市川喜一著作集 > 第23巻 > 第10講

第二節 ナザレのイエス ― その地上の生涯

はじめに

このようなユダヤ教という宗教が支配する世界に、イエスが登場します。このイエスの登場がユダヤ教の世界に波紋を起こすことになりますが、ここでは同時代の人たちが見て理解することができた限りでのイエスの姿を見ておきましょう。ということは、時代が離れていても、わたしたち通常の人間がイエスの言動と生涯の事実を伝える記録を見て理解しうる限りのイエス、ナザレ出身の一ユダヤ人イエスの生涯、言い換えれば「史的イエス」を知ろうとする試みです。そのさい、わたしたちが用いている唯一の史料である福音書が本来キリストとしてのイエスを告知する文書であるという性格を念頭に置いてなすべき作業であることを忘れないことが大切です。このことは第二章の最初に置いた「はじめにーイエスの位置について」で述べたことですが、同じことをここでは「ナザレのイエス」という呼び方で、ユダヤの地に深く結びついたイエスの地上の生涯を見ることで行うことになります。その後で次節「第三節 イエスの神ーイエスとユダヤ教」で、ユダヤ教が教えた聖書の神とイエスが地上で説いた神との関わりをまとめてみたいと思います。
このような視点でイエスの地上の生涯を日本語で記述する際の難しい点は敬語の問題です。福音書という文書はキリストとしてのイエスを告知するものですから、そしてイエスをそのキリストが人間となって現れた方であるという信仰の立場でイエスの生涯を記述するのですから、「イエスはおられた」とか「イエスは言われた」というように敬語の文体を使います。しかし、そういう信仰の視点を一旦離れて、イエスを特別扱いするのではなく、一人の地上の人間として記述するのであれば、「イエスはいた」とか「イエスは言った」と記述することになります。英語などの欧米語には敬語はなく、「イエスは言われた」も「イエスは言った」も同じ Jesus said になります。もしわたしたちが「ソクラテスは言われた」と書くなら、すでにソクラテスを他の人間と区別して特別扱いしていることになるでしょう。本節ではあくまでイエスを普通の人間のレベルで描くことを目的としているので、敬語文体は用いません。復活以後にキリストとしてのイエスを記述する場合は特別扱いになるでしょう。ただし、本節でもすでに敬語を用いて記述している聖書の引用は別です。

T イエスの登場

イエスの生い立ち

イエスは当時のパレスチナの北方、ガリラヤ湖を中心に広がる地域、当時の人たちが「ガリラヤ」と呼ぶ地域の出身者であることは広く知られていた事実でした。そのガリラヤの中でも小さな田舎町に過ぎないナザレでイエスは育ちます。イエスの両親であるヨセフとマリアはナザレの住人であり、イエスはこの両親の元で幼少期を過ごし、父親ヨセフの職業である木工職人《テクトーン》の技を身につけ、その仕事で自立することになります。両親であるヨセフとマリアは、最初に長兄イエスを得た後にヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの四人の弟と妹として数人の女の子を得ています。
ヨセフがその子弟にどのような教育をしたのか、詳しいことは分かりませんが、通常のユダヤ教、すなわち会堂に付設されていた学校に通い、ヘブライ語聖書の読み方とその解釈を習い、ユダヤ教の教義や詩篇などの賛歌を共にしたことは当然でしょう。しかし、ヨセフはそれ以上に厳格な宗教教育を与えたことは推察できます。それは弟のヤコブが後にエルサレムの「律法に熱心な人たち」(ファリサイ派とかエッセネ派でしょう)からも尊敬されていたという事実からも十分に推測することができます。長兄のイエスがそれ以上の学識を身につけていたと考えるのは当然でしょう。事実、ユダヤ人の学者でキリスト教にも造詣が深いフルッサーも、「イエスのユダヤ教の教養は聖パウロが受けた教育よりも比較できないほどすぐれていた」と言っています(D・フルッサー『ユダヤ人イエス』)。もしヨセフ一家が後で推察するようにベツレヘムの住人であり、イエスの誕生後にナザレに移住したものとすれば、彼はエルサレムのユダヤ教諸派の動向に詳しく、一部の研究者が推察するようにエッセネ派からの強い影響を受けており、律法(聖書)を詳しく学んでいた可能性もあります(イエスとユダヤ教諸派の関係については次節でやや詳しく検討する予定です)。後にイエスが律法学者たちと論争しているところから見ても、イエスの聖書知識は抜群であったことがうかがえます(ルカ二・四一〜四七)。
父親のヨセフは、イエスが十二歳の時のエピソードに名前が出て来たのを最後に、成人したイエスの物語には出てきませんので、その間の年月に亡くなっていた可能性があります。このようなことは古代社会の貧しい庶民の家ではよくあることでした。そうだとすると、イエスは長兄として父親の亡き後その職業に励み、一家を支えてきた可能性があります。イエスがガリラヤでの働きのある時期に故郷のナザレの会堂で語ったところ、イエスがナザレで過ごした幼年時代と青年時代、また家庭環境をよく知っている故郷の人々が、イエスの聖書の知識と行っている奇跡とに驚いて、「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工《テクトーン》ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」と言ったと伝えられています(マルコ六・一〜三)。この短い言葉は、イエスの育ちをよく知っている人たちの証言として、イエスの家庭環境を知るのに貴重な手がかりになります。ここでは父親のヨセフの名前が出てきません。イエスが「マリアの子」と呼ばれているのは、イエスの出生について秘密があって、イエスは父親がわからない子だという非難が込められているのではないかという見方もあります。ユダヤ人の男は普通「シモンの子ユダ」と言うように、父親がすでに亡くなっていても、父親の名前を用いて「誰それの子の誰それ」と呼んでいたからです。

《テクトーン》というギリシア語は「大工」と訳されることが多いのですが、これは日本語で言う大工とは違い、「木工職人」という方が近いようです。日本語の「大工」というのは木造の家を建てる人を連想しますが、パレスチナの家はレンガ造りが殆どで、その中のテーブルとか椅子、タンス類や窓枠など、あるいは農機具の木製部分などを作る職人が《テクトーン》と呼ばれたようです。そして職人はその技術を、とくにその秘伝的な部分を自分の息子に伝えて息子の自立を助け、また技術を後世に伝えました。この間の事情は、イエス自身がそのたとえで使っています(ルカ一〇・二二)。

イエスが成人した頃(紀元後一世紀の一〇年代)には、ナザレの近くではガリラヤでは数少ない大都市の建設工事が進んでいました。ナザレの丘から見渡せるほどの距離(歩いて約一時間半)のところに古い歴史をもつ大都市セッフォリスがありますが、イエスの時代にはそれをローマ風の都市にするための大規模な改装工事が進められておりました。イエスもこの工事の木工部門を担当して参加した可能性があります。イエスがギリシア語を話したかどうかが問題になりますが、当時の大都市の上流階級で使われていたギリシア語をイエスも自然に習得したことも推察されます。同時に金持ち階級の生活も見て、それを周りの貧しい人たちと対比して福音を語る際に用いたこともあったでしょう。このようなイエスの生い立ちに関する諸事実は、キリストとしてイエスを告知する際に意味がないこととして、福音書の記者たちは一切省略しています。イエスの誕生物語も初期の古い福音告知においては語られませんでした。

セッフォリスについては、山口雅弘『イエス誕生の夜明けーガリラヤの歴史と人々』一三五頁の「一 セッフォリス」の項を参照してください。

イエス誕生の次第

イエスがこのように一ユダヤ人夫妻のもとで育った以上、何年か前に何処かでその夫妻の間に生まれているのですが、どこで生まれたのか、そして何時生まれたのか、その詳細は分かっていません。最初期の共同体では、「イエスはヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」(マタイ二・一)という伝承が広く受け入れられていました。最初に福音の内容を文書の形で残したパウロも、初期の福音書であるマルコ福音書も、そしてヨハネ福音書も、イエスがいつどこで生まれたかには全然触れていません。この問題は福音を告知するのに必要ではなかったからです。不明のままでよかったのです。しかし、イエスをキリストであると告知するに際して、イエスの家系や誕生の次第を語る必要に迫られ、後期の福音書であるマタイ福音書とルカ福音書が、イエスの系図と誕生の次第を加えるようになります。こうして二つの誕生物語は、イエスをキリストとして宣べ伝える福音告知の必要から生まれたものとして、この節では省略すべきものとなります。
もしこのような誕生物語がなければ、わたしたちは当然イエスはナザレの生まれであって、「ナザレのイエス」と呼ばれていたと考えるでしょう。しかし、マタイとルカの二つの福音書は、「イエスはヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」(マタイ二・一)という伝承に合わせて、イエスの誕生をベツレヘムに置く物語を書きました。ところが、この二つの物語は「ヘロデ王の時代に」という点では一致していますが、ベツレヘムでの誕生については全く別の物語になっており、互いに矛盾しています。これは読者層の違い(ユダヤ人であるか異邦人であるか)によるものでしょう。
マタイはおもにユダヤ人(ユダヤ教徒)に向かって福音書を書いています。ユダヤ教徒は聖書を神の啓示と信じ、その預言が終わりの日に成就すると熱烈に待ち望んでいたのですから、このイエスの誕生がその成就であることを示さなければなりません。マタイはイエスの系図とその誕生の次第の一つひとつの出来事に、それがこれこれの聖書の預言の成就であるとの説明をつけて強調しています。そして、子を産むのは当然女性であるマリアですが、その預言を成就する行動をするのは男性のヨセフです。夢のお告げを受けるのもヨセフです。これは男性中心のユダヤ教社会の慣行にかなっています。
これに対してルカではマリアが中心人物です。マリアが受胎の告知を受け、キリストとしてのイエスの誕生を受け入れます。信仰深い信徒の模範となるのはマリアです。何よりも大きな違いはベツレヘムでの誕生の意義です。ルカではヨセフ夫妻はガリラヤのナザレの住人ですが、ダビデの家系に属する者として本籍地のベツレヘムで住民登録をするためにベツレヘムに来て、旅先でイエスを産むことになります。それに対してマタイでは、ヨセフとマリアはもともとベツレヘムの住人であり、マリアは自分の家で出産します。自分に代わる王の出現の噂を恐れたヘロデ王の虐殺を逃れ、一時はヨセフと共にエジプトに避難します。ヨセフはその後マリアとナザレに移住し、そこでイエスを育てたことになります。
もしそれが事実であれば、二人は、とくにヨセフはユダヤ教の中心的な地域であるエルサレム近郊のベツレヘムの住民として、ユダヤ教の知識に通じ、ナザレに移ってからもその子らを厳格なユダヤ教徒として育てたことが一層自然に了解できます。とくにイエスの弟になるヤコブが、後にエルサレム共同体を代表するようになり、律法に熱心な者の模範としてエルサレムのファリサイ派からも尊敬されていたとの証言に一致し、イエスが受けたユダヤ教教育の質と傾向について推察する際の重要な要素になります。ガリラヤにユダヤ教が行き渡るのは、せいぜい紀元前一世紀の半ばからであり、その頃からユダヤからガリラヤへの移住者も多くなり、ヨセフ一家もその中の一組であった可能性は十分にあります。

イエスの誕生物語について詳しくは、拙著『ルカ福音書講解 T』の一二六頁「補説2 イエスの生い立ち」を参照してください。

洗礼者ヨハネの出現

イエスがイスラエルに現れるに際してもっとも大きな契機となったのは、洗礼者ヨハネの出現です。ヨハネのバプテスマ運動がイスラエルのユダヤ教社会に大きな反響を呼び起こしたことを理解するには、当時(一世紀)のユダヤ教社会が置かれていた政治的状況を知ることが有益ですが、これは本書の限界を超えますので新約聖書時代史の専門書に委ね、ここでは当時のユダヤ教社会の人たちがヘレニズム王朝の相次ぐ異教的支配(当時パレスチナはシリアのセレウコス王朝とエジプトのプトレマイオス王朝に交代で支配されていました)、独立を回復したハスモン王朝の大祭司の専制支配、引き続き起こったヘロデらの軍事勢力の支配、ローマ帝国の属州統治に疲れ果て、終わりの日に実現すると約束されていた神の直接的な支配の到来を待望するという終末待望が底流として燃えていたという事実を指摘するにとどめます。
そのような終末における「神の支配」の実現の期待に燃えるユダヤ人たちに、その時が近い、「神の支配」が間近に迫っていると告知し、だからその「神の支配」に入れるように悔い改め、その悔い改めの告白としてバプテスマを受けるように求めた洗礼者ヨハネの叫びは、広くユダヤ人民衆の共感を得て、彼の運動は燎原の火にようにユダヤ教社会に広がり、各地にヨハネを信奉し、ヨハネに従うユダヤ人グループができました。このヨハネによるバプテスマ運動は、ユダヤ教における一大覚醒運動として、ユダヤ教民衆の生活の根底を揺さぶったので、その結束が自分の支配の動揺を招くことを恐れた為政者からは恐れられ、自分たちの宗教原理が揺らぐことを直感した祭司らからは煙たがられました。事実、後に祭司らはヨハネを監視したり糾問しましたし、ガリラヤの領主ヘロデはヨハネを逮捕投獄して処刑するに至ります。
福音書の記者たちもヨハネのバプテスマ運動の重要性はよく承知しており、イエスの福音告知の報知をヨハネの活動から始めています。福音書記者はヨハネの外貌の描写でほぼ一致して、「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」(マルコ一・六)と伝えています。このような昔の預言者たちの風貌を思い起こさせる外貌や、世俗の生活を放棄した禁欲的姿勢などが民衆の敬意を集めたことでしょう。このような生活態度と、ヨハネについては「イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた」(ルカ一・八〇)という聖書の証言から、そしてまた彼の告知の内容からして、ヨハネは幼い時から荒れ野に活動拠点を置いていたエッセネ派の修道院的な宿営地(クムラン)に預けられて、そこで育てられたのではないかという推察も行われています。少なくとも新約聖書に登場する著名な人物の中では、ヨハネがエッセネ派にもっとも近い人物であると見做されています(エッセネ派については次節でもう少し詳しく見ることになります)。ヨハネがエッセネ派と深い関わりがあるとしても、彼が荒れ野に一人現れてバプテスマを宣べ伝えた時には、エッセネ派の団体から出て、一人荒れ野で預言者的な叫び声を挙げたと考えられます。ヨハネが宣べ伝えたバプテスマはユダヤ人に向けたものであり、生涯に一度の全面的な悔い改めの告白であったという点で、毎日繰り返して行われたエッセネ派の清めのバプテスマとは性格が違っています。
ヨハネがヨルダン川でバプテスマを授ける活動をした地点を特定することはできません。マルコ福音書(一・五)は、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆」ヨハネのもとに来てバプテスマを受けたと書いていますので、ヨハネはエルサレムに近い南のユダヤ地方でバプテスマを授けていたという印象を受けます。マタイ(三・五)もほぼ同じような書き方ですが、「ヨルダン川沿いの地方一帯から」を加えています。一方、先にあげたユダヤ人学者のフルッサーは、イエスは洗礼者ヨハネのもとでアンデレとペトロの兄弟に出会って弟子としているのですから、この三人はペトロとアンデレの出身地であるベトサイダ近くのヨルダン川でバプテスマを受けたものと推察しています。そうだとすると、ヨハネのバプテスマ活動は北ではヨルダン川がガリラヤ湖に注ぐ辺り(ベトサイダはガリラヤ湖北端の町)まで及んでいたことになります。ヨハネ福音書だけが、ヨハネがバプテスマを授けていた場所として「ヨルダン川の向こう側、ベタニア」とか「サリム近くのアイノン」という地名をあげていますが、その場所を確定することは困難です。いま観光でパレスチナを訪れた時に洗礼者ヨハネの遺跡として案内され、現在もキリスト教徒のバプテスマが行われている場所はヨルダン川中流あたりです。結局洗礼者ヨハネの活動範囲は、ルカ福音書(三・三)が言うように、「ヨルダン川沿いの地方一帯」という他はないでしょう。これは当然です。ヨハネはパレスチナ全土のユダヤ人に悔い改めを迫ったのですから。
ではこのヨハネのバプテスマ運動はいつ頃起ったのでしょうか。その時期についてはルカが歴史家らしくその年代を正確に記述しています。この年代は、イエスの福音告知がそれにすぐ続くのですから重要です。ルカによると「皇帝ティベリウスの治世の第十五年に、……神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに下った」と書いています(ルカ福音書三・一〜二)。「皇帝ティベリウスの治世の第十五年」という年は、現代の暦で言うと紀元二八年から二九年にかけての一年になります。ルカはその福音書と使徒言行録の二部作をローマの高官テオフィロに献呈しているのですから、ヨハネの活動年代(ひいてはイエスの活動年代)をローマの歴史に結びつけるのは当然です。ルカによる福音書は、献呈の辞(一・一〜四)に続いて、その元来の本体部分は三章から始まっていました。この三章一〜二節が本来の福音書の最初の部分になります(私のルカ福音書講解はこの見方で書かれています)。ルカはこの部分に「ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき」という当時の各地の統治者の名前を入れていますが、これらの人物は リサニアを除いて後にヨハネとイエスに重要な関わりをもつことになり、ヨハネとイエスの働きを物語る上で大きな役割を果たすことになります。
ヨハネはイスラエルの民にどのようなことを宣べ伝えたのでしょうか。ヨハネの告知の内容は、四福音書ともヨハネはイエスの先駆者として神から遣わされた人物であるという、イエスをメシアとする立場に強く彩られていますが、その中ではマタイとルカが比較的ヨハネに固有の使信を忠実に伝えています。ヨハネの使信の核心は「神の支配」が近いことでしたが、「神の支配」は神の終末的な審判に強く色どられていました。神はその最終的な審判を通して神に逆らう者を打ち滅ぼしてその支配を打ち立てられるというものです。ヨハネはこう言ったと伝えられています、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。……そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」。そして良い実を結ばない木になって火で焼き払われないようにするにはどうすれば良いかを具体的に教え、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と言い、徴税人には「規定以上のものは取り立てるな」と言い、兵士には「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った、と伝えられています。
このようにマタイとルカが比較的忠実にヨハネの使信を伝えているのは、二人が手元にもっていてそれに多く依拠している「語録伝承Q」に洗礼者ヨハネの伝承が含まれていたからだと考えられます。それに対して、その「語録資料Q」を持っていないマルコは、イエスをキリストとして告知する立場から、ヨハネの意義をイエスの道備えをする先駆者としての意義に限定し、「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と言っています(マルコ一・七〜八)。イエスを水ではなく聖霊でバプテスマする方であるとする主張は、イエスをキリストとして告知する福音のもっとも重要な内容であり、どの福音書もこの点に大きなウエイトをかけています。イエスはヨハネからバプテスマを受けてその弟子となったのだからヨハネの方が偉いという洗礼者ヨハネの信奉者に対して、マタイは弁明をしなければなりませんでした(マタイ三・一三〜一七)。

ヨハネのバプテスマ運動とイエス

福音書はすべてイエスがヨハネのバプテスマ運動に参加したことを伝えています。マルコ福音書(一・九)は、「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた」と述べ、マタイ(三・一三)とルカ(三・二一)もマルコに従ってこの事実を報告しています。ただ以上の三つの共観福音書がほぼ共通に「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて御霊が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(マルコ一・一〇〜一一)としていることは、ヨハネ福音書の記述からすると、そう単純ではないようです。イエスがヨハネのバプテスマ運動に参加している時に受けた霊的体験は、ヨハネ福音書の記述によるともう少し複雑であり、わたしたち平凡な霊的体験の者が推察するにはあまりにも深いのでしょうが、ここではヨハネ福音書の記述から推察できる部分を取り上げてみましょう。マルコ福音書をはじめ共観福音書は、イエスの体験を自分たちの福音告知の観点からする図式に押し込めて語る傾向があります。マルコの福音告知の意図からすれば、イエスがヨハネからバプテスマを受けた時に召命を受けたことを報告すれば、それで十分です。それに比べるとヨハネ福音書の記述には、洗礼者ヨハネの弟子たちが(彼らは後にイエスの弟子となって)ヨハネのもとで見聞きした事実をより一層忠実に伝えている傾向があります。
まず分量が違います。マルコ福音書はイエスがヨハネからバプテスマを受けて召命を受けた事実を数行で済ませています。それに対してヨハネ福音書は、一章の全体(一〜一八節の序詩を除く)と三章の後半(二二節以下)の二つの章にわたって、洗礼者ヨハネのもとで見聞きした事実、洗礼者ヨハネとイエスとの関わり方、自分たちヨハネの弟子がイエスの弟子となった経緯などを詳しく証言しています。彼らの証言から、わたしたちもイエスがヨハネからバプテスマを受けてから「イスラエルに現れる」、すなわち公に神の福音を告知するに至るまでの経緯を推察することが許されるでしょう。
まずヨハネのヨルダン川一帯にわたるバプテスマ運動は、エルサレムのユダヤ教指導層からは問題視されていて、ヨハネのもとに監視団が送り込まれていたという事実が報告されています(一・一九)。この監視団はヨハネに「あなたは、どなたですか」と、ヨハネの身分、ヨハネが名乗る称号を尋ねます。しかしこの質問の前に、「あなたはどうしてこのようなこと(バプテスマを授けること)をするのか」、「自分を何者としてバプテスマを授けているのか」、「このバプテスマを受ける者は罪の赦しを得て、神の支配に受け入れられると言うが、あなたは何者なので人の罪を赦す権威があるのか」などなどという神学的な問いがあります。エルサレムからの監視団はユダヤ教の指導層である祭司やレビ人(おもにファリサイ派に属する人たち)であり、彼らのヨハネに対する尋問とヨハネの回答の要点は一・一九〜二八の段落に報告されています。それによると、ヨハネは自分はメシアの前に遣わされるとされるエリヤでもなく、モーセの再来として申命記十八章(一五〜一八節)に予言されている「あの預言者」でもなく、ましてメシア自身ではない。預言者イザヤの書(四〇・三)に「荒れ野で叫ぶ声」として預言されている者であると公言したと伝えられています。
ヨハネ自身が自分はメシアでないと公言したという事実は、後にヨハネをメシアとして信奉する人たちにイエスこそメシアであることを説得しようとするエクレシアの姿勢がうかがえますが、ヨハネの弟子であった人たちの証言として信頼してよいでしょう。そしてヨハネが依拠するイザヤのこの預言は、エルサレムの大祭司は正統の祭司ではなく、ツァドクの血統を受け継ぐ正統の大祭司をいただく自分たちこそ真のイスラエルあると主張して、荒れ野に逃れて教団を形成したエッセネ派の根拠をなす聖句でもあります。この点が洗礼者ヨハネの出自をエッセネ派とする根拠とされます。その際、自分が神からの命令に従い授けている水のバプテスマは、自分の後に来られる方で、自分はその履物のひもを解く値打ちもないほど優れた方が授けるバプテスマを予告するものであることを示唆しています。それがどのようなバプテスマであるのかは後で明言され、すなわち聖霊によるバプテスマであることが明確に語られますが(ヨハネ一・三〇〜三四)、それが洗礼者ヨハネの中心的なメッセージとなります(マルコ一・八)。
次にヨハネがイエスを指して、「見よ、(この方こそ)世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったと証言されています。この言葉は、ヨハネがイエスに御霊が降って、その上に御霊がとどまるのを見たから行った証言であることが詳しく語られています(ヨハネ一・二九〜三四)。ここの物語はマルコ福音書(一・九〜一一)のイエスの召命物語と内容が同じであり、同一の事実が違った形で物語られているとしなければなりません。わたしは、マルコ福音書の傾向からして、マルコがイエスの受洗と召命を一つに合わせたのであり、ここではヨハネ福音書の記事の方が実際の出来事を伝えているのではないかと推察しています。イエスがヨハネのもとで過した期間がどのくらいになるのか正確には分かりません。イスラエルの多くの民衆はヨハネからバプテスマを受けた後、家郷と生業に戻ったと推察されます。それに対してイエスや後にイエスの弟子となるペトロたちは、ヨハネのもとにとどまり、ヨハネの言葉に耳を傾け、時にはバプテスマを授ける運動を共にしたのではないかと考えられます。イエスがバプテスマを授ける運動をしたことは、ヨハネ福音書(三・二二〜二四)に明言されています。イエスが御霊を受けて神の言葉を聴いた体験や、何日も断食して御霊に引き回され、サタンの激しい攻撃を受けた体験というような激しい霊的体験は、毎日木工職人として家業に励んでいた時よりも、ヨハネの霊的運動に身を投じてヨハネと共にいて、おそらく荒れ野で断食したり祈りに専心するような霊的生涯にふさわしいように思います。後にイエスが弟子たちに秘かに語ったそのような私的な体験が、福音を告知する弟子たちに用いられて福音書の記事になったと考えてもよいでしょう。
イエスはこの期間のどこかで、ご自分に御霊が降り、神の言葉を聞くという体験をしたと考えられます。神の言葉を聞くというのは、日頃聖書に親しみ、その中で読んでいる言葉が、今自分が従わなければならない言葉として迫ってくるという体験です。そのような体験には、それに背かせようとする様々な疑問が起こり、その疑問と戦わなくてはなりません。福音書に「荒れ野の誘惑」として語られていることは、イエスがヨハネのもとにいる時に起こったイエスの霊的体験のことではないか、とわたしは考えています。イエスが四十日間も断食したのは、この期間以外には考えにくいことです。その誘惑に勝利して御霊の導きに揺るぎない確信をもってヨハネの前に現れた時、ヨハネはイエスの上に「御霊がとどまるのを見た」のであり、「見よ、神の小羊」と証言することができたのです。
洗礼者ヨハネがイエスを指して「見よ、この人こそ世の罪を取り除く神の小羊」と証言したという事実は重要です。イエスご自身がご自分を指して「世の罪を取り除く神の小羊」と人々に言われたことはありません。それは弟子たちと秘かにとられた最後の晩餐のときに、僅かの弟子たちだけに語られた秘義です。そのときに初めて、イエスは自分が十字架の上に流す血を指して、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マタイ二六・二八)と言いました。イエスは聖霊を受けて神からの召命に生きようと決意した時から、ご自分を預言者イザヤ(第二イザヤ)の「主のしもべ」の道を行く者と考えていた節がみられますが、その中で洗礼者ヨハネが証言した「神の小羊」という道をご自分の道として深く心に秘めていたのではないか、とわたしは推察しています。これは当然と言えば当然です。ヨハネは、そしてイエスも、ユダヤ教の奥義、ひいてはイスラエル宗教の伝統の奥義に通じていて、その祭儀の頂点にある「贖罪の日」(レビ記一六章)の祭儀の小羊が民の罪を贖う役割を果たすものであることを知悉しています。ヨハネは神の霊がイエスの上にとどまるのを見て、その人物こそ「神の小羊」であると証言し、イエスはその思いを秘めて生涯を歩み抜き、最後にその秘義を弟子たちに明らかにします。その秘義は後に使徒たちの福音告知において明白に語られることになります。しかしこれは特別と言えば特別です。何しろすべての民の罪が一人の歴史的な人物によって赦されるというのですから。これは誰も理解することができない秘義です。これは、この一人の歴史的人物が復活によって人類を代表する「終わりのアダム」(コリントT一五・二二、四五、ローマ書五・一五、一八)となる時、初めて公に告知される福音となるでしょう。
もう一つ、イエスがヨハネのもとにいた時に起こった出来事で重要な事実は、ヨハネの弟子であった数人の者たちがイエスに従う者となり、イエスの弟子となったという事実です。ヨハネは先にイエスを見て、「見よ、神の小羊だ」と言ったと伝えられていますが、その翌日にもまた二人の弟子と一緒にいる時にイエスが歩いているのを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言ったと伝えられています。それで、二人の弟子はイエスの後について行くことになります(ヨハネ福音書一・三五〜三七)。この二人のうちの一人はアンデレと名があげられていますが、もう一人は無名のままです。それで、このもう一人が後にヨハネ共同体の長老となる証人ヨハネではないかという推察が行われることになります。この二人はその日、イエスが泊まっている所まで行き、一緒に泊まってじっくりとイエスが語ることに耳を傾けたと思われます。その結果、二人はこの方こそ従うべき師であると確信して、イエスの弟子となります(ヨハネ福音書一・三八〜三九)。二人のうちの一人アンデレは、その兄弟シモンに会って、「わたしたちは、メシアに出会った」と言って、シモンをイエスのもとに連れて行きます。アンデレはすでにイエスをメシアと信じています。そのメシア理解の内容はともかく、すでにこの時からイエスをメシアと信じる素地があったことがわかります。イエスはシモンを見て、「ケファ」という呼び名を与えます。これは「岩」という意味のヘブライ語ですが、これが後にヘブライ語(アラム語)を使う最初期共同体での彼の呼び名になります。
さらにその翌日、イエスがフィリポとナタナエルを弟子とした記事が続いています(ヨハネ福音書 一・四三〜五一)。この記事はヨハネ福音書の解釈には重要な意味を持つのですが、ここでは省略して、イエスがヨハネのもとにいる時に、将来イエスの弟子として重要な役割を果たすことになる数名の弟子を得たという事実だけを取り上げて先に進みます。

ヨハネの投獄とイエスの活動開始

くを統治していました)によって逮捕投獄され、ついに処刑されるに至ります。ヨハネの逮捕と処刑の経緯は、マルコ福音書六章(一四〜二九節)に詳しく報告されていますが、これは多分洗礼者ヨハネを信奉する共同体に伝えられた伝承を編集し脚色したもので、歴史的にはあまり正確ではないようです。ヨハネがどの獄に投じられたのかも分かっていません。ヨセフスが伝えるところでは、ヘロデはヨハネの運動が多くの信奉者を得て拡大し、自分の統治の不安定要素になることを恐れ、ヨハネを逮捕して領地ペレアの南端にあるマケルスの要塞にある獄に投じたとされています。マルコ福音書が伝える物語では、多くの高官を招いて開いた盛大な宴席は、辺鄙な要塞ではなくヘロデの宮廷であり、自分の不義の結婚を非難したヨハネを殺そうとしていた妻のヘロディアに唆された娘のサロメの踊りへの褒美として、ヘロデが処刑したことになっています。この頃、ヘロデが隣国のナバテアの王と戦い手痛い敗北を喫したのは、妻を離婚し弟の妻であるヘロディアと結婚したのは律法違反だと非難したヨハネを殺したことへの神の裁きだという噂がユダヤ人の間に広まっていました。しかし、ヘロデがヨハネを処刑したのは、ヨハネの運動がメシア運動となることを恐れたからというのが真相でしょう。
ヘロデがいつヨハネを処刑したのか、正確な時はわかっていません。しかし、イエスの活動の期間中のことですから、ヨハネのバプテスマ運動の期間はごく短いものであったことは推察できます。その期間中に、先に見たようにイエスの召命という極めて重大な出来事が起こったことになり、ヨハネの重要性がわかります。マルコ(一・一四)は「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えた」と報告しています。しかしヨハネ福音書によると、イエスの活動開始とヨハネの投獄の間には様々な出来事があり、事情はもう少し複雑なようです。ここでもヨハネ福音書に従って、この間の事情を見ておきましょう。
ヨハネがまだ投獄されていなかった頃、イエスはすでにヨハネのもとで集めた数人の弟子を連れて南のユダヤ地方に行って、そこで民衆にバプテスマを授ける運動を進めた時期がありました(ヨハネ福音書四・二二〜二四)。この段階ではヨハネはまだ投獄されていません。またイエスはヨハネとはかなり離れた場所でバプテスマを授ける活動をしているのですから、ヨハネが活動を続けていたとしても、ヨハネといつも一緒にいるわけではなく、別の教師として民衆を教えていたことになります。ヨハネ福音書の記事の位置からすると、イエスが数人の弟子と母親のマリアを連れてカナの婚礼に出席したり、そこからカフルナウムに下って数日滞在したこと、近づいた過越祭のためにエルサレムに上り、神殿で縄の鞭を振るったことも、ファリサイ派の律法学者のニコデモと夜秘かに会ったことも、その前後にエルサレムで多くの奇跡的なわざを行ったことも(ヨハネ福音書二・二三)、そしておそらく王の役人の息子を癒してガリラヤでの二回目のしるしとしたことも、すべてのこの時期に起こったことになります。イエスはこの時期にすでにヨハネからは離れて別の行動をしていたことがうかがわれますが、同時にバプテスマを授ける運動もしているのですから、ヨハネと同じ使信を告知しているとしなければなりません。事実、マタイ福音書はヨハネの告知を「悔い改めよ。天の国(=神の支配)は近づいた」(三・一〜二)と要約した後、イエスがガリラヤで始めた告知も全く同じ言葉でまとめています(四・一七)。事実、イエスの福音告知にはいつも神の直接の支配が実現する時が迫っているという終末的な一面がありました。この点でイエスの福音告知にはヨハネの継承という一面があります。イエスがすでにこの時期に癒しの奇跡を示しているので、「イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、バプテスマを授けておられる」ことがエルサレムの宗教的権力者に伝わることになります(ヨハネ福音書四・一)。
カナの婚礼とニコデモとの対話はヨハネ福音書だけの記事であるので、共観福音書と比較することができませんが、神殿粛清の記事はマルコ福音書ではイエスの最後のエルサレム上京の時の出来事とされ、その過激な行動がイエの逮捕と裁判の直接の理由となったのですから、ヨハネ福音書との違いは大きくて問題となります。神殿でのイエスの行動は、大勢の部下と共になされた暴力革命の狼煙(のろし)という性格のものではなく、イエスが単独で行った預言者的な象徴行為と見られるべきものであり、これがすぐ逮捕と裁判になるとは言い切れません。しかし、エルサレムの宗教的権威(サンヘドリン)の疑惑を招き、公の宗教活動が困難になり、監視を招くことは避けられません。このためにイエスは彼らユダヤ教の権威が比較的及ばないガリラヤの地(そこはヘロデ・アンティパスが支配する領地でした)に退いて福音告知の活動を始めたとすることができ、事実イエスの活動にはいつもエルサレムから来た律法学者が監視したという事実(マルコ福音書三・二二)とも付合します。わたしは、神殿粛清の預言者的な象徴行為は初期にイエスがヨハネと共同戦線を張っていた時期の出来事であると考えています。総じて地上のイエスの生涯(いわゆる史的イエス)を考察する時は、福音告知を明確にするためにイエスの公生涯をガリラヤでの宣教・エルサレムへの旅・エルサレムでの十字架の死と復活の三部構成にするマルコの図式的な構成(この構成では公生涯でのエルサレム滞在は最後の一回だけになります)よりも、実際に出来事を見聞きした証人に多く依拠するヨハネ福音書を重視すべきであると考えます。ヨハネ福音書では、イエスはその公生涯の間、祭りの度ごとに何回もエルサレムに上っています。事実、近代の新約聖書学者にもエテルベルト・シュタウファーのように、イエスの生涯の枠組みをヨハネ福音書によって構成している学者もおり、もっと傾聴すべきであると考えています。イエスがユダヤ教を信奉する民に福音を告知しようとした限り、ユダヤ教の本拠地であるエルサレムにおいて繰り返し語ったのは当然であり、その活動を実際に見聞きしたエルサレム在住の弟子(ヨハネ)の証言にもっと耳を傾けるべきでしょう。
エルサレムのユダヤ教権力者の追求を避けてガリラヤに向かったイエスは、ヨルダン川東岸の迂回路ではなく直接サマリアを通ってガリラヤに向かいます。これは民族の出自を問わないで福音を与えようとするイエスにふさわしいことでしょう。事実、イエスはサマリアの女に福音を語り、彼女を通してサマリアの町の人を多く信仰に導いています(ヨハネ福音書四章)。その出来事の詳細はヨハネ福音書の講解に譲ります。ルカの使徒言行録八章との関連でイエスが直接サマリアで宣教したことは疑問視されていますが、このヨハネ福音書の記事はヨハネ共同体とサマリアとの密接なつながりを示唆しています。ヨハネ共同体はサマリアで活動したのではないかという説まであり、ユダヤ教徒がイエスに向かって「お前はサマリア教徒であって、悪霊に取りつかれている」と言ったと伝えられています(ヨハネ福音書八・四八私訳)。
イエスがサマリアを通ってガリラヤに戻った後、イエスの伝記に数ヶ月の空白期間があることに、シュタウファーが注意を促しています。シュタウファーはイエスのサマリア伝道を、春の大麦の収穫までまだ四ヶ月あるということから晩秋であるとし、翌年の春の過越祭についてはわれわれは何も聞かず、次の「祭り」にイエスがエルサレムに上り、ベトザタの池での癒しが行なわれたと推察しています。ユダヤ教で「祭り」とだけ言う時は秋の仮庵祭を指しているので、シュタウファーはイエスの活動の前期(ヨハネ福音書一〜四章)と後期(ヨハネ福音書五章以下)との間には一年近い大きな切れ目があり、その期間についてはどの福音書も沈黙しているという事実に注意を促しています。洗礼者ヨハネが投獄されたのはこの期間内のことであり、イエスはこれを聞いてヨハネとの関係とご自身の使命について深く沈思黙考し、祈り抜いて新しい確信をもって立ち上がったのではないかと思います。イエスの内面についてはわたしたちの想像を超えることであり勝手な推察は許されませんが、わたしたちに確認できる確かな事実があります。それは、前期ではイエスはヨハネと共同の戦線に立ちバプテスマを授けていたが、後期にはもはやバプテスマを授けることはなく、バプテスマについて教えることも一切ないという事実です。この沈黙の期間を経て、イエスははっきりとヨハネとは別の戦線に立ち、イエスが宣べ伝える「神の支配」にもヨハネとは違う一面が強調されることになります。以下の諸項目でイエスが告知した「神の支配」の特質を見ることになります。

U ガリラヤでの「神の国」告知

ガリラヤでの活動開始

イエスがヨハネのバプテスマの呼びかけに神の声を聞いて、その運動に身を投じ、そこで同じガリラヤ出身の数名を弟子とし、彼らを引き連れてヨルダン川沿いの各地でバプテスマを授けて、ヨハネと同じく「神の支配」接近を告知して多くの信奉者を得たことは先に見ました。同時に、その間に神からの召命と賜物を自覚して、すでに多くの奇跡的な癒しやカナの婚礼におけるような「しるし」を現し、ユダヤ教の牙城エルサレムでも多くの奇跡を行い、神殿では過激な粛清の鞭を振るい、ファリサイ派の指導的聖書学者に「神の支配」に入るための新生の奥義を語るなど、活発な伝道活動をしている事実も見ました。そして、ヨハネが逮捕投獄された時期の前後のかなりの期間(それはシュタウファーによると一〇ヶ月近くになります)、どの福音書もその動静を伝えることのない沈黙の期間があったようです。おそらく其の間イエスは自分の召命と賜物について思い巡らし、深く祈りに沈潜し、しばしば「朝早くまだ暗いうちに起きて、人里離れたところに出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ一・三五)ことでしょう。その間の消息はわれわれ凡人の推察を超えていますが、イエスがガリラヤで声をあげた時には、イエスの告知の言葉はヨハネと同じ「神の支配」の接近を唱えながらも、ヨハネとは違う面も出て来ていたようです。第一、この時期のイエスはもはやバプテスマを授けることはなく、バプテスマについて語ることも教えることも無くなっています。すなわち、ヨハネとは決別して、別の道を歩み始めています。この時期には、イエスはカファルナウムに居を定め、そこを拠点としてガリラヤ中を巡って活動したようです。イエスがカファルナウムに住まいを持ったことは、共観福音書にそれを示唆する表現がしばしば現れます。

イエスがその後期におもに活動したガリラヤという地域の特殊性については、拙著『ルカ福音書講解T』一一〇頁の「補説 1 ガリラヤの歴史と社会」に概略をまとめてありますので、それを参照してください。なおヨハネ福音書には「錯簡」の問題があります。錯簡というのは、頁を重ねて綴じるコーデックスを作る際に五章と六章の頁を間違って綴じたため、五章と六章が入れ替わったのではないかという問題です。確かにイエスの地理的な移動という観点からは四章から六章を続け、その後五章から七章に続けた方が自然に感じられます。しかしイエスの告知の内容からすれば、六章のパンの奇跡とそれをめぐるイエスの教説は明らかにイエスが洗礼者ヨハネのバプテスマから決別した後のものであり、シュタウファーがしているように錯簡は無視して、四章のサマリアからガリラヤへ戻った時にイエスの活動に大きな切れ目があり、それから秋の仮庵祭にエルサレムに行って五章の出来事が起こり、再びガリラヤ戻って六章のパンの奇跡やそれに基づくイエスの福音告知があったと読むことができます。

エルサレムからサマリアを経てガリラヤに戻ったイエスは、沈黙の時期を終えてガリラヤで声をあげます。そのガリラヤでの活動についてはマルコ福音書とそれに基づく共観福音書に頼らなくてはなりません。というのは、ヨハネ福音書の著者はエルサレム在住の弟子であり、エルサレムとその近郊でのイエスの働きは直接見聞きして詳しく報告していますが、ガリラヤでの活動については伝聞によるところが多いからです。そのことは、福音書の著者であるヨハネは、イエスがガリラヤの民衆に歓迎された事実を、「彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである」(ヨハネ福音書四・四五)と言っていることからも分かります。ヨハネはイエスがガリラヤでなされた多くの奇跡の働きを直接には知らないのです。

弟子たちの召命

マルコ福音書(一・一四〜一五)は、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」と宣言し、ここからガリラヤでのイエスの活動を詳しく報告しています。マルコはペトロの弟子であり、初めからイエスにつき従ったペトロやガリラヤ出身の弟子たちが伝える伝承をこの福音書で伝えています。もっともマルコの伝え方には独特の方針があり、注意して用いなければなりませんが、ガリラヤにおけるイエスの活動に関してはわれわれはマルコと、基本的にはマルコに依存しつつ他の伝承も加えたマタイとルカを含む共観福音書に多くを依存することになります。
共観福音書によりますと、イエスはガリラヤでの活動をカファルナウムで始めたと見られます。イエスはカファルナウムに居を定め、そこで「安息日に会堂に入って教え始めた」と報告されています。イエスがユダヤ教徒の集会で「神の支配」が接近していることを告げ、その「神の支配」に受け入れられるためになすべき悔い改めを説くとき、それは律法学者たちがしていたそれまでの単なる聖書解釈ではなく「権威ある者として教えた」ので、聞いた人たちは大いに驚いたと伝えられています(マルコ一・二一〜二二)。「権威ある者として」というのは、実際に「神の支配」に入れるかどうかを決定する力がある者として語ったので、聞いた者は従うかどうかの態度決定を迫られたということでしょう。イエスはその言葉にそれだけの力があることを、実際にその一言葉をもって悪霊を追い出すという出来事で示しました。その日、会堂を出てシモンの家に入り、シモンのしゅうとめが熱を出して寝ているのを直ちにいやしたので、町中の評判になり、安息の定めが開けた夕方には大勢の病人がイエスのもとに押し寄せたといいます(マルコ一・二九〜三四)。
その場にはシモンとアンデレの兄弟とゼベダイの子であるヤコブとヨハネの兄弟がいました。それでこの二組の兄弟がイエスの弟子として一緒にいることを説明するために、イエスがカファルナウムで活動する前にこの四人を弟子として召し出したことを説明する必要があります。四人はすでに洗礼者ヨハネのもとでイエスの弟子となっているのですが、マルコではここで初めて物語に登場します。シュタウファーは、四人はすでにイエスの弟子となっているのだが、洗礼者ヨハネのもとから故郷に戻ったときは生業の漁師として働いており、その四人をイエスが再び巡回伝道に召されたのだと説明しています。ゼベダイの子の二人は洗礼者ヨハネの弟子の中にその名は出てきませんが、当時の敬虔なユダヤ人はほとんどがヨハネのバプテスマを受けているものとして、(シュタウファーと共に)この二人も洗礼者ヨハネのもとでイエスと出会っていると推察してもよいでしょう。わたしはこの四人の召命の記事(マルコ一・一六〜二〇)は、四人が復活されたイエスに湖岸で出会い、復活されたイエスをキリストとして告知する活動に召され、四人が網や家業を捨て、すべてを捨ててエルサレムに移住したことを語る伝承がここに用いられたと理解しています(詳しくは拙著『福音の史的展開T』の「序章 イエスの復活」をご覧ください)。後にイエスはおもにガリラヤ出身の者たちを選び十二人とし、ご自分の「神の国」運動の中核的な担い手とします。このことについては後に触れることになります。

イエスの告知

カファルナウムで福音告知の活動を始めたイエスは、その後活動をガリラヤの諸会堂に広げていきます。そうすることが自分の使命であるとのイエスの自覚が、弟子たちにも伝わってきます(マルコ一・三五〜三九)。その時期のイエスの働きは、この箇所で見られるように、新共同訳によると「ガリラヤ中の会堂で宣教し、悪霊を追い出すこと」の二つにまとめられています。「宣教する」と訳されている語は、ギリシア語では《ケリュセイン》の一語、すなわち「告知する」ということです。「告知する」とは、解釈するとか、議論するとか、なすべきことを教えるということではなく、端的に起こった事実を告げ知らせることです。ローマ帝国では新しい皇帝の就任とか戦勝の知らせが大声で叫ぶ伝令によってその出来事が告知されました。そのようにイエスもある事実を告知したのです。
では、イエスは何を告知したのか。共観福音書によれば、それは「神の国」です。イエスが告知した出来事は「神の国」が迫っている、ある意味では「神の国」はすでに来ている、という事実を告知することでした。そして、「神の国」がすでに来ていることの「しるし」として、悪霊を追い出すという働きをしました。当時の人たちは全ての病気は悪霊の仕業としていたので、悪霊を追い出すことは病気を癒すことを含んでいました。イエスが来て神の支配を告知した時、悪霊の支配は終わり、悪霊は追い出されたのです。イエスはこの事実をこう表現しました。「わたしが神の指で(悪霊どもを)追い出しているのであれば、神の国《バシレイア》はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ一一・二〇)。
イエスが到来している事実として告知したのは「神の《バシレイア》」でした。《バシレイア》というギリシア語は、《バシレイウス》(王)の支配を意味します。イエスは神が王として直接支配する事態をヘブライ語で(あるいはアラム語で)語ったのでしょうが、それをギリシア語で告知した使徒たちは、イエスが《バシレイア・トゥ・テウ》(神の支配)を《ケリュセイン》(告知)したと表現しました。わたしは《バシレイア・トゥ・テウ》をあえて「神の国」と訳したり「神の支配」と訳したりしています。《バシレイア》を国と訳すと、王が支配している領域とか民衆という意味が出て来ます。それもありますが、そして時にはその意味を前面に出した方が良い場合がありますが、この語は本来王が支配している事態そのものを指しているのですから、多くの場合に「神の支配」と訳した方が適切です。神が直接に支配される時が切迫していることを告知した点で、洗礼者ヨハネの告知とイエスの告知は似ていました。しかし、イエスがヨハネとは別にガリラヤで活動を始めた時、イエスの告知はヨハネのそれとは違ったものになっていました。その独自性を探るのが本項の課題になります。
時には福音書記者は「神の」を略して、イエスが《バシレイア》を告知したとだけ言う場合があります。たとえば、マタイがイエスのガリラヤでの活動を要約するとき、「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、《バシレイア》の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ四・二三)といっています。まさにこの《バシレイア》を福音(喜びの告知)として告げ知らせることが、イエスの主要な使命であったのです。そしてマタイはこの要約の文に直ぐに続けて有名なイエスの山上の説教(マタイ福音書五〜七章)を置いています。この山上の説教は、高度な倫理や行動を求めるイエスの説教ではなく、まさに福音を告知するイエスの言葉です。《バシレイア》とはこのような事態であるというイエスの告白であり、告知の言葉です。それでわたしはこのような理解から、マタイ福音書の五〜七章を『マタイによる御国の福音』という表題をつけて講解しています。いわゆる「山上の説教」と呼ばれる箇所は、マタイがまとめたイエスの《バシレイア》の福音に他ならないのです。

「言葉資料」の担い手たち

ガリラヤでのイエスの活動を知るにはおもに共観福音書に頼ることになります。その共観福音書で、マルコ福音書とマタイ・ルカの両福音書との間には違いが見受けられます。福音書はすべてイエスのエルサレムでの十字架上の死を詳しく伝えていることでは共通しています。しかし共観福音書の中では、ガリラヤでの活動から始まり、エルサレムへの旅を経て、エルサレムでの十字架の死に至るイエスの生涯およびその間のイエスの働きを直裁に語るマルコ福音書と、その生涯を同じ構成で語りながら、その間にマルコにはない多くのイエスの教えの言葉を含む伝承を取り入れているマタイ・ルカの両福音書は、読む者にかなり違った印象を与えます。この違いはおもに両福音書が、マルコにはないイエスの教えの言葉を多く含んでいることから来ます。
マタイとルカの両福音書を綿密に比較検討すると、両福音書はイエスの教えの言葉を伝える共通の「言葉伝承」を資料として用いていることが見えてきます。この言葉伝承が両福音書の共通の資料として用いられていることから、学者はこれを「言葉資料Q」と呼んでいます。Qとはドイツ語のQuelle(資料)の略号です。この言葉資料Qを生み出し、それを担った信仰集団は、イエスの教えの言葉を忠実に保持し、それを実行することで信仰を全うしようとしたユダヤ人の集団です。この集団が担った「語録資料Q」のおかげで、われわれは地上のイエスの重要な言葉の数々を知って用いているのです。たとえば「主の祈り」や「貧しい者への祝福」などはこの言葉資料によって伝えられたものです。
ところが、この「語録資料Q」の担い手となるユダヤ人集団には信仰上独特の傾向があり、この資料を担った集団が置かれていた歴史的状況を理解していないと、その解釈を誤る危険もあります。たとえばカファルナウムやベトサイダやコラジンの不信仰に対するイエスの叱責の言葉(ルカ一〇・一三〜一六)は、イエスの復活後に福音をこの地域に告知した「語録資料Q」の担い手たちのユダヤ人信仰集団が直面した状況から出た言葉であって、これを地上のイエスの言葉とすると解釈を誤ります(拙著『ルカ福音書講解U』の当該箇所を参照)。このイエスの「ガリラヤでの『神の国』告知」の項では、「語録資料Q」から地上のイエスの言葉と見られる言葉を多く取り上げることになります。

現在では「語録資料Q」の研究書は多く出ています。わたしの著作では、『マタイによる御国の福音 ー 「山上の説教」講解』の「序章 イエスの語録と福音」で比較的詳しく扱っていますので参照してください。とくに同書の「第二章 幸いの言葉」の五二頁「第一節 マタイの視点と構成」で、最初に置かれている「貧しい者への祝福」の言葉について、マタイの形とルカの形が比較検討されています。

「恩恵の支配」の到来

イエスがガリラヤで福音を告知した言葉の中で、その告知の特質を示すもっとも典型的な言葉は、「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」という言葉です。この言葉はイエスの《バシレイア》(御国)の福音を告げるファンファーレのように、マタイ福音書の《バシレイア》の福音を告げる箇所(通常山上の説教と呼ばれており、ルカでは平地の説教という名で六章に置かれています)の最初に鳴り響いています(マタイ五・三、ルカ六・二〇)。先に見たように(前項の注記参照)、マタイとルカ共通の語録資料では、「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。飢えている人々は幸いである、あなたがたは満たされる。泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる」とあったようです。それをマタイとルカはそれぞれ現在のような形に編集したと考えられます。そこでマタイは貧しい者に「霊の」という語を加えて、「霊の貧しい人々」は幸いであるとしています。このマタイの付加は、イエスがいつも徴税人や遊女など、当時のユダヤ教指導層から罪人と断定されて、神の国を受け継ぐ資格のない者とされていた人々を周囲に集めて(マルコ二・一五)、そのような人たちにこの言葉を語っておられたとすると、イエスの真意を示した適切な解釈だと言えます。このような場でイエスは「わたしが来たのは、正しい人(義人)を招くためではなく、罪人を招くためである」と宣言しました(マルコ二・一七)。
イエスが招いた「貧しい人たち」というのは、自分たちは律法(聖書と伝承の両方に基づいて形成されたユダヤ教の全体)を学んで実行している「義人」だと自認している人たちから、「罪人」と呼ばれている人たち、すなわち、律法を知らず、学ぶこともない下層の人たち、当然律法を守り実行することもない人たち、職業上律法を守ることができず、ユダヤ教の基準からすれば落第生と見られていた人たちを指していました。そのような人たちを、ユダヤ教を代表する祭司や律法学者は「罪人」と呼び、イエスは「貧しい人たち」と呼んだのです。このような人たちは、神の前に何も自分の価値を持っていない貧しい者であり、律法(宗教)にかなった立派なことをしましたと誇れるものを何も持っていない「貧しい者」であるのです。イエスにおいては、「神の支配」の到来とは「恩恵の支配」の到来であったのです。
イエスが「わたしが来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言ったという福音書の言葉を聞くとき、わたしたち日本人は親鸞の「善人往生す。いわんや悪人をや」という言葉を思い起こさざるをえません。この言葉は、善人は自分の善行を勲章として誇っているが、彼らですら弥陀の慈悲と本願で救われて浄土に行くことができるとすれば、まして自分の善行に誇ることが全然できず、自分については悪を悔いることしかできない悪人は、ただひたすら弥陀の慈悲と本願に縋るので、そのような悪人こそ弥陀によって救われる正当な救いの動機とか機縁のある者ではないか、という思いを表現しているのだと理解しています。この親鸞の悪人正機の思想と言説は、すでに千年も前にイエスが言っていたことで、法然や親鸞の浄土系の信仰は、神の絶対無条件の恩恵による救いを唱えたイエス・キリストの福音と何らかの関わりがあるのではないか、という思いをわたしたちに持たせます。本来自分の内面における悟りの境地を救いとするブッダの教えの継承者である仏教徒の中に、絶対無条件の恩恵による救済を唱える浄土系の信仰が唱えられるに至ったという事実は、人間の宗教性における共通性に大きな示唆を与えるものと思われます。わたしは法然や親鸞の浄土系信仰が日本における宗教改革だと見ており、このような信仰と福音との関係について考察したいと願っていますが、それは許されるならば別の機会に譲ります。

安息日の問題

このように、イエスは律法を順守する生活をすることができない「貧しい人たち」、すなわり宗教的生活をすることができない人たちに、律法の順守とか宗教的行為の集積で救われるのではなく、そういうものが何もなくても、神の側の絶対無条件の恵みで救われるのだという福音を告知したのです。そしてその主張を具体的な宗教問題として、当時の宗教指導者たちに突きつけたのです。それが安息日の問題です。イエスはあえて安息日の規定を破るような行動と言説を用いました。その典型的なケースがヨハネ福音書にも共観福音書にも記録され伝えられています。
共観福音書ではガリラヤに戻ってカファルナウムで活動を始めた頃、ある安息日に家で教えていたとき、足の萎えた人を四人の男が床板に乗せて運んできます。群衆が家を取り囲んでいるので、屋根の一部を破って病人をイエスの前に吊り降ろします。彼らの行動に現れている信仰を認めたイエスは、まず「子よ、あなたの罪は赦された」と赦しを宣言します。罪を赦す権限を問題にした律法学者たちに向かって、イエスは病人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と命じます。この場に律法学者たちが居合わせていることも、あの神殿での象徴行為の後ではイエスのガリラヤでの行動が「エルサレムから下ってきた律法学者たち」(マルコ三・二二)によって監視されていたことをうかがわせます。イエスの言葉に従った病人が立ち上がり、自分を運んだ床を担ぎ上げたとき、それを見た群衆は驚いて神を賛美します(マルコ二・一〜一二)。
この記事から始まり三章(六節)まで、マルコは安息日に関するイエスと律法(宗教)規定の順守を唱える学者たちの論争をまとめて扱っています。そうすることで、この問題がいかに決定的にイエスの生涯を決めたかを印象づけています。この部分は「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」(マルコ三・六)という反対者のイエスに対する殺意で締めくくられています(「ヘロデ派」については後述)。その中に、先の「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ二・一七)や、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ二・二七)という安息日問題についてのイエスの重大な発言が含まれています。後者の発言でイエスは安息日の規定で宗教の規定を代表させ、宗教は人間のためにあるのであって、人間が宗教のためにあるような「宗教の倒錯」を厳しく批判しています。この問題は次節でイエスとユダヤ教という宗教との関係を取り上げるときに改めて取り扱います。
ヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネが逮捕され投獄された時期に、イエスはサマリアを経てガリラヤに戻り、数ヶ月の沈黙の時を過ごし、祭り(おそらく秋の仮庵祭)にエルサレムに上り後期の活動を始めたことになっています。そのエルサレムでの最初の働きとして、ヨハネ福音書はイエスがベトザタの池で三八年も歩けなかった足萎えの人をいやした記事が置かれています(ヨハネ福音書五・一〜九)。そして「その日は安息日であった」という事実から、安息日の規定ではしてはならないとされている床を取り上げて担ぐという行為を、イエスが安息日にすることを命じたとして、ユダヤ人(=ユダヤ教徒)の追求が始まります(ヨハネ五・九〜一八)。この記事は、歩けない足萎えの人をいやしたこと、それが安息日のことであり、イエスがあえて挑戦的に安息日に禁じられている行動を命じたことが、マルコの記事と共通しているので、同じ出来事が違った形で別々に伝承されたのではないかという見方もあります。しかしよく似た足萎えの人をいやすという出来事がカファルナウムとエルサレムであり、イエスがそれをユダヤ教における「宗教の倒錯」を指弾するために、あえて両方で挑発的に用いた可能性は十分にあります。安息日問題はそれほどイエスにとって重大だったということです。
ヨハネ福音書では、「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない」と言ってイエスを追求し始めたユダヤ人(律法の順守を救いの条件とするユダヤ教徒)に対して、イエスは答えます。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」。この言葉を聞いたユダヤ人たちはますますイエスを殺そうと狙うようになります(ヨハネ五・九〜一八)。その理由として、ヨハネ福音書は「イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである」と書いています。ユダヤ人がイエスを殺そうとした理由は、神を父としたイエスが「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と言って、自分の働きが父の働きと一体であり、従って自分の働きと父の働きが同じであると言っている点です。イエスは日頃から神を父と呼んいるのですから、この発言はご自分の働きを神の働きと同一とし、従って自分を神と等しい者としたことになります。イエスが「わたしと父は一つである」(ヨハネ一〇・三〇)と言ったのも、わたしの働きは父の働きそのものであるという働きの一体性を述べたものである、とわたしは理解しています。エレミアスが『イエスの宣教』(邦訳一二二頁以下)で詳しく論証したように、確かにイエスが神を「アッバ!」と呼んだことはユダヤ教では異例のことでした。しかし、ユダヤ人が神を父と呼ぶことは罪ではありません。イエスは公衆の前で父の名によって祈っていやしを行っていました(ヨハネ一一・四一〜四二)。また、イエスが日頃神を父と呼んで祈っていたこと、また弟子たちに神を父と呼ぶように教えたこと(ルカ一一・二)は秘密ではありませんでした。そのようなイエスの行為を批判した律法学者やファリサイ派の者たちの記事や痕跡は福音書には他にはありません。イエスのように神を父と呼ぶ行為が「神を汚す」ことではなく、自分の働きを神の働きと同じとすることが「神を汚す」行為とされたのです。安息日の規定を破り、そうするように民を唆すことは、それだけでも死罪に当たりました。その上にイエスは「神を汚す」という大罪を犯したのですから、そのような異端の教師を取り除くことは律法の守護者の使命です。ユダヤ教指導層がイエスを殺そうとしたのは、ユダヤ教という宗教の必然です。
ヨハネ福音書はその全編にわたって、自分たちが見聞きした地上のイエスの言動の証言と、復活してキリストとして立てられたイエスの言動を重ねて書いているので、これは地上のイエスの言葉、これは復活者キリストの告知と両者を区別して語ることはしばしば困難です。この福音書全体の理解はヨハネ福音書講解に委ねる他はありません。しかし、これまでにも見てきたように、ヨハネ福音書には地上のイエスについての証言として聞かなければならない部分が多くあります。その中で、ナザレのイエスの生涯において最も確かな事実は、イエスが十字架につけられて殺されたという事実であり、イエスの生涯はこの事実との整合性から判断できる部分が多くあります。ここもその一例として貴重な証言になります。本稿においても以下の諸項で、十字架上の死という事実からイエスの生涯の出来事を考察していくことになります。イエスはすでに初期の段階で神殿で鞭を振るい、神殿での祭儀を自分たちの勢力の拠点としている祭司階級(彼らはユダヤ教サドカイ派の所属でした)の敵意を招き、今は安息日問題で律法順守を唱える律法学者たち(彼らの多くはファリサイ派の所属でした)の殺意を招くことになります。こうして、イエスは当時のユダヤ教指導層の両派(ユダヤ教の最高法院は主にこの両派の議員で構成されていました)の敵意と殺意を受けることになります。

当時のユダヤ教には、歴史家ヨセフスによると、サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派があり、それにローマに対する武力反抗を唱える熱心党(神学的にはファリサイ派の中の過激派)をも一派に数えて、その信仰形態に四つの派があるとされていました。最高法院を構成していたのは、祭司階級のサドカイ派と、律法学者の多いファリサイ派、それに地方の長老からの出身者がありました。この中のサドカイ派とファリサイ派に関してはその名があげられて、イエスがはっきりと彼らを批判して、その敵意を受けたことが語られていますが、エッセネ派に関してはその名もあげられず、イエスとの関係も触れられていません。イエスがエッセネ派とどういう関係を持ったのか、不明のままです。これは新約聖書の謎の一つです。イエスはエッセネ派の一人であったので、エッセネ派に対する批判はなく、その名すらあげられなかったのではないかという推察も出てくることになります。エッセネ派の問題は次節の「第三節 イエスの神ーイエスとユダヤ教」で取り上げることになります。

V エルサレムに向かう旅

ガリラヤでの活動の終わり

イエスがおもにガリラヤで「神の支配」の切迫とその支配が恩恵の支配であるとの福音を告げ知らせた事実は、共観福音書に詳しく伝えられています。これは、イエスの生涯とその言動を伝える伝承の担い手がペトロに代表されるガリラヤ出身の弟子たちであったことから、自然の結果でしょう。まず最初にキリストとしてのイエスの福音を告知するために、イエスの生涯の事実を素材として用いたマルコが、イエスの生涯の詳細は省略して、イエスの「神の国」告知がおもにガリラヤで行われ、その事実とエルサレムでの死を結びつけるために、エルサレムへの旅とそこでの死を語ったのは自然の流れだったのでしょう。そのマルコ福音書がペトロが伝えた伝承として重要視されて他の福音書にも用いられ、ガリラヤでの「神の国」告知の活動、エルサレムへの旅、エルサレムでの死と復活というマルコの三部構成が福音書の定型となったようです。
そこでガリラヤでのイエスの活動の終わりについての共観福音書の記事ですが、元になるマルコ福音書では故郷のナザレでの不信と拒否、イエスの生涯の転機となった洗礼者ヨハネの処刑が置かれている六章が、ガリラヤでの活動の終わりと弟子だけを連れてのエルサレムへの旅が始まる転機をなしていると見て、そこからイエスの一行のエルサレム入りを語る一一章までの章(六〜一〇章)を、拙著『マルコ福音書講解』では第二部エルサレムへの旅としています。ここでは故郷のナザレでの拒否がガリラヤでの活動の終わりを象徴する出来事になっています。ところが基本的にはマルコを受け継いでいるルカ福音書において、ナザレの会堂におけるイエスの福音告知の活動がガリラヤでの活動の開始を告げる出来事とされています。この違いはルカの意図から出るもので、歴史的な事実としてはマルコが言うように、ナザレでの拒否が転機となってイエスはガリラヤを去りエルサレムへ向かったと考えられます(ナザレの会堂での出来事をガリラヤ伝道の最初に置いたルカの意図については、拙著『ルカ福音書講解T』の当該箇所、とくに一五〇頁以下の「ナザレの会堂記事の位置について」を参照してください)。
ヨハネ福音書においては事情は違います。ヨハネ福音書では、イエスはガリラヤで活動中も祭の時には繰り返しエルサレムに上っています。これを「祭好きのイエス」と評した人もいますが、これはイエスが祭好きであったからではなく、ユダヤ教徒として祭の度ごとにエルサレムに上ることが当然の義務であったからです。イエスもその家族も厳格なユダヤ教徒として、律法に従って年に三回の大きな巡礼祭(過越祭、七週祭、仮庵祭)の時にはエルサレムに上っていました。ヨハネ福音書によれば、イエスの伝道活動中の過越祭だけでも三回になり、それでイエスが福音告知の活動に従事された公の活動期間はマルコ福音書よりも長く、少なくとも二年から四年になります。エルサレム在住で、おもにエルサレムとその近郊でのイエスの活動を見聞きして伝えたヨハネ福音書では、祭の度ごとにエルサレムに来て活動したイエスの言動を詳しく伝えています。それでわたしたちはイエスの地上の生涯については、福音告知のために図式的に三部構成をとり、イエスのエルサレムでの活動を最後の過越祭時だけにするマルコ福音書よりも、ヨハネ福音書に多くを依存することになります。イエスのエルサレム行きを最後の過越祭の一回にしたマルコ福音書の意図的図式的な構成のために、最初の時期に行われたイエスの神殿粛清の象徴行為も最後のエルサレム滞在時の出来事とされたのでした。

転 機

イエスが最後にガリラヤを去ってエルサレムに向かう旅は、福音書によって様々に違った形で報告されています。ヨハネ福音書の記述は今見たとおりですが、共観福音書はかなり違います。まずマルコ福音書は、福音告知の内容としてイエスの生涯をガリラヤでの「神の国」告知、エルサレムへの旅、エルサレムでの受難と復活という三部構成でまとめていますので、第二部のエルサレムへの旅には六章から十章に至る5章を使って詳しく描いています。それによると、イエスは故郷のナザレのユダヤ教徒に拒否されて故郷を去り(ルカ四・二八〜二九によるとナザレの人たちはイエスを石打で殺そうとさえしています)、弟子たちだけを連れてガリラヤ湖を横断して向こう岸に渡り(そこで弟子たちは湖上を歩くイエスを見るという体験をしたと伝えられていますーこの体験については後述)、湖北の淋しい場所に退きます。しかし、群衆はイエス一行を探し出して追いつき、大きな集会が開かれます。このガリラヤ湖の向こう側での集会は過越祭が近づいている春先のことであったとヨハネ福音書(六・一〜四)は伝えています。この年の過越祭にイエスは参加せず、ガリラヤの群衆と「メシアの饗宴」を予告し象徴するような食事を共にしていたことになります。その時の食事については、弟子たちが携えていた僅かの食物で大勢の群衆が満腹したという不思議な現象が起こったことをどの福音書も伝えています(この現象については次章で扱うキリスト信仰のところで触れます)。
このガリラヤの原野での大集会は、イエスをメシアとして擁立してイスラエルをローマの圧政から解放しようとするガリラヤの民衆の運動が一種のメシア運動となる様子を描いているのではないか、とわたしは推察しています(ガリラヤのメシア運動については拙著『ルカ福音書講解T』一一〇頁の「補説1 ガリラヤの歴史と社会」を参照してください)。マルコ福音書にもこのことを示唆する表現があります。たとえばこの集会に参加したのは「男五千人であった」(六・四四)とか、「人々は百人ずつ、あるいは五十人ずつ組になって座った」という表現は大勢の男性の軍事組織を連想させます。ヨハネ福音書(六・一四〜一五)は、イエスがしている「しるし」を見た人たちがイエスを「王にするために連れて行こうとしている」こと、そしてイエスがその動きを拒否して「ひとり山に退かれた」ことをはっきりと語っています。イエスの拒否を見て、イエスにメシア的な期待を寄せていた多くの弟子たちは去り、ペトロたち十二人の弟子たちだけがイエスのもとに残ります(ヨハネ六・六六〜六九)。イエスはこの十二人の弟子だけを連れて、エルサレムに向かうことになります。このように、ガリラヤの民衆のイエスに対するメシア期待が最高潮に達した時に、イエスはさっと身を引き、もはやガリラヤに留まることなく、エルサレムで自分を現すべき時が来たと確信したのではないかと思います。
ちょうどこの頃、投獄されていたヨハネが処刑されたという知らせを受けます。ヨハネの処刑は洗礼者ヨハネを信奉する共同体の伝承に基づき、かなり脚色されてサロメの踊りと結びつけられていますが、この処刑はヨハネの運動がメシア運動となることを恐れた領主ヘロデの弾圧によるものと考えられます。このヨハネ処刑の事実が意味するところを祈りに沈潜して沈思黙考したイエスは、エルサレム行きを決意することになります。イエスのガリラヤでの活動の終焉とヨハネの処刑は、マルコ福音書の六章にまとめて語られています。ヨハネの出現、逮捕投獄、処刑の出来事はイエスの生涯の転機を形成したようで、各福音書はヨハネの出来事を詳しく報じています。イエスはエルサレムに向かう途上で、(おそらく同じ理由で)イエスをも殺そうとしている領主ヘロデの意図を知って、厳しい言葉を投げつけています(ルカ一三・三一〜三五)。その中でイエスははっきりとエルサレムでの自身の死を覚悟しています。

エルサレムへの旅

ヨハネ福音書によるとイエスは祭の度ごとにエルサレムに上っているのですから、その旅については特別に意味のある場合以外はとくに旅の期日や旅程や途中の出来事についての記事はありません。その特別の場合としては、たとえば四章のサマリア経由の旅があります。この時にはイエスの一行は通常のヨルダン川東岸の迂回路をとらず、直接サマリア教徒の地域を通り、そこで福音を告げ知らせる重要な働きをしています。イエスはすでにその働きの初期において神殿の金銭の取引行為に厳しい批判の鞭を振るい、安息日にしてはならない行為をあえて命じるなど、ユダヤ教指導層(サドカイ派とファリサイ派)の激しい敵意、いや殺意さえも招いていました。それでイエスはガリラヤで福音を告げ知らせる活動を行なうことになるのです。ヨハネ福音書(七・一)はこう書いています。「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった」。ここで「ユダヤ人」というのは最高法院を構成するサドカイ派やファリサイ派のユダヤ教指導層のことです。イエスは彼らの殺意を知っているので、彼らが支配するユダヤの地を避けて、別の領主ヘロデが支配するガリラヤでその活動を進めることになり、そこで弟子を作り、「神の国」の福音を十分に伝えることになるのです。ヨハネ福音書の著者もその事実をよく知っています。
さて、ヨハネ福音書では(錯簡説を認めないとすると)イエスは五章でエルサレムにいて、六章でガリラヤ湖畔でパンの奇跡と説話をしています。六章の記事の背後にあるガリラヤ湖の向こう側の荒野での集会が転機となり、メシア期待の弟子たちは去り、イエスは僅かの弟子を連れてガリラヤに戻ります。そして七章で秋の仮庵祭のためにエルサレムに上り、その後ではもはやガリラヤに戻ることなく、その冬の神殿奉献祭(一〇・二二)と続き、翌年春の最後の過越祭までエルサレムかその近郊に滞在することになります。ヨハネ福音書では七章以降、地名とか出来事が起こった場所を示唆する名前はすべてエルサレムかその近郊に限られます。そうすると七章のエルサレムへの出発は最後のエルサレム行きとなり、重要な意味を持つ出発となります。ヨハネ福音書(七・一〜一三)もその経緯を詳しく語ることになります。それによると、この時にはイエスはガリラヤにいますが、兄弟たちがイエスに「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。 公の者であることを求めながら、ひそかに事を行う者はいない。これらの事をするのであれば、世に自分を現しなさい」と迫ります。おそらく兄弟たちも「イエスを信じていなかったので」、すなわちイエスの真の使命を理解せず信じておらず、このような「しるし」を行うのであればメシアとしての威光を世に示して、メシアの業をするように促したのでしょう。この時にはイエスは「わたしの時はまだ来ていない」と言って断りますが、後に兄弟たちが祭に行った後、イエスも秘かにエルサレムに行きます。おそらくこの時にイエス自身も、自分が何者であるのかを公にしてユダヤ教側の態度決定を迫らなくてはならないと心を定め、秘かに決心して黙ってエルサレムに行ったのではないかと推察します。翌年春の過越祭にはイエスの母も兄弟もガリラヤからの巡礼者と一緒にエルサレムに入っていますので、どこかでイエスを探して合流したとも考えられます。
イエスが周囲の民衆のメシア期待を拒否して、自分の内面の使命に忠実に従い、ユダヤ教の本拠地であるエルサレムでその使命を果たそうとした時、マルコ福音書によると、イエスは自分に従う十二人の弟子だけを引き連れて、シドンとかツロというような北方の異郷の地を旅します。この旅の期間は、イエスにとっては自身の使命を深く自覚し、それを弟子たちに教えて、弟子たちを来たるべき事態に備えるための貴重な期間です。しかし、マルコの記事からうかがえる旅の実情は、受難を通して使命の実現を決意するイエスと、なおもイエスのエルサレム入りで実現するメシアの支配において栄光にあずかることを願う弟子たちとの越えがたい溝です。この旅では、この隔たりを示す二つの事実を取り上げます。一つはイエスの使命の自覚から出る受難予告であり、もう一つはイエスに対する弟子たちの理解とペトロのメシア告白の問題です。

イエスの受難予告とペトロのメシア告白

この旅でイエスは自身の使命について深く思い巡らし、エルサレムで果たすべき役割を受け入れて、その結末に弟子たちを備えるために、語り始めます。その語り方は、弟子たちにとって初めは一つの謎の言葉でした。マルコ福音書によれば、この旅でイエスは三回エルサレムで受けることになる自分の苦しみを語り出していますが、その初めは第二回目の受難予告として記録されている、「人の子は人々の手に渡される」(マルコ)という形(直訳は「人の子は人の子たちの手に渡される」という形)であったと推察されます(エレミアス『イエスの宣教』五一五頁)。他の形には、事が起こってからの知識が入っていますが、この第二回目の予告の言葉にはそれがありません。イエスのいつもの語り方らしい謎の言葉になっています。
ここでイエスは自分を「人の子」と呼んでいます。この呼び方は、イエスの使命についての自覚を示唆するものとして研究者の間で重視されています。イエスはその公の告知の中で、自分を神の子であるとかメシアであるとは宣言しませんでした。しかし、自身の役割を語るにさいして、自分を「人の子」としている場合が見られます。たとえばエルサレムの将来を予告する終末的な預言(マルコ一三章とその並行箇所)で、「人の子」が天から現れて神の審判と新しい世界をもたらすとしていますが、イエスは自分自身をその「人の子」としたのだとか、いやイエスは別の人物を指しているのだという議論が絶えません。「人の子」という称号は、当時ユダヤ教世界に広く行われるようになっていた黙示思想の用語であって、そこでは確かに終わりの日に天から現れて世界を裁き、新しい時代《アイオーン》をもたらす超自然的人格を指していました。この用語はユダヤ教黙示思想独特の用語であって、異教徒の世界では理解できないので、パウロが異邦人に福音を宣べ伝えるときには用いられなくなりますが、イエス自身はこの語をしばしば用いています。この用例は言葉資料を担ったユダヤ教徒によって多く伝えられています。この用例には「人の子は苦しみを受ける」とか、地上の一人の人間を指す場合もあり、その意味合いが議論されています。ここでその議論の詳細に立ち入ることはできませんが、ここではイエスが敵意ある人たちの手に渡されて苦しむ(死ぬ)ことを指し、自分の受難を語っているのは明らかです。
イエスがこのように心を決めて受難の道を歩んでいるのに対して、ペトロが代表する弟子たちの方はどうでしょうか。一行がカイサリア・フィリピという場所に来た時、イエスは弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ね、弟子たちは口々に「あのヘロデが殺した洗礼者ヨハネが生き返って、そのような奇跡を行っているのだ」とか、「メシアが来る前に現れて、メシアの道備えをすると予言されているエリアだ」とか、「終わりの日をもたらすモーセのようなあの預言者だ」と答えます。それに対してイエスは弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねます。その問いかけに対してペトロが弟子たちを代表して、「あなたは、メシアです」と答えます。このペトロの答えは、これまでの翻訳では「あなたは、キリストです」と訳されていました。この翻訳の違いは神学的な問題を孕んでいます。ここでその意義を説明しておく必要があります。

その前に、ここでフィリポ・カイサリアという地名が用いられていることについて説明をしておきます。ガリラヤでの「神の支配」告知の活動に区切りをつけ、自分の周りに残った僅かの弟子を引き連れてエルサレムに向かうことにしたイエスは、まずパレスチナ北方の異教の地ツロとシドンの方面に行きます。それはこの「V エルサレムへの旅」の項で述べるように、イエス自身の使命を確認すると同時に、弟子たちをエルサレムでの出来事に備える準備をするためでした。北方の異郷の地で弟子たちとだけで過ごす時間を持ったイエスは、ついに意を決して道を南に取り、エルサレムに向かいます。その時、北の都市からいったん南のガリラヤ湖に出て、そこからエルサレムに向かおうとします。その際ガリラヤ湖に向かう途中、フィリポ・カイサリアの近くを通ることになります。この都市の近くを通る地域は、パレスチナのユダヤ教徒からは「エレツ・イスラエール(イスラエルの地)」の北限と見られていました。北からエルサレムに向かうイエスにとっては、この地を通過することは異郷の地からいよいよ聖なる地、イスラエルの地に入ることを意味します。ここでイエスは弟子たちの理解を確認するために「お前たちはわたしを何者とするか」という問いを発します。わたしはこの地名をこのように理解しています。このような具体的な地名があげられていることは、この出来事が実際にこの地上の特定の場所で起こった出来事であることを印象づけます。

「メシア」は、神から油を注がれて、終わりの日にイスラエルを異教徒の圧政から救い出し、「神の支配」を打ち立てる役目に任じられた人物を指すヘブライ語です。そのヘブライ語に相当するギリシア語が「キリスト」であり、これも「油を注がれた者」という意味の語です。ですから、「メシア」というヘブライ語をギリシア語に翻訳するときに「キリスト」というギリシア語を用いることは当然であり、たとえば英語の改正標準訳(RSV)は「あなたはキリストです」と訳してきました。それに対して新改正標準訳(NRSV)は、その時のペトロの言った意味をより正確に伝えるために、「あなたはメシアです」と訳すようになりました。日本語訳が従前の「キリスト」から新共同訳で「メシア」に変わったのも、英語圏で改正標準訳から新改正標準訳に変わったのに追従したからであろうと思われます。
フィリポ・カイサリアでイエスの問いかけにペトロが答えた時には、ペトロはヘブライ語(正確にはアラム語)で「あなたは、メシアです」と答えたはずです。ペトロは周囲の人たちと違って、イエスを預言者以上の方であるという理解に達していました。預言者は神の言葉を受けて、それをその時代の民に向かって告げる者ですが、イエスはそれ以上の方、終わりの日に現れて、最終的に異教徒を打ち破ってイスラエルを救い、新しい時代をもたらす方であると信じるようになっていました。それでイエスに向かって、「あなたは、メシアです」と言い表しました。その時のペトロにとってそれ以上の告白はありませんし、それ以外のメシア像もありえません。
しかし、イエスはそのペトロの告白を、否定しないまでも、厳しく修正されます。そのことは、イエスがペトロのメシアであるという告白を受け入れながら、「人の子は苦しみを受ける」という事実を告げた時に、ペトロが「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」ので、イエスは振り返ってペトロを叱って、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言った、というイエスのペトロへの叱責の記事によく出ています(マルコ八・三一〜三四)。ペトロのメシア理解からすれば、メシアたる者が敵の攻撃に敗れて「苦しみを受ける」というようなことはあってはなりません。これの並行記事であるマタイ福音書(一六・二二)では、ペトロがイエスに向かって諌めて言った内容が、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と明確に伝えられています。
この旅の途上で、イエスは自分が「苦しみを受ける」ことを繰り返し語って、弟子たちがその時に備えられているように努めています。マルコ福音書ではこの受難予告は三回繰り返されています。一回目はペトロがイエスをメシアであると言い表した時(八・二九〜三一)、第二回目は先にも触れた時(九・三〇〜三二) 、第三回目は一行がエルサレムに近づいた時(一〇・三二〜三四)です。一回目と三回目の予告には、事が起こった後で、その出来事の知識を予告の言葉に入れるという事後予言の面も含まれるようですが、イエスが弟子たちに繰り返しご自分の受難を受け入れさせようと努力したことがうかがえます。しかし、弟子たちにはその事実は理解を超え、とうてい受け入れられないことでした。彼らは最後まで受け入れられないままです。そのことは三回目になる最後の予告の直後に、ヤコブとヨハネというイエスの内弟子というべき二人の弟子がイエスに申し出た願いからも十分にうかがい知ることができます。
この二人の弟子の願いについてはマルコ福音書(一〇・三五〜四五)がその事実とイエスの対応を率直に伝えています。それによると、二人は他の弟子たちを差し置いて、イエスに直接願い出ます。その願いというのは、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」というものでした。イエスは今やエルサレムに入ろうとしています。イエスがエルサレムに入ると、そこでメシアとしての栄光を現し、諸々の敵を打ち破って王位につくことになる。その時二人を右大臣、左大臣にしてくださいという願いです。「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」と伝えられています。ということは、他の弟子たちもみな、この二人のようにイエスがエルサレムに入られるとメシアとしての栄光を現し王座につかれるのだから、自分たちもその栄光にあずかって栄光の座につくであろうと期待していることを示しています。このような願いを持つ弟子たちに、イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマを受けることができるか」と問い、彼らが「できます」と言うと、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」と言います。ここでイエスが杯とかバプテスマと言うのは、イエスが受けようとしている苦しみを指しています。イエスの苦しみを共にする者だけが、イエスの民の中で父が定める地位につくのだと諭します。
 このようにこの旅においては、エルサレムで果たすべき使命とそのために受ける苦しみに深く思いを潜めるイエスと、そこで現される栄光にあずかることだけを求める弟子たちの間に越えがたい溝があるまま、一行はエルサレムに入ることになります。マルコは比較的この平行線をあるがままに語っていますが、マルコより後の共観福音書、すなわちマタイ福音書とルカ福音書では事情が違ってきます。マタイ福音書の並行箇所では、受難を予告するイエスに対してペトロが諌め、それに対してイエスが「サタンよ、引き下がれ」と厳しく叱責した物語はそのまま、あるいはマルコよりも詳しく伝えています。しかし、マタイはそれだけで終わることができません。何しろペトロの告白はその上に《エクレーシア》が存立する土台です。マタイはペトロの告白を「あなたはメシア、生ける神の子です」と訳し、その告白に対してイエスが「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と賞賛し、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの《エクレーシア》を建てる」と言ったとしています(マタイ一六・一六〜一八)。これは聖霊を受けてペンテコステの時からイエスを復活されたキリストとして大胆に告白したペトロの告白を、イエスが天の父による啓示だと認めて賞賛したことを伝えています。マタイはペトロの告白の両面(叱責と賞賛の両面)を伝えているのです。賞賛の面でやや不都合なヤコブとヨハネの兄弟の願いも、それを二人の母親の願いとすることで二人の責任を軽くしています(マタイ二〇・二〇〜二一)。
ルカ福音書では、ペトロがイエスを諌めたこととそれに対するイエスの叱責、およびヤコブとヨハネ両名の願いの両方を全面的に削除しています。ルカはペトロの「あなたは神からのメシアです」という告白を、現在エクレシアがイエスに対して行っている「イエスはキリストである」という告白に重ねて用いることができるものとしているのです。ルカの全面削除もマタイの賞賛の並記も、ペトロのフィリポ・カイサリアの告白を現在のエクレシアがしているイエスのキリスト告白と重ねて用いる以上は当然です。しかし、この旅の歴史的状況としては、ここに見たように、フィリポ・カイサリアでのペトロ告白の内容とイエスの対応ついての福音書の記事の歴史的意義を理解しておくことが重要だと考えます。

W エルサレムでのイエスの死

エルサレムとその近郊におけるイエス

ヨハネ福音書によりますと、イエスは祭の度ごとにエルサレムに上り、エルサレムで「神の国」を宣べ伝える働きをしています。この福音書によると、イエスがエルサレムで多くの力ある働きをしたので、それを見たガリラヤからの巡礼者たちが伝え、ガリラヤの人たちがイエスを信じるようになったと言われています(ヨハネ二・二三、四・四五)。エルサレムにおけるイエスの働きによって、エルサレムにも相当の信者がいたので、最後の晩餐の時にも、十字架の後で弟子たちがエルサレムに集まった時にも、集まりの場所を提供する人がいたことになります。
イエスは自分が使命を果たすべき場所として思い定めて(ルカ一三・三一〜三五)最後にエルサレムに上ったのは、これもヨハネ福音書によると(シュタウファーでは二九年の)秋の仮庵祭の時でした(ヨハネ七・一〜一四)。この時にはエルサレムにもイエスの同調者がかなりいたようです。仮庵祭でイエスは神殿において大胆に民衆を教え、祭の最後の日には立ち上がって、イエスを信じて聖霊を受けるように叫んでいます。最高法院の議員の中にも、ニコデモやヨセフのようにイエスを信じる人が出るほどでした。しかしイエスに対する反感も強く、最高法院は下役を派遣してイエスを逮捕させようとしたり、イエスに反対する民衆が、福音を説くイエスを石打ちにしようとしたりしています。このような仮庵祭における出来事はヨハネ福音書七章に詳しく報告されています。
その後もイエスは神殿を舞台にユダヤ教の民衆に教えを説き、指導層とは激しい論戦を繰り広げます。そこでイエスが語っていることは、イエスを復活者キリストと信じるヨハネ共同体がユダヤ人に語ろうとしていることが重なっていますので、地上のイエスの言動を追求するのに用いるには多くの留保が必要です。しかし、その年の冬に行われる神殿奉献記念祭にはイエスがエルサレムにいることが証言されているなど(一〇・二二〜二三)、イエスの生涯を知る上で重要な事実も伝えられています。とくにユダヤ教の民衆がイエスの言葉に激昂してイエスに石を投げようとしたことが繰り返して報告されていること(八・五九、一〇・三一)、および最高法院がイエスを逮捕しようとしていること(七・三二、一一・五七)など、イエスに対するエルサレムの敵意が大きくなっていく様子が強く感じられるようになります。
とくにイエスが近郊のベタニアで親しくしていたラザロを生き返らせるという大きな奇跡を行ったことを知った最高法院がイエスを殺す決意を固め、イエスの居所を通報するように布告を出すにいたります(一一・五三、五七)。ラザロが亡くなった時、イエスはヨルダンの向こう側(東岸)にいましたが(一〇・四〇)、ラザロを生き返らせるためにベタニアに行こうとします。エルサレムの近くではイエスに生命の危険があることを知っている弟子たちは、「一緒に死のう」という覚悟でユダヤの地に入るイエスに同行します(一一・一六)。居所を通報するようにとの布告が出てからは、イエスは「荒野に近い地方のエフライムという町」に身を隠します(一一・五四)。
過越祭の六日前にイエスはベタニアに来て、そこから弟子たちと一緒にエルサレムの街に入ります。前年秋の仮庵祭にエルサレムに来てからの行動については、おもにエルサレム在住の弟子ヨハネの証言に基づいているのですが、ここからはガリラヤ出身の弟子たちの証言もあり、その異同が問題となります。とくに最後の晩餐の記事に違いが見られ、エルサレムでの最後の週について様々な議論を呼ぶことになります。ここからはヨハネ福音書の証言と共観福音書の証言の異同に留意しながら、イエスの最後の週についての歴史的実態に迫りたいと思います。

イエスと神殿

イエスのエルサレムでの活動においては神殿での活動が中心になります。イエスはエルサレムに入ると先ず神殿に入り、神殿を通してユダヤ教を牛耳っている勢力と対決しました。神殿を支配しているのは大祭司です。ユダヤ教社会の祭儀、社会生活(法律)、司法と裁判、教育などユダヤ教社会という宗教共同体の一切を決定する最高機関、立法と行政と司法の一切を司る最高機関が最高法院(サンヘドリン)であり、その議長が大祭司です。最高法院は大祭司を議長として、内閣に相当する祭司長たち(複数)の会議に補佐されて、ユダヤ教社会を統治していました。しかしそのユダヤ教による統治は、ローマ帝国の属州としてローマの支配下にあり、それもイエスの時代においては、その一部(ユダヤやイドメア)がローマ総督直轄の皇帝属州であり、その一部(たとえばガリラヤとペレア)がユダヤ人領主(ヘロデ)によるある程度の自治が許された元老院属州になっているなど、複雑な情勢でした。この区別はイエスと洗礼者ヨハネの処刑の形の差となります。ユダヤが総督直轄の皇帝属州とされたのは、紀元六年のガリラヤのユダによる熱心党の反乱が鎮圧された時からです。
イエスは神殿と対決することによって、神殿を通してユダヤ教社会を支配しているユダヤ教そのものと対決したことになります。具体的には、最高法院を支配するサドカイ派とファリサイ派の敵意と戦ったのです。先に見たように、イエスはその初期の過激な象徴行為によって神殿体制を批判してサドカイ派議員(祭司たち)の敵意を買い、安息日の問題によってファリサイ派を批判していましたが、彼らの敵意はイエスが過越祭でエルサレムにいる時には、大祭司を含む最高法院のイエスに対する明白な殺意になっていました。彼らはイエスがエルサレムにいる間に、すなわちイエスが彼らの支配権が及ぶ領域にいる間に処理しなければならないと決意するのです。彼らがイエスを殺すことでイスラエルから取り除かなければならないとしたのは、イエスが自ら律法に違反するだけでなく、そうするようにイスラエルを唆す異端の教師であり、まして人間である自分を神と等しい者として神を穢す人物であるので生かしておくことはできないとする律法への熱意からです。彼らはイエスを殺すことで神に仕えていると信じているのです。これはイエスをキリストと信じるものを殺すことを神に仕えると考えることと同じです(ヨハネ一六・二)。イエスはユダヤ教(律法)を確信している者たちによって殺されるのです(この問題は後述)。
イエスがエルサレムに入って神殿で民衆に教えを説くと、サドカイ派やファリサイ派の律法学者がやって来て論争を仕掛けました。公の場でイエスの言動が律法に違反すること、または相互に矛盾することを明らかにして、イエスに反対するユダヤ教の立場を擁護し、イエスに対する民衆の支持を失わせようとしたのです。その論争はガリラヤから来た弟子たちによって伝えられ、マルコをはじめどの共観福音書にも伝えられています。その論争にはイエスをキリストと告知するエクレシアの論争も含まれ、ここで取り上げるのは不適切なものもあり、その一つ一つを解説する余裕はありません。拙著の『マルコ福音書講解』など共観福音書の講解に委ね、ここではその中の一つで地上のイエスの働きに重要な示唆を与える論争を取り上げておきます。
イエスが神殿で民衆を教えていた時、最高法院は「ファリサイ派とヘロデ派(次節で)の人を数人イエスのもとに遣わし」 、イエスにローマ皇帝に税金を納めるのは律法に適う行為かどうかを質問させます(マルコ一二・一三〜一七)。これは罠です。イエスが十歳ほどになる紀元六年に、ガリラヤのユダがローマ皇帝に税金を納めるのはモーセの第一戒に違反すると唱えて、ローマに対する税金不払い運動を起こします。このユダの運動はローマによって鎮圧されますが、ユダの主張に共感して従う者が増え、彼らは「熱心党」と呼ばれ、律法(ユダヤ教の宗教規定)に従う熱意を競い合う時代、いわゆる「熱心の時代」をもたらします。この質問はイエスをユダの路線に追い込んで、イエスをローマへの反逆者として訴える口実を掴もうとする策略です。イエスは流通している銀貨を見せて、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言って、見事にこの罠を破ります。このイエスの言葉は、イエスの「神の国」運動が決して政治的な運動ではなく、神に属すことを神に返す宗教運動、人間固有の問題を直接取り扱う宗教運動であったことを示しています(この点については拙著『ルカ福音書講解V』の当該箇所の講解、とくに四〇頁と四六頁を参照してください)。

神殿崩壊の予言

イエスが神殿を去る時に最後に語った言葉は、エルサレム神殿の崩壊を予言する預言者の言葉であったことを弟子たちが証言しています。イエスは神殿の境内で、その壮麗さに驚嘆した弟子に「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることはない」と言っていますが(マルコ一三・一〜二)、さらにその出来事の時期や前兆を尋ねた内輪の弟子(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ)に神殿の崩壊と重ねて、世界の終末についての秘密を語り出したことが伝えられています(マルコ一三・三〜二七。二八節以下の二つのたとえは終わりの日に対する心構えを説いたイエスの勧告がここに置かれたものとして別扱いしてよいでしょう)。このマルコ福音書一三章のイエスの終末予言は、当時ユダヤ教内に広まっていた黙示思想の用語と文体で構成されており、「マルコの小黙示録」と呼ばれています。このマルコの小黙示録はどの共観福音書にも並行記事があり、もともと黙示思想的終末待望が強かった「語録資料Q」の担い手たちの信仰の特徴であったと見られます(語録資料の担い手たちの終末待望については拙著『福音の史的展開U』四四〜四九頁を参照してください)。
「語録資料Q」ではイエスが「人の子」について語る語録が多く伝えられています。もともと「人の子」という称号はダニエル書などを源流とするユダヤ教黙示思想によく出てくる用語で、終わりの日に天から現れて「神の国」あるいは「神の支配」を地上にもたらす超自然的人格を指す称号です(ダニエル七・一三〜一四)。その「人の子」という称号を、イエスは苦しみを受けるメシア的人物を語る文の主語として用いたり(マルコ八・三一)、一人の地上の人間を指すのに用いたりしたので(マルコ二・一〇)、イエスがこの称号を用いる時、どのような人物を指しているのかが大問題となって、今だに議論が続いています。しかし、その称号が本来、ダニエル書に見られるように、「神の国」をもたらす終末的な人物を指す以上、ユダヤ教黙示思想の文書に親しんだユダヤ教徒が、イエスをそのような人物として信じて宣べ伝えるのは自然の流れです。
しかし一方、ヨハネ福音書はもともとこのような黙示思想的終末待望を克服して、イエスが告知した「神の国」の現実はすでに来ていること、すなわちイエスがキリストとしてもたらされた永遠の命は信じる者がすでに持っている現実であることを主張するために書かれているので、マルコ福音書十三章のような黙示思想的終末待望の伝承は(たとえ知っていても)伝えていません。ヨハネ共同体も洗礼者ヨハネの弟子が中核を占めているのですから、「人の子」という用語はよく使っています。また、ヨハネもイエスが神殿でその崩壊について語られたことは知っていますが、イエスはそれを復活のことを示唆しておられるのだとしています(ヨハネ二・一八〜二二)。もっとも神殿の崩壊とそれに重ねられた世界の終末預言は、ペトロたちガリラヤ出身の内弟子たちに限られた伝承であり、パウロやヨハネは直接には知らなかったのかもしれません。パウロはエルサレムでペトロやヤコブと接触していますが、パウロがイエスの神殿崩壊の預言を知っていた形跡はその書簡などにありません。ヨハネも福音書においてそのようなイエスの預言には全然触れていません。
エルサレム神殿の崩壊は、当時のパレスチナのユダヤ教徒には天地が崩れるような衝撃であったことでしょう。イエスの神殿崩壊の預言が世界の終末の預言として聞かれて伝承されたとしても当然であったかもしれません。しかし、ユダヤ教徒の多数を占めるディアスポラ(離散)のユダヤ人にとっては、それほど大きな衝撃ではなく、神殿崩壊後に書かれたパウロ系文書(コロサイ書やエフェソ書)やヨハネ福音書では、神殿崩壊の事実やその意義、またキリスト者の終末待望における位置についてほとんど触れられることはありません。パウロを唯一の使徒と仰ぐエーゲ海地域の異邦人の信仰共同体にとっては、パレスチナユダヤ人とって大きな衝撃であったエルサレム神殿の崩壊はそれほどの意義を持たずにいたのかもしれません。後にルカによってパレスチナユダヤ教の伝承も福音書に統合されて伝えられ、この地域でもイエスの終末預言が重視されるようになったのでしょう。パウロの後、同じエーゲ海地域で展開したヨハネ共同体についても事情は同じです。ただ、二世紀後半の小アジアでモンタノスによる終末的な期待に燃える運動モンタニズムが起こったのを見ると、共観福音書系の終末待望が後にはどの地域にも浸透したことが推察されます。ほぼ同じ時期にエイレナイオスが四つの福音書をすべて同じ権威のある書として尊重するように説いています。マタイ福音書はもともと「語録資料Q」を担ったパレスチナユダヤ人たちの流れを汲む共同体で成立した福音書であり、「人の子」伝承を共同体の終末待望の表現として強調するのは当然です。
このように、地上のイエスが「人の子」という語をよく使ったことは知られていますが、イエスがそれをどのような内容を込めて使ったのかは現代でも確定していません。ここで、イエスが「人の子」について語られたことが、それぞれ違った状況で違った内容を込めて解釈されて宣べ伝えられた事情を瞥見しました。このことから、キリスト者は一つの理解や解釈を絶対化して、他の理解や解釈を裁き排斥してはならないことを知ります。

最後の晩餐

イエスがエルサレムで過した最後の一週間で、イエスが弟子たちと一緒にとった最後の晩餐と、そこで語ったイエスの言葉が重要です。その席上でイエスは自分の死の意義について重要な発言をしますが、その前にその晩餐が行われた状況について見ておきたいと思います。
最初の問題は最後の晩餐の日付およびそれと関連してその食事の性格の問題です。共観福音書は最後の晩餐を「除酵祭の第一日」、すなわちニサンの月の十五日に行われた「過越の食事」としています(マルコ一四・一二〜一七とその並行箇所)。ユダヤの暦では一日は日没から始まりますから、その一日が始まる夜に最後の晩餐が行われ、それに続いて夜中の逮捕、明け方の裁判、昼間の処刑、日没前の埋葬となり、その一日がイエスの最後の一日となります。それに対してヨハネ福音書では、最後の食事は「過越祭の前」(一三・一)であり、早朝にピラトの官邸にイエスを連れて行ったユダヤ人たちはまだ過越の食事はしておらず(一八・二八)、ピラトが裁判の席に着いたのは「過越祭の準備の日」(一九・一四)の正午ごろであったのですから、最後の晩餐はその一日(ニサンの月の十四日)が始まる夜であった訳です。そうすると最後の晩餐は過越の食事ではありえません。ユダヤ人がニサンの月の十五日以外に過越の食事を祝うことはあり得ないからです。準備の日の午後に神殿の境内で過越祭の犠牲の羊が殺されますが、丁度その午後にイエスは城外のゴルゴタの丘で殺されており、ユダヤ人たちが過越の食事を祝っている時にはイエスは遺体として墓に横たわっていたことになります。
歴史的な事実としては、最後の晩餐はニサンの月の十四日に行われたとするヨハネ福音書の記事が正確だと考えます。共観福音書がそれをニサンの月の十五日、過越祭の最初の日にするのは、最初期のエルサレム共同体の長年の慣行から来る自然の変更ではないかと推察します。イエスの復活後に成立したエルサレム共同体は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネらが指導するユダヤ人信者の共同体であり、後にはユダヤ教の宗教規定の厳格な実行で有名な主の兄弟のヤコブが代表するようになります。彼らがユダヤ人として毎年の過越祭の時に、その過越の食事を祭りの第一日(ニサンの月の十五日)にするのは当然です。マルコ福音書が成立するのをユダヤ戦争の前後とすると、エルサレム共同体は四十年近い歳月、毎年過越の食事を過越祭の第一日に行って来ました。その食事の時にイエスが十字架につけられて苦しみを受け死んだことの意義が語られます。もともと過越祭というのは、イスラエルの民がエジプトから脱出したのは彼らの神ヤハウェの働きによるものであることを覚えるための記念祭です。その意義が語られる過越の食事の時に、その成就としてイエスの受難の意義を語るのはまことにふさわしいことです。イエスもこの過越祭を自分の受難の時と思い定めてエルサレムに入りました。そしてその通り、過越の小羊が神殿で屠られる時に十字架上で死にました。この事実を記念するのに過越祭の最初の日に行う過越の食事ほどふさわしいものが他にあるでしょうか。エルサレム共同体が長年行っていたこの慣行がマルコ福音書によって文書となり、共観福音書の記事を生み出したのは当然です。
実は福音の告知にとっては最後の晩餐の日時が十五日でも十四日でもどちらでもよいのです。イエスの死の意義が語られることが重要です。共観福音書はそれを過越の食事の席で語られたイエスの言葉として伝えました。これはイエスの十字架上の死を出エジプトの出来事の成就として語る見事な語り方になりました。異邦人に福音を伝えた使徒パウロも、最後の晩餐の伝承を、主イエスは「引き渡される夜」このように言われたと言って、共観福音書に伝えられているイエスの言葉を伝えています(コリントT一一・二三〜二五)。パウロにとって、とくに読者の異邦人共同体にとって、その夜がユダヤ暦で何日になるかはどうでもよいことです。要するにイエスが十字架の死に引き渡される前夜に(異邦人の暦では晩餐を死の当日ではなく前夜とするのが常識です)、その死の意義を語られた言葉を伝え、それによってイエスを信じる者がキリストとしてのイエスの死によって自分が贖われていることを確認できればよいのです。そのためには、共観福音書がしているように、「これはわたしのからだである」とか「これはわたしの血である」と言われたイエスの言葉を伝え、そのイエスの死における神の救済の働きを告知することが重要です。
ヨハネ福音書はこの食事を過越の食事とはしないで普段の食事の最後のものとしているのですから、その食事の記事に過越の食事における主役の小羊が出てこないことや、過越祭のような大祭当日には死刑は執行されないということも説明できますので、歴史的な事実としては有利です。しかしそこで語られた内容としては、共観福音書のような死の意義についての明白な言葉はないので問題にされます。しかしヨハネ福音書においても、イエスが弟子の足を洗ったという象徴行為によってイエスの死が人々の贖いになることや、イエスの死によってはじめて聖霊が人に下り、実質的な神の救済の働きがはじまることなど、同じ内容が語られていることを理解すれば、語られた内容は共観福音書と変わらないとすることができます。
このように、最後の晩餐をめぐる歴史的事実とその信仰的霊的内容の福音書の記事は、その伝承が伝えられる過程と密接に関わっており、その伝承過程の綿密な考証が必要であることは分かります。ここではその概要を見ただけですが、結論して言えることは、歴史的な事実としてはヨハネ福音書に従いながらも、われわれの信仰体験や霊的理解としては、イエスの死の意義を共観福音書が形成してきたユダヤ教の過越祭の伝統から理解するのが適切ではないかということでしょう。

「最後の晩餐」伝承の形成とその信仰的理解についてさらに詳しい論述は、拙著『ルカ福音書講解V』一八五頁の「補論 『最後の晩餐』伝承の形成と展開」にありますので、それを参照してください。

最後の祈り

イエスが自分の死の意義を弟子たちに語っておきたいと切に願った晩餐(ルカ二二・一五)も終わり、イエスと弟子たちの一行は賛美を歌って、いつもの祈りと集まりの場所に行きます。その場所は、イエスの一行がエルサレム滞在中は祈りと集まりの場所としていたところで、城門を出て東に向かい、キドロンの谷を渡ったオリーブ山の山麓にあります。そこにゲツセマネと呼ばれるオリーブ油の搾り場があり、イエスの一行はそこを集まりの場所としていました。祭りのためにエルサレムに巡礼して来るすべてのユダヤ教徒は、祭りの期間中はエルサレムにとどまるように律法に規定されていました。大祭司たちはこの期間中にイエスを逮捕しようとしました。イエスは危険を察知していたでしょうが、律法に従いエルサレムに留まります。当時では巡礼者も多くなってエルサレム市街では収容できず、オリーブ山もエルサレムに入ると拡大解釈されていました。イエスは律法を守ります。
最後の晩餐に加わった者は揃ってゲツセマネに向かいます。マルコ(一四・二六)は最後の晩餐の記事に続いて「一同はオリーブ山に出かけた」と伝えています。そうすると、年若いエルサレムのヨハネもゲツセマネにいたことになります。ヨハネ福音書はゲツセマネにおけるイエスの祈りについては何も伝えず、逮捕の場面を詳しく伝えています。それは目撃者の証言であり、ヨハネがそこにいたことを示しています(ヨハネ一八・一〜一四)。イエスはそこで祈るとき、ペトロと(ゼベダイの子である)ヤコブとヨハネの三人をそばに伴いますが(マルコ一四・三二〜三四)、他の弟子は少し離れたところにいました。これがこの時のイエスの祈りについては、ヨハネは触れないでペトロの証言(マルコ福音書)に委ねた理由でしょう。ヨハネ福音書は到着の後、すぐにユダと軍勢が来たと報告しています。ゲツセマネでのイエスの最後の祈りについては、ペトロの証言によることになります。
オリーブ山に向かう途中、イエスはペトロの離反とガリラヤでの再会を予告します。復活されたイエスの顕現とその告知をエルサレムだけに集中するルカは、ガリラヤでの顕現による再会の予告を削除しています。ゲツセマネに着いたイエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけをともなって祈りの場所に行きますが、そこで「イエスはひどく恐れてもだえ始め」、三人の弟子に「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言います(マルコ一四・三二〜三四)。このイエスの死ぬばかりの悲しみとは何でしょうか。イエスがひどく恐れてもだえたのは何故でしょうか。この時がイエスにとって「苦しみの時」(マルコ一四・三五)であるのはなぜでしょう。このゲツセマネでのイエスの祈りの秘義は、わたしたちの思いや推察を絶していますが、この祈りの場に居合わせたペトロたちの証言(マルコ一四・三六)から垣間見ることを許されている限り推察してみましょう。
まず、イエスが「アッバ、父よ」と神に呼びかけて祈りを始めています。イエスは日常使っているアラム語で「アッバ!」と呼びかけています。イエスが神に祈る時、「アッバ!」と呼びかけていたことは、ペトロたちは繰り返して聞いていました。これは秘密ではありません。イエスは弟子たちに祈りを教える時も、「父(アッバ)よ、と言え」と教えています。ペトロら弟子たちはヘブライ語(実際はアラム語)を用いるユダヤ人共同体には、イエスが「アッバ」というアラム語で祈りを始めていることを伝えていたはずです。最初期の共同体が「アッバ」というアラム語の祈りを知っていたことは、パウロ書簡の二箇所(ガラテヤ四・六、ローマ八・一五)にも示唆されています。ただギリシア語で書かれた新約聖書では、この語はいつもギリシア語で「父よ《ホ・パテール》」と訳されていました。実は福音書でイエスが祈りで「アッバ!」と言われたことをアラム語で伝えるのはここ一箇所だけなのです。ここでも「父よ《ホ・パテール》」というギリシア語訳が添えられていますが、「アッバ!」というイエスの肉声が伝えられているのはここだけで、ペトロはこの証言においてイエスの肉声を伝えないではおれなかったのでしょう。そしてこの一語が、以下の祈りの内容がイエスの声から出るものであったことを示しています。この「アッバ!」は、イエスの神を語る次節の「イエスの神」でさらに詳しく扱うことになります。
この時のイエスの祈りの内容が、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」という祈りであったと伝えられています(マルコ一四・三六)。ここでイエスが自分から取り除かれることを切に願われた「この杯」とは何を意味するのかが、この祈りの焦点になります。杯という象徴ないしイメージは旧約聖書から取られています。聖書では杯は「祝福の杯」と「裁きの杯」の二つの意味があります。神から祝福された者に差し出されている杯には、神からの良きものが盛られています(詩篇二三・五、一六・五など)。それに対して神から退けられ裁かれる者には、神の厳しい怒りが盛られています(イザヤ五一・一七〜二三、エレミヤ二五・一五〜二九、詩篇七五・九など)。イエスが取り除かれることを切に願ったのは、もちろんそれに神の怒りが盛られた「裁きの杯」です。イエスはこの杯を自分が飲み干すべき杯と言っています(マルコ一〇・三八)。今イエスには「審判の杯」が突きつけられているのです。イエスの魂にとってそれを飲み干すこと、すなわち神の裁きに服し、神からの怒りと断絶を身に受けることほど苦しいことはありません。十字架上の肉体の苦しみは、ある程度人間にも想像したり推察することができます。しかし、これまで子として無条件に父を信頼し、父と一つになって働いてきたイエスにとって、その父から突き放され、父の怒りを一身に受けて、神の審判に服すということほど苦しいことはありません。それは人間の想像や推察を超えています。まことにこの祈りの時は、イエスにとって「苦しみの時」です。
イエスは、父は何でもできる方であると信じ、弟子たちにもそう教えてきました(マルコ一〇・二七)。この時、イエスはその父に願います。もし自分がこの杯を飲み干さないで、自分の使命が全うできるものであれば、その方法をとってください。わたしがこの杯を飲むことだけはやめてください、という切なる願いです。イエスは三度もこう願いましたが、この杯は突きつけられたままで取り除かれませんでした。十字架上のイエスの内なる苦しみは、このゲツセマネで始まっています。十字架上の死を堪え難い苦しみとするのは、肉体の苦痛以上にこの神の怒りと裁きに服す魂の苦悩、暗黒です。イエスはこの苦悩を、「しかし、わたしが願うことではなく、あなたが欲したもうことを成し遂げてください」という祈りによって乗り越えます。
イエスはこの祈りに生きるように弟子たちにも教えましたが(マタイ六・一〇)、この祈りはイエス自身の祈りであり、イエスはこの祈りを全生涯をもって生き抜いた方です。この祈りによってイエスは自分の願いが実現することではなく、神の意志に自分を委ねます。イエスはこの苦悩と暗黒に、この神への全面的な委ねによって勝利します。この勝利によって、イエスは裁判の時にも十字架刑にも打ち勝って平安の中にいます。十字架上では、一方では神から見捨てられた暗黒の中で、「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てられたのですか」と叫びながら(マルコ一五・三四)、一方では「成し遂げられた」(ヨハネ一九・三〇)という平安と勝利の中にいます。十字架の秘義はゲツセマネから始まっています。
なお、このゲツセマネの場面でもう一つ、弟子たちが眠りに陥ったという事実が報告されていますが、この眠りの性質について共観福音書は人間の弱さを示すものとし、誘惑に対する警戒の言葉としています。しかし、この眠りについてはもう少し考察すべき問題もあるようです。同じように重要な場面で、同じ顔ぶれの弟子が眠りに襲われた記事があります。それはイエスが意を決してエルサレムに行こうとした時、山に登って祈りますが、その祈りの場にここと同じようにペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて行きます(マルコ九・二〜八)。その時の経験をルカ(九・三二)は次のように伝えています、「ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた」。ここでルカはペトロたちが「眠りに押さえつけられていた」という意味の動詞を使っていますが、ゲツセマネの場面でも同系の動詞を使い、両方の場面で弟子たちの眠気が尋常のものではないことを示唆しています。この異常な眠気は、それから覚めた時に弟子たちは何を言っているのか分からないという状況と合わせて、何かの霊的な力に押さえつけられて異常な霊的状況に陥っていた、すなわち何らかのエクスタシー(忘我)の状態に陥っていたことを示唆しているのではないかと考えさせます。内輪の弟子たちは、何らかのエクスタシーにおいてイエスの受難と栄光の秘義を感得させられたのではないか、それが初期のエクレシアにおいてキリストとしてのイエスの理解に結びついて行くのではないか、などと考えさせられます。
年若くして弟子となったエルサレムのヨハネは、ゲツセマネにおいてイエスの祈りの場には連れて行ってもらいませんでしたので、祈りの情景についてはペトロの証言に委ね、自分が立ち会ったイエス逮捕の情景について詳しく証言しています。しかし、ヨハネも最後の祈りにおけるイエスの苦しみを知らないわけではありません。ヨハネはこのイエスの祈りにおける苦闘について別の箇所で短く報告しています。ヨハネ福音書は、イエスが苦しみを受け「地から上げられる」時を「わたしの時」と呼んで、「その時」を目の前に置いて歩んで来たことをその全編で報告していますが、いよいよ「その時」が目前に迫ったとき、イエスは「今わたしの心は騒ぐ。わたしは何と言おうか。父よ、わたしをこの時から救ってください。しかしわたしはこの時のために来たのだ。父よ、あなたの御名の栄光を現してください」と祈っています(ヨハネ一二・二七〜二八 私訳)。この時のイエスの祈りは、ペトロが伝えているゲツセマネの祈りと、用語は違いますが内容は同じです。この箇所を「ヨハネ福音書のゲツセマネ」と呼ぶ人もいます。
ヨハネはイエス逮捕の現場に立ち会った者として、逮捕の時の状況を詳しく報告しています(ヨハネ一八・一〜一一)。ペトロが剣を抜いて斬りかかり、一人の右の耳を切り落としますが、その大祭司所属の警備隊員の名前まで報告しています。彼の報告の中で、もう一つ注目すべきことは、四つの福音書の中でヨハネだけが逮捕に来た者の中に「一隊の兵士」がいたことを証言していることです。「一隊の兵士」と訳されているギリシア語は、ローマの兵制では一軍団の十分の一(通常は六〇〇人ほど)の部隊を指す用語です。この兵士の一隊は千人隊長に指揮されている正規軍です(ヨハネ一八・一二)。反乱の疑いがある場合にはローマの正規軍が出動しました。大祭司がローマ総督ピラトに出動を要請したと見られます。このローマ正規軍の出動はイエスの裁判の意義を考えるときに、考察すべき一つの要素になります。
最後にイエス逮捕の場面のもう一人の主人公になるユダのことを見ておきましょう。ユダはここでイエスを逮捕するために来る一隊を、イエス一行が集まる隠れた場所に案内してきて、イエスに接吻して「引き渡す者」の役割を果たします。ユダは普通「裏切り者」と呼ばれていますが、そのギリシア語の本来の意味は「引き渡す者」です。ローマ軍の隊長はイエスの顔も知らないでしょうから、打ち合わせした上でイエスに接吻し、「引き渡す者」の役目を果たします(マルコ一四・四四)。祭司たちはイエスがエルサレムにいる間に、しかも祭りの群衆のいない場所でイエスを秘かに逮捕することを計画していました。ユダはその場所を知っており、そこに案内してきてイエスを彼らに引き渡します。このユダに関して最大の謎は、ユダが師であるイエスをなぜ敵に引き渡したのか、ユダの裏切りの動機です。
ユダの裏切りの動機については古来様々な推察が行われてきました。イエス自身が選ばれた十二人の弟子の中からイエスを裏切り敵の手に引き渡す者が出たことに最初期の共同体も衝撃を受けますが、なんとかその事実の説明をつけようとして、一番分かりやすい説明として、マタイ(二六・一四〜一六)やルカ(使徒一・一八)はユダは金銭への欲にかられて師を裏切ったのだと、ユダを卑しい人物に仕立てています。ヨハネは、イエスは最後の晩餐の時に十二人の弟子の中から自分を引き渡す者が出ることを知っていたが、それをヨハネにそっと告げたことを報告しています(ヨハネ一三・二一〜三〇)。イエスはその者がするがままに任せ、父の御心に従います。正統派の教会はこのような説明を受け入れてきたのですが、そのような説明に納得しない人もいて、ユダがイエスをその命を狙う者に引き渡した動機を他に求める人もいます。ユダはイエスに大きな期待を寄せて弟子となったが、イエスがいつまでも神の大いなる力を現そうとしないので、イエスを追い詰めてメシアの働きをさせようとしたのだと説明する人もいます。また、古代教会に「ユダの福音書」という文書が流布し、その断片が最近発見されましたが、その文書を書いた人は、ユダこそイエスが最も信頼した優れた弟子であり、イエスは自分が使命を果たすために受難の道を行かなければならないとし、その使命を成就するためユダに協力を求め、ユダは悪名を身に受ける覚悟で引き受けたと説明しています。ユダの裏切りの動機は謎のままです。ヨハネ(一三・二七)が言うように、「サタンが彼の中に入った」という他はないのでしょう。それは人の心の奥底に潜む暗闇でしょうか。

イエスの裁判

夜も更けたひと気のないオリーブ山麓で逮捕されたイエスは、まず大祭司の屋敷に連れて行かれます。これは大祭司の勢力が計画した通りでした。マルコ(一四・五三)は「人々はイエスを大祭司のところに連れて行った」と書いています。ルカ(二二・五四)も同じです。ユダヤ人に向かって書いているマタイは、その年の大祭司がカイアファであることを皆が知っているので、「大祭司カイアファ」のところに連れて行ったと記述しています(二六・五七)。祭司職に詳しいヨハネ(一八・一三)だけが、人々は逮捕したイエスを「まず、アンナスのところへ連れて行った」と正確に記述して、その後に「彼がその年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである」と理由を説明しています。アンナスは六年から十五年まで大祭司職にあり、退いてからも息子や孫たちを大祭司職につけて、彼らの背後で実質的に大祭司の権限を振るっていました。洗礼者ヨハネとイエスの時代に大祭司であったのが女婿のカイアファですが、人々は逮捕したイエスを当然のように、まず実力者であるアンナスの屋敷に連れて行きます。アンナスは大祭司であるかのようにイエスを尋問しています。当時のユダヤ教の司法制度では、死刑は最高法院の判決を必要とし、最高法院は夜間に開くことはできませんでした。アンナスの屋敷での夜の尋問は証拠集めのような予審であったのですが、この時のイエスの逮捕を予期して議員たちを集めていたのでしょう。アンナスはその予審で大祭司のように振舞っています。それで新共同訳のマルコ福音書(一四・五三〜六五)ではこの予審段階のアンナスの尋問に「最高法院で裁判を受ける」という見出しをつけていますが、これは正確ではありません。実質的には「夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちとともに、つまり最高法院全体で相談した後」、イエスをピラトに引き渡したと書いています(マルコ一五・一)。ここの「相談」の実質は最高法院としての議決です。この点では、ルカ(二二・六六〜七一)が夜が明けてから行われた最高法院の記事に「最高法院で裁判を受ける」という見出しをつけたのは正確です。しかし、アンナスの屋敷での尋問に対して、イエスが自分を神の右に座す者としたので、冒?の罪に問われ死刑とされたのですが(マルコ一四・六一〜六四)、ルカではピラトに訴える理由としてローマへの反逆が取り上げられています。マタイ(二七・一)もヨハネ(一八・二四)も、この夜が明けてからの最高法院の議決を知っていることを示唆しています。
こうしてユダヤ教側の正式の最高法院での死刑判決を経て、イエスはローマ総督ピラトのもとに送られます。それは祭りの準備の日の早朝でした。その日の午後に神殿で過越の羊が屠られ、夜になるとその羊を一同で食べて、出エジプトの出来事を記念する過越の食事が行われます。ピラトの官邸に訴えたユダヤ人たちはまだ過越の食事をしていません(ヨハネ一八・二八)。これはイエスの処刑がこの準備の日の午後であったことを立証しています。イエスがユダヤ人の王であると自称してローマへの反逆を企てているという訴えから、イエスの身分とか使命についてイエスとピラトの間にやりとりがあったことをヨハネ福音書が伝えていますが、(一八・三三や一八・三八後半や一九・一三の表現からすると)一部は官邸の中で行われた問答になります。イエスとピラトの間の官邸内の個人的な問答をヨハネが知りえた事情については、逮捕に協力したローマ側からユダヤ教側に漏らされたのであろうというだけにして、その内容ついては別の機会にヨハネからじっくりと聞くことにします。
ピラトは「敷石」と呼ばれる場所で正式の裁判の席につきます。どの福音書も、ピラトはイエスに何の犯罪行為も見出せず、また何の武器も持たないユダヤ人の弟子の小さいグループのラビ(律法の教師)にローマへの反逆を認めることができず、イエスを釈放しようとしたことを伝えています。この書き方には福音書としての護教的動機もあったことでしょう。すなわち、イエスはローマの社会に反抗する者ではなく、イエスを信じる信仰はローマの法に違反するものではないという主張です。しかし、「敷石」の場での裁判は公開の裁判です。そこには多くのユダヤ人が押し寄せ、祭司長たちに扇動された群衆がイエスを殺すように叫んでいます。ユダヤ教指導層は、もしこの男を釈放するならお前を皇帝の友ではないと告げるぞ、とピラトを脅迫したのです(ヨハネ一九・一二)。ピラトはこの圧力に押されて苦慮します。苦肉の策として、祭の時には囚人を一人釈放する習慣を利用してイエスを釈放しようとしますが、バラバを釈放するように求める群衆の声にかき消されて、ついにイエスに対する十字架刑を宣告します(ヨハネ一九・一三〜一六)。
すべての福音書の記事から確認できることは、イエスはユダヤ側とローマ側の正式の裁判と判決を受けて死刑に処せられたという事実です。そこで、イエスの死についてどちらに責任があるのかが研究者の間で問題にされてきました。もっとも確実なことは、イエスが十字架刑によって処刑されたという事実です。十字架刑は反乱などの重罪を犯した属州民にローマ帝国が課した刑であって、ローマ市民には課せられませんでした。この事実から明らかなように、イエスはローマによって処刑されたのですから、ローマ側に責任があることは否定できません。しかし、ユダヤ教側が死刑の判決を下し、ローマに死刑判決と処刑を求めなかったら、イエスの十字架刑はありえなかったと言うことができます。ローマが一介のユダヤ教ラビを反乱の嫌疑で探索し、逮捕、裁判、処刑することは、イエスの場合考えられませんし、福音書にはその形跡はありません。福音書の報告を全面的に否定するのでない限り、イエスがユダヤ教指導層の敵意を受けて最高法院の死刑判決を受けるに至ったこと、およびローマの処刑形式である十字架刑に処せられたという二つの事実は動かせません。では、この二つはどう関連し、どちらにおもな責任があるのでしょうか。

この問題については、拙著『ルカ福音書講解V』二七二頁の「補論 イエスの血の責任は誰にあるのか」が詳しく扱っていますので、それを参照してください。ここではその議論を要約して結論だけを述べるにとどまります。

この裁判が行われた時代には(ユダヤは皇帝属州となりローマ総督が統治していました)、最高法院には死刑を判決する権限はありましたが、死刑を執行する権限はなく(ヨハネ一八・三一)、死刑の執行はローマ総督の専権事項でした。それで最高法院は死刑の判決を下したイエスをローマ総督に引き渡して、死刑の執行を要求したのでした。最高法院に死刑執行権があれば直ちに石打ちの刑を執行すればよいのです。ユダヤ教の規定(ミシュナ)によれば、ユダヤ教における死刑の執行は石打で行われます。ステファノの石打は最高法院の死刑執行ではなくリンチに近いものですし、六二年の主の兄弟ヤコブの石打も総督不在の空白期間を狙ったものでした。洗礼者ヨハネがヘロデによって斬首で殺されたのは、ガリラヤが元老院属州であり比較的自治が認められており、領主ヘロデが死刑を執行できたからです。これらの事実はかえって総督統治下のユダヤでは最高法院に死刑執行権がなかったことを証明しています。この事実が、イエスはユダヤ教で死刑判決を受けたが、ローマの属州民処刑方式の十字架刑を受けた事実を説明します。
ヨハネ福音書はイエスを十字架に追い込んだ勢力を「ユダヤ人」と呼んでいますが、こう非難しているヨハネ共同体自身がユダヤ人を主体とする共同体です。マタイ福音書はユダヤ人の共同体で成立したものですが、イエスを死に追いやった勢力を「律法学者たちとファリサイ派の人たち」と呼んで、自分たち一般のユダヤ人と区別しています。福音書においてイエスを死に至らせた勢力を「ユダヤ人」と呼んで批判しているのは、当時のユダヤ人内部での争いであって、イエスの死に責任がない者が責任のある者を非難している内輪争いです。その一方の議論で後代の者がユダヤ人全体を「キリスト殺しの民」として裁き迫害するのは、論理的な誤りであり、とんでもない聖書解釈の間違いです。キリスト教会は長年ユダヤ人を「キリスト殺しの民」というレッテルを貼って迫害してきました。これはキリスト教会最大の恥辱です。イエスはユダヤ民族に殺されたのではなく、ユダヤ教という宗教を代表する最高法院によって死刑とされたのです。イエスはユダヤ教という宗教によって殺されたのです。イエスは律法の絶対化を批判し、絶対化された律法によって殺されたのです。
ここでイエスの裁判において本題とは別ですが、大きく取り上げられている二つの事実について簡単に述べておきます。一つは、この裁判の過程でペトロがイエスを知らないといって、イエスを否認したことです。この記事は最初期の共同体が創作した物語ではありません。誰が自分の共同体を代表する人物の裏切行為を公けにしようとするでしょうか。これはイエスを復活したキリストとして告知するようになったペトロが、事の重大さに気づき、またその重大な罪を赦して用いてくださるイエスの恩寵に感激して、涙ながらに告白した事実が福音書に書きとどめられるにいたったものです。ペトロはイエスに向かって「ご一緒なら死んでもよいと覚悟しています」と言っていながら、その舌の根も乾かぬ数時間後に、「わたしはそのような方は知らない」と言って、イエスを否認しています。これは人間がする決意とか覚悟、そういうものの上に成り立つ信仰がいかに脆いものかを示しています。その脆い決意とか信仰を克服して、別人のようにキリストとしてのイエスを言い表すようになったペトロを創った神の働きを現すために、ここでペトロの否認の事実が強調されています。従って、この物語はキリストとしてのイエスの物語に属するものとして、イエスの死の前に香油を注いだあの女性の物語(マルコ一四・九)のように、この福音が宣べ伝えられるところでは、どこでも語られる物語になります。
もう一つは、バラバが釈放されたことです。これは共観福音書が伝えていることですが、イエスの無罪を宣告して釈放しようとしたピラトが、ユダヤ教側の圧力に苦慮して、一つの策として総督は祭の時に囚人一人を釈放する習慣があることを利用しようとします。この時のことはユダヤ教の事情に詳しいマタイ(二七・一五〜二六)が比較的詳しく報告しています。それによると、ピラトはユダヤ人に向かって「どちらを釈放して欲しいのか。バラバ・イエスか。それともメシア・イエスか」と問いかけます。同じイエスという名前ですが、一方はバラバと呼ばれ、もう一人はメシアと呼ばれるイエスです。アラム語では「バラバ」は「アッバの子」という意味の語で、彼が高名なアッバ(律法の師父)の息子であったことを示唆しています。この若い息子が当時勢力を増していた過激派「熱心党」の運動に走り、「都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていた」(ルカ二三・一九)ことが推察されます。ピラトの問いかけにユダヤ人民衆は「バラバを」と叫び、もう一人のイエスは十字架につけよと叫びます。扇動されていたとはいえ、この時代のユダヤ人は過激派である熱心党の暴力路線を選んだことを象徴しています。その結末は、その時代の子らが神殿と都の破壊という形で身に受けることになります。バラバは、イエスが自分に代わって死んだという事実を最初に実感した人物になります。

十字架刑の執行

このようにしてピラトはイエスに死刑の執行を許し、イエスに死刑を判決したユダヤ人に引き渡します。しかし死刑の執行はローマ総督の責任であり、ローマの軍隊がこれを行います。イエスはローマ軍団の百人隊長が指揮する軍団に囲まれて処刑の場所に連れていかれます。処刑される者は自分がつけられる十字架(横木だけという説もあります)を自分で背負って歩かなければなりませんでした。処刑前の激しい鞭打ちなどですっかり弱っているイエスは途中で倒れたので、通りかかったシモンというキレネ出身のユダヤ人に代わりに背負わせたことが共観福音書に伝えられています。マルコ(一五・二一)では二人の息子の名まであげられていますが、これはシモンと息子が最初期の共同体で重要な役割を果たした人物で、よく知られていたからでしょう。イエスと一緒に二人の男(おそらく反ローマ過激派で事件を起こしたバラバのような「暴徒」)も連行されます。このような者の連行ですから、仲間の奪還を警戒して警備は厳重を極めたことでしょう。イエスの弟子たちは隠れ家に身を潜めています。イエスの一行につき従ったのは一群の女性だけです。処刑される者を慰めるために嘆きの歌を歌って随行する有志のエルサレムの女性たちがいたと言われています。ガリラヤから来た女性のイエス信奉者もいたかもしれません。その女性たちにイエスが言われたことをルカ(二三・二八〜三一)が伝えています。イエスは女性たちが自分たち自身のために嘆くように言って、やがてエルサレムに臨む悲運を予言します。イエスが十字架を背負い、裁判の時にローマの兵士から侮辱されて被らされた茨の冠によって頭から血を流しながら歩まれた苦難の道は、今も「ウイア・ドロロサ」(悲しみの道)と呼ばれ、イエスの苦難を偲ぶために歩く巡礼者で満ちています。
処刑場は城門を出た街道沿いの、ゴルゴタと呼ばれる小高い丘にあります。通行する多くの人が見るためです(十字架刑は見せしめの刑でした)。刑場に着くと兵士たちはイエスの手と足を十字架の木に釘づけにし、縦木を引き上げて十字架を立てます。罪状書きには「ユダヤ人の王」と書かれていました。イエスがメシア運動の首謀者であり、ローマへの反逆罪で処刑されることの公示です。イエスの十字架が中央にあり、その両横に二人の男の十字架が立てられます。その時刻について、マルコは午前九時としていますが、マタイとルカはただ午前中だったことを示唆するだけです。しばらく時間が過ぎて昼の一二時ごろに全地が暗くなり三時まで続きます。その暗闇の後、イエスは大声で叫び息を引き取られます。日没前に息を引き取られたとの報告を受けたピラトは、イエスが短時間で亡くなったことに驚き、不審の念をもって確かめています(マルコ一五・四四)。ヨハネ福音書では、ピラトの判決が正午ごろでしたから、十字架刑の執行は午後になり、ピラトの驚きはもっと強かったことになります。十字架につけられた者の苦痛はもっと長く続くのが普通で、一昼夜を超えることも珍しくなかったと言われています。
十字架の前には誰がいたのでしょうか。執行役の百人隊長と兵士たちがいたのは当然ですが、その兵士たちはイエスから剥ぎ取った縫い目のない上着を誰が取るか(それは兵士の役得でした)で籤を引いていました。隊長はイエスの死に方に感動して、「本当に、この人は神の子であった」と叫んでいます。それ以外には誰がいたのでしょうか。マルコ(一五・四〇〜四一)は、ガリラヤからイエスに従ってエルサレムに来ていた女性たちが、遠くからこの光景を見守っていたと報告しています。マタイとルカもほぼ同じように伝えています。そうすると共観福音書では、イエスの弟子は誰も十字架のイエスの足元にはいないことになります。ところがヨハネ福音書(一九・二五〜二七)では、イエスの十字架のそばにはイエスの母マリアと他の数名の女性(その名前もあげられています)とイエスの愛弟子がいたことが伝えられています。この状況で母マリアが愛弟子の手に託されたことが報告されています。また十字架上の出来事の細かい事実の報告などもあり、それは目撃証人からであることを主張しています(ヨハネ一九・三五)。まだ少年のような愛弟子は女性たちに紛れて刑場にまで行くことができたのかもしれません。

この愛弟子については、拙著『対話編・永遠の命ーヨハネ福音書講解U』の「附論 もう一人の弟子の物語」を参照してください。

十字架上のイエスの言葉

わたしたちがもっとも知りたいことであり、知ることがもっとも難しいことは、イエスがこの十字架の上で苦難をどのようにして耐え、何を思って耐えたのかです。肉体の苦痛はある程度推察することができるかもしれません。しかしこの時のイエスの内面を推察することは、わたしたち凡人がすることではないし、またするべきことではないでしょう。もしこの時のイエスの内面を推し量ることが許されるとするならば、それは十字架の上から発せられたイエスの言葉を手掛かりにする他はありません。ところがそれぞれの福音書が伝えるイエスの言葉はまちまちで一定していません。伝え方にそれぞれの福音書記者の福音理解が滲み出ています。その事実を考慮に入れながら、十字架の上で発せられたイエスの言葉を手掛かりに、この時のイエスの心境を推し測ってみましょう。
共観福音書では十字架の下にはイエスの弟子は誰もいません。ガリラヤから従ってきた数人の女性が遠くから見守っているだけです。もし「遠くから」を、足元ではないが大声は聞こえるほどの距離と理解すれば、彼女たちからイエスの叫びは伝えられた可能性もあります。ヨハネ福音書では愛弟子と数人の女性がいるのですから、彼らから伝えられたとしなければなりません。まずマルコ福音書(一五・二五〜三七)によると、昼頃に全地が暗くなり三時に再び明るくなりますが、それまでイエスは一言も発していません。三時になってイエスは大声で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫びます。これは福音書自身が意味を解説しているように、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という悲痛な叫びです。これは詩篇二十二編の最初の言葉であり、イエスはいつものようにこの詩篇の全体を唱えようとしたのであり、詩篇最後の神への信頼を叫ぼうとしたのだという解釈もありますが、息を引き取る寸前にこのような悠長な引用は考えられません。この叫びは、イエスが神から見捨てられた苦悩を叫んでいるのであり、ゲツセマネから続いている苦悩、父から突きつけられている杯を飲み干す苦悩、神の裁きに服す苦悩と暗闇に他なりません。この叫びの直後にイエスはもう一度大声を発して息を引き取りますが、その大声の内容は聞き取れず、伝えられていません。マタイ(二七・三三〜五〇)はイエスの最後についてほぼマルコと同じように伝えています。
ルカ福音書(二三・三二〜四六)は少し様子が違います。十字架につけられた直後、イエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言っています。マルコとマタイでは全地が暗くなる正午ごろまでイエスは一言も発せず、通りすがりの者たちの嘲笑の言葉だけが伝えられていますが、ルカではイエスが両横で十字架につけられている者と交わす対話の言葉が伝えられています。一人の男はイエスの無力を嘲笑しますが、もう一人は「イエスよ、あなたの御國においでになるときには、わたしを思い出してください」と懇願します。その男に向かってイエスは、「はっきりと言っておく。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と断言しています。そして三時にイエスは大声で叫んで息を引き取りますが、その時のイエスの叫びは、他の共観福音書とは違いルカは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」であったとしています。ルカはその福音書の全体を通じ「罪の赦し」を中心に据え、イエスが宣べ伝えた福音も罪の赦しを与えることであったとしています。十字架の上のイエスはその罪の赦しを最後まで貫きます。最後の叫びも、神に見捨てられた者の苦悩ではなく、自分の信仰に殉じて命を神に委ねる殉教者の平安と勝利を感じさせます。総じてルカにおいては、十字架上のイエスの死は殉教者を思わせます。殉教者ステファノは、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と祈り、最後に大声で「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈って眠りにつきます。ルカはステファノの殉教以来多くの殉教者を伝えてきましたので、その原型としてイエスの死を描いたと考えられます。
ヨハネ福音書(一九・一七〜三〇)もイエスの十字架上の死について詳しく伝えています。その報告で興味深いのは、十字架上に掲げられた「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書きが、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていたという点です。ヘブライ語は当事者であるユダヤ人に通告するためであり、ラテン語は支配者であるローマ人の公用語であり、ギリシア語はユダヤ人を含め当時の世界に通用した共通語です。この三つの言葉で書かれていたということは、イエスの死がイスラエルの宗教、ローマの政治体制、ギリシアの世界文化の交差点で起こった世界史的な出来事であったことを象徴しています。もう一つは、十字架の上からイエスは母マリアの将来を愛弟子の手に委ねて、子として老いゆく母に細やかな配慮を見せていることです。他の弟子たちはイエスの仲間として探索される身で、いつ危険が及ぶかもしれません。それに対して愛弟子は大祭司の知り合いで、安全に母を委ねることができる者とされたのでしょう。事実、この愛弟子はマリアを自分の家に引き取り、後にはエフェソに避難させて匿うなど、イエスの委託に応えています。ここでわたしたちがもっとも知りたい十字架上のイエスの言葉については、ヨハネは息を引き取る直前のイエスの最後の言葉として、「成し遂げられた」という言葉を伝えています。福音書はイエスは十字架上で「すでにすべてが成し遂げられたことを知り」こう言ったとしています。イエスがこの十字架の上で父から与えられた使命をすべて成し遂げたという思いでいることが、この言葉から伝わってきます。そこで成し遂げられたイエスの使命は何であったのか、これはイエスの復活後にイエスをキリストとして宣べ伝えた使徒たちの福音告知の働きを待たなければなりませんが、わたしたちはイエスが使命達成の充実感をもって世を去ったことを知ります。これはマルコが伝える神から見捨てられた苦悩の叫びとは相容れないようですが、イエスにはこの両面があったことは、すでにゲツセマネのところで見たとおりです。わたしたちは安易にイエスの十字架上の言葉の平均値をとるのではなく、相反する相の矛盾に生きる人間の現実を直視しなければならないのです。

イエスの埋葬

イエスは十字架の上で息を引き取ります。人類の大部分の習慣では、地上で息を引き取った者の遺体は地中に埋めて、遺体が白骨と化すのを待ちました。その中でユダヤ人の習慣、とくにイエスの時代のユダヤ人の習慣では、やや特別な形で遺体の埋葬が行われていました。イエスの遺体も地に埋葬されるのですが、それが「ユダヤ人の埋葬の習慣に従い」埋葬されたことが、ヨハネ福音書(一九・四〇)にわざわざ明記されています。それで初めに当時の「ユダヤ人の埋葬の習慣」について少し説明をしておきます。
当時のユダヤ人は山腹など洞窟を掘りやすいところに、人が立って入れる位の洞窟を掘り、その中に遺体を安置する台を設け、その洞窟内の小部屋の側面に小さい横穴(遺体を横たえるほどの大きさの横穴)を数箇所設けておきます。人が亡くなると、遺体に香料を添えて亜麻布で包み、洞窟の台に安置して遺族の者たちがその周りで祈りを捧げ(詩篇などの)賛美を歌い弔います。その数日の弔いが済むと、遺体を小さい横穴に入れて、その入り口を土で塞ぎ、遺体が朽ちて白骨化するのを待ちます。洞窟の入り口には(盗掘を防ぐため)大きな石の板などを置いて簡単に入れないようにします。一年あるいは数年経って骨だけになった時に取り出して、別に用意した「骨箱」に納めて、所定の場所に安置します。その骨箱には故人の名前や身分が刻まれている場合があり、今もその骨箱をその設置場所(都を望むオリーブ山の西側山麓など)や博物館で見ることができます 。骨箱は貴重な考古学的遺産として研究の対象となり、多くが博物館に保存されています。おそらくこのような洞窟は家族や一族共同の洞窟墓地であったようです。地方の資産的に恵まれた家族や一族は、競ってこのような洞窟墓地を聖なる都エルサレムを望む近郊に持とうとしました。アリマタヤのヨセフの場合もその一例です。
このような「ユダヤ人の埋葬の習慣」は比較的短い期間で終わったようです。このような埋葬の習慣はユダヤ教徒の復活の信仰から始まり、ローマ軍によるエルサレムの破壊と占領で一気に終息します。ユダヤ教という宗教は、初めはイスラエルの民(後にはユダヤ人)がヤハウェの保護によって地上で祝福された民となることを内容としていました。その時代に形成されたモーセ律法に固執するサドカイ派は、新しい時代と状況の変化に対応して取り入れた新しい解釈や教義を認めようとはせず、モーセ五書に書かれていないという理由で、天使や霊の存在や終わりの日の死者の復活などは拒否していました。それに対してファリサイ派は、ユダヤ教がヘレニズム世界に投げ込まれてギリシア思想に直面した時、ギリシアの思想を取り込んでギリシア化し、個人の救済とか霊の存在、終わりの日の復活などを教義としていました(使徒二三・五〜九)。実はキリスト教はギリシア化したファリサイ派ユダヤ教(ヘレニズムユダヤ教)と深い関係にあり、ファリサイ派ユダヤ教から多くの思想を取り入れています。それだけに近親憎悪が深く、新約聖書でファリサイ派批判が厳しくなります。もっともそれは、福音書が書かれた時代、ローマによるエルサレムの破壊後にはユダヤ教はファリサイ派だけになり、ユダヤ教批判がファリサイ派批判になったことが直接の原因です。ファリサイ派がユダヤ教徒の主流となるに従い、終わりの日の死者の復活を信じる者が増えます。ベタニアのマルタとマリアもその一例です(ヨハネ一一・二四)。このような終わりの日の死者の復活の信仰が増えてユダヤ教徒の主流となり、エゼキエル書(三七章)の枯骨の谷の預言の影響もあってその日のために骨を残したいという願いから、このような埋葬と骨箱が多くなったのでしょう。従って、このような「ユダヤ人の埋葬の習慣」の歴史は日が浅く、せいぜい紀元前一世紀から始まり、ユダヤ戦争でエルサレムが破壊されたとき突然に終わります。

六二年にエルサレムで殺された「主の兄弟ヤコブ」の骨箱が発見されたとして話題になったことがあります。この出来事はイエスの場合の参考になります。このような埋葬の習慣について詳しくは、拙著『対話編・永遠の命 ー ヨハネ福音書講解U』二一六頁の「ユダヤ人の埋葬の習慣」の項を参照してください。

イエスが十字架の上で息を引き取った直後の様子は、目撃証人となったヨハネ(一九・三一〜三七)だけが詳しく伝えています。それによると、その日は準備の日であり、日没から始まる翌日の大祭安息日に死体を木の上に残すこと(それは律法で禁じられていました)を避けるために、ユダヤ人はピラトに早急に遺体を下ろすように頼みます。ピラトの許可を得て、兵士は二人の男の足を折って(これは逃走を防ぐため)十字架から取りおろしますが、イエスはすでに死亡しているので足の骨は折らず、槍でわき腹を刺します。これは死を確実にするためでしょう。ヨハネは傷口から水と血が流れ出たことを確認しています。そして、ユダヤ教徒らしく、ヨハネもこの二つの出来事は聖書の成就であることを加えています。
この間、大胆にもアリマタヤ出身のヨセフがピラトのもとに行って、イエスの遺体を取り降ろして引き取りたいと願い出ます(ヨハネ一九・三八〜四二)。これは大胆な行為です。ヨセフは地域の長老であり最高法院の議員(マルコ一五・四三)です。これまでも秘かにイエスを信じていましたが、ユダヤ教指導層の批判を恐れて信仰を言い表していませんでした。そのヨセフが事ここに至って意を決し、ピラトに直接会ってイエスの遺体を引き取ることを願い出ます。イエスの弟子たちはみな、ピラトの探索を恐れて身を隠しています。今イエスの遺体を引き取ることは、自分がイエスの仲間とか共鳴者であることを公にすることです。弟子たちができないことをヨセフが成し遂げます。もしヨセフのこの行動がなければ、イエスの遺体は犯罪者の遺体として犯罪者用の死体遺棄場に投げ込まれたことでしょう。イエスの遺体を十字架から取り降ろしたところに、これも最高法院の議員であるニコデモが、大量の香料を持って駆けつけて来ます。ニコデモは先に夜中にイエスと会い新生の秘義を教えられ、また議場でイエスを弁護するなど、秘かにイエスを支持していました。十字架にかけられた人物を「ユダヤ人の埋葬の習慣」に従って立派に埋葬することは、この二人のような有力者がいて初めてできることだったのでしょう。二人には部下もついてきていたのではないかと推察させます。十字架の下には女性たちも数人いたのですが、女性たちはおろおろと嘆くだけで、遺体を運び墓に埋葬することは、ヨハネ福音書はこの二人だけの行為として描いています。
イエスが十字架につけられたゴルゴタは市街地を出た街道筋にあり、付近は低い丘陵地であったのでしょう。そこには園があり、それに面して墓として掘られた新しい洞窟がありました。その洞窟の墓がまだ誰も葬られたことがない新しい墓であることを福音書は強調していますが、これは後に空の墓の証言として重要な前提になります。その日は「ユダヤ人の準備の日」であることが再度強調されていて、それで急いで、またその墓が近くにあったので、そこにイエスを葬ったとこの福音書は言っています。イエスの遺体を納めたこの墓については、マルコ福音書とルカ福音書も所有者を特定していませんが、マタイ福音書(二七・六〇)だけがそれがヨセフの「自分の墓」であったことを語っています。他人の墓に埋葬することは考えにくいことであり、自分の墓が刑場の近くにあってまだ誰も葬ったことがない新しい墓であることを知っているのは所有者であるヨセフですから、マタイの報告は事実であると考えられます。しかし、その墓が誰の所有であるかは、この墓をイエス復活の証言の一つとすることには関係ないので、特定しないでこれだけにしておきます。

小さくて大きなエピローグ

こうしてイエスは墓に埋葬されて、その地上の生涯は閉じられます。もしその墓に納められたイエスの体に何事も起こらなかったら、わたしの物語もここで終わります。その生涯の意義を語る小さいエピローグを書いて筆を擱くことになります。ところが、この墓に大変な出来事が起こります。その出来事は、ここに遺体として納められている人物によって、人類の歴史が「彼以前」と「彼以後」とに二分されるというほどの大きな出来事です。実に、その人物の遺体を包んでいた亜麻布だけが残されていて、その人物がいなくなっていたのです。
彼が遺体として納められたのは、過越の祭が行われるニサンの月の十五日が始まる夕刻の直前、すなわち「準備の日」のニサンの月の十四日(金曜日)がまさに終わる頃でした。その日から三日目になる日曜日の朝に、ガリラヤから来た女性弟子が墓に来て、大きな石の板が転がしてあって、遺体を安置した台に遺体がないことを発見します。その報告を聞いた二人の男性弟子、ペトロとあの愛弟子が走って来て、亜麻布だけが残されているのを確認します。
第一発見者は女性の弟子たちです。共観福音書では複数の女性です。マルコ(一六・一)では、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの三人です。マタイ(二八・一)ではマグダラのマリアともう一人のマリアの二人です。ルカ(二四・一〇)では、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリアに「そして一緒にいた他の婦人たち」が加えられています。ところがヨハネ福音書(二〇・一)ではマグダラのマリア一人です。マリアが弟子たちに報告し、二人の弟子が墓に走って行って確認するのは同じですが、その後で復活されたイエスが、墓の前の園でマリアに現れた経緯が詳しく伝えられています。このように第一発見者の名前はまちまちですが、最初期の共同体には、「イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された」という伝承が広まっていました(マルコ一六・九)。
この節の主題、すなわちナザレのイエスの地上の生涯を描くという主題は、そのイエスが墓に埋葬された時点で終わります。しかし、その遺体がなくなっていて墓が空になっていたという証言は、イエスの地上の生涯のエピローグ(後日物語)として、イエス復活の証言の一つとして大きな意味を持つことになります。この証言は復活証言の一部に過ぎませんが、復活証言の重要な一部となります。イエスの復活のことは次章「キリストの福音 ― その成立と告知」の冒頭で詳しく扱うことになります。ここでは「ナザレのイエス」という一節のエピローグとして小さく扱っていますが、それがイエスの復活を指し示す限り、実はこれは大変大きな意味を持つエピローグになります。