市川喜一著作集 > 第23巻 > 第9講

第一節 聖書の神

T 「書物の宗教」 ― イエスの時代のユダヤ教

シナゴーグの宗教

 福音はナザレのイエスの「神の支配」の告知から始まります。イエスは「神の支配」の実現が近いことを告知し、その「神の支配」とはどのような事態であるのかを言葉と働きをもって示されました。その証言が福音書です。では、イエスが告知された「神の支配」において支配する神とはどのような神でしょうか。それは次節「イエスの神」の主題ですが、まずその前提となる「聖書の神」がどのような神であるのかを見なければなりません。というのは、イエスはユダヤ人であり、聖書を神の言葉と信じるユダヤ教徒の家族の中で生まれ育ち、幼いときから聖書を学び、聖書を信じるユダヤ教徒の中で働かれ、その教えの中で聖書を当然の前提として教えたり論争された方だからです。イエスは神とご自身を聖書から理解し、最後の瞬間まで聖書の言葉を唱えて死なれた方です。もちろんここで聖書と呼んでいるのは、現在キリスト教会が聖書としているものではなく、その中の旧約聖書と呼ばれている部分、すなわちユダヤ教の聖書、ユダヤ人が「タナッハ」と呼んでいるヘブライ語聖書のことです。
 イエスの時代のユダヤ教は「書物の宗教」になっていました。エルサレムには立派な神殿があり、すべてのユダヤ教徒はその神殿こそ自分たちの神、いや全世界の神であるヤハウェが顕れてくださる場所だと信じ、たとえ遠くに住んでいても年に三回の大祭には巡礼して参詣していました。イエスも例外ではありませんでした。しかし日常の宗教生活では、町や村ごとにある(大都市では数カ所の)「会堂」(シナゴーグ)に土曜日の安息日ごとに集まり神を礼拝しました。その礼拝は、信仰告白(シェマー)を唱え、賛美と祈りを捧げ、聖書の朗唱と聖書に基づく講話を聴くことがおもな内容をなしていました。犠牲を捧げて神を礼拝することは、聖書によって厳しくエルサレムの神殿だけに限定されており、地方の会堂で行うことは禁じられていました。会堂には祭儀はなく言葉だけがあったということになります。そして、その言葉はすべて聖書に基づいて語られる言葉であったので、当時のユダヤ教は「聖なる書」と呼ばれる書物の宗教になっていた、と言っても過言ではないでしょう。
 このようなシナゴーグの起源は定かではありませんが、バビロン捕囚の体験から始まったと見られます。それまではイスラエルの民も他の古代諸民族と同じように、中心都市に壮大な神殿を持ち、そこで盛大な犠牲祭儀を行う古代宗教の一つでした。しかし、北王国イスラエルが前七二二年にアッシリアに滅ぼされ、北王国を形成していたイスラエルの十部族は消滅します。残った南王国ユダも前五八六年に新興のバビロニアに滅ぼされ、エルサレム神殿が破壊され、祭司らの宗教指導層もバビロンに捕囚として捕え移されます。それからは、ユダの人々は捕囚の地で神殿なしに自分たちの宗教を維持しなければならない状況に置かれます。このバビロン捕囚の体験が、聖書の成立とその後のユダヤ人の宗教に決定的な転機をもたらします。
 捕囚の地のユダヤ人たちは、神殿のない捕囚の地でヤハウェの民としてのアイデンティティーを維持するために懸命の努力をします。彼らは一カ所に集まり、それまでに父祖から受け継いできたヤハウェの民としての歴史伝承が真剣に学ばれ、あるものは文書化され、その中で与えられた契約や律法を順守する努力がなされます。その中でとくに安息日の順守と割礼の実行が重視され、その二つを、特定の祭儀をもたない自分たちを周囲の異教の民と区別する徴としました。このように割礼を受けてヤハウェとの契約関係にあり、安息日ごとに集まってヤハウェへの信仰を告白するユダヤ人とその家族の集団を「シナゴーグ」と呼びます。それが後に彼らが集まる場所(建造物)がシナゴーグと呼ばれるようになり、「会堂」と訳されるようになります。この訳語は建造物という意味に誤解されやすいので避けて、このようなユダヤ人(ユダヤ教徒)の共同体を指すのに、以下の論述ではおもに「シナゴーグ」を用います。集まりのための建物を指すときは「会堂」を用います。
 バニロニアを滅ぼして覇権を握ったペルシャの王クロスの勅令により、ユダヤ人は故郷に戻って神殿を再建することを許されます(前五三八年)。しかし、パレスチナに戻ったのは少数で、大多数のユダヤ人は住み慣れたバビロンに残ります。バビロンに残ったユダヤ人は、捕囚期に形成したイスラエル宗教の伝承の研究と集成の作業を推し進め、後のバニロニア・タルムードの成立に見られるように、その後のユダヤ教の進展にとって大きな推進力となり、バビロンはエルサレムと並ぶユダヤ教の中心地となります。パレスチナに戻ったユダヤ人は様々な困難と闘って、ついにエルサレムに神殿を再建します(前五一五年)。おそらくこの神殿を拠り所として活動した祭司たちによって、捕囚期までに成立していた歴史書や祭儀規定や法典が編集・集成されて、ヤハウェ信仰の拠り所となる「モーセ五書」(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)となります。これが神の意志を啓示する聖なる書として、無条件に信じ従うべき「律法」《トーラー》となります。この《トーラー》がいつごろ成立したかについては議論がありますが、ほぼ前四世紀頃には現在の形になって、その写しが各地のシナゴーグに置かれ、ヤハウェ礼拝のための唯一の権威とされて、安息日ごとに朗読され、その解釈と講話が行われるようになります。

ユダヤ教の成立

 捕囚の地バビロンで行われるようになった神殿なしのヤハウェ礼拝、すなわち聖なる書の学びを通して神を賛美し、神の意志に従おうとする宗教活動は、帰還した故国パレスチナにおいても踏襲され、その集会であるシナゴーグと集会場所となる会堂は、ユダヤ人が住む地域には広く見られるようになります。神殿があるエルサレムにも、神殿とは別にシナゴーグが形成されます。こうして捕囚以後の時期に、その時期に成立した《トーラー》を最終権威として神ヤハウェを礼拝する宗教が生まれます。これがユダヤ教です。こうして始まったユダヤ教は、捕囚以前のイスラエル十二部族の歴史と宗教遺産を継承していますが、ユダヤ人によって担われる別の宗教として、それとは区別して扱われます。このユダヤ教は、捕囚後に再建された神殿(ソロモンが建てバビロニアに滅ぼされた神殿と区別して第二神殿と呼ばれます)が七〇年にローマ軍によって破壊された後も、シナゴーグ体制に支えられて存続し、現在に至るまで実に二千数百年の長きにわたって活動していますので、この第二神殿の時期のユダヤ教を「初期ユダヤ教」と呼んでいます。この呼び方には、捕囚までのイスラエル宗教と捕囚後からユダヤ人の宗教として現代まで続くユダヤ教とを区別する見方が前提されていますので、その区別についてここで簡単に触れておきます。
 ユダヤ教はイスラエル宗教史と区別されるユダヤ人の宗教です。アブラハム、イサク、ヤコブを共通の父祖とする十二の部族が、その父祖たちに現れた神を礼拝する共通の宗教によって連合体を形成し、後には王国を形成することになり、イスラエルと呼ばれる一つの民となります。この民は飢饉を避けて逃れたエジプトで増え広がりますが、支配者であるファラオから重い労役を課せられて苦しみ、指導者モーセに率いられてエジプトを脱出します。エジプトを脱出した十二部族の民は、シナイ山で彼らを脱出させた神、ヤハウェと名乗られる神と契約(シナイ契約)を結び、ヤハウェの民となります。このヤハウェと契約した民が「イスラエル」と呼ばれます。この民は父祖たちに約束されていた土地パレスチナに入り、周辺の諸民族と戦いながら、また交際しながら、パレスチナに定住します。この十二部族の宗教連合は、その存立を脅かす危機のたびごとに士師と呼ばれるカリスマ的な指導者によって団結して戦い、その存立を続けてきましたが、さらに確実に対抗するために、周辺の諸民族と同じような王をもつ王制国家となります。最初の三代の王、サウロ、ダビデ、ソロモンはイスラエルの民全体の王で、とくにダビデの時代に領地を拡大して強大な帝国的支配を打ち立て、ソロモンの時代にその富と繁栄は頂点に達し、都エルサレムには壮大な神殿が建てられます。ところがその王国はソロモンの没後、北方十部族の北王国イスラエルと南方二部族半の南王国ユダに分裂します。この二つの王国は、先に見たように、北王国イスラエルが前七二二年にアッシリアに滅ぼされ、北王国を形成していたイスラエルの十部族は消滅し、残った南王国ユダも前五八六年に新興のバビロニアに滅ぼされ、エルサレム神殿が破壊され、祭司らの宗教指導層もバビロンに捕囚として捕え移されます。
 このバビロン捕囚の前後の時期に輩出した預言者たちの活動はイスラエル宗教の華であり、その頂点を形成します。預言者というのは、神がその民に語ろうとされる言葉を委ねられて、それぞれの時代の民に語る霊的人物です。それは民の未来を告げる予言の面もあります。たとえば捕囚前のエルサレムに現れて活動したイザヤは、イスラエルの民に向かってその背神の罪のゆえに神の裁きを受けることになるのだと警告しています。そして捕囚の末期に活動した無名の預言者は、やがて神は異教の王クロスを用いてその民を捕囚から解放して帰国させることを予言して民を励まします。その預言の書は後にイザヤ書に組み込まれて第二イザヤと呼ばれます。そして捕囚から解放されてエルサレムに第二神殿を建設する時に民を励ました預言者の書も第三イザヤとして、イザヤ書に含まれることになります。こうしてイザヤ書はバビロン捕囚の時代に現れたイスラエル預言者を代表する預言の書となり、最も尊ばれる預言書となります。しかし預言者の書は単なる予言の書ではなく、イスラエルのヤハウェ信仰の精髄、従って人間の神への信仰の核心を語る文書として、イスラエル宗教史の最高の産物であり、信仰問題を追及する者の必読の書になります。しかし本章は、イエスとイエスがその中に生きたユダヤ教という宗教との関係に集中したいので、預言者たちの諸書は割愛します。
 この捕囚の地バビロンでヤハウェ宗教が神殿祭儀のない、言葉の宗教(契約の言葉だけに基づく宗教)となり、シナゴーグ体制を発展させた事情は、先に見ました。従って、捕囚から帰還しエルサレムに神殿を再建しても、かれらの宗教はもはや捕囚前の神殿祭儀に依拠する宗教ではありえませんでした。捕囚の地バビロンから「律法の書」を携えてエルサレムに戻ってきて民に律法を教えた律法学者エズラによって、南のユダ族を中心とする民(彼らがユダヤ人と呼ばれます)は、契約の言葉に従ってヤハウェを礼拝する宗教の民となります。ここにユダヤ教が始まります。エズラはユダヤ教の創始者として語られることになります。
 このようにして始まったユダヤ教は、もはや捕囚前のイスラエル宗教と同じではありません。しかし、区別はありますが、別物ではありません。ユダヤ教はイスラエル宗教の遺産を多く受け継いでいます。ユダヤ教の拠り所となる「聖なる書」がいかにイスラエル宗教の多くの遺産を受け継いでいるかは後に見ることになります。この連続と継承の面を重視して、ユダヤ教はイスラエル宗教の延長上にあるとして、連続する一つの宗教とする見方も可能です。この見方では、第二神殿時代のユダヤ教を、イスラエル宗教の捕囚後の一時代の形態として、「後期ユダヤ教」と呼ぶことになります。たとえばマックス・ウエバーの『古代ユダヤ教』は、この標題で旧約聖書時代のイスラエル史全体を扱っています。以前はキリスト教の神学者も第二神殿時代のユダヤ教を「後期ユダヤ教」と呼んでいました。しかし、最近の神学は、第二神殿時代のユダヤ教は捕囚前のイスラエル宗教とは区別すべきであり、それは現在まで続くユダヤ教という宗教の最初期の形であるから「初期ユダヤ教」と呼ぶようになっています。
 イスラエル宗教の精華は、捕囚期前後に排出した預言者たちの書に見られます。初期ユダヤ教も、この預言者たちの書を「律法」と並ぶ「聖なる書」として受け容れることによって、預言者たちの信仰を継承しています。しかし、後にユダヤ教から別れて別の宗教として成立したキリスト教も、聖書(旧約聖書)を自分たちの正典として受け容れ、その信仰を継承します。しかし、そのイスラエル宗教の継承の仕方については対立し、初期ユダヤ教は間違った仕方で継承し、キリスト教は正しく継承した、とキリスト教側は主張します。とくにキリスト教はイスラエル預言者たちの宗教の正しい継承者であることを自任しています。この問題、すなわちイスラエル宗教、とくに預言者たちの信仰の正しい継承の仕方の問題は、パウロが「福音と律法」の問題として命がけで戦った問題であり、本書「福音と宗教」の課題でもあります。

ユダヤ教と「聖なる書」

 エズラがバビロンから携えてきて、再建された神殿に集うヤハウェ信仰の民に与えた「律法の書」がどのような形と内容のものであったのかは、正確には分からず議論が続いています。しかし、神殿に仕える祭司たちが、捕囚期には成立していた二つの歴史書(ヤハウィストの歴史書と申命記史家の歴史書)を資料として用いて、自分たちの祭司的歴史書の枠組みの中に統合し、多くの法典を加えて《トーラー》(モーセ五書)を完成します(その過程や時期は次項でごく簡潔に扱うことになります)。
 《トーラー》(モーセ五書)が確立し、それに基づいてユダヤ教という宗教体制が始まった後も、指導層となる祭司たちは、捕囚の前後に輩出した預言者たちの書も、彼らが預言したとおりに捕囚という出来事が起こったのですから、神の意志を伝える啓示の書として尊び、様々な形で伝えられてきた預言者たちの文書と伝承を編集して、「聖なる書」に加えます。こうして集成された聖なる諸書は《ネビイーム》(預言者たち)と呼ばれ、「前の預言者」と「後の預言者」の二部に分けられています。「前の預言者」はヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記の四書、「後の預言者」はイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、十二預言者の四書です。「前の預言者」は、捕囚期には成立していた諸歴史文書を資料として用いて、出エジプト以後バビロン捕囚に至るまでの歴史を預言者的な視点から記述しています。
 この《ネビイーム》(預言者)は前二世紀中頃までには成立していて、それ以後は《トーラー》(律法)と並んで聖なる書として会堂に置かれ、安息日の礼拝には両方が用いられるようになります。イエスの時代のユダヤ教はこの二つを聖なる書としていて、聖書は「律法と預言者」と呼ばれていました(マタイ五・一七、ルカ一六・二九など)。すべての信仰上の議論はこの二つの聖なる書を論拠として行われたことが新約聖書にも見られます。両者の中で《トーラー》が根本的な権威とされ、預言者の文言は律法に合致する仕方で解釈されなければなりませんでした。ユダヤ教徒は自分たちの宗教を「ユダヤ教」と呼ぶのではなく、《トーラー》と呼んで、《トーラー》への従順と熱誠を生き甲斐としていました。
 この「律法」と「預言者」が聖なる書として確立した後に成立したもの(たとえば歴代誌やダニエル書など)、あるいは並行して用いられていたが形成途上にあって「律法と預言者」に入れられなかった信仰文書(たとえば詩編や箴言など)は、《ケスビーム》(諸書)と呼ばれて「聖なる書」の第三部を形成します。しかし、このような後期の諸書のどの文書を「聖なる書」に入れるかは議論が続き、最終的にその範囲が決まるのは一世紀末になります。新約聖書でも二世紀に入って書かれたとされる部分には、聖書を「律法と預言者と詩編」(ルカ二四・四四)という表現で指す場合が見られます(詩編が諸書を代表しています)。

われわれが使っている日本語聖書では、歴史書(前の預言者四書を含み、創世記からエステル記まで)、宗教文書(ヨブ記から雅歌まで)、預言書(後の預言者、イザヤ書からマラキ書まで)の順序で並べられています。これはイスラエルの過去の歴史、現在の宗教生活、将来への予言という時間系列で配列されたもので、古代教会以来キリスト教会が正典としてきた七十人訳ギリシア語聖書の配列に従ったものです。ユダヤ教のヘブライ語聖書では、創世記から申命記までの五書が「律法」《トーラー》と呼ばれ第一区分をなし、ユダヤ教の最も基本的な聖典とされます。第二区分の「預言者」《ネビイーム》は「前の預言者」(ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記)と「後の預言者」(イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、十二小預言書)の二部に別れます。第三区分の「諸書」《ケスビーム》は、第一区分と第二区分の文書がまとめられた後に成立した宗教文書で、ダニエル書や歴代誌もここに含まれます。ユダヤ教徒は聖書全体を、この三つの区分の名称の最初の文字を並べて「タナッハ」と呼んでいます。このような聖書がどのような過程を経て成立したかについては、次の小節「聖書正典の成立」でその概略を扱います。ただし、本章の議論では、成立の過程は問題ではなく、(分類と配列は違いますが)現在わたしたちが使っている旧約聖書と同じ内容の諸書が、イエスの時代に「聖なる書」として用いられていたことを確認するだけで十分です。

 イエスの時代(一世紀前半)では「聖書」は「律法と預言者」でした。聖書は、イスラエルの民の昔の言語ヘブライ語で書かれています。ところが、イエスの時代のユダヤ人はアラム語を用いていました。ヘブライ語とアラム語は同じセム系の言語で似ています。文字もほぼ同じです。 指導層の祭司や律法学者はヘブライ語を習得していましたが、庶民は日常アラム語を用いていて、会堂で聴くヘブライ語の聖書は正確に理解することはできませんでした。シェマーなどの重要告白文はヘブライ語で唱えられましたが、聖書の朗読と解説的な講話はアラム語でなされました。この聖書のアラム語訳(逐語訳および解説的翻訳)は「タルグム」と呼ばれ、文書になるのは五世紀以降ですが、それによってイエスの時代の聖書解釈を垣間見ることができる場合があります。
 ユダヤ教徒の家庭の子供は、会堂に設けられた教室で、幼いときから聖書を読むために文字を習い、聖書を教えられました。成人となってからは、安息日ごとに会堂で律法の朗読とその解釈(解説、説教)を聞きました。律法は一年で全部を朗読できるように日課表が定められていました。成人男性は誰でも前に進み出て律法の書を朗読することができました(正確を期すために暗唱は禁じられていました)。預言書の朗読をもって礼拝は終わりましたが、テキストの日課表はまだできていなかったので、朗読者はテキストを自分で選び、それについて語ることができました。イエスがナザレの会堂でされた説教(ルカ四・一六〜三〇)はこの場面の一例です。
 民族の全員が、このように一つの書物に書きとどめられた民族の歴史と伝承、また宗教と道徳の諸規定を繰り返し唱えて学び、その宗教生活を古代から二千年以上にわたって続けてきたという例は、世界の宗教史でもきわめて珍しく、このような「書物の宗教」としての宗教のあり方に、ユダヤ人の頭脳の優秀さの秘密があるのではないかと考えさせられます。

ユダヤ教におけるシナゴーグ制度と会堂での実際の礼拝について詳しくは、E・ローゼ『新約聖書の周辺世界』(加山訳・日本督教団出版局)195頁の「3 シナゴーグ」の項を参照してください。なお、正典としての聖書の成立過程については、次の小節Uでやや詳しく扱います。

U 聖書正典の成立

多くの文書の集成としての聖書

 では、その聖書とはどのような書物でしょうか。その性格を理解するために、その成立の概略を見てみましょう。この聖書という特異な書物の成立と性格を理解するためには、イスラエルの民の歴史の中で見なければなりません。というのは、聖書は一人の著者が著述した書物ではなく、また一人の宗教的人物の言動を記録した文書ではないからです。アブラハムからイエスの時代に至るイスラエルの民の二千年の長い歴史の中で、様々な時期に成立した様々な種類の伝承や多数の文書が編集統合されて出来た書物であるからです。イスラム教の「コーラン」は預言者ムハンマドが受けた啓示の言葉を記録したものとされており、天理教の「お筆先」は教祖中山ミキの言葉を記録したものとされていますが、聖書はそのような宗教文書とは違い、長い年月の中で形成された様々なジャンルの伝承や文書、たとえば民族の父祖たちにかかわる伝承、民族の歴史、その中で守ってきた祭儀の諸規定、社会の法規定、神を賛美する詩歌、処世の格言、哲学的思想など、実に多様な種類の文書が含まれています。一つの書物ではなく、多くの書物を集めた文庫とか図書館のような存在です。このような多様な文書の集成が一つの宗教の聖典となるのは、その多様な文書が同じ一人の神に対する信仰を表明しているからです。この神がどのような神であるのかが本節の主題ですが、その前にこの神の啓示として尊ばれて聖書と呼ばれる文書の成立過程をたどり、その性格を理解しておくことが有益です。
 この文書集の成立過程は複雑で、近代の聖書学が多くの複雑な議論を経てその概略を明らかにしましたが、細かな点については議論が残っています。ここでその議論に立ち入ることはできませんので、本節の主題に必要な範囲でその成立の過程を簡単に見ておきます。その際、ユダヤ教におけるヘブライ語聖書の主要三区分となる「律法、預言者、諸書」の中で、「預言者」と「諸書」については先にそれらが「聖なる書」に取り入れられた過程について述べたこと(本書一三三〜一三四頁)にとどめ、ここでは捕囚後に形成されたユダヤ教の基礎になった「律法」(モーセ五書)について、ごく概略を見ておきたいと思います。それはモーセ五書が捕囚前のイスラエル宗教の歴史と伝承をまとめていて、ユダヤ教という宗教の基礎となり、ユダヤ教の性格と内容をよく示しているからです

捕囚期までの偉大な二つの歴史書

 イスラエルの歴史はアブラハムから始まり、奴隷の家エジプトから民を救い出したモーセを通して与えられた啓示と契約により、神ヤハウェの民としての歴史が始まります。しかし、文書としての聖書の成立についてはダビデ・ソロモンの時代に形成された統一国家とその後の南北の二王国時代、そして特にバビロン捕囚前後の時代が重要です。というのは、モーセ五書を形成する資料となる諸文書がこの時代に生み出され、捕囚後の時代にほぼ現在のモーセ五書の形にまとめられたと見られるからです。その中で、捕囚期までの文書としては、二つの歴史書が重要です。すなわち、「ヤハウィスト文書」と呼ばれる歴史書と、「申命記史書」と呼ばれる歴史書です。
 
1 ヤハウィスト文書(略号 J ) 神名に「ヤハウェ」を使っている資料で、創世記二章(四節後半から)と三章が初出です。その後どこまで用いられているかは、土地取得までとか、王国時代までとか見解が分かれています。この資料の編纂者(またはグループ)は、それまでにイスラエルに語り伝えられていた伝承を物語にまとめて、原初史物語、族長物語、出エジプト物語、シナイ物語、荒野物語を構成しました。以前は(古典的資料説では)ソロモンの時代または南北二王朝期の中頃に南部のユダヤで成立したと見られていましたが、最近では捕囚期またはそれ以後の成立と見る説が有力です。レヴィンはその内容と視点から、前五九七年に捕囚として送られたバビロンで一種の亡命政権として存続したヨアキン王の宮廷での成立を推察しています。それは現在モーセ五書の構成部分となっているという意味で「資料」と呼ばれますが、もともとはすでに以前から存在していた文書化されていた諸資料を特定の統一的な視点から一つの新たな全体にまとめ上げた「歴史書」です。レヴィンはこの歴史書が示している視点から、敵対的な土着の多数者からの抑圧された少数者の救済を語る書だとし、「ユダヤ人の最古の起源史」であるとしています。
なお、イスラエルの歴史物語の中に、神名に「エロヒーム」を使っている部分で、後述の祭儀的な関心の強い部分(祭司文書)とは区別される部分があり、一つの資料とされ、エロヒスト資料(略号 E )と呼ばれてきました。創世記二〇章以下の「イサクの奉献」など、断片的に出てきているとされています。以前は北王国で成立した歴史文書が、北王国の滅亡後に南に持ち込まれ、ヤハウィスト資料に合わせられて編集される際、多くの部分が削除されて断片的な資料になったと推測されていましたが、最新の旧約学では、このエロヒスト資料は独立の資料文書ではなく、後述の祭司文書(P)の一部と見る見方が有力です(レヴィン)。

2 申命記史書(略号 D ) モーセ五書の最後に置かれている申命記は、「前の預言者」としてまとめられているヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記と同じ思想で貫かれた歴史書と一体です。その神学思想は申命記に直接的にもっともよく表現されており、この五つの書は「申命記主義的歴史書」あるいは短く「申命記史書」と呼ばれています。その中で申命記は、ヨシヤ王(在位前六四〇〜六〇九年)の時代に改修中の神殿から発見されたとされ、ヤハウェ礼拝をエルサレム神殿に集中させる宗教改革(列王記下二二〜二三章)の基になった律法書(原申命記)を核とし、それに編集が加えられてモーセの遺言という形で「律法」《トーラー》の最後に入れられた文書です。この律法書の「発見物語」は伝説であり、実際は聖所を一つに統合して、北王国イスラエル滅亡後その地をも統合してダビデ王国の昔を回復しようとしたヨシヤ王の布告による改革であったと考えられます。
 この改革の理念に燃える人物が、捕囚の現実に直面して、それを(預言者たちが語ったように)ヤハウェに対して罪を犯した民への裁きであることを受け入れ、同時に罪の悔い改め(ヤハウェへの忠誠)を通してダビデ的な栄光の王国の回復を望む希望の原理をもって、モーセの時代から捕囚までの歴史をまとめたのが申命記史書です。この歴史書は一貫してヤハウェの意志がダビデ王国とエルサレム神殿を目指していることと、その王朝の永続を保証することであったとしています。その価値判断の原理は「ヤハウェの目に善とされることを行った」か「悪とされることを行った」かです。民や王たちはこの基準で判断されます。北王国の王たちは例外なく悪とされます。それは彼らはすべて、ダビデ王朝から離反し、エルサレム神殿に対抗するためにベテルとダンに二つの聖所を創設した「ヤロブアムの道を歩んだ」からです。南王国ユダの王たちもヤハウェへの忠誠度に従って判定されていますが、ヤハウェ礼拝に熱心であったヒゼキヤとヨシヤは無条件に肯定的に評価されています。この史書をまとめた著者ないし編集者は「申命記史家」と呼ばれますが、それが一人であったのか、その姿勢の微妙な違いから、二人であったのか、それ以上の「申命記学派」と呼ばれるようなグループであったのかについては諸説があります。いずれにせよ申命記史書は、バビロニア帝国の勢力が急速に衰え、ダビデ王朝再建の希望が持てるようになった時期、すなわち前六世紀の中葉からクロス王による解放(前五三九年)の間であると考えられます(レヴィン)。

捕囚期以後の集成

前六世紀の捕囚の体験は イスラエルの民の宗教に決定的な変化をもたらしました。その時期までに成立していた二つの歴史書、すなわちヤハウィストの歴史書(J)と申命記史書(D)は、それまでのイスラエルの民のすべての伝承と文書化された資料を、それぞれの視点から(両者の視点とか思想はかなり違っています)それぞれ別の統合体にまとめあげました。現在のわれわれが捕囚以前のイスラエルの伝承と歴史を知ることができるのは、この両歴史書のおかげです。この二つの歴史書は、後に編集されて「律法」(モーセ五書)の構成要素となったので「資料」と呼ばれますが、本来はそれまでのイスラエルの歴史を語る独立の歴史書であり、それぞれの信仰と思想をもって書かれた壮大な歴史書です。その二つの歴史書が、後に祭司たちによって彼らの歴史書である「祭司文書」に統合されて「律法」(モーセ五書)となります。この二つの歴史書がその後のユダヤ人の歴史に決定的な影響を及ぼした事実は、日本の古代に成立した古事記と日本書紀という、それまでの神話や伝承をまとめた二つの書(記紀)がその後の日本史に大きな影響を及ぼした歴史と比較することができるかもしれません。ただ、日本ではこの二つの書がまとめられて一書となり、日本人の宗教の聖典となるようなことはなかった点が違います
モーセ五書はイエスの時代のユダヤ教から古代と中世のキリスト教会を通してずっとモーセの著作として扱われてきましたが、近代の学術的な研究によって王国時代およびその後に形成された複数の資料からなる文書であることが明らかになりました。その端緒は、モーセ五書の中に神の名をヤハウェと呼ぶ部分とエロヒームと呼ぶ部分があり、両者は用語や文体だけでなく、内容や思想傾向がかなり違うことが分かったことです。その後の綿密な分析の結果、現在ではほぼ以上のような諸資料から成っていると見られるようになっています。

 モーセ五書がモーセ個人の著作ではなく複数の資料から成る文書であることは早く一八世紀から気づかれており、その分析と研究は熱心に進められてきました。とくに一九三〇年代から一九六〇年代にかけて、A・アルト、M・ノート、G・フォン・ラートらの偉大な旧約学者によって壮大な総合的理解に達し、彼らの説はその後の旧約聖書学の通説として扱われてきました。これを一応ここでは「古典的な資料説」と呼んでおきます。その議論の大要は『総説 旧約聖書』(日本基督教団出版局、一九八四年)で、日本の代表的な旧約聖書学者によって紹介されています。しかし最近、旧約聖書の文学史だけでなく、古代オリエント世界の諸資料が質量とも多量に知られるようになり、それらの資料との比較研究によって古典的な資料説は修正を迫られるようになっています。Anchor Bible Dictionary には、古典的な資料説とそれに対する批判説が、各資料別に詳しく紹介されています。最近の資料説はまだ流動的で、どれか一つで代表させることはできません。旧約聖書の各文書の成立史については、最近岩波書店から刊行された『旧約聖書』各巻の巻末に翻訳者による「解説」があります。ここでは一例として、比較的入手しやすくて分かりやすい左記の文献によって、最近の傾向を見ることにします。
クリストフ・レヴィン 『旧約聖書 ― 歴史・文学・宗教』 (山我哲雄訳、教文館 原著は二〇〇一年)

 ところで、捕囚からエルサレムに帰還したユダ族の人たちはシオンの地(エルサレム)に神殿を建ててヤハウェ信仰を再興しようとします。この神殿は、ソロモンが建てた神殿と区別して「第二神殿」と呼ばれます。この神殿を拠点としてヤハウェ信仰を再建しようとした指導層(祭司たち)は、この神殿で執り行われるべきヤハウェ礼拝の内容を中心に、ヤハウェの民の歴史を再記述します。それが「祭司文書」(略号 P )と呼ばれる文書で、モーセ五書の枠組みを形成する文書となります。この「祭司文書」では神を指すのに《エロヒーム》という語が用いられています。この文書の成立は第二神殿初期、前五世紀かその前後と考えられています。
 この文書がいかに強く祭司的な関心で貫かれているかは、最初の天地創造の記事にも明らかです。捕囚の地でヤハウェ礼拝のもっとも重要な規定の一つとされた安息日の定めを根拠づけるためだけに、世界の成立の全過程が六日間というきわめて人為的な枠に押し込められています。しかし、何よりも祭司的な関心が強く直接的に出ているのは、再建されたエルサレム神殿で執り行われる祭儀が、すでにモーセに命じられていて、荒野放浪の時代に幕屋(天幕)で行われていたという構成です。出エジプト記の後半(二五章以下)やレビ記全体を見れば、この祭司的関心は一目瞭然です。
 しかしこの文書の目的は祭儀の根拠づけのためだけではありません。その主要な目的は他の歴史書と同じく、独自の神学的観点からヤハウェの民の歴史を記述することでヤハウェ信仰を確立することでした。捕囚期にはすでにエレミヤの契約神学、第二イザヤの創造と贖いの思想、自身祭司でもあったエゼキエルの祭儀共同体再建の預言が成立しており、また契約神学的な改訂を受けた申命記も知られていました。このような捕囚後の神学思想的観点からヤハウェの民の歴史が語られます。そのさいもっとも強く影響を受けたのは祭司でもあった預言者エゼキエルの預言書だとされています。読者として念頭に置かれているのはディアスポラのユダヤ人であり、祭司文書はディアスポラの中心としての神殿を確立しようとしています(レヴィン)。
 祭司文書では歴史叙述を秩序づける枠(まとめ方の原則)が用いられますが、レヴィンはこのような枠を五つあげています。
 1 「これは《トーレドート》である」という標題による枠。《トーレドート》という語は「産む」を意味する動詞から出た語で、本来「子孫たち」を意味し、日本語訳ではおもに「系図」と訳されていますが、その他「由来」、「歴史」、「物語」などと訳されています。この標題によるまとめの枠は創造からヤコブの子らの時代まで続きます。傍流の系図の民が聖なる歴史から除外されていき、神の民イスラエルの存在に達します。
 2 地理的な枠。傍流の民が除外されたとき、彼らは約束の地から立ち去ります。アブラハムとロト、ヤコブとエサウの場合などに見られます。
 3 年代体系の枠。祭司文書はしばしば時を示す正確な数字を記しており、それによって救済史の流れを年代づけることができるとされています。ユダヤ教の天地創造紀元の暦はこれらの数字によって年を数えています。それによると、世界時間は全体で四〇〇〇年で、出エジプトは(マソラ本文では)二六六六年になるそうです。
 4 神の名による枠。祭司文書は神の名によって啓示の歴史に時代区分を与え、神が時代を追ってまます明瞭に自身を表していくようにしています。全人類に対しては神を指す普通名詞の《エロヒーム》、神の民の前史をなす族長たちには《エル・シャッダイ》、そしてモーセに対して初めて《ヤハウェ》という名が啓示されます。改名は人間の側にも起こります。アブラムとサライはアブラハムとサラに、ヤコブはイスラエルに名を変えられます。名が変わることによって、神と人との関わりが新しい段階に入っていきます。
 5 契約による枠。祭司文書には、ノア契約(創世記九章、一一章)、アブラハム契約(創世記一七・六〜八)、出エジプト契約(出エジプト記六・二〜八)、シナイ契約(出エジプト記二五〜二九章)の四つの契約があげられています。これらの契約は聖なる歴史の流れにとって決定的な意味をもつ箇所になります。この契約による枠は、歴史書としての祭司文書のもっとも重要な神学的枠組となります。
 この祭司文書によれば、ヤハウェはイスラエルの民を世界の発端で選び分かち、また離散や抑圧から解放しました。それは、ヤハウェが彼らの中に住まいを定め、見捨てられたイスラエルの状態を永遠に終わらせるためです。ヤハウェの現臨はイスラエルがその建立を命じられている祭儀の場(神殿)において実現することになります。この祭司文書がどこで終わっているのかは明確ではありません。

聖書正典としての集成

エルサレムの第二神殿を拠点としてヤハウェ宗教を再建しようとした祭司たちは、自分たちが構成した歴史書(祭司文書)を枠として、捕囚期までに成立していた偉大な二つの歴史書(ヤハウィスト文書と申命記史書)を資料として用い、モーセの死にいたる部分をモーセ五書にまとめ、それを《トーラー》(律法)と呼んでヤハウェ宗教の土台としました。そして申命記史書のモーセ以後捕囚にいたるまでの部分の四つの歴史書(ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記)を「前の預言者たち」とし、捕囚期前後に輩出した偉大な預言者たちの文書や伝承を「後の預言者たち」の四書にまとめました。これは、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルの三大預言者と、アモスやホセアらの十二人の小預言者集という四つの文書から成っています。これらの預言書の成立に祭司たちの編集の手が加わっていることは、捕囚期前にエルサレムで活躍したイザヤの書に、捕囚期の無名の預言者と捕囚以後の第二神殿期の預言者の文書が合わせられて「イザヤ書」とされていることからも明白です。捕囚前の北王国で成立したとされてきたホセア書も、最近では第二神殿建設期のサマリア教団との対立を反映しているとの見方もあります(レヴィン)。「モーセ五書」(律法)の成立は前四世紀、「預言者」の成立は前二世紀と見られ、この二つがべブライ語聖書の主要部となります。イエスの時代のユダヤ教では、宗教上の主張はいつも「律法と預言者」という二つの権威からの引用で根拠づけられました。
律法と預言者の諸文書は現在の形になるまでには長い編集の過程を経ています。聖なる文書の伝承には「あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりに、あなたの神ヤハウェの戒めを守りなさい」(申命記四・二)という大原則の順守が求められました。しかしそれを守る人間の側の状況は歴史と共に変わります。新しい状況でヤハウェの言葉を守るには、その言葉の新しい解釈が必要になります。しかし、伝えられた言葉そのものは変えられません。そこで伝えられたヤハウェの言葉は付け加えたり減らしたりすることなく、新しい解釈を加えるという方法で聖なる言葉が伝承されます。加えられた解釈も聖なる本文に加えられ、減らすことができない聖なる言葉となり、こうして聖なる言葉の伝承は時代と共に雪だるま式に増殖します。聖書はこのような自己解釈の長い歴史を経て現在の形に成長し、ユダヤ教の聖典となります。
ユダヤ人を捕囚の地から帰還させ神殿を建てることを許したペルシャ帝国もギリシアの力に敗れ、地中海世界はギリシア文化が支配するヘレニズム時代に入ります。その時代においても、エルサレムの神殿を拠点とするユダヤ教は、神殿を異教の宮にしようとしたヘレニズム君主の弾圧を撥ね退けて神殿を回復し、大祭司を頂点とする独立の宗教国家を形成するなど力強く活動します。その時期にも多くの宗教文書が生み出されますが、その時期には「律法」と「預言者」は確立していますから、その中に入ることはなく別の信仰文書として尊重されるようになります。たとえばダニエルの預言書は「預言者」には入っていません。別の視点で捕囚までの歴史を扱った歴代誌はサムエル記や列王記の新しい解釈としてではなく、別の歴史書となります。その他、知恵文学や教訓書など、この時期に成立した文書は後に「諸書」という名称で呼ばれる聖なる書の第三区分に入れられます。イスラエル宗教の時代からヤハウェへの賛美や祈りを集めた「詩篇」や王国時代の宮廷で成立したと見られる知恵文学の諸書などもこの「諸書」の中に入れられます。どの書を諸書の一つとして聖なる書に入れるかは、議論が続き(たとえば雅歌)、最終的に決まったのは一世紀末ということです。
こうしてユダヤ教の正典としての聖書(旧約聖書)は一応完結しますが、神との関わりの中で聞いた言葉の新しい解釈という作業はこれで完結ということはなく、人間が歴史の中にある限り続きます。旧約聖書正典の外側で生み出された諸文書は「旧約聖書続編」を形成し、新約聖書も聖書(旧約聖書)の新しい解釈と見ることもできます。マタイは聖書の最終章を書いているつもりでその福音書を書いたと考えられます。パウロは聖書を成就するキリストによる救済をユダヤ教という宗教の枠から解放することで、聖書の遺産を非ユダヤ教の世界に広めました。コーランも聖書の解釈史の一部と見ることができます。その全体は人類の宗教史において最も豊かな霊感の源泉です。

ヘレニズム時代のユダヤ教においては、知恵思想がユダヤ教の重要な構成要素となりますが、本書では扱いきれず、別著に委ねます。

V 聖書の神の特質

では、この聖書がユダヤ人に啓示した神とはどのような神でしょうか。イエスがそこで生まれ育ち、その中で活動されたユダヤ教という宗教はどのような宗教でしょうか。その全容はこの小論では語り尽くせませんので旧約聖書神学の専門書に委ね、以下にその中心的な特色だけを数点に絞ってあげておきます。

人格神

聖書の神は人間に語りかける神です。言葉をもって語りかける神です。これは当たり前のこと、自然なことではありません。本書の第一章「宗教とは何か」で見たように、人類は原始の段階では、日常の生活体験を超えた異常な体験をしたとき、その対象を「聖なるもの」として崇めて拝みました。それは何らかの働きであり力でした。生活に禍福をもたらす何らかの力でした。確かに憑依したシャーマンの口からはお告げの言葉が出ることもありました。しかしその言葉はシャーマンの人格とは関わりのない言葉として口から出るだけで、その言葉が語りかける人格に全人的な聴従を求める言葉ではありませんでした。それに対してイスラエルの民に語りかける神は、語りかける方に対する全面的な信従を求める神です(申命記六章四〜五節)。言葉による全人格的な関わりを求める神、人格的な神です。
イスラエルの歴史はアブラハムから始まります。アブラハムの生涯にこの神と人間の関わり方が典型的に描かれています。アブラハムの一族は、人類文明の発祥の地の一つに数えられるメソポタミアのウルという町の住民でした。ウルはユーフラテス川沿い(現代ではペルシャ湾近く)に建てられ貿易で栄えた古代都市で、紀元前二千年代の第一から第三王朝期に繁栄します。ウルは月神ナンナ(シンとも呼ばれる)を祀る聖所で、巨大なジグラットの遺跡も残されています。アブラハムは父のテラと共に上流のハランに移住しますが、そこで父のテラが亡くなったとき、上から語りかける言葉を聞きます。
その言葉はアブラハムに、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」と語ったと伝えられています(創世記十二章一〜二節)。アブラハムはこの言葉に生涯をかけて従いました。これ以後のアブラハムの生涯を語る創世記の記事は、「主はアブラハムに語られた」と繰り返し伝えています。これらの箇所の主は、ヘブライ語聖書では「ヤハウェ」となっています(岩波版旧約聖書の「創世記」を参照)。ヤハウェという名は、アブラハムよりずっと後の時代のモーセにはじめて示されたのですから(出エジプト記三章)、この記事は歴史的経過としては矛盾しています。このことはアブラハムの記事の性格を暗示しています。すなわち、ヤハウェがアブラハムに語られたとする創世記の記事は、その歴史の全体でヤハウェの言葉を聞き、その言葉によって歴史を形成してきたイスラエルの民が、その体験と信仰を自分たちの祖アブラハムの生涯に投影して語っているということです。神から選ばれた民としてのイスラエルは、人間が形成した宗教の支配から脱出して、砂漠で(=他には何もない場で)神の言葉だけが形成する歴史を歩む民なのです。出エジプトの体験はその姿の集大成です。
神からの語りかけのことばによって生きる民は、その言葉に言葉によって応えます。それが祈りです。したがって、祈りの中核は神への感謝と賛美です。というのは言葉による神と人間の関係においては、常に神が主体であって、神が人間に良いことをなしてくださることに対して人間が応答することが祈りの本質だからです。しかし、イスラエルの民にとって神は「あなたは」と呼びかける相手ですから、その相手を信頼して自分の苦境を訴え、願いを捧げることも起こります。このように、人格的な交わりの中で神の働きかけに応答する神への人間の言葉が祈りです。イスラエルの民の祈りは、イスラエルの神ヤハウェへの感謝、賛美、信頼、訴え、祈願の叫びの言葉となります。その祈りの言葉が集められたのが「詩篇」です。詩篇はイスラエルの歴史の様々な時代の祈りが集められています。捕囚前のものも捕囚後の時代のものもあります。その祈りが捧げられた時代と状況によって、その内容や呼びかけの名称には違いがあります。呼びかける対象は圧倒的に「ヤハウェ」です。これはイスラエルがモーセ以来自分たちの神をヤハウェと呼んできたのですから当然です。しかし、時代と編集によって「エロヒーム」とか「エル」(両方とも神)を使っている詩篇も(少数ながら)あります。ほとんどの日本語訳は(欧米諸語の翻訳も)ヤハウェを「主」と訳していますが、これは七十人訳ギリシア語聖書に従ったもので、ヘブライ語聖書の詩篇では「ヤハウェ」です(岩波版旧約聖書の「詩篇」を参照)。
エジプトを脱出して砂漠でヤハウェとの言葉による関わり(後述の契約関係)を結んだイスラエルの民も沃地に入ってからは、周囲の諸民族と対抗して生存を維持するために、同じような王国を形成するようになり、王国の統合と王権の権威を図るために壮大な神殿を建て、その宗教を荘厳な祭儀で固め、それを執行する祭司階級をもつようになります。ヤハウェは壮麗な神殿祭儀の中で崇められ、その中に自分を現す神となります。こうして砂漠で言葉だけで形成されたイスラエルの民の宗教も、王国の歴史の中で神殿を拠り所とする祭儀宗教に変貌して行きます。このような祭儀に依り頼むイスラエルの宗教に対して、祭儀はヤハウェが求めるものではなく、ヤハウェが忌み嫌うものだとまで極言して批判し、ヤハウェの言葉に全人格的に従うことを求めたのが預言者たちです。ヤハウェはその言葉に背く民は、自分が選んだ民であっても裁く神であるという預言者の言葉は実現し、エルサレムは異国の軍によって蹂躙され神殿は破壊されます。預言者たちの言葉に、聖書の神の人格神としての姿が典型的に啓示されていることになります。とくにイスラエルの祭儀宗教が壊滅した捕囚期の預言者である第二イザヤの預言に、イスラエルの預言者宗教の精髄を見る思いがします。

契約の神

言葉によって人間と関わる人格神は、契約の神となります。契約という人間相互の体験が、神との人間の関わりを指し示す象徴となります。その典型はイスラエルの民がモーセに率いられてエジプトから脱出したとき、シナイ山でヤハウェと結んだ契約です。アブラハムに現れイサクに語りヤコブを導かれた神は、その選ばれた父祖たちの子孫の民を苦役の地となったエジプトから導き出すに当たって、モーセに現れて「ヤハウェ」という名を示し、民をエジプトから導き出す使命をお与えになります。
モーセは、彼によって現された神の力ある働きに助けられて、民をエジプト王の強大な支配から解放して荒れ野に脱出させることに成功します。そして出て行った荒れ野でその神ヤハウェと契約を結びます。それは十の言葉からなる簡素な契約でした。ヤハウェはまず「わたしはヤハウェ、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」と名乗り、「あなたは…することはない」という十の言葉が続きます。十の言葉の数え方には諸説ありますが、前半はヤハウェだけを神とすることを求める言葉、後半は隣人に対する振る舞いについて述べる言葉です。わたしはあなたを救う神であるのだから、あなたはわたし以外に神があってはならないし、あなたたちの間ではこのようなことはあってはならない、という約束事です。
この約束事は当時周辺の部族の間で結ばれていた宗主契約(強大な部族の長と彼に依存する弱小部族との契約)をモデルにしていると言われていますが、これは言葉による人間社会の約束事を神と人との関わりを指し示す象徴として用いているのであって、宗教の世界の通例です。イスラエルの民の宗教は、この契約の言葉に基づいて、その後のイスラエルの歴史の中で、それを実現するために状況に応じた様々な細則と解釈が加えられて律法が形成され、イスラエル宗教の土台となり、その細則のすべてがモーセによって与えられたものとされてモーセ五書が成立し、ユダヤ教の正典となります。
イスラエルの宗教が神との間の言葉による約束事としての契約関係に基づくものとされた結果、イスラエルの歴史は契約に基づくものとして記述されることになります。アブラハムから始まるイスラエルの歴史はヤハウェとアブラハムとの契約(創世記一七章)から始まります。そもそも人間がこの地上に大水で滅ぼされることなく生存できるのも、ヤハウェがノアに与えた契約(創世記九章)によります。アブラハムの子孫の十二部族がまとまってイスラエルとなり、ヤハウェの民とされたのも、ヨシュアによって結ばれたシケムでの契約によります(ヨシュア記二四章)。イスラエルの民の王国が危機にある時にも、ダビデ王国の存続や回復の希望を持つことができるのも、ヤハウェがダビデに与えたダビデ契約(サムエル記下七章)があるからです。捕囚からエルサレムに帰還した民が再びヤハウェの民として再出発したのは、律法学者エズラが捕囚の地からもたらした律法によって結ばれたエズラ契約によります(ネヘミア記八〜九章)。
聖書を神の啓示としてユダヤ教から受け継いだ初期のエクレシアは、福音を世界に提示するに際して、聖書が語る契約の神の象徴を用いることになります。神はキリストとしてのイエスにおいて人を救う働きを成し遂げられましたが、エクレシアはそれを神が人間に与えてくださった「新しい契約」として提示することができました。福音はイエスが十字架の上に流された血を新しい契約のために流された血として語ることになります(マタイ二六章二七〜二八節)。聖書の世界では契約を結ぶときは、その契約の言葉を保証するためにいけにえの動物の血が用いられました(創世記一七章、出エジプト記二四章)。日本でも重要な誓約には血判が行われました。印鑑の朱肉はその名残りと言われます。福音は、神がキリストの血をもって、すなわちキリストの命と死の全体をもって新しい人間との関わりを創り出されたのだと告知します。モーセによってイスラエルに与えられた契約は、この新しい契約の準備とか予型とされて「旧い契約」と呼ばれ、キリストによって与えられた契約こそが、もはや古びることがない最終的な契約という意味で「新しい契約」と呼ばれることになります。こうして契約の書である聖書は、旧い契約を記録する旧約聖書と、新しい契約を証言する新約聖書との二部からなる文書になります。

救済史の神

聖書は救済史の証言です。救済史というのは、神が人間の歴史の中で民の救済のためになされる働きの歴史のことです。旧約聖書は、神が人間の救済のために成し遂げようとされている働きを、選ばれたイスラエルの民の中で予め準備された歴史(それも救済史の一部です)の記録となります。これは神がすでにキリストにおいて救いの働きを成し遂げてくださったことを知っている者(エクレシア)の立場から見た見方ですが、当のイスラエルの民はそのようには理解せず、自分たちの神ヤハウェはあくまでイスラエルの民を愛して、その救いのために働かれたのだと理解して、その歴史を記録してきました。
イスラエルの信仰はもともと、エジプトからの解放という歴史的な出来事の中に働き自らを啓示された神ヤハウェを礼拝し、このヤハウェとの契約関係に生きるものでした。それは、土地の生産力を神とする周囲の諸民族のバール宗教とは根本的に違った性格のものでした。イスラエルの最も古い原初の信仰告白が申命記二六章五〜一〇節前半にあると言われていますが、この告白は「わたしの先祖は、さすらいの一アラムびとでしたが」という言葉で始まり、われわれ子孫がエジプトの地で苦役を強いられて虐げられていたとき、先祖の神ヤハウェが救い出して、この乳と蜜の流れる地を与えてくださったことを感謝しています。さすらう民にとって肥沃な定住の地が与えられることは最大の救済です。
これを捕囚後の信仰告白(ネヘミヤ九章六〜三一節)と較べてみますと、古い告白文は天地創造には全然ふれていません。ところが新しい告白文は、同じように歴史における神の救済の業を中心にしていますが、神の天地創造の業から始まっています。このような変化は、先に見たように、バビロン捕囚の体験が決定的な転機になって起こったものです。捕囚後の時代にエルサレムの第二神殿を拠点にしてユダヤ教を形成した祭司階級は、それまでのイスラエルの民の歴史伝承をまとめてユダヤ教の聖典モーセ五書を形成します。そして、その聖典を「初めに神は天と地を創造された」という偉大な宣言で始めます。
この「初め」は、宇宙存在の初めではなく、神の救済の働きの初めと理解すべき語です。この宣言から始まる聖書の全体は、神の人間救済の働きの歴史を証言する書になります。イスラエル宗教とその継承者であるユダヤ教には、人間の営みとしての宗教の常として多くの祭りがありますが、周囲の諸民族の祭がほとんど農業祭とか牧畜祭など生産力を神々として祀る祭ですが、聖書の民の祭はエジプトからの救出を記念する過越祭を中心に、ほとんどがヤハウェの救いの働きを記念する祭です。彼らも周囲の民の祭りを取り入れていますが、例えば秋の収穫祭という農業祭を出エジプトのときの荒野の旅を記念する仮庵の祭とするなど、祭の意義をヤハウェの救済の働きの歴史的記念に変えています。このことは、聖書の民は神を救済史の神としていたことを示しています。
初めがあれば終わりがあります。「初めに神は……された」と宣言した聖書は、「終わりに神は……される」と終わりに神がなされることを語ります。初めに神がされたことは過去形(完了形)で語られますが、終わりになされることは未来形(未完了形)で語られます(日本語では未来の動作も現在形と同じ形で表現されます)。聖書の神は選ばれたご自分の民を苦役の地エジプトから救い出すに当たってモーセに現れ、その名を尋ねたモーセに「わたしはなる、そのわたしはなる」という同じ未完了形の動詞を繰り返す不思議な言葉を語り、その「わたしはなる」がお前を遣わすのだとお答えになります。そしてこの動詞の三人称使役形(彼は…させる)とされる「ヤハウェ」を、イスラエルの神の名とするように定められます(出エジプト記三章)。
もともと聖書の神はこれから成そうとすることを予め語る神です。先に(前項で)聖書の神は契約の神であることを見ましたが、契約というのは約束、神がこれから成そうとしておられることの約束です。契約には、相手の在り方に関わらず無条件に神が成されることを約束する無条件型の契約(ノア契約、アブラハム契約、ダビデ契約など)と、相手が契約条項を守るならば神が成されることを約束する条件型の契約(シナイ契約、シケム契約、エズラ契約など)がありますが、神がこれから成そうとされることの約束であることには変わりはありません。イスラエルはこの約束によって支えられ、約束の成就を体験して自分たちの神ヤハウェを賛美して歴史を歩んできました。
同時にイスラエルは、その約束に忠実な神は契約を守らない民は自分の民であっても裁き滅ぼされる世界の主権者であるという厳しさも体験します。その亡国の悲惨な体験の中で、イスラエルは自分たちの現状を超えた神の働きを望み見るようになります。すでに捕囚期の初めに預言者エレミヤは、破綻した古い契約、ヤハウェがイスラエルの民をエジプトから救い出されたときに結ばれたあのシナイ契約とは別の新しい契約を与えて、世界を新しくされるときが来ることを預言しました(エレミヤ書三一章)。そして捕囚末期に活動した預言者(第二イザヤ)やそれ以後の預言者は、ヤハウェをもはや一民族の神ではなく、地の果ての創造者、世界の歴史の支配者であるとして、その神が現在の秩序とか世界とは全く別の「新しい天と地」を創造されると語るようになります(イザヤ六五章一七節、六六章二二節)。
こうして天地の創造を救済史の初めとして語った聖書は、神の救済の働きの最終局面として「終わりの日」の神の働きを熱く語るようになり、その時を熱烈に待ち望むようになります。その中には救済者メシアの到来も含まれます。救済史は終末論となり、聖書の民の中に特異な黙示思想を生み出すことになります。

天地の創造者である神

聖書は冒頭に「初めに神は天と地を創造された」と宣言しているので、イスラエルの民は初めからこの信仰をもって宗教生活を進めてきたと考えられがちです。しかしそうではなく歴史的な事実としては、この創造信仰はバビロン捕囚というイスラエルの破綻という出来事を経て初めて成立したのです。そのことはこれまでの諸項で見てきた通りです。イスラエルの民の伝承には、創世記二章の記事に見られるような、他の民族と同じような創造神話がありました。しかしもはや神話ではなく、神に対する基本的な信仰告白として、正典冒頭に置かれるのは、捕囚後に成立したユダヤ教においてです。イスラルは捕囚という体験を経てこの創造信仰に到達したのです。
創世記一章一節では《バーラー》(創造する)という動詞が使われています。ヘブライ語には「造る」という意味の動詞は他にもありますが、この《バーラー》は捕囚末期のあの大預言者(第二イザヤ)がよく用いた動詞です。イスラエルの民が捕囚の地で、自分たちの神ヤハウェは異国の神よりも弱く、自分たちはそのヤハウェからも見放されたのだと、その信仰が失望のどん底にあったとき、この預言者はヤハウェこそ地の果ての創造者であって、他の神々とは比較を絶する神であることを示されて、その神を告知します(イザヤ四〇・二五〜二八、四一・二〇、四二・五)。預言者は、この神がイスラエルをご自身の栄光のために創造されたのだから、かならず贖って(救って)くださると励まします(イザヤ四三・一、七、一五)。ヤハウェは光も闇も、平和も災いも創造する者であるから、(今は闇でも)正義と恵みの業(救い)はヤハウェが創造される、と民を励まします(イザヤ四五・七〜八)。そして預言者は、「それは今、創造された」という言葉で、神は時をも支配される絶対的主権者(人間の知識や働きとは無関係に自分の意志だけで行動される主権者)であることを語ります(イザヤ五八・七)。そして、この預言者の信仰を継承する預言者(第三イザヤ)は、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。……見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する」と、終わりの日にヤハウェが成し遂げられる創造の働きを語るに至ります(イザヤ六五・一七〜一八)。
こうして、イスラエルの民は自分たちを救うヤハウェの働きが破綻したように見える捕囚体験の中で、自分たちの神を天地万物の創造者であるとの信仰に到達し、その創造の働きを救済史の「初め」とすることで、イスラエル宗教の継承者であるユダヤ教の救済史信仰は世界史的な視野を持つようになり、そのユダヤ教がヘレニズム思想と出会うことによって、その救済史は宇宙論的(コスモロジカル)な規模のものとなります。ユダヤ教において聖書の神、救済史の神は世界の救済者となり宇宙《コスモス》の根底であり完成者となります。この過程を経ることでユダヤ教は福音への道備えをすることになります。
ヘレニズム思想は、ヘラス(ギリシア)の文化が支配的なヘレニズム世界の基調をなす思想であり、ギリシア哲学を土台としている思想です。紀元前四世紀のアレキサンドロス大王の東征により、ギリシアの支配は地中海地域東部の全域に及び、大王の融和政策によってオリエントの宗教文化とギリシア文化が融合して独特の混淆文化世界、ヘレニズム世界が成立します。この地域の諸民族の固有の宗教や文化はヘレニズム化の波によって大きな影響を受けることになります。パレスチナも例外ではなく、ユダヤ教の牙城であるエルサレムも、大王の後継王朝の強硬なヘレニズム化政策によって激しく弾圧されますが、ユダヤ教に忠実な勢力によって神殿が回復されるなどの劇的な事件もありました。しかしここでは、ユダヤ教がヘレニズム思想との出会いと対抗の中で蒙った信仰や思想上の変化に絞って、とくに創造信仰への影響について考察します。
この面で最も大きな影響力があった出来事は、聖書がギリシア語に翻訳されて、「七十人訳」と呼ばれるギリシア語訳聖書が成立したことです。ヘレニズム世界の最大の文化都市であり、ユダヤ人の大きな共同体が活躍するエジプトのアレクサンドリアで、まずモーセ五書がギリシア語に翻訳され(前二世紀)、続いて預言者の書が、さらに諸書に含まれる各書が順次翻訳され、この時期にギリシア語で書かれた文書(ヘレニズム期に成立した知恵思想系の諸文書)も含んで、配列の順序も違う「七十人訳ギリシア語」聖書が成立します。後にこのギリシア語聖書がエクレシアの聖書とされることになり、キリスト教の信仰と思想に重大な影響を及ぼすことになります。

「七十人訳ギリシア語聖書」の成立とその意義については、『七十人訳ギリシア語聖書』(泰剛平訳、河出書房新社)五巻に創世記から申命記までのモーセ五書の日本語訳がありますが、その五巻のそれぞれの巻末に訳者による「総説」の五章が付されていますので、それを参照してください。とくにTの巻末「第一章 アレクサンドリアにおけるモーセ五書のギリシア語訳」とUの巻末「第二章 最初期のキリスト教徒と七十人訳聖書」をご覧ください。

ギリシアの哲学は存在の本性本質を問い、根源の存在に至ろうとします。そのギリシア的傾向は神の名についての翻訳に典型的に表れています。出エジプト記三章によると、モーセが神に名を尋ねたときに与えられた啓示の言葉は《エヒエー》(ある、成る)という動詞を繰り返す不思議な文でした。この不思議な文の意味につては議論は決着していません。この文をギリシア語訳聖書は「わたしは《ホ・オーン》である」と訳し、「《ホ・オーン》がわたしをつかわした」と続きます。《ホ・オーン》は「ある」という動詞の現在分詞形(英語ではbeing)に男性を指す定冠詞がついた形であり、「在る者、存在者」という名詞になります。ギリシア語聖書は神を存在者という名詞で指したのです。神は存在、根源的存在と理解されるようになり、その存在の本質がキリスト教神学において追求されることになります。
先に第二イザヤの《バーラー》の用例で見たようなイスラエルの預言者的宗教における創造の信仰と、ここで見たようなギリシア的な存在論的神理解との関連を示す示唆深い表現が新約聖書にぁります。パウロは「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じたのです」と言っています(ローマ書四・一七)。跡継ぎの息子がないことを嘆くアブラハムに、神は夜空の星を見せて「お前の子孫はこのようになる」と言われます。この神を信じたことが、アブラハムにとって義と認められることになります(創世記一五・六)。この出来事を語る創世記一五章は、パウロが「信仰による義」を主張するときに重要な根拠となります。アブラハム夫妻はもう子を産むことはできない状況でした。その夫妻に後を継ぐ息子イサクが生まれたことを、聖書の民は「死者に命を与える」神の働きと理解し、到底存在することのないイスラエルを歴史の中に呼び出した神の働きとしました。このようなもともと救済史的なアブラハムの信仰は預言者を経て天地万物の創造の信仰となり、創世記一章一節の宣言となります。そして、この創造信仰がギリシア的な表現で「存在しないものを存在へと呼び出す」という形を取るようになります。パウロがこの表現をギリシア的とどれほど自覚していたかは分かりませんが、ギリシア語を使うディアスポラのユダヤ人として、ごく自然にこのような表現をアブラハムの信仰について語ることができたと考えられます。そのときに「呼び出す」という動詞を使っているのは、創世記の「光あれ」という言葉で光が創造されたことが念頭にあるのでしょう。この「存在しないものを存在させる」働きが創造であり、神とはこの働きを指し示す人間の呼び名です。もし神が一つの存在であるならば、それは他の存在と並ぶ存在となり究極的な存在ではないことになり、ティリッヒがいうように「神を超える神」(God above God)が要請されることになります。それはすべての存在を存在させる根底的な働きとしなければなりません。

この創造信仰が新約聖書の復活信仰の道備えをすることになりますが、この点につては拙著『パウロによるキリストの福音U』の第六章全体、とくに306頁以下の「創造の冠としての復活」を参照してください。

唯一の神

アブラハムから始まるイスラエルの宗教史の全成果を継承して成立したヘブライ語聖書を正典とするユダヤ教において、もっとも重視される中心の信仰告白は「神は唯一である」という信仰です。それは「シェマー」と呼ばれるユダヤ教の基本信仰箇条にこう表現されています、「イスラエルよ、聞け《シェマー》。われわれの神ヤハウェは唯一なるヤハウェである。あなたはあなたの心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神ヤハウェを愛さなければならない」(岩波版旧約聖書・申命記六章四〜五節)。ユダヤ教徒は安息日ごとにシナゴーグでシェマを唱え、それを書き記したものを身につけて、日常生活で覚えていることが求められました。
ところでこれまでに見てきたように、「ヤハウェ」という名は初めてモーセに示された名であって、それまでは《エール》(神)というような一般的な呼び方がされていました。アブラハムに現れ語りかけた超自然的人格は「エル・シャダイ」(全能の神)とも呼ばれています。「父祖たち」と呼ばれるアブラハム、イサク、ヤコブらは「聖なるもの」の顕現と語りかけを体験し、その人格的な顕現者を神としてその声に従いました。その父祖たちの子孫が飢饉を避けて定住したエジプトの地で苦しめられたので、その神はモーセをエジプトの支配者ファラオのもとに遣わして、その民をエジプトの支配から解放されます。神はモーセに顕現されるとき、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と名乗られますが、さらにモーセが自分を派遣される方としての名を尋ねたとき、「わたしは成る、成るものとして」という不思議な答えが与えられます。
この「わたしは成る」という動詞の三人称形の「彼は成らせる」《ヤハウェ》が、この時以降の民の歴史において神の名として用いられることになります(出エジプト記三章)。モーセに率いられてエジプトを脱出した十二部族の民は荒野の旅を始める時にこのヤハウェと契約を結びヤハウェの民となり(シナイ契約)、さらに沃地に入るときヤハウェだけを拝む民となる宗教連合の契約を結びます(シケム契約)。このヤハウェ信仰による十二部族の宗教連合の民イスラエルは、その後約束の地パレスチナに定住し、やがてダビデの時代に周辺諸民族を支配する強大な王国となります。次のソロモン王の後、北王国と南王国に分裂しますが、王国は前六世紀まで続きます。先に引用したシェマはこの王国時代に成立した申命記の一部ですから、それは「イスラエルにとってヤハウェだけが神であるから、他にいかなる神があっても、お前たちはヤハウェだけに聴き従え」という意味になります。この段階では、イスラエルの宗教はまだ神は唯一であるという唯一神教ではありません。ヤハウェは周囲の諸民族の神々よりも優れた強い神であると信じられ、ヤハウェだけを拝する宗教であったのです。
ところが、先に見たように、イスラエルの民の宗教はバビロン捕囚の体験によって変質変容します。捕囚の現実は、ヤハウェは他の神々と比べてより一層強い神ではないことを思い知らせました。他の神々と並ぶ一人の神としてのヤハウェではなく、地の果ての創造者として、世界の歴史すべてを支配するする方、クロスを起こして彼の帝国を建て他の国々を滅ぼす方、ヤハウェをそういう神として信じ、そのような神に望みを託す以外に将来はないと、捕囚期の預言者は叫びました。このような神は、もはや他の神々と並ぶ一人の神ではありません。「わたしが神である。わたしの他に神はない」と宣言する神です。イスラエルは捕囚を経て、このような唯一神の信仰に到達します。
捕囚後にエルサレムの第二神殿を拠点として活動した祭司たちは、自分たちの信仰を表現する文書にはおもに《エロヒーム》(神)という語を用いるようになります。イスラエル民族の神であった《ヤハウェ》よりも、天地万物の創造者である唯一の神を指すには《エロヒーム》が適切です。祭司たちが集成して出来上がった聖書は、「初めに《エロヒーム》は天と地を創造された」という宣言で始まることになります。当然のことながら、祭司たちが集成した歴史には、捕囚期までの諸伝承を用いて書かれた歴史書のヤハウィスト文書や申命記史書を資料として含む以上、ヤハウェという神名が多く出てきます。また、捕囚期前後に活躍した預言者の書にもヤハウェという神名がおもに用いられています。こうして聖書の神は《ヤハウェ》と《エロヒーム》という二つの名で呼ばれることになります。
このようにしてバビロン捕囚を転機として、イスラエルの宗教は他の神々の中でヤハウェを神として拝む宗教から、ヤハウェだけを神として他には神はないとする唯一神への信仰へと深化し、その信仰がユダヤ教の基本信条となります。このような唯一神の信仰は捕囚前後に輩出したイスラエル預言者たちの霊性に負うところが大きいのですが、とくに捕囚期の最後に活躍した第二イザヤの預言活動に負うところが大きいようで、この預言者において神の唯一性がもっとも明白に告白されるに至ります。後に「書物の宗教」となったユダヤ教において(この点については前述)、「書物の神殿」の中心に展示されているのがイザヤ書であることが、ユダヤ教におけるこの書の重要性を象徴しています。イザヤ書は、捕囚前の時期に活躍したエルサレムのイザヤの預言書に、捕囚期と第二神殿期の無名の預言者の預言が合併してできた預言書であり、イスラエル宗教史全体の預言を代表する「預言者の王」です。それが書物の神殿の中心に位置していることは、イスラエルの宗教が預言者的宗教であるとの呼び方の正確さを物語っています。後にユダヤ教徒はローマと戦ってその神殿を失いますが、その戦いで殉教したラビ(ユダヤ教の教師)アキバは、「神は唯一である」というユダヤ教の基本信条を繰り返し唱えて苦しみに耐えたと伝えられています。この強固な信仰が後に、ユダヤ教徒が他の一切の神々の礼拝を拒否する理由となります。
唯一神信仰の成立は人類の宗教史において当たり前のことではありません。民族の神を祀る神殿が破壊され亡国の悲運を味わった民は多くあります。その中でイスラエルの民はモーセ以来のヤハウェ信仰を普遍的な唯一の神への信仰に深化させ、天地の創造者、自分たちの存在の根底である方だけに自分たちの将来を託すようになりました。自分たちの民族の神々が滅ぶと共に滅び去った民族が多くありますが、その中でイスラエルの預言者的宗教の民だけが唯一神信仰に生きるようになり、それを貫くことになります。これは人類の宗教史の中で極めて特異なことであり、その特異な歴史の宗教から人類の救済者が出ることになります。
天地の全体を創造し、その全体を完成する唯一の意思なり人格があるとすれば、その中に生きる人間はその全体を統一的に理解しようとする意欲に燃えることになります。もともと人類の歴史は多神教的です。人間はその生活の中で「聖なるもの」の顕現に触れ、それを神として拝んで来ました。それぞれの神は自分を絶対的なものとして礼拝を要求しましたので、人間の宗教は多神教にならざるをえませんでした。同じ生活圏や文明圏ではその中の一人の神が支配権を得て、他の神々を家族や家臣のように統一的に支配する場合がありましたが、それはここで言う唯一の神ではありません。「わたしが神である。わたしの他に神はない」と宣言する神が唯一の神です。そして、そのような唯一の神を礼拝する民は、自分がそこに生きる世界や宇宙を統一的に理解しようと願い、そうすることを志します。
唯一神信仰と多神教信仰との違いは、信じる神の数の違いではありません。多神教世界では顕現する神は多数で、その管轄分野も極めて断片的です。この断片性が世界と人生を統合的に理解することを妨げています。それに対して唯一の神が支配する世界に生きる民は、自分が生きる世界を統一的に理解しようとして、哲学や科学の研究に励みます。哲学は人間のすべての認識や知識を一つの原理の下に統合して、その中でいかに生きるべきかを確認しようとします。科学はそれぞれの分野で自然との関係を原理的に理解して、それに基づいて合理的に生きようとし、できれば全宇宙を一つの方程式で表現したいと願います。しかし神は自由な人格であり自由に行動されますから、人間が自分が理解できる統一的な原理で神の行為を縛ることはできません。何処かでパウロのように「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」と叫び、その人知を遥かに超える知恵にひれ伏さなければなりません。しかし、統合への意欲は衰えず、常にその方向に向かって前進することになります。
それに、神が唯一であるならば、それぞれ別の民族や階層の神々の衝突はなくなります。人間はみな同じ神から生まれ、同じ神の働きによって人間として存在しているのですから、みな兄弟姉妹であり、憎み合い戦う必要はなくなります。愛し合い助け合って、その生存を全うするのが当然となります。しかし実際はそうはならず、諸宗教の一つ一つが自己の絶対性を主張して他者を支配し、屈服させ、時には滅ぼそうとして争い、しばしば流血の惨事を引き起こしています。とくに一神教の宗教は自己の絶対性主張が強く、他宗教の存在を許さず、自己の支配を貫こうとして争うことが多いと非難されます。どうしてこんな結果になるのでしょうか。どうしてこんなことが起こるのでしょうか。わたしは、これは各宗教が自分の神に名前をつけるからだと思います。先に第一章で見たように、人間は「聖なるもの」の顕現に接して、人間の限界を超えた「聖なるもの」に名を与えて神として拝みます。その名はまことに多岐にわたります。たとえば田畑や牧場の多産を与える神、人間の出産や葬儀を司る神、さらに合格(資格取得)や事業成功を与える神、戦いに勝利を与える戦争の神、さらにどこそこの土地に現れ、どこそこの建造物に住む神など、このような神々にそれぞれ名を奉り礼拝します。これらの役割を担う神々はそれぞれの役割分担があるので比較的相争うことは少なくて共存しています。しかし民族や階層の神々になり、その民族や階層の利害が絡んでくると、そうは行きません。その民族や階層の利害が宗教の神の名によって争われることになり、神々の戦いとなって手がつけられなくなります。ある民族や文明圏や生活圏の神々は、一人の主神の支配権の下に統合される傾向がありますから(たとえば日本の場合は天照大神の下に統合)、これらの共同体の争いは神々の間の争いとなりがちです。
さらにこれが世界宗教の間の争いになると事態は深刻になります。もし一神教宗教の民が自分たちの神をそれぞれヤハウェとかキリスト(これがいかに不正確な名であるかについては後述)とかアッラーと名付けて、自分の神が全世界を支配すべきであると考えるならば、それは大きな間違いです。それは神が唯一であるという根本を踏み外す間違いです。そもそも名をつけるという行為は、ある存在を他の存在から区別するためであり、名をつけることは、自分たちの神を一つの、あるいは一人の存在として、他の存在と区別していることになります。すべての人間を、そして天と地の万有を存在させている働きは、存在とは区別されるべき働きそのものです。働きそのものには名のつけようがありません。イスラエルの民はその働きをヤハウェと呼び、キリストの民はそれをキリストとし、アラブの民はそれをアッラーと呼びました。わたしたち日本語を使う民は、それまでの神という語の定義を一切忘れて、その働きそのものを神と呼んでいます。ヤハウェもキリストもアッラーも神も、実はみな同じ働き、万有を存在させている働きそのものを指しているのです。
ユダヤ教が到達した唯一神信仰は、その後キリスト教とイスラム教に引き継がれ、地球上の総人口の半数以上が唯一神信仰の宗教信者になりました。唯一の同じ神を信じているのですから、地球上から宗教上の争いが無くなったり減ったかというと、事実は逆で、却って宗教間の争いや宗派間の闘争は激化した面があります。これは唯一神信仰の結果ではなく、その信奉者が正しい唯一神信仰に徹していない結果です。彼らは、その唯一神信仰がとっている社会的で歴史的な形態である何々教とか何々派という諸宗教の一つに固執しているだけです。社会的歴史的宗教は、その歴史的な成立事情から成員にその形態に固執することを要求します。その要求は、宗教の本性上絶対的な性格を持つことになります。この自分の宗教(社会的歴史的形態の宗教)の絶対性要求を掲げるところに、宗教間の争いが生じます。この争いを克服する道は、まず諸宗教が自分の相対性を認め、その絶対性の要求を放棄するところから始まります。
ところが、諸宗教がそれぞれ自分の相対性を認めることは極めて難しいことです。どうすれば諸宗教が自己の絶対性要求を控えることができるのでしょうか。それには諸宗教を超える絶対的なものを提示する他はないことになり、その提示は本書全体の課題となります。本書はその課題に向かって、なお多くの仕事をしなければなりませんが、ここでは唯一神信仰の宗教も、それが社会的歴史的諸宗教の一つである限り、その課題を免れてはいないことを指摘するに止めます。