福音講話 > 論説 > 無代価の世界
無代価の世界            (2021年10月10日の福音講話要旨)

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」。

マタイ福音書 10章8節


 これは、イエスがガリラヤで神の国の福音を宣べ伝えておられた時、弟子たちを宣教に送り出すさいに、弟子たちに語られた言葉(マタイ10:5〜15)の中の一節です。イエスは神の国が近づいたことを告げ知らせ、多くの病人をいやしていかれましたが、そのさいその働きに対して何の代価も求められませんでした。弟子たちにも同じように、「天の国は近づいた」と宣べ伝え、病人をいやすように送り出されますが、その際にその報知と癒やしの働きを「ただで、無代価で」与えるように言われます。「ただで与える」のは、弟子たちが神の国の現実とそれを告知する力を「ただで受けた」からです。ただで受けたものを代価をとって与えることは不条理です。

 わたしは若き日に復活者キリストに出会い、その復活者キリストの福音を証言し、世界に告げ知らせることを生涯の使命とすることになりました。そのさい、わたしはその救いを無代価で受けたのであるから、その救いを証言して、他の人がその救いを神から受けることを助ける働きに、代価を求めることは一切するまいと決心しました。わたしは自分の救いを無代価で与えられたという自覚は痛切でした。わたしは自分の苦悩を解決する努力に行き詰り、自分の価値をすべて放棄したときにキリストが現れてくださり、わたしはそのキリストに自分を投げ出したのです。わたしは自分から差し出す価値はなにもなく、すべてキリストにあって神から賜ったものによって生かされるようになったのです。わたしは新しい生のすべてを神から与えられているのです。わたしはすべてを「ただで受けた」のです。

 わたしはこの救いを恩恵の賜物として受けました。恵みとか恩恵、パウロがいう《カリス》とは、無代価・無条件で与える行為です。神はキリストにある者、キリストを信じてキリストに自分を委ね投げ込む者を、無条件でその背きを赦し、受け入れて、神の子としてくださるのです。わたしたちはキリストにあって無条件・無代価で神の子とされ、永遠の命を受けているのです。そうであるならば、わたしたちがこのキリストの福音を宣べ伝え、それを信じる者が救われて永遠の命を受けるようになる働きに、それを受けた人から報酬を求めるべきではありません。無代価で与えられるものを、他の人が無代価で受ける手伝いをするさいに、代価とか報酬を期待すべきではありません。パウロはこう言っています、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で(無代価で)義とされるのです」(ローマ3:23)。「恵みにより」は「無代価で」ということです。福音は無代価の世界です。

 イエスご自身も無代価の世界に生きておられので、無代価で福音を宣べ伝え、病人をいやしていかれたのです。イエスの無代価・無償の働きの原動力は、イエス自身が神の無条件・無代価の恩恵の世界に生きておられたからです。「貧しい人は幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)も、イエス自身が貧しい者、何も持たない者として、無代価の世界に生きておられたから出てきた言葉でしょう。イエスはご自身のものを無代価で与え続け、ついにはご自身の命まで与えるところまで行かれました。

 パウロも自分に委ねられた福音を無代価で世に与えるために、その生涯を貫きました。その福音活動から収入を得るのではなく、福音を無代価で与えるために、自分の必要は自らの働きでまかなう生涯を貫きました。パウロはその福音活動の後期に、アンティオキアの集会から出て、独立でエーゲ海地域の諸都市に福音を宣べ伝えたとき、自分と一行の生活費は天幕作りの仕事でまかなうという原則で活動を続けました(テサロニケT2:9)。次の伝道地のコリントでも同じように、天幕造りの職業で生活しながら、福音告知の活動を続けています(使徒18:1〜5)。先に福音を伝えたフィリピの共同体からまとまった献金があった時には、「御言葉を語ることに専念」することができ(使徒18:5)、フィリピの人たちが自分の福音の働きに参加してくれたことを喜んでいます(フィリピ10:14〜19)。わたしも使徒パウロに倣って、独立自給の体制で福音を証言する活動に従事、同信の方々の協力と献金によって、この福音を証言する著作の出版と、それを公開するインターネット上のサイト(天旅ホームページ)の運営にあてることができるようになりました。この事実を、「ただで受けたのだから、ただで与える」という無代価の世界の循環運動を引き起こしてくださっている神の恩恵の働きとして、神を賛美するのみです。

 神が無代価で与えてくださる最高の賜物、それは神の霊、聖霊です。キリストに自分を委ねて、自己のすべてを投げ入れる者に、神はご自身の霊、聖霊を与えてくださいます。この聖霊がわたしたち人間の奥底に、今までになかった信仰と愛と希望を生み出してくださるのです。すべての存在の根源である方に「父よ」と祈ることができる信仰の人生、どのような状況でも隣人を受け入れて愛することができる愛、死という最後の敵にも打ち勝って復活を信じうる希望、このような信仰と愛と希望を、キリストにあって無代価で受けるのです。その人生はこの信仰と愛と希望を人々に無代価で分かち合っていく人生にならざをえません。

Top