年に刊行されました。原文はフランス語です。エリアーデは三巻で現代まで扱う予定でしたが病没(一九八六年)により果たせず、宗教改革の時代までで中断しました。それ以後の時代は彼の流れを汲む各分野の専門家に委嘱し、彼の後継者ともいうべきクリアーヌの編集によって第四巻として一九九一年にドイツ語で刊行されました。この年代に見られるように、エリアーデの『世界宗教史』はエリアーデの畢生の大作であるだけでなく、二〇世紀の宗教学の集大成となる記念碑的な著作となります(著述の経緯については後述)。これは小節Bで扱います。
 なお、『世界宗教史』に並ぶ彼の最晩年の重要な業績に『宗教百科事典』(The Encyclopedia of Religion)の編集があります。彼自身重要な項目を執筆したこの事典は、彼の死の翌年(一九八七年)に刊行され、以後の宗教学の基本的な参照文献となります。この事典で彼が執筆している「ヒエロファニー」「ヨーガ」「ひまな神」「世界の中心」「錬金術」「シャーマニズム」などの項目は彼が宗教現象のどういう側面を重視しているかを示しています。

 エリアーデの生涯とその業績については、『世界宗教史T』(荒木美智雄他訳、筑摩書房)の「訳者解説」を、エリアーデの著作がその後の宗教学に対してもつ意義については、『世界宗教史U』(島田裕巳・柴田史子訳、筑摩書房) の「訳者解説」を参照してください。

A ヒエロファニーの形態と構造 ― 『宗教学概論』

 エリアーデの『宗教学概論』は、日本語訳(せりか書房版「エリアーデ著作集」)では、「太陽と天空神」、「豊饒と再生」、「聖なる空間と時間」という標題で三巻に分けて刊行されています。しかし、本書はもともと『宗教学概論』として一体ですから、全体を通して理解しなければなりません。章立ても三巻を通して第一章から第十三章とされており、各章の小区分(節)にも1から172までの通し番号がふられています。この日本語版で各章の概要を見ていきましょう。

 「第一章 概説 ― 聖の構造と形態」で、エリアーデは彼の宗教理解の中心概念である「ヒエロファニー」について序論的な説明をしています。「ヒエロファニー」という語は、ギリシア語の《ヒエロス》(聖なる)と《ファイノマイ》(現れる)を合成したエリアーデの造語で、「聖なるものの顕現」という意味になりますが、定訳はなく直訳も不便ですので、宗教学の慣例に従い「ヒエロファニー」というカタ仮名書きを用います。前節までに見てきたように、「聖なるもの」は人間の宗教の歴史において神の観念よりも先にあるもので、宗教は「聖と俗」の対比をめぐる人間の営みであると言えます。その「聖なるもの」は何らかの形で俗なるものの中で人間に現れ、人間の体験となるのですが、エリアーデはその現れを「ヒエロファニー」と呼び、あらゆる宗教現象をヒエロファニーの観点から理解し説明しようとします。エリアーデの宗教学はすべての宗教現象の意味を理解し体系づけようとする学であり、宗教現象学の一つですが、それは「ヒエロファニー」という明確な視点から構成された宗教学だと言えます。エリアーデは第一章で、学としての体系を構成する上で「ヒエロファニー」という基本概念がもつ問題点を取り上げて議論していますが、これは宗教学の方法論上の問題点の指摘として専門家の議論に委ね、わたしたちは第二章以下でエリアーデが示すヒエロファニーの実際の形態を見ていくことにしましょう。

 エリアーデは一九五七年にドイツの出版社の求めに応じて、それまでの宗教学的知見をまとめる一冊をドイツ語で出版しています。それが『聖と俗 ― 宗教的なものの本質について』(風間敏夫訳)です。この書は一般向けに書かれているので、一九四九年の『宗教学概論』よりは短く、読みやすいようです。その書の「序言」でエリアーデは、オットーが提示した『聖なるもの』の多様な現象を、その全貌において解明しようとするのであるとします。「聖なるもの」を「俗なるものの対照を成すもの」と定義し、人間が聖なるものを知るのは、聖なるものはみずから顕れるからであり、しかもそれが俗なるものと全く違った何かであると解るからであるとし、ヒエロファニーの語意を明らかにしています。この書が引用している多くのヒエロファニーの実例は、『宗教学概論』の記述を補完しています。


 「第二章 天空 ― 天空神、天空の儀礼と象徴」では、天空に関するヒエロファニーの様々な形態とその意味が取り上げられています。天空を見上げたときに人間が感じるその広大さ、高さ、地上の俗世から遙かに離れた超越性、そして時に示される暴風や雷などの威力などは、人間にとって聖なるものが現れる最初の場となりました。天空こそは無尽蔵のヒエロファニーの場です。天空に現れる聖なるものは天空神として崇められます。エリアーデはオーストラリアやアフリカの諸部族の天空神信仰(諸部族の天空神はそれぞれの名をもっています)を具体的に描いた後、宗教学において重要になる「ひまな神」という概念を説明します。天空神は普通万物の存在と秩序の根源あるいは創造者、すなわち至高神として崇められますが、これらの諸部族において至高神は周期的な祭儀を受けることがなく、実際の祭儀などの宗教生活においては、日常の生活に必要な様々な力をもつ下位の神々に供犠などの礼拝が捧げられています。至高神は忘れられてはいませんが、いわば隠居して部族の実生活には関わらない「ひまな神」(デウス・オティオスス)となっています。エリアーデはこの「ひまな神」の概念で原始一神論を乗り越えているようです。原始一神論というのは、未開の諸部族に目に見えない至高の一人の神の信仰が見いだされることを知った宗教学者(ラングやシュミットら)が提出した、人類の宗教は原初では一神教であったが、後に退化・堕落して偶像礼拝の多神教になったという宗教理論です。この理論は一時宗教学界に大きな議論を呼びましたが、多くの批判が出て現在では一般の承認は得ていません。
 「ひまな神」の説明の後、エリアーデは「天空神にとってかわる新しい神の形態」に議論を進め、世界各地の諸部族や諸民族の天空神の名をあげて、その消長を描いています。その発展・消長は、天空神の超越性と人間の具体性への渇望から避けられない運命であったとしています。その詳細な議論はここで触れることはできませんが、エリアーデは複雑な天空神の発展を大きく二つの路線に分けて考察しています。一つは、天空神が世界の主として絶対主権者、法の守護者となっていく路線です。この路線の一例としてあげられている古代中国の「天」とか「上帝」の宗教思想が、皇帝に「天子」(天空神の地上における代理者)として統治の正統性の根拠を与え、中国の思想に大きな影響を及ぼし、ひいては日本の宗教思想にも深い影響を及ぼしていることは興味深い事実です。もう一つは、天空神が世界の創造者として繁殖神(豊饒神)や暴風神として「専門化」していく路線です。この路線の発展の実例の中に暴風や雷鳴の中に現れる絶対的な力としてヤハウェ神の名も出てきます。エリアーデは天空の至上神が地上の大母性神との聖婚によって豊饒神となる実例を数多くあげています。そして、「多くの宗教改革者(モーセ、預言者、ムハンマド)は、まさに「ひまな神」として凍結されていて、大衆の宗教経験においてもっと具体的で動的な神の像(豊饒神や大女神)にとってかわられていた、以前の天空神をよみがえらせたのであった」としています。
 天空神は引退しても、天空の(至高性、無限性、超越性などの)シンボリズムは変わりません。このシンボリズムから天空は常に宗教において神話や儀礼の中で重要な役割を果たしてきました。天と地が出会う場として山が尊ばれ、神話で神々の住まいとして語られます(オリンポス山など)。また、天と地の出会う場所として「世界の中心」であり、聖地や神殿などはそれ自体が世界の至高の中心と見なされます。古来から人間は宇宙を象徴する多層の(天には階層があるとされました)高い建造物を建ててきました(ズィクラトなど)。この天の至高のシンボリズムのゆえに、宗教的な体験は「登坂」と「上昇」となり、それは具体的な儀礼となって表現されます。聖なる魂は「昇天」します。その上昇のシンボルとして階段や梯子が出てきます。

 「第三章 太陽と太陽崇拝」で、エリアーデは太陽のヒエロファニーを取り上げます。至高の天空神が「ひまな神」となる過程で、その受け皿として登場するのが太陽崇拝です。エリアーデは太陽崇拝が世界のいたるところで見られる普遍的な現象ではないことに注意を促した上で、各地で見られる様々な太陽崇拝の実態を記述しています。その中で顕著な傾向は、人間界から隔絶した至高の天空神が、具体的な生活の中で大切な生命を与える者として繁殖神となる傾向(太陽が生命の源として拝まれる傾向)です。しかしそれだけでなく、日没と日の出によって太陽が死んでよみがえる死者の原型として崇拝され、死後の生命を願う宗教儀礼の対象となる場合も多くあります。古代文明に見られる巨石碑もその一例とされます。その上で、古代文明の中で最も強く太陽崇拝によって支配されていたエジプトの太陽崇拝の宗教について記述しています。エジプトのように高度に政治的組織化された社会では、その主権者ファラオは太陽神ラーと同一視され、その崇拝が社会の統一の原理とされ、ファラオの不死性が太陽崇拝の中で根拠づけられます。このような太陽崇拝が、古代のオリエントや地中海世界、さらにインドで取った形態が記述されます。

 「第四章 月と月の神秘学」では、循環的に繰り返される生の啓示としての月のヒエロファニーが取り扱われます。月は太陽と違って、満ちたり、欠けたり、見えなくなり、新月として再び見えるようになります。この初めの形への永遠回帰、はてしない周期性により、月は生のリズムをもった天体として、循環的に繰り返される生を啓示するヒエロファニーとなります。月のヒエロファニーのこの基本的な性格から、エリアーデは月に関係する様々なシンボリズムを多くの部族の宗教言語から取り出してみせます。まず水が取り上げられます。水はリズムに従い(雨や潮)、発芽の力を持つゆえに、月に支配されているとされます。月神は水の属性と機能を保持しています。月と(水で生きる)植物も強い絆で結ばれていて、そのため大多数の豊??神は同時に月神でもあります。豊??、周期性、再生というシンボリズムから、生殖のために月経をもつ女性が月神崇拝に深く関わることになります。同時に、同じ循環的再生という性格から、変形する動物の蛇が月のヒエロファニーと関わりをもつ動物として、宗教的な扱いを受ける実例が興味を引きます。さらに、月はいったん死滅して再生するので、死者は再生するために月に渡ったり地下に帰還したりすると信じられるようになります(月と大地の対応は、農耕の発見により広まっています)。月は死者の国となります。同時に再生のシンボルとして復活を指し示し、多くの加入儀礼の神話の主題になります。また、月はその周期性から時間と運命を支配する女神のヒエロファニーとされ、各地の月神女神像には運命の糸を紡ぐ紡錘を持ったものが多く見られます。

 「第五章 水と水のシンボリズム」で、水はあらゆる存在の可能性の母胎であり、万物の源泉であり起源であるという人類共通の思想が諸々の宗教現象に現れている事実、すなわち水のヒエロファニーとそのシンボリズムが詳しく取り扱われています。まず水による宇宙創成がインド神話やバビロニアの神話の実例で語られます。その神話では共に、原始の水、カオスの水から形ある万物が生まれ出たことが物語られています。水は万物の母胎であり、そこにはあらゆる生命の萌芽が含まれているのですから、人類や特定の人種が水から発生したという神話が見られることになります。幼児の真の母は水であるとして、幼児に水を飲ませたり水浴させる儀式も多くあります。こうして、宇宙創成の象徴であり、あらゆる生命の苗床である水は、呪術的で薬効のある物質とされ、「生ける水」と呼ばれて、治癒し、若返らせ、永遠の命を保証する水となります。「いのちの水」の川は聖書の黙示録にも登場します。同時に水はすべてのものを溶かし形を失わせることから、いっさいの歴史を廃棄し浄化して再び発生させる力を持つとされ、水に浸す「浸礼」が個人的には死による浄化のシンボルとされ、宇宙的には洪水による歴史の浄化更新を象徴するものとなります。浄罪と再生の手段としての浸礼のシンボリズムはキリスト教にも取り入れられ、洗礼者ヨハネのバプテスマ(浸礼)やキリストによる聖霊と火によるバプテスマという表現が使われるようになります。死者を葬る葬祭儀礼における水の使用も、死者の渇き(苦痛の象徴、金持ちとラザロのたとえにも見られる)をいやすためです。エリアーデはこの他に多くの未開部族や古代諸民族の神話(とくにギリシア神話)に出てくる水における神の顕現や水神の例をあげています。ニンフもその一例です。ギリシア神話のポセイドンや北欧神話のエーギルも海の擬人化による神であって、大海に対する人間の畏怖の神格化であるとされます。また、水のシンボリズムに関連する動物である竜、蛇、イルカ、魚などが聖なる力をもつとする宗教現象が、中国の竜、南アジアのナーギなどの例で解説されます。そして最後に洪水伝説が、人類が再び水に吸収され、新しい人類と共に新しい時代が開始されるという観念、すなわち宇宙と歴史は循環するという観念を表現するものとして取り上げられます。最後の「まとめ」で、どのような宗教的枠組みにおいても水の機能は同じで、水は形を解体し廃棄して罪を清め、同時に再生させるものです。水の使命は創造に先行して創造を再吸収することですが、自身の形無き在り方を越えず、常に潜勢力としてとどまります。水による清めの儀礼は、創造の時の象徴的繰り返しであるとされます。

 「第六章 聖なる石 ― エピファニー、しるし、形態」は、「物質の固さ、粗さ、恒久性は、未開人の宗教意識にヒエロファニーを表象させる」という言葉で始まり、石や岩が人間が属している俗世界とは別の世界の実在や力を現していて、人間が(石を崇拝するのではなく)その力を使用する実例をあげていきます。最初に葬礼にさいして、死者の魂を鎮めるために巨石が用いられる実例があげられます。メンヒル(立石)やドルメン(支石墓、平らな石を石の壁で支える石室)、そのほか列石、環状列石など、巨石祈念碑にも石のヒエロファニーが見られます。墓所に石が用いられるのは普遍的な現象です。石は祖先や死者を石の中に固定することによって、地上の生を守り生を増進する手段として、すなわち豊??石として用いられます。妊娠を願う女性が石の上を滑ったり、寝たり、石を擦ったりする風習とか、大きな石の孔をくぐらせて子供の健康を祈る風習が各地に見られます。石の中でも隕石は天空から下った石として特別の意味を担います。メッカのカーバ神殿の聖石は隕石であり、アラブ人の間では世界の中心とみなされ、その上の天空の中心に「天の門」があり、「世界軸」は聖石が落下するときに蒼穹にあけた穴を通っているとされます。カーバは立方体を意味します。カーバ神殿は別名「神の館」とも呼ばれますが、この呼称は創世記二八章のヤコブの「神の家」(ベテル)と同じです。神の顕現(エピファニー)のしるしとしてヤコブは石の柱を立ててそこを「ベテル」と名付けましたが、後に預言者たちは石の神像(偶像)を神そのものとして拝む民の偶像礼拝と戦うことになります。なお、デルフォイの住民がオンファロス(臍(へそ))と呼んでいる白い石は、死者の世界、生者の世界、神々の世界が交わる「世界の中心」として、聖なる場所となります。このように石のヒエロファニーは様々な形態をとりますが、人間の礼拝を引き起こす石は、人間を超える何かを指し示してやみません。

 「第七章 大地、女性、豊??」では、まず多くの部族や民族の創世神話で、大地は天空の配偶神とされ、両者の聖婚によって万物が生成したことが語られていることが紹介されます。農耕民では「大地はわれわれの母であり、天空はわれわれの父である。天は雨によって地を肥沃にし、地は穀物と草を産する」ということになります。しかし大地が豊??神となる以前では、大地は直接に人間がそこから生まれてくる母胎と信じられていた原始の信仰の痕跡が指摘されます。その信仰では、子供は大地の中で発生し、ある時が来ると直接女性の体内に挿入される結果、女性は母となると考えられていました。父親は儀礼によって認知するだけです。人間は大地の子であるという信仰は、以後の宗教儀礼や風習に見られるとして、女性が地面の上で分娩する風習や、生まれた子を地面に寝かせる儀礼や、子供は火葬にせず土葬にする規定や、胎児の形での埋葬など、多くの実例があげられます。大地は母であり、すべての生命はそこから出ます。人間(ホモ)と大地(フムス)は深く結ばれています。それは、人は土から出たのだから土に帰るという意味ではなく、母なる大地から出てきたのであるから、自分の生の母胎に帰ることであるとされ、郷土の土に埋められたいというかなり普遍的な願望はこの結びつきの現れとされます。さらに、母なる大地「地母」と、その人間界での代理である女性との深いつながりが、「土と女性」、「女性と農耕」、「女性と畑の畝」という項目で論じられます。もともと農耕は女性によって発見され営まれてきたのであり、土の豊??と女性の多産は一体として祈願され、多くの文明で土と子宮が、農耕作業と生殖行為が同一視されていました。女性は畑でありその畝です。そして男性は畑を耕す鋤です。農耕に関する儀礼では、様々な性的象徴行為が行われることになります。大地の生産力を神格化した地母神は女神です。地母神崇拝は大地のヒエロファニーの具体化です。地母神は農耕神の出現により至上神となることは阻まれましたが、地母神は「土地の主」として、あらゆる生ける形態の根源として、子供と母胎の守護者としての崇拝を失うことはありませんでした。その母胎の中に死者は埋葬されますが、それは、そこで休息し、母なる大地の神聖性のおかげで、ついには再び生命を得るにいたるためなのです。

 「第八章 植物 ― 再生の象徴と儀礼」では、まず樹木のヒエロファニーが取り上げられます。太古の人々は、大地にしっかりと根を張り天空にその梢を届かせている樹木(とくに巨木)に聖なるものの顕現(ヒエロファニー)を見てきました。樹木が聖となるのは樹木の力によるのであり、それが超人間的な現実を表明しているからです。樹木はそれ自体で崇拝されるのではなく、樹木が啓示しているものの故に崇拝されるのです。そのように注意を促した上で、エリアーデは樹木が示すヒエロファニーの様々な現象形態を叙述していきます。まず樹木は石と組み合わされて祭壇が形成され、そこが聖所として小宇宙となり、世界の中心となります。石は不変の実在を、樹木はその周期的再生によって秩序と生命の中にある聖なる力を表明します。この小宇宙的光景は時が経つに伴い、最も重要な要素である聖木または聖柱に還元され、樹木が宇宙の力、宇宙の生命、その周期的再生能力を抱合した「宇宙」を表現するようになります。逆に宇宙は巨木の形で表され、「宇宙木」の表象と観念が生まれます。宇宙は「逆立ちした木」、すなわちその根を天空に張り、その枝を地表全体に広げる木とみなされます。樹木のヒエロファニーの中で、聖書に出てくる生命の木、知恵の木、十字架の木に関する宗教学的なアプローチはわれわれの興味を引きます。さらに、樹木だけではなく様々な植物における神の顕現が取り上げられ、多くの民族の儀礼や神話にみられる人間と植物との関わり合いの実例が記述されますが、その詳細はここでは割愛せざるをえません。植物が示す周期的再生のヒエロファニーが人間に与えるものについては、次章の「農耕と豊饒の儀礼」がいっそう詳しく開示していますので、それに譲ります。

 「第九章 農耕と豊饒の儀礼」では、「農耕作業は(宗教)儀礼である」という命題が、実例をもって展開されます。農耕作業は「地母」の体の上でなされ、耕作者を時間と季節のサイクルにくり込みます。人間は農耕により植物の生命と聖にあずかります。農耕に関する信仰と儀礼は世界的な広がりをもつので、代表的なものだけでも検討するのは不可能であるとして、エリアーデは組織的に調査されまとめられた研究があるゲルマン民族とフィン人やエストニア人の民間俗信の比較研究を実例として用います。先に(第七章で)見られたように、大地の豊饒と女性の多産は深く結ばれていますから、農耕儀礼においても女性や性的しるしが多く現れます。裸の女性が種まきをする、若者が畑で性行為をするなど、農耕に関する風習や儀礼には性と関わるものが多く見られます。とくに種まきと収穫には儀礼が伴います。そのさい清浄な者が動物などの供犠を行い豊饒を祈ります。それは再生のための供犠であるとされ、その供犠の一種として人身供犠が行われた痕跡が例示されます。それらの供犠は宇宙創造神話に基づく創造の儀礼的繰り返しであるという意義が解明されます。農耕儀礼は収穫儀礼で終わりますが、それによって「年」は完結した単位となり、新しい年の新しい開始を待ちます。こうして「植物にあって活動する力の再生は、その効力を時間の更新による人間社会の再生にまで及ぼす」ということになります。農耕社会では新年祭は最大の宗教儀礼となります。
 「死者と種子」以下の項目でエリアーデは、共に大地に埋められるという類比から、種子の再生で成立する農耕と、死者を送る葬祭の儀礼に共通するものがあり、融合する場合も多いことを示しています。死者と種子が共に埋められる大地は、地母神または豊饒の大女神の管理下にあります。しかし、農耕者には死者の方が身近な存在であり、死者に豊饒を依頼する傾向があり、豊饒儀礼と葬祭儀礼が混合していきます。その結果、豊饒神が葬礼神となる例が見られるようになります。豊饒の神に捧げる供犠が、死者の霊魂に捧げる供物になり、重要な農耕祭が死者の追悼祭となる実例が見られます。この豊饒儀礼と死者儀礼の融合のもっとも決定的な形は紀元前二千年頃にエーゲ海=アジア世界に見られるとし、この宗教的総合が後に密儀宗教の開花を可能にした、とエリアーデは見ています。
 さらに性的な営みが豊饒儀礼と関わることが、聖婚(ヒエロガミー)と集団的狂躁(オルギー)の場合で論じられます。聖婚(ヒエロガミー)というのは、神の花嫁として神に捧げられた(=聖別された)娘や妻たちが、一定期間神殿で神官や参拝者と性関係をもつことで、大地と動物の豊饒を確保するための宗教的義務を果たすことを指します。この聖婚は宗教史に多くの実例が見られます。イスラエルの預言者が非難した神殿娼婦も、このような豊饒儀礼として行われていた聖婚であったと見られます。オルギー(無制限な性的狂乱)は、人と社会と自然と神々の間の垣を打ち破り、力と生命と胚種があるレベルから他のレベルに循環するのを助けて、救済的な役割を果たすとされます。オルギーは聖なる生命エネルギーを循環させ、全自然の生殖力、創造力を激発させ、最大限に発揮させるものとされます。エリアーデはオルギーについて次のように書いています。「ちょうど種子が地中にあってその外形を完全に溶解させて分解し別のものになる(発芽)ように、人間はオルギーにおいて個性を喪失して、唯一の生ける統一体の中にとけこんでしまう。こうして、もはやそこには形式も法も区別されないような、情動的で決定的な混乱が実現する。原始の、形成以前のカオス的な状態が再び経験される。・・・・オルギーは創造以前の神話的カオスを再現することによって、創造の繰り返しを可能にする」。
 最後にエリアーデは、植物は表面的消滅(土に埋める)によって再生するように、それと同じことが死者や魂にも起こると古代人は信じたのであるが、それは儀礼とそれを行う人間の行為によって起こる出来事であることに注意を促しています。この先史時代以来の農耕儀礼の背景がなければ、古代密儀宗教が加入儀礼的宗教として成立することはなかったとされます。人類の運命を決定したのは、農耕により豊富になった食料や人口の増加ではなく、農耕が人間に有機的生命の根本的単一性を啓示したことです。すなわち、女性と畑、性行為と種まきの類比を啓示し、この啓示が律動的生命や退行として理解された死というような心的総合をもたらしたことです。この心的総合こそ人類の発展に肝要なものであり、それは農耕の発見によりもたらされたものとされます。

 「第十章 聖なる空間 ― 寺院、宮殿、世界の中心」では、どのような力の顕現(クラフトファニー)も、どんな聖の顕現(ヒエロファニー)も、それが顕現した場所を変容させる、すなわち、俗的空間を聖なる空間に昇格させる、としてその実例があげられます。その場所は将来にわたって聖性の維持を保証し、力と聖の限りない源泉に変えられ、そこに入っていくだけで人間にその力に与らせ、その聖性を伝える場所となります。聖なる場所は囲い、塀、環状列石などで囲まれますが、それは囲いの内部でヒエロファニーが現前していることを指し示すだけでなく、俗人がそこに入り込んで危険にさらされることを防ぐという意味もあります。そこに入るには靴を脱ぐなど清浄儀礼が求められる場合が多くあります。都市の城壁も、軍事上の保塁となる前は呪術的な防御壁であり、魔神や怨霊が住むカオス的な空間の真ん中に、組織化され、宇宙化された空間、中心をそなえた空間をとっておくためのものでした。人間はヒエロファニーを保持するために祭壇とか聖所という聖なる空間を「建造」しますが、それは「かのはじめの時に」示された原初の祖型に基づいて建造され、無限に模写され、繰り返されます。このような建造は宇宙創生の繰り返しにほかならないとされ、その実例としてタントラ教の曼荼羅(マンダラ)があげられます。マンダラは輪を意味する語で、正方形の地面に一連の輪が描かれ、その輪の中に神々の像が建てられました。マンダラは世界像(イマゴ・ムンディ)であると同時に象徴的万神殿(パンテオン)です。寺院とマンダラの同一視はボドブドゥルの例や、タントラ教の影響の下に建てられたインドやチベットの寺院に見られます。それらの建造物は宇宙全体を象徴的に表現しており、「世界の中心」に建てられているとみなされています。宗教的人間(ホモ・レリギオースス)にとっては、寺院だけでなく都市の建設も世界創造の繰り返しであり、中心から始まり、宇宙の写しとして建てられるとされます。
 聖なる空間の表象の中では「世界の中心」のシンボリズムが重要な位置を占めます。このシンボリズムには互いに関連する次の三つの類型があります。1 世界の中心には「聖山」があり、そこで天と地が出会う。2 いかなる寺院や宮殿、ひいては聖都や王宮も「聖山」に比定され、それぞれは「中心」となる。3 逆に、寺院や聖都は、そこを世界軸が貫いているので、天と地と冥界が交差する場所となる。この三つのシンボリズムのそれぞれ、またはその融合が、メソポタミアやインドなどの寺院や聖都の実例で説明されます。たとえばバビロンは「神々の門」の意で、神々が地上に降り立つ地であり、ピラミッド型寺院のズィグラトやボロブドゥルの寺院は宇宙山であったのです。既出のオンファロス(大地の臍)も「宇宙の中心」のシンボリズムの一つであり、創造はこの中心から始まり、人間の創造もここでなされます。ユダヤ・キリスト教の伝承では、アダムは宇宙の中心であるエルサレムで造られて埋葬され、そこにキリストの血が注がれて人類があがなわれることになります。この宇宙の中心のシンボリズムによって、都市や住居の様々な建造儀礼が説明されます。それだけでなく、「中心」のシンボリズムが人間の生に与えている意味や影響が広範な領域で観察されます。神話や伝説に登場する「宇宙木」(七層の天に相当する七本の枝を持つ)は、世界を支えている中央の柱であり、生命の木、知恵の木であり、世界の中心に位置します。この木は怪物などに守られているとか、迷宮の奥にあって近づき難いところにあります。怪物を倒すとか、迷宮を通過するとか、困難な巡礼を果たすことなどは、中心に到達するための一種の加入儀礼であり、それは俗から聖へ、死から生へ、人から神への通過儀礼です。中心のシンボリズムは、このようにそこに到達することの困難を強調すると同時に、自分が今いる都市や住居がすでに中心であることも語っており、人間は中心にらくらくと到達することができることを示しています。この矛盾が「中心の弁証法」をなしている、とエリアーデは結論しています。最後に、エリアーデは「楽園へのノスタルジー」と題して、聖なる空間の中心に対する人間の願望の姿を分析しています。聖なる空間の逆説的弁証法は、中心に到達することの困難を示すと同時に、常に、努力せずして世界の中心に、実在の、聖の中心にいたいという人間の願望、自然な仕方で人間の条件を超越して神の条件を回復(堕落以前の条件を回復)しようという願望があることを示しています。エリアーデは後者の願望を「楽園へのノスタルジー」と呼んで、それが広く存在することから、聖なる空間の弁証法を深く考察するように促しています。

 「第十一章 聖なる時間と永遠再始の神話」では、まず「聖なる時間」をヒエロファニーの時間、すなわち聖なるものが現れる時間として、具体的には儀式が行われる時間として、「俗なる時間」と区別し、その特質を考察します。儀式は繰り返されますが、その聖なる時間のリズムは、社会的な起源もありますが、多くは月のヒエロファニーや植物のヒエロファニーに見られるような宇宙的リズムによります。儀礼は繰り返されることによってその宗教の信徒にとって現在となりますが、これは聖なる時間はその周期性によって現在化されることを意味します。どの社会も、その進化の程度を問わず、「かの初めの時」を回復しようとする傾向を持ち、それを儀礼で行います。聖なる時間、ヒエロファニー的時間、神話的時間の特質は、繰り返しの可能性と、歴史の中に初めを持つことであるとされます。未開社会の人たちにとって意味のある行動とは、その行動が神々や文化英雄や祖先によって啓示された行為を繰り返すものだけです。このような祖型的行動はすべて「かの初めの時に」啓示されたのです。その祖型的行為の繰り返しが俗なる時間を聖なる時間に変えるのです。しかし、その祖型の繰り返しは必ずしも周期的に起こるとは限らず、定期的な儀礼以外の場でも起こりえます。
 祭りの中でもっとも重要な祭りとして、エリアーデは時間の全面的な再生を企てる祭りをあげます。それは、過ぎ去りゆく俗的時間を廃して新しい時間を創始するための祭りです。これをするための周期的な儀礼の形態として、エリアーデは五つをあげています。1 罪障消滅、浄罪、罪の告白、悪霊払い、村からの悪の駆除など 2 火を消し、また点火する 3 仮面行列(仮面は死者の霊魂をあらわす)、死者を迎え、饗応し、境界まで見送る 4 二つの敵対集団の闘い 5 カーニヴァル、サトゥルヌス祭、常軌の逸脱(オルギー)。このような内容の儀礼には時間を廃棄しようとする意志、新しい時間のサイクルを始めようとする意志、死者と生者の二つの時間を超えようとする意志が働いています。このような祭りの典型は新年祭ですが、エリアーデは様々な民族や宗教の新年祭の実例(バビロニアの新年祭アキートゥ、ユダヤ教、イスラム教の場合など)をあげてその意味を解説しています。それは「宇宙創成の年ごとの繰り返し」であり、そこでは古い時間、過去、祖型の範型を持たない出来事の記憶(現代では歴史に相当)は廃棄され、新しい創造の中で新しい生を再開したいという渇望が表現されているのです。しかし、この宇宙創成の繰り返しによる時間の再生は、新年祭のような定期的な儀礼だけでなく、新しい王の即位によって新しい時代が始まるときなど、「宇宙創成の偶然的繰り返し」においても見られます。最後にエリアーデは「全面的再生」と題する項で、先に彼が『永遠回帰の神話』で明らかにした循環する時間、永遠回帰、新しい宇宙、それに先立つ宇宙や人類の周期的滅亡などへの信仰は、過去の時間、歴史の周期的再生への願望を証ししているとし、「祖型的行為の繰り返しによって永遠の中にいつまでも生きたい、つまり時間の重荷を負わずに(=時間の不可逆性という制約を受けずに)時間の中に生きたいという逆説的な願望」に生きることが宗教的人間(ホモ・レリギオースス)の実相であることを語って、この章の結びとします。なお、「聖なる時間」、「ヒエロファニーの時間」についてのエリアーデの考察は、神学における「カイロス」概念にとって示唆的であると考えられます。

 「第十二章 神話の形態と機能」。前章までで様々なヒエロファニーの形態と構造を論じたエリアーデは、最後の二章で宗教における言語ともいうべき神話(本章)と象徴(次章)を取り上げます。神話を扱う本章では、最初に宇宙創成神話が範型神話として登場します。どの民族にも宇宙創成の神話がありますが、それはあらゆる創造の祖型的な範例となります。神話の主要な機能は、一切の儀礼や有意味な人間行動の範例を定めることです。宇宙創成神話はあらゆる人間行動の範例として、またその根拠づけとしての機能をもちますが、その上に、神話と儀礼の体系全体の祖型を構成します。先に見た新年祭や春の祭りで行われる儀礼の様々な筋書きは、宇宙創成神話から出た唯一同一の神話の断片的で特殊化した説話を表しています。 その中で世界の多くの民族に見られる「宇宙創成の卵」の神話が人間発生の範型となっている例や、卵が多くの再生儀礼や農耕儀礼で用いられる実例があげられて、卵が原初の行為、つまり創造の繰り返しの可能性を保証するものとして用いられていることが示されます。
 次にエリアーデは「神話が啓示するもの」と題して、神話が「かの初めの時に」神々や神話的存在がなしたことを範例として物語ると同時に、経験や理性が理解しえない現実の構造を啓示するものであることを、両極性(二元性)の神話、および再合一の神話として語ります。多くの神話で同じ神が相反する両極の相をもって現れています。インド神話のヴァルナは万物の主権者である天空神ですが、同時に海洋神で蛇の住いでもあります。ヴァルナ神話は神の二元性、反対の一致、神性における諸属性の統合を啓示しています。インドの多くの神々は、周期的に全宇宙を創造したり破壊するシヴァ神を祖型として、柔和と恐怖、豊??と破壊、誕生と死というような反対の属性を併せ持っています。神話はあらゆる反対物を統合している神の構造そのものを啓示しています。苦行者や神秘家は、苦行や瞑想により快楽と苦悩などの反対物を自己の中で統合して、神における両極性の統合に与ろうとします。さらにエリアーデは神の二元性を啓示する神話として「両性具有神」の神話をあげます。古代の存在論は、現実の両極性を啓示する神の二元性を生物学的用語(男性と女性)で表現したのです。エリアーデは、インドの主神といえる配偶神シヴァ=カーリーが男女一体の神として表現されているのを典型として、多くの民族の神話の神々が両性具有神であるとしてその名をあげています。神の両性は諸宗教において普遍的であり、しかも、すぐれて男性的な、あるいは女性的な神々までも両性具有的です。この両性具有神の神話に対応するものとして、両性具有人間に関する神話と儀礼があります。原人とか祖先は両性具有であったとする神話や伝承は多くあり、後代になると原初の夫婦の神話になります。人間はもともと両性具有であったとする思想は、プラトンやグノーシス派の精緻な人間論にも流れ込んでいます。両性具有が球体として想像された(プラトン)のは、古代では球体は完全性と全体性を象徴していたからです。宇宙創成神話の卵も同じです。両性具有神の神話と両性の原人神話は、人間の完全な様態とみなされているこの最初の状態を周期的に再現しようとする集団儀礼の範型となります。未開部族の加入儀礼にみられる性器への外科手術やオルギーや男女衣服の交換など、この種の儀礼では原人の楽園的な条件に還帰しようとする願望が表現されています。
 最後にエリアーデは「神話の構造」と題して、インドのヴァルナ神話を実例として取り上げ、神話の構造と機能をまとめます。ヴァルナは最高の天空神ですが、同時に月と水の神でもあります。月が象徴するように、ヴァルナは夜的な存在様態として、潜在性、胚種、非明示の存在です。それがヴァルナを水の神とさせ、水を引き留め、縛り付ける悪魔ヴィリトラと同一視させることになります。夜の、非行動的な、呪術師として遠くから罪人を束縛するヴァルナと、水を束縛するヴィリトラの構造的な類縁性が両者を同一視させることになります。そこに見られるように、神話の主要な機能の一つは、不均質とうつる現実のレベルを固定し、公認することであると言えます。同時に神話は、それが「かの初めの時に」起こったことを述べるということだけで、それを保持する集団にとって「模範的歴史」となります。それは繰り返すことができ、しかもその繰り返しのうちに意味と価値が見出されるような模範的歴史となります。その歴史は、不可逆的で繰り返すことができないという現代の歴史概念とまったく違います。そして「神話の堕落」という最後の項で、神話は叙事詩的物語、詩的物語、物語などに堕落し、あるいは俗信、風習、ノスタルジーなどの矮小化された形で後代にも生き続けますが、その中でも依然として祖型は実存を価値づけ、文化的な価値を創造し続けます。エリアーデは近現代の多くの文芸作品や地理上の発見の実例をあげて、それが稔り豊かな堕落であることを示しています。

 「第十三章 象徴の構造」では、どの宗教も力の顕現(クラフトファニー)、聖なるものの顕現(ヒエロファニー)、神の顕現(テオファニー)かであるが、何らかの直接的な顕現でなくても、ほとんどすべての宗教が含んでいる象徴体系(シンボリズム)がそのような顕現を間接的に示しているとして、最初にその一つの実例として「象徴としての石」を取り上げます。石のヒエロファニーについては先に(第六章で)詳しく論じられましたが、それとは別に石に呪術的か宗教的価値を付与するシンボリズムによって、石は呪術宗教的な特性を獲得するとして、翡翠と真珠の場合が解説されます。古代中国において翡翠は宇宙論的原理「陽」を指すシンボルとされ、宇宙的エネルギーの中心となるので、社会的には主権と力を具現し、医療面では万能薬として尊ばれ、肉体の再生を獲るために服用されました。真珠は、水から生まれ、月から生まれ、「陰」の原理を表し、創造する女性を象徴する貝殻の中で発見されたなどの理由で、先史時代から呪術的、医療的、葬礼的な意味をもつものとされるようになります。真珠はそれが形成された場である水の発芽力をおび、月から生まれたので月の呪力を分有し、貝殻の性的シンボリズムはそれが含意する力を女性に伝えるので、女性は好んで真珠を身につけます。月・水・女性という三重のシンボリズムから、真珠の薬物、婦人科医学、葬礼に関する呪術的な特性が発生します。しかし、このような真珠のシンボリズムは時代と共に俗信となって堕落し、現代では呪術宗教的な価値を失い、経済的、美的な価値になっています。このような「象徴の堕落」が、メソポタミアの瑠璃(ラピス・ラズリ)を実例として詳説され、さらに各地に見られる「蛇石」の伝説が解説されます。蛇石というのは、ダイアモンドなどの貴石は、英雄がそれを倒さなければ近づけない、絶対的な価値(不死、永遠の若さ、善悪の知識、海底や地中の財宝など)を守っている怪物(蛇や竜)の頭部から出た石であるという古代の神話や伝説から出た俗信で、この象徴の堕落した形、あるいは幼稚化した形が、財宝、魔法の石、宝石などへの信仰の源になっているとします。
 この後エリアーデは「象徴とヒエロファニー」の関係を論じます。象徴とは把握不可能なものを指し示し代理するものですから、人間の理解を超えた「聖なるもの」に関わる人間の営みである宗教を語るには不可欠・不可避の言語です。象徴に関する議論は果てしなく続いています。エリアーデも彼のインド体験以来、宗教においては象徴が本質的な働きをしていることを強調してきましたが、本書(宗教学概論)では主題であるヒエロファニーとの関係という視点から象徴を扱っています。
 エリアーデは象徴について、「象徴はヒエロファニーの弁証法を延長する。ヒエロファニーによって直接に聖別されないものはすべて、象徴を分有することによって聖となる」と言います。そして実際の宗教における実例から、大部分のヒエロファニーは象徴となりうるとします。しかし、宗教において象徴が果たす役割の重要性は、象徴がヒエロファニーを延長し、あるいは象徴がヒエロファニーの代用となるからだけでなく、象徴はヒエロファニー化の過程を継続することができ、場合によってはそれ自体でヒエロファニーとなり、他の顕現以上に聖なる実在を啓示することにあるとします。たとえば月が表示されているあらゆる護符や標章は、そこに月が表示されているからこそ効験があり、月の聖性を分有しているのです。それだけでなく、ヒエロファニーは宗教経験の不連続を前提とする(聖と俗との間の断絶と移行が宗教生活の本質である)のに対して、シンボリズムは人間と聖との間に恒久的な連繋を実現します。身につける護符、翡翠、真珠などは、それをつけている人を恒久的に、それぞれが表す(=象徴する)聖なる圏内に投じます。この恒久性こそ呪術宗教的な経験では得られないものです。人間は、努力せず、しかもある程度無自覚に、永遠に聖なる圏内にいたいという「楽園へのノスタルジー」の願望から、世界のヒエロファニーを無限に延長し、任意のヒエロファニーの代用物をたえず見つけ出し、たえずヒエロファニーを分有することを欲求し、象徴化作用を続けます。
 次いでエリアーデは「象徴の首尾一貫性」の項で、何でも象徴になりうるが、とりわけヒエロファニーの延長としての象徴、また啓示の自律的形態としての象徴の研究が、象徴の真正の構造と機能を明らかにするとして、月のシンボリズムや水のシンボリズムの例をあげ、ヒエロファニーが個別的、局地的、継起的に表示したものを、象徴はもっと明瞭に、もっと全体的に、そしてもっと高度に整合的に表現する限りにおいて、これらが自律的な「体系」であると見なすことができるとします。古代人はヒエロファニーを、それが含意しているシンボリズムの中に統合したのであり、そのシンボリズムの構造は、そのシンボリズムが理解されるかされないかとは無関係に、堅固に保持されるものです。エリアーデはさらに、象徴の特徴として、象徴が啓示する意味の同時性をあげます。たとえば「光・闇」の組み合わせは同時に、宇宙の昼と夜、ある形態の出現と消滅、死と復活、宇宙の創造と解体、潜在と顕示などを象徴します。また、象徴は、共同体の成員にはわかるが、余所者には理解できない「言語」としてあらわれます。たとえば、ある人物が身につけている衣服や宝石などは、その人物の社会的、歴史的、精神的条件を、またその人の社会と宇宙との関係を、同時に、また同じ程度に表現しています。衣服のシンボリズムは、その人物を一方では宇宙と結びつけ、他方では共同体と結びつけて、他の成員に対してその人物の身元を明示します。
 続いてエリアーデは「象徴の機能」について論を進めます。象徴の機能としてまず「統合化」の機能が重要なものとして取り上げられます。この機能は呪術宗教的経験において重要なだけでなく、人間の全経験において重要であるとして、「象徴は常に、どんな場においてであれ、現実のいくつかの領域が根本的に一致することを啓示する」と述べています。先に見たように、月や水のシンボリズムは広範な統合化を実現していました。象徴がもつ統合化の働きによって、生物・人間・宇宙にわたるかなりの面や領域が、いくつかの原理に一致します。こうして象徴は、一方では事物を俗的経験にあらわれるものとは別のものに変えることによって(たとえばある石が「世界の中心」の象徴となる)、ヒエロファニーの弁証法を継続しますが、他方では超越的実在のしるしとなることによって、その事物自体の具体的な限界を廃し、孤立した断片ではなくなって、体系の中に統合されることになります。ある事物が象徴になると、それは「全体」と一致しようとします。象徴は、できるだけ多くの事物、状況、様態をそれ自身と一体化させようとします。シンボリズムはあるレベルから他のレベルへ、ある様態から他の様態への移行や循環を可能にし、それによってあらゆる面、あらゆるレベルを統合するが、けっしてそれらを融合させることはありません。エリアーデはこの消息を、別の著書で論じた絆、結び目、網のシンボリズムを例としてあげて論じています。そして最後の項「象徴の論理」で、象徴はどんな性質のものであれ常に首尾一貫していて体系的であるから、象徴の「論理」について語ることができるとします。しかし、この「象徴の論理」は、宗教学固有の領域をはみ出して哲学の問題となるので、ここの議論は理解が困難です。ただ、「象徴的思考は、人間が現実のあらゆるレベルを自由に循環するのを可能にする。象徴は不均質なもろもろの面を、表面的には他に還元できないような現実を一体化し、同一化し、統一化する。それだけでなく、宗教的経験は人間自身を象徴に変えることができる。人間宇宙的なあらゆる体系、あらゆる経験は、人間自身が象徴となる限りにおいて可能なのである。・・・・・」と言っているところは示唆的です。

 「結論」。 このように十三章にわたって様々なヒエロファニーの形態と構造を論じた後に、エリアーデは「結論」を述べています。エリアーデは聖を俗と対立するものと定義した上で、これらの諸章では俗なる圏をたえず縮小し、ついにはそれをなくしてしまおうとするヒエロファニーの弁証法の傾向を強調してきました。宗教経験の最高の境地は、聖を宇宙全体と同一視するに至ります。ヒエロファニーは宇宙を聖化し、儀礼は生活を聖化します。宗教的人間の理想は、彼の行為がすべて儀礼として展開すること、すなわち供犠となることです。しかし他方、聖への抵抗という傾向も見られます。魅了するとともに反発させ、恵みであるとともに危険であるという聖それ自体のアンビヴァレントな構造が、聖に対する人間のアンビヴァレントな態度を引き起こします。この聖に対する抵抗は、人間が聖なる経験に全面的に没入してしまうことへの本性的な嫌悪を示していますが、同時にこのような経験を完全には放棄してしまえない弱みをも示しています。
 本書では宗教現象を研究するのに歴史を捨象し、宗教現象それ自身を、つまりヒエロファニーとして扱ってきました。しかし、ヒエロファニーがヒエロファニーとして顕現した最初から、「歴史的」でないようなヒエロファニーは存在しません。人間が聖の啓示を自覚し反応するという事実から、啓示はどんな面でなされようとも歴史的となります。ヒエロファニーを操作し、それを伝達することが、ヒエロファニーの「歴史化」をいっそう進めることになります。しかしヒエロファニーの構造は依然として変わりません。まさにこの構造の同一性がヒエロファニーを認識させます。天空神は無数の変遷を経ましたが、その天空的性格は恒常的です。豊饒神もその大地的性格、植物的性格は変わりません。そこで宗教的事象の歴史は二重の過程を記録することになります。一方では、ヒエロファニーの継起的で電撃的な出現であり、宇宙における聖の顕現の極度の断片化の一面。他方では、できるだけ完全に祖型を具現し、固有の構造を十分に実現しようとするヒエロファニーの本有的な傾向によって、もろもろのヒエロファニーを統一化する、という二面です。
 宗教的事象の歴史において重要なシンクレティズムについて、宗教間の同化や融合は歴史的事情(隣接する部族間の相互浸透や領土の帰属など)にのみ原因を求めることはできず、その過程はヒエロファニーの弁証法そのものによっても起こることに、エリアーデは注意を促しています。ヒエロファニーは、類似の、または異なる宗教形態との接触によって生じる場合であれ、そうでない場合であれ、それがヒエロファニーとして啓示されるすべての人々の宗教意識にとり、もっとも全体的に充実してあらわれようとします。それが、いかなる宗教形態も成長し、純化し、高貴になる可能性をもつことの理由です。シンクレティズムはこのヒエロファニーの本性からも起こる歴史的宗教事象です。
 最後にエリアーデはヒエロファニーと歴史の関係を指摘して、姉妹編(『世界宗教史』を指すのであろう)への道備えをしています。まず人間の宗教的態度のほとんどすべては、原始時代からすでに人間に与えられていた事実を強調した上で、「歴史」は宗教経験それ自体に影響を及ぼしてきたことを語っています。狩猟、農耕、冶金などの技術の発見は、人間の物質生活を変えただけでなく、それ以上に人間の精神生活を豊かにしました。物質世界に生じた変化は、現実を理解する新たな手段を精神に開示しました。歴史が宗教経験に影響力を及ぼしたとすれば、それは出来事が人間に対し、それまで知られなかった異なる存在の仕方を示し、自己発見させ、宇宙に新しい宗教的価値を与えたからです。エリアーデはその一例としてザラトゥストラの宗教改革をあげています。それは、遊牧生活から農耕生活に変わる歴史を受けて、血なまぐさい動物供犠を廃することが、瞑想への新しい道を開きました。しかし、進化は同じく逆行をも伴い、原始社会の高貴な宗教経験は、歴史が導入した変化のゆえに、成就することがますます困難になっています。最後にエリアーデが歴史と宗教の関係について書いた本書の最終段落を引用して、この項(A)の締めくくりとし、次項(B)の前置きとします。
 「歴史は新たな宗教経験を促進すること、あるいは麻痺させること、そのいずれも可能だとしても、宗教経験の必然性を最終的に廃することは絶対にできない。さらにいうなら、ヒエロファニーの弁証法は、あらゆる宗教的価値の自発的で完全な再発見を可能ならしめる。その場合、その価値が何であれ、またその発見がなされる社会や個人がどんな歴史のレベルにいようと問題ではない。宗教史はかくして、つまるところこのような宗教的価値を見失い、それを再発見する、といったドラマに帰結する。しかもこのような価値の喪失と再発見とは、けっしてそれが最終的ということにならないし、将来とも断じてなりえないであろう」。

B ヒエロファニーの歴史 ― 『世界宗教史』

宗教的人間(ホモ・レリギオースス)と宗教史

 これまでに見てきたように、エリアーデは宗教現象を「ヒエロファニー」(聖なるものの顕現)の観点から観察し、ヒエロファニーの形態とか構造とか機能を共時的に通観して、宗教の本質に迫ろうとしていました。しかし、ヒエロファニーを追い求め、ヒエロファニーに反応するのは人間であり、その人間は歴史的な存在である限り、ヒエロファニーも歴史的な面を持つことになります。ヒエロファニーの歴史も宗教理解にとって不可欠の側面となります。
 エリアーデは、ヒエロファニー(聖の顕現)に反応する人間が「宗教的人間」(ホモ・レリギオースス)であるとしていますが、この日本語での「宗教的人間」という用語は誤解を招きやすいので注意が必要です。それは宗教的関心とか傾向が他の関心よりも強い、または他の人たちよりも強い一部の人間を指すのではなく、宗教的な営みをしないではおれない生物としての人間(ホモ・レリギオースス)の在り方を意味しています。宗教する動物としての人類を指しています。人間として生きることがそのまま宗教的行為である、と言えます。エリアーデは『世界宗教史』の序文でこう言っています。「文化の最古の諸層においては、人間的であると考えられる生活は、それ自身において宗教的行為である。・・・・人間であること、というよりむしろ人間になることは『宗教的』であることと同じなのである」。
 その人間が歴史的な存在である以上、宗教も歴史となります。むしろ、宗教がそれぞれの時代や地域や部族・民族で現れている具体的な姿の記述である「宗教史」が、もともと宗教研究の本流でした。今でも講座や学会の名称に「宗教史」を用いる場合が多くあります。現在では宗教社会学や宗教心理学、宗教現象学などの諸分野に分かれていますが、それらを統合して人間の宗教的な営み全体を通時的に記述して、そこに宗教の本質を追求する学問、すなわち宗教史が求められます。しかも、特定の時代や民族の宗教だけでなく、人間の宗教的営み全体の歴史、世界の宗教史が求められることになります。人間の歴史、世界の歴史は宗教史である、と言えます。

エリアーデの『世界宗教史』

 この人類の歴史とも言える世界の宗教史をまとめようという途方もない企て、「ホモ・レリギオースス」の歴史を書くという企てを、エリアーデはその晩年に開始します。それがエリアーデの『世界宗教史』です。初めは先史時代から現代までの宗教史を三巻でまとめ(後に四巻に変更)、さらにそれを数日で通読できる小さな一冊の書物にまとめるという構想で始められました。小さな一冊にまとめるのは、一気に通読することで人類の宗教現象の統一性が理解されるようにとの願いからでした。しかし、その構想は一九八六年のエリアーデの病没のため宗教改革の時代までで中断しました。「小さな一冊」は書かれずに終わり、それ以降の歴史は彼の流れを汲む研究者がそれぞれの分野を担当して仕上げます。エリアーデ執筆の部分は三巻にまとめられて一九七八年から一九八三年にフランスの出版社からフランス語で刊行され(後に英訳)、没後の部分は彼の後継者ともいうべきクリアーノの編集で第三巻第二分冊として一九九一年にドイツの出版社からドイツ語で刊行されました。日本語訳はこれを第四巻として、一九九一年から一九九八年にかけて筑摩書房から全四巻の形で刊行されています。

 『世界宗教史』のダイジェスト版の「小さい書物」はついに書かれませんでしたが、エリアーデは並行して編集に携わっていた『世界宗教百科事典』と宗教史の要約を一巻にし、諸宗教を年代順ではなくアルファベット順に配列したものを刊行する構想を持っていました。この構想をエリアーデの没後、クリアーノが実現し、『エリアーデ世界宗教事典』 (ミルチャ・エリアーデ、ヨアン・p・クリアーノ著 奥山倫明訳、せりか書房、1994)が出ました。後半には簡明な「語句解説」があり、世界の諸宗教の概略を知るのに便利です。

 この膨大な量の著作の内容を要約して紹介することは到底できません。ここでは参考までに四巻にわたる五一の章名だけをあげて、本書がどのような主題を扱っているのかを紹介するにとどめます。章名の羅列を見るだけでも、人類の歴史ともいうべき「世界の宗教史」がどれだけ広範な内容を持つかに圧倒されます。各章は数個または十数個の節から成り、節の数は全部で四一三に及び、それぞれの節に四巻にわたって通し番号と題名がつけられています。そして、それぞれの節の主題に関する主要な文献の「文献解題」が付され、それを一見するだけでも現代の宗教学が蓄積した資料の巨大さがうかがわれます。

   第一巻 
第一章   時の始めに・・・・古人類の呪術・宗教的営み
第二章   最も長い革命 農耕の発見 ― 中・石器時代
第三章   メソポタミアの宗教
第四章   古代エジプトの宗教思想と政治的危機
第五章   巨石・神殿・祭祀センター ― ヨーロッパ、地中海世界、インダス流域
第六章   ヒッタイト人とカナンの宗教
第七章   「イスラエルが幼き頃・・・・・」
第八章   インド・ヨーロッパ諸民族の宗教 ヴェーダの宗教
第九章   ゴータマ・ブッダ以前のインド ― 宇宙的供犠からアートマン・ブラフマンの至上の同一性まで
第十章   ゼウスとギリシア宗教
第十一章  オリュンポスの神々と英雄たち
第十二章  エレウシスの密儀
第十三章  ザラスシュトラとイラン宗教
第十四章  王と預言者の時代のイスラエル
第十五章  ディオニソス、あるいは再び見いだされし至福 
第二巻   
第十六章  古代中国の宗教
第十七章  バラモン教とヒンドゥー教 ― 最初期の哲学と救済の技法
第十八章  仏陀とその時代
第十九章  仏陀のメッセージ ― 永遠回帰への恐怖から言葉を超えた至福へ
第二十章  ローマの宗教 ― その起源からバッカス祭の迫害(前一八六年)まで
第二十一章 ケルト人、ゲルマン人、トラキア人、ゲタエ人
第二十二章 オルフェウス、ピタゴラス、新たなる終末論
第二十三章 マハーシャパからナーガールジュナにいたる仏教の歴史とマハーヴィーラ後のジャイナ教
第二十四章 ヒンドゥー教の総合 ― 『マハーバータラ』と『バガヴァッド・ギータ』
第二十五章 ユダヤ教の試練 ― 黙示からトーラーの称賛へ
第二十六章 ヘレニズム時代におけるシンクレティズムと創造性 ― 救済の約束
第二十七章 イランにおける新たな総合
第二十八章 キリスト教の誕生
第二十九章 帝政時代の異教、キリスト教、グノーシス派
第三十章  神々のたそがれ
第三巻
第三十一章 古代ユーラシアの宗教 ― トルコ・モンゴル人、フィン・ウゴール人、バルト・スラヴ人
第三十二章 聖像破壊運動(八―九世紀)までのキリスト教会
第三十三章 ムハンマドとイスラームの展開
第三十四章 シャルルマーニュからフィオーレのヨアキムまでの西欧カトリシズム
第三十五章 イスラームの神学と神秘主義
第三十六章 バル・コホバの乱からハシディズムまでのユダヤ教
第三十七章 ヨーロッパの宗教運動 ― 中世後期から宗教改革前夜まで
第三十八章 宗教改革前後における宗教、魔術、ヘルメス主義の伝統
第三十九章 チベットの諸宗教
第四巻 (題名の下はそれぞれの章の執筆者)
第四十章  メソアメリカの諸宗教 ― 都市と象徴                    ダビッド・カラコス
第四十一章 六朝時代中国人の宗教信仰における道教                    アンリ・マスペロ
第四十二章 多様性と全体性 ― インドネシアの宗教   ヴァルデマール・シュテーア
第四十三章 マナとタブー ― オセニアの宗教 ヴァルデマール・シュテーア
第四十四章 トーテム・夢の時・チュリンガ ― オーストラリアの宗教 ヴァルデマール・シュテーア
第四十五章 家族共同体と宇宙の諸力 ― 西アフリカの宗教における宗教的根本思想    ハンス・A・ヴィッテ
第四十六章 中央アフリカ東部における宗教的概念の諸相                  ジョン・ムビティ
第四十七章 シャーマニズムと死者の国への旅 ― 南米低地インディオの宗教的表象  マリア・S・チポレッティ
第四十八章 サン・ダンス ― 北アメリカのオグララ・スー族における宗教的世界像と儀礼    ペーター・ボルツ
第四十九章 神道と民俗宗教 ― 日本の宗教の歴史的展開                  ネリー・ナウマン
第五十章  日本の民衆宗教 ― 日本宗教の統合的理解のために                  荒木美智雄
最終章   啓蒙主義以降のヨーロッパにおける宗教的創造性と世俗化         リヒャルト・シェフラー

『世界宗教史』における二大潮流

 この目次を見ていると、先史時代から現代まで地球上の各地で展開した人類の宗教の歴史が見渡されているのが解ります。様々な形のヒエロファニーに反応してきた人類が、それぞれの地域と時代で形成してきた宗教生活の実際の姿かたちが見えてきます。その全体は膨大な内容になりますので、一通り読むだけでも一仕事です。一応目を通すだけでも、人間の宗教的な営みが、人間が置かれている文化とか文明の違いによって、すなわち歴史的な状況の違いによって、大いに違った形になっていることが解ります。ここでは歴史が宗教に独自の形態を与えてきたことが読み取れます。この小論でその全貌を扱うことはできませんので、世界の歴史の中で諸宗教が形成されてきた二つの大きな流れ、世界宗教史の二大潮流を追って、その視点から現代の宗教問題を考えてみたいと思います。
 二大潮流の一つは、セム系の民族に起こった一神教宗教の流れです。初めカナンの地に歩んだセム系のイスラエルの民のヤハウェ信仰が唯一神を拝するユダヤ教となり、そのユダヤ教がヘレニズム文明と遭遇してキリスト教が生まれ、さらにアラブ諸族に伝えられてイスラム教になります。このユダヤ教、キリスト教、イスラム教が世界の一神教宗教を代表する三大宗教ということになります。もう一つの流れは、インド・ヨーロッパ語族に属するインド・イラン系の民がインド北西部のガンジス川流域に形成したインダス文明の中で育ったバラモン教、ヒンドゥー教、そこから生まれた仏教などの、一神教とは違ったタイプの宗教の流れです。その中で仏教はインド以外の諸民族に伝えられ、キリスト教、イスラム教と並ぶ世界宗教(民族の枠を超えて諸民族に拡大する可能性をもつ宗教)となります。これらの世界宗教は、各民族固有の宗教を吸収、変容して世界に拡大し、現代ではその三大世界宗教(キリスト教、イスラム教、仏教)の信徒の数が世界の総人口の大部分を占めるに至っています。章名を見れば、どの章がどの宗教を扱っているのか明らかですし、またその宗教がどちらの潮流に属するのか見当はつきます。どちらであるか明確でない場合もありますが、どちらかの流れに影響したりされたりして、その位置づけはほぼできます。
 この二つの潮流はそれぞれの内部で深刻な対立と相克を抱えながら、また、周辺の諸宗教を巻き込み混淆しながら拡大して、世界の歴史の大海で大きな潮流となっていきました。西方で支配的となった一神教の潮流の内部では、ユダヤ教とキリスト教の対立と迫害の歴史とか、キリスト教とイスラム教が対立して戦った歴史(十字軍)は、どの世界史の教科書にも書いてある顕著な事実です。インド系の非一神教的な流れの中で生まれた仏教も、始祖のブッダの教えとはかなり違った宗教である大乗仏教が発達し、小乗仏教と大乗仏教の対立の中で東方のアジア諸国に拡大して世界史的な潮流を形成することになります。仏教が東方の諸民族の中に入っていって(仏教東漸)、その民族固有の宗教を吸収変容し仏教国とする過程は、日本の歴史に見られる通りです。
 現代では交通と通信手段の発達により世界は狭くなり、どの文明圏も孤立して存在することはできなくなりました。以前では各文明圏は他の文明圏と時々の交流とか戦争はありましたが、自分自身の文明固有の宗教とか文化をもって生きていくことができました。しかし地球がこれほど狭くなった現代(いわゆるグローバル化の時代)では、どの文明も、どの国も孤立して生きていくことはできません。否応なく世界の諸民族、諸文明、諸宗教との関わりの中で生きていかなければなりません。この世界的な遭遇と交流の時代において、最大の遭遇は世界宗教の二つの大きな潮流が遭遇することです。海流の出会いがどのような形になるのか、上空からは見えません。合流か、それともそれぞれの方向転換か、何かが歴史の底流で起こるはずです。われわれが置かれている状況で具体的に言えば、キリスト教と仏教が出会うことです。後の時代の歴史家が二〇世紀を見るならば、この世紀の最大の出来事はキリスト教とマルキシズムとの対立ではなく、キリスト教と仏教の遭遇であるとするであろう、と文明史家のトインビーが(ギッフォード講演で)言ったと伝えられています。前世紀から今世紀にかけての宗教史の大きな課題となるキリスト教と仏教との出会いの問題は、おそらく本書の第二部のどこかで触れることになります。さらに、現代の宗教史における最大の問題であり、エリアーデ『世界宗教史』の最終章も問題としている「世俗化」の問題は第二部においた第六章で扱うことになります。