市川喜一著作集 > 第23巻 > 第4講

第三節 『聖なるもの』 ― オットー

ルードルフ・オットー

 二〇世紀の前半にヨーロッパは第一次世界大戦(一九一四〜一九一七年)やロシアでの共産主義革命(一九一七年)などの激動を体験します。その直後にキリスト教界に衝撃を与える重要な著作が現れます。一つはルードルフ・オットーの『聖なるもの』(一九一七年)であり、もう一つはカール・バルトの『ローマ書講解』(一九一九年)です。バルトが二〇世紀の神学に与えた巨大な影響とその宗教観については第二部で取り上げることにして、ここでは、宗教学の古典となった『聖なるもの』を出したオットーについて見ておきましょう。
 オットー(1869-1937)はルター派の組織神学者で、聖書神学の著作もかなり出しています。彼は前出のトレルチとほぼ同じ年代に活躍した人です。先に見たように、トレルチは一九〇二年に『キリスト教の絶対性と宗教史』を書いて、キリスト教と諸宗教との関係を問題にしていましたが、おそらくそれよりも早くオットーは若い頃から世界の諸宗教に強い関心を持ち、世界の各地を旅行して実際にその地の宗教に触れています。彼は日本にも来て、高野山で僧侶に講演したり座禅したりしています。ただ触れるだけではなく、アラビア語を学びイスラム教を研究し、サンスクリット語を勉強してヒンドゥー教を研究、その聖典『バガヴァッド・ギータ』や『ウパニシャッド』などのドイツ語訳と注解研究書を七冊も出版しています。このような研究を土台にして、晩年には『東西の神秘主義』と『インドの恩寵宗教とキリスト教』という宗教比較の模範となるような著作を出しています。前者はインドのヴェーダーンタ学派の神秘家シャンカラとドイツの神秘主義者エックハルトの比較研究です。後者は、ヒンドゥー教のなかでもっとも明確に他力救済を唱えるバクティ派とルターの信仰義認論に代表されるプロテスタンティズムの比較研究です。このような優れた宗教比較は、オットーのようなキリスト教とヒンドゥー教の両宗教に深く通じた研究者によって初めて可能になります。
 このように世界の諸宗教に通じたオットーが、人間の宗教的営みに通底する根底的体験を明らかにしようとする著作を出します。それが『聖なるもの』です。「聖」は宗教における最高の価値とされ、すでにシュライエルマッハーもその『宗教論』において聖の観念を宗教の中心概念としています。聖書の宗教においても神は「聖なる方」として賛美され(イザヤ六・三)、神の民は「聖である」ことを求められます(レビ一一・四四、ペトロT一・一六)。ところが「聖」は善とか正義というような倫理的合理的概念の究極の成就態として理解されがちです。それに対してオットーは、人間が絶対的な他者に遭遇する宗教的体験において体験する対象や感動を「ヌミノーゼ」と名付け、その体験が倫理とか合理性を超えていることを主張しました。「ヌミノーゼ」というのは「ヌーメン」(神性、神的な力)というラテン語からオットーが造語して用いたもので、宗教的体験の非合理的神秘的な面を指しています。

「ヌミノーゼ」の諸要素

 オットーはこの書の前半で「ヌミノーゼ」の諸要素を分析して提示しています。その第一は「被造者感情」です。すでにシュライエルマッハーが信仰を「依属感情」としていましたが、オットーはその説明の問題点を指摘し、代わりに「被造者感情」という表現を用います。それは「すべての被造物の上に位するかたに対して被造者が抱く、自ら無に沈み去る感じ」です。それは「体験の主体が自分自身の無価値を意識する」ことだとされます。次にオットーはヌミノーゼの重要な要素として「戦慄すべき秘義( mysterium tremendum )」をあげます。それは人間が自分とはまったく次元の違う対象(たとえば幽霊とか妖怪、あるいは悪霊のような薄気味悪いもの)に遭遇したときに感じる畏怖の感情です。この種類の畏怖は、地震や噴火というような自然災害や戦争や犯罪のような人間界の出来事に対する恐怖とは別種の恐れであって、このような自然的恐怖がいかに高じてもそれに移行することのない別種の恐れです。このような畏怖の感情を引き起こすヌーメン(神性)の側の性質として、オットーは「怒り」をあげています。聖書の宗教でも「ヤハウェの怒り」とか「神の怒り」は重要な項目をなし、ヒンドゥー教の神々には怒りそのものの神がいます。オットーはこの「戦慄すべき秘義」というヌミノーゼの主要な要素のなかに含まれる内容として「優越」と「力あるもの」をあげ、最後に「秘義」という要素について詳しくその性質を論じています。どのように理解困難でもやがて理解できる可能性がある対象については秘義とは言いません。「秘義」とか「神秘的」というのは、絶対的にかつどんな場合にも理解できない対象について言うのであって、それは絶対他者との遭遇における驚きの感情です。神秘主義はこのヌミノーゼとしての絶対他者との対立を極限まで推し進め、自然的・世界的なものとの対立に止めず、存在そのものと対立させ、その対象を「無」と呼びます。そして、仏教でいう「無」とか「空」もこのようなヌミノーゼとしての絶対他者として理解できることを示唆しています。
 このように「戦慄すべき秘義」としてヌミノーゼを提示した後、オットーは一見これと相反するように見えるヌミノーゼのもう一つの面を明らかにします。すなわちヌミノーゼの「魅するもの」としての要素です。ヌミノーゼは人を畏怖させ突き放しますが、同時に心を引きつけ魅了してやみません。人は戦慄させる秘義の前に畏怖してひれ伏しますが、同時にその対象に引きつけられ、一つになろうとする渇望をもって慕い求めます。ヌミノーゼのこの面を合理的概念で表象したものが愛とか憐れみとか恩恵ということになります。神秘主義が否定の道を徹底して到達する無の境地もヌミノーゼのこの一面をもち、神秘主義者を激しい宗教的行為へと駆り立てます。このように人を魅了して引きつけてやまないヌミノーゼは、それを獲ることが救済となる「豊かなもの」という要素を示します。オットーはさらにヌミノーゼの要素として「巨怪なるもの」、「神聖なるもの」、「崇高なるもの」をあげて、その内容を分析して提示しています。このように多様な要素がありますが、ヌミノーゼは「戦慄させかつ魅了する秘義 mysterium tremenndum et fascinans 」という二重の内容をもつ秘義としてまとめることができます。

「ヌミノーゼ」の表出

 このようにヌミノーゼの諸要素を分析し、ヌミノーゼとは何かを示す一〇章までの本書の前半が主要部分となりますが、オットーはさらに一一章以下の第二部でこのヌミノーゼがどのように表出されるのかを見ていきます。ヌミノーゼは霊による直接的な表出だけでなく、多くの場合荘厳な儀式や理解されない用語(カトリック典礼のラテン語や日本仏教のサンスクリットなど)、驚異(奇跡)、神像などの彫像など間接的に表出されます。さらにオットーは建築や絵画や音楽など芸術におけるヌミノーゼの表出を示唆深く描いています。こうした概論の後、具体的な宗教におけるヌミノーゼの表出の実例として聖書の宗教を取り上げます。
 最初に旧約聖書におけるヌミノーゼを取り上げます。旧約聖書全体は預言者や詩編の敬虔を経てすでに高度に倫理化され合理化されていますが、それでも出エジプト記四章(二四〜二六節)のヤハウェがモーセを殺そうとされたという物語には、ヌミノーゼ感情の低い段階の悪霊恐怖の余韻をとどめているとされます。オットーは本書で繰り返しイザヤ書六章のイザヤの召命体験をヌミノーゼ体験の典型として言及し、この記事に接してヌミノーゼを感得できない者とは共に語ることはできないとしています。この体験でイザヤは神を「聖なる方」として体験し、ヤハウェを「イスラエルの聖なる者」と呼ぶようになります。この「聖なる者」は第二イザヤに引き継がれ、「聖なる方」の中に概念的に明白な全能・善・知恵・真実が説かれるようになり、「聖なるもの」の本来の意味が満たされるようになります。しかし、怒り・妬み・情熱・焼き尽くす火・生ける神などの非合理的な面も残され、「聖なるもの」のヌミノーゼとしての性質は保持されます。またオットーは当時旧約聖書神学で問題となっていたヤハウェとエロヒームという神名の用例について、ヤハウェにおいてはヌミノーゼが親しみある合理的なもの以上に優勢であるのに対して、エロヒームにおいてはヌミノーゼの合理的面が優勢であるという違いを指摘しています。そして最後にヌミノーゼにおける驚異の要素を示す典型として、オットーはエゼキエルの幻とヨブ記三八章以下のヤハウェの言葉をあげています。
 次に新約聖書におけるヌミノーゼについて、オットーはイエス、パウロ、ヨハネの場合を扱っています。イエスについては、「イエスの福音において、神観念の合理化、道徳化、人間化の経過はその頂上に達し」、「父なる神の信仰」になったとしています。しかし、この合理化をヌミノーゼとの分離とするのは誤りで、イエスが告知した「神の国」はすべて現在的・現世的なものと対立する絶対他者・天的なもの・恐るべきもの・魅するもの・神秘そのものであり、ヌミノーゼそのものであるとしています。しかし、ヌミノーゼの表出という観点からイエスを見るのであれば、奇跡というイエスの働きを取り上げるべきではないかと考えられます。その場にいた人たちは大いに驚きかつ恐れたのですが、同時に魅せられて大勢がイエスのところに集まったのですから、まさにヌミノーゼ的な出来事であったと言えます。次にパウロの場合を取り上げ、まずパウロの神秘的体験に触れていますが、とくにパウロが説く予定説について詳しく論じています。予定説は合理的宗教の立場からはもっとも受け入れがたい非合理ですが、オットーはこれをヌミノーゼ体験の対象であるヌーメンの絶対的優越と同意義であるとして、創造者と被造者との全く非合理的な関係を指示する秘義的な解釈の名称として説明しています。そのさいイスラム教をすべての宗教の中でもっとも予定説的な宗教として興味深い分析をしています。さらに肉をまったく無価値なものとするパウロの言説もヌミノーゼに根底をもつと説明しています。ヨハネについては、「戦慄すべきもの」という要素は後退していますが、光とか命という形で非合理的なものの豊満という「魅するもの」としてのヌミノーゼが十分語られているとします。とくに「神は霊である」と宣言し、その霊が風のように自由に吹くという記述に合理性を超えたヌミノーゼ的な面を見ています。しかし、オットーのヌミノーゼの視点からする新約聖書理解には、時代の神学的傾向の限界からか、総じて聖霊の働きにおけるヌミノーゼ的な面の理解が不十分のように思われます。

「聖なるもの」の宗教哲学

 第一六章からの第三部で、オットーはヌミノーゼという概念を用いて「聖なるもの」の宗教哲学を展開します。本書はその副題「神観念における非合理的なものとそれの合理的なものとの関係」が示すように、神観念の中心にある「聖なるもの」が合理的なものと非合理的なものとからなる複合概念であり、近代の合理主義の中でともすれば道徳的完成とか最高善などと合理的な面だけで理解されるのに対して、人間の感情とか体験における非合理的な面があることを示し、それをヌミノーゼと名付けてその内容を詳しく分析提示したのでした。そして最後の第三部でこの両者の関係を哲学的に議論しています。その詳細を紹介することはこの小論ではできませんが、概括すると宗教が時代と共に高度化すると、非合理的なものは合理化されて図式化されるが、非合理的なものは決してなくならないということになります。すなわち、「戦慄すべきもの」というヌミノーゼの反発要素は正義、審判、怒りという形で倫理的に合理化され図式化され、「魅するもの」としてのヌミノーゼの吸引的要素は善意、慈悲、愛、恩恵という形で合理化され図式化されます。そして、「驚異的なもの」、「神秘的なもの」としてのヌミノーゼの要素は、以上のような聖性の合理的図式的賓辞に絶対性の形式が付されることによって合理化されます。こうしてヌミノーゼは宗教が高度になればなるほど合理化されますが、決して宗教から消え去りません。いかなる高等宗教にも非合理的なヌミノーゼは生き続けます。オットーはこの両面の健全な調和が宗教の優越を形成するとします。
 なおオットーは最後の数章を用いて「預覚」という問題を論じています。オットーは「聖なるものの現れを純真に認識し確認する能力」を「預覚」と呼び、それを「内面における聖霊の証明」を感得する能力と説明しています。そして「原始キリスト教における預覚」の章で、イエスの働きに接した弟子たちの驚きと怖れにこの「預覚」が見られるとし、ペトロが「あなたこそキリストです」と言った告白も、それを天の父の啓示によるとされたイエスの言葉に示されているように、この「預覚」の実例としてあげています。そして最後に「現代のキリスト教における預覚」の章で、救済宗教としてのキリスト教は合理的な教義的説得ではなく、原始キリスト教がそうであったように、「預覚」による宗教的直観の必要を強調しています。それはキリスト教は聖霊の働きに基礎を置くべきことを主張していると言えます。このことは、付属論文の一つである「霊的経験としての復活体験」にも見られます。オットーは、キリスト教の基礎である使徒たちの復活体験(復活者キリストと出会った体験)は、それ自身神秘的な体験、霊《プニューマ》による体験、霊における純粋認識であるとして、それこそがキリスト教全体の基礎であることを認識すべきであると強調しています。
 このようにオットーの『聖なるもの』は、合理主義に押し流されがちな近代の宗教理解とキリスト教神学にヌミノーゼの概念をもって一石を投じ、霊における直感と体験を重視すべきことを教え、その後の宗教理解と神学の両方に大きな影響を及ぼすことになります。

 オットーの『聖なるもの』は山谷省吾訳で岩波文庫に収められています。本項はこの訳書に基づき、ほぼこの訳書の用語を踏襲しています。しかし、この難解な宗教哲学の書には分かり難い用語が多く、訳者の苦労がしのばれます。たとえば「預覚」は分かり難い訳語ですが、ほかに適切な日本語が見つかりません。本項はこの書の正確な書評ではなく、その大意の紹介にとどまります。