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福音は神の言葉            2021年2月14日

神は、かって預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られましたが、この終わりの時代には、御子によって語られたのです。

(ヘブライ人への手紙1章1〜2節)


T 創造者が語られる

 1月の集会では「福音は神の力」と言う題でお話しをしました。今日は福音を別の面から見てお話ししたいと思います。

 福音とは、イエス・キリストにおいて神が私たちの救いのために成し遂げてくださった働きを告げ知らせる言葉です。それは神が私たちに語りかけてくださる言葉なのです。わたしたち人間は言葉によってお互いの関わりを作り上げております。しかしこの福音の言葉、キリストにおいて神がわたしたちのために成し遂げてくださった救いの働きを告げ知らせる言葉は、確かに人が語りますが、それは人の言葉ではなく、神から私たちへ語りかけの言葉なのです。福音は、神が人間との新しい関わり方を作り上げようとして語りかけてくださった神の言葉なのです。今回は、福音が神からの言葉であるということの重大な意味についてお話ししたいと思います。

 私たちは神を信じると言っています。しかし日本人が「神」という言葉で何を指しているかが問題です。現在の日本人が神を崇める姿を見せる典型的な行事は、初詣でしょう。神々は神社に祭られているとして、新しい年の初めに神社に詣でて、そこに祭られている神を、鈴を鳴らし賽銭を入れ、無病息災、一家繁栄の願いを叶えてくれるように、柏手を打って礼拝します。普通、その願い事は神官が祭文で読み上げて祭神に伝えます。そのような礼拝の対象を、日本人は「神」と呼んでいるのです。日本の神々は語りません。人間がその願望を語っているだけです。

 キリストを信じる者は、キリストをこの世界に遣わして人間の救済を成し遂げた方を、同じく「神」と呼ぶことに躊躇します。それで最初に日本にキリスト教を伝えたカトリック教会の宣教師たちは、彼らのラテン語聖書が宣言する天地の創造者「デウス」を、「天主」と呼んだりしたのでした。しかし、ヘブライ語で書かれたイスラエルの民の聖書(旧約聖書)も、ギリシア語で書かれたキリスト信仰の民の聖書(新約聖書)も、日本語の「神」に相当する語(旧約聖書では「エロヒーム」、新約聖書では「セオス」)を用いていますので、日本語聖書が「神」という語を用いるのも当然の結果でしょう。しかし、聖書が「神」という時は、日本人がいう神、神社に祭られている神々とは全然別の、天地の万物を創造し、創造した人間に語りかける神なのです。

 そのことは聖書の冒頭の一文に明確に宣言されています。聖書の最初の文書である創世記の一章一節に、「初めに神は天と地を創造された」と記されています。聖書では「神」は、天と地の万物を創造された方を指しています。実は、創造者である神は人間に語りかけ続けてこられたのです。天地の万物を創り出された神は、最後にご自身の像(かたち)に従って人間を創造され、その人間を愛して語りかけられました。「光あれ」と言って光を存在させ、天地の万物を言葉によって創造された方は、人をご自身にかたどって同じ形に、すなわち言葉を使い、言葉に応答する存在として人間を創造されました。そして人間を愛して語り続けてこられました。人間がその神に背いて離れ去った時も、呼び戻すために語りかけ続けてこられました。

 創造とは何も無いところにさまざまなものを存在させる働きです。創造のこのような意味を明確にする言葉が新約聖書にあります。「彼(アブラハム)はこの神、すなわち死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのです」(ローマ書4:17)。「死者を生かす」というのも、命が無いところに命を存在させる働きですから、無から有を呼び出す、存在しないものを存在へ呼び出す働きを指すと言ってもよいでしょう。

 聖書で「神を信じる」とは、このように「存在しないものを存在へと呼び出す」働き、天地万有の存在の根源原理となっている方、命の無いところに命を存在させる根源的な働きをされる方が語られる言葉を信じることを指します。アブラハムはこのような神を信じたので、すべて神に受け入れられる民の原型となったのです。どの民族であっても、どの宗教の民であっても、どのような文化の中に生きる民であっても、このような神を信じる者は皆アブラハムの子孫であって、「地上の民族はすべて、あなたによって祝福される」(創世記12章3節)とあるように、アブラハムに約束された神の祝福を受けるのです。この天地の創造者である神の祝福を受けるのです。


U 創造者の最終的な語りかけ

 では、このアブラハムの直接の民族的後継者であるユダヤ教徒をはじめ、ユダヤ人の聖書を受け入れて自分たちの聖書の一部としている世界の諸民族のキリスト教徒や、ムハンマドを最後の預言者として天地の創造者である唯一の神を信じているアラブ諸民族や他の民族のイスラム教徒はみな、アブラハムに約束された祝福にあずかるのでしょうか。確かに彼らはみな、準備ができており、アブラハムの祝福にあずかる資格はあります。しかし、その祝福に実際にあずかるかどうかは、その神が最終的に語られた言葉を信じて、その言葉にに聴き従うかどうかにかかっています。

 「最終的」というのは、年代的に最後にという意味ではありません。その内容にこれ以上の、あるいはこれ以外のものはないとして、決定的に語り出された語りかけです。さらに何かあるだろうと、他の語りかけを待つことはできないという意味で「決定的な」語りかけです。では、その決定的な語りかけは、どこでいつ聴くことになるのでしょうか。

 人間がすべて、すなわち人類が、創造者なる方に背を向けて背き去ったとき、神はしばらくの間彼らを放置して、選ばれた民だけに語りかけて、その語りかけに応じ、また拒否することが何を意味するかを示そうとされました。それがアブラハムから始まるイスラエルの民の歴史です。神から人間への語りかけの言葉を預かって伝える人物を「預言者」と言いますが、これは将来の出来事を予言する「予言者」とは違います。アブラハムに始まるイスラエルの民の歴史には、その状況に応じて多くの預言者が出て、神の言葉をイスラエルの民に伝えました。そのことをヘブライ書の著者は「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られました」と言っています。

 イスラエルの歴史で最大の預言者はモーセです。神がご自分の民として選ばれたアブラハムの子孫が、飢饉を避けて逃れたエジプトの地の王によって奴隷として苦しめられた時、神はモーセを選んで現れ、「ヤハウェ」というご自分の名を示してモーセに語りかけ、その言葉によってご自分の民をエジプトの地から救い出されました。救い出された民が荒野を彷徨している時、神はモーセを通して十の言葉(いわゆるモーセの十戒)を与えて、アブラハムの子孫の民イスラエルと契約を結ばれました。その民イスラエルが約束の地にダビデ・ソロモンの王国を形成して、自分の力に頼り自分たちの神に背いたとき、神は預言者たちを送って民の背神を警告されましたが、民は聞き従わず、バビロンに捕囚の民となる悲運に陥りました。

 このようなイスラエルの歴史を顧みて、ヘブライ書の著者は「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られた」と言ったのです。それはイスラエルの歴史をまとめています。神に選ばれた民イスラエルの歴史は、語りかけた神の言葉に対するイスラエルの民の応答によって形成された歴史です。その歴史の終わりにイスラエルに出現されイエスの生涯を指して、著者は「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」と宣言するのです。

著者は、そして新約聖書の全体は、イエスこそイスラエルの歴史の中で語ってこられた神が、わたしたちすべての民に最終的に決定的に語り出された言葉であるというのです。もう少し詳しく言うと、十字架上に死なれたイエスを神は復活させてキリストとされましたが、この出来事全体が、神が人類に語りかけられた最終的な言葉であるのです。ヘブライ書の著者は、この復活したイエス・キリストによる神の語りかけを、「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られた」と言うのです。

 初代の信仰者たちは、復活によってキリストとされたイエスを「御子」と呼びました。十字架上に死なれたイエスこそ、神がこの世に遣わされたご自身の子、「神のひとり子」であると信じたのです。イエスの十字架と復活の出来事こそ、神がこの世界に最終的に語られた言葉であると信じたのです。そしてこの出来事を宣べ伝える言葉が「福音」なのですから、福音こそ天地万物を存在させる方が、わたしたち人類に語りかけられた最終的な言葉であるのです。福音は人によって述べ伝えられますが、それは人類に対する創造者の最終的で決定的な語りかけであるのです。

 福音は言葉ですから、その言葉を拒否して信じない者は、その言葉を発した方との関わりを持つことができません。その言葉を信じた者は、その言葉を発した方との関わりに入り、その方の働きを受けます。信じる者には、福音はそれを語った方、すなわち神の働き、神の力です。前回、「福音は神の力である」とお話しした通りです。その力は、わたしたちを救いに至らせる方向に働き、わたしたちの内に救いの現実を形成していくのです。それはわたしたちの内に、信仰と愛と希望の現実をもたらします。


V 神の信

 神の言葉は現実であり、空虚なものではありません。神は信実です。神の言葉に偽りはなく、空虚なものではありません。今は人間の目には反対の事実しか見えていなくても、神の言葉は必ず実現します。イスラエルはその苦難の歴史の中で、自分たちは不信実で神との契約に背いてきたけれども、神は信実であって契約を守り、その言葉を行われる方であることを体験してきました。神は不信実な者を見捨てず、恩恵と忍耐をもって赦して受け入れ、ご自身の言葉を行われました。このことを体験したイスラエルは、「神は信実である」と告白し(申命記32:4)、その詩篇で「主の恵み(ヘセド、慈愛)とまこと(エメス、信実)は限りなし」と賛美してきました。

 神はご自身が語られた言葉を行おうとして見張っておられます。神は預言者として召されたエレミヤに、民に語るべき言葉を与えられた時、「わたしは、わたしの言葉を実現するために見張っている」と言われました(エレミヤ1:12)。イザヤもこう語っています、「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。・・・・そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくはわたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ55:10?11)。神は信実です。神の言葉は虚しいものではなく、現実です。

 もともと「信」という語は、「人」と「言」が合わさった形、人の在り方や行いとその言葉が合致している姿を指しています。神は信実です。神は信そのものです。神はその本質から意志し、それを人に言葉で伝え、その言葉を行われます。神の言葉が空しく放置されることはあり得ません。わたしたちが神を信じるというのは、神の言葉を信じるということです。神の言葉に自分を委ね、神の言葉に従うことです。


  W 絶信の信

 信仰という時、わたしたちは自分が神を信じているのだと、信じることを自分の行為とか在り方だと考え、自分の信じ方は弱いから、もっと強く信じなくてはならないとか、あの人のように強い信仰にならなくてはならないなどと思っています。わたしも信仰生活の初期に自分の信仰の弱さに絶望して苦しみました。しかしその苦闘の中で、自分の信仰の頼りなさに絶望していたとき、聖書から突然光が差し込み、信仰とは自分の信実とか忠誠によって神との関わりを持つことではなく、神の信実に自分を委ねることだと気づかされました。この無知で力のない弱い自分を、岩のように強固で揺らぐことのない神の信実に委ねることだと気づいたのです。それはわたしにとって信仰のコペルニクス的転換でした。

 イエスも「神の信をもて」と言われます(マルコ11:22 直訳)。これを「神を信じよ」と訳すのは、自分が「信じる」の主語で、神は目的語です。しかし原文は「神の信」を「持て」の目的語とする命令文です。「持て」というのは、神の信を「自分の生き方の根拠とせよ」という意味に理解して、わたしはこのイエスの言葉を「神の信に生きよ」と訳し、それを著作の題名として「神の信に生きる」という一書を書いております(詳しくは同書の「T 神の信に生きる」の第一講と第二講をご覧ください)。

 このように、自分の信仰を放棄して、神の信、神の信実だけを根拠にして生きる生き方を、わたしは「絶信の信」と呼んでいます。それは自分の信仰に絶して、神の信実だけに生きる信仰の生涯を指しています。この生涯においては、神がわたしにどう語っておられるかだけが問題になります。神が語られた言葉が、わたしの生の内容となるのですから、わたしの究極の関心事は、神がわたしにどう語っておられるのか、わたしの創造者、わたしをわたしとして存在させておられる方の言葉、その言葉を聞くことだけが究極の関心事となります。わたしはその神の言葉を福音において聞いたのです。


X 福音において聞いた神の言葉

 福音とは、神がイエス・キリストにおいて成し遂げられた救いの働きを告げ知らせる言葉です。その言葉、すなわち福音を告げ知らせるのは人間です。福音は人によって告げ知らされます。しかし、告げ知らされる内容は神の言葉なのです。わたしを存在させている方が、わたしに語りかけている言葉なのです。わたしはその言葉に三つの内容を聞きました。

 第一は「十字架の言葉」です。福音を証言する新約聖書は、繰り返しキリストはわたしたちの罪のために十字架上に死なれたのだと語っています。代表的な箇所を一箇所だけ上げると、使徒パウロもこう言っています。「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり保持していれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(コリント第一 15.2?5)。

 キリストがわたしたちの罪のために死んだという報知は、若き日に出席した宣教師の集会でも繰り返し聞いていたことですが、決定的にそれを聞いたのは、ある大きな集会で会衆と一緒に祈っていた時、眼前に大きな十字の形をした光が現れ、その光が「わたしはおまえのために死んだ」という語りかけをもって迫ってくるのです。それは日本語でもなく英語でもなく、人の言語を絶した意味そのものとして迫ってくるのです。神は、このキリストの十字架によって、わたしの背きの罪を赦し、無条件にわたしを受け入れてくださっているのです。体験は人様々ですが、こういう形で十字架の言葉を聞いた体験が、わたしの生涯を決めました。わたしはこの福音の証人として生きることを決意したのです。

 第二は、「わたしはおまえに聖霊を与える」という約束の言葉です。新約聖書は、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、復活者キリストは福音を信じてキリストに身を委ねる者に、聖霊によってバプテスマを授けられると約束しています。ところが、わたしはイエス・キリストを信じて水のバプテスマを受けてから数年、聖霊によってバプテスマされたという確信を持つことができず、自分の信仰の弱さに苦しんでいました。キリストに従う決心をしながら、自分の信仰の弱さに苦しんでいた頃、信仰のコペルニクス的転換を経験して、聖霊を約束する神の言葉に委ねることができるようになりました。そういう信仰で神を賛美して祈りを捧げていたとき、その祈りが感謝に溢れてきて、いつの間にか異言で祈り始めていました。そのような体験が聖霊のバプテスマを受けたという確信になり、福音を証言する生涯に踏み切る決意を助けました。

 わたしの場合はこのような形で聖霊の働きを受けて、信仰の歩みと福音活動を進めてきましたが、長年の信仰の歩みの中で、聖霊体験の形は実に人様々であることを学び知りました。パウロは、あのダマスコ体験以来、第三の天にまで引き上げらるなど、激しい体験をしていますが、それを強調することはなく、長年の福音活動の晩年には、コリント書簡(とくに第一の手紙12?14章)に見られるように、聖霊の働きは実に様々な形で各人に分け与えられるのだと語っています。パウロはフィリピの信徒に宛てた手紙(2:13)で、キリストにある者の内に働いているのは神であると言っていますが、人間の内に働く神が「聖霊」と呼ばれるのです。わたしたちキリストの民《エクレーシア》は、各人の内に働く聖霊の働きを認めて励ましあい、協力してキリストの体を建てあげ、人間の内に働かれる神の業を進めていくべきです。

 第三に、わたしは福音において復活の言葉を聞きました。「わたしをはあなたを復活させる」という言葉です。福音は「神は十字架上に死なれたイエスを復活させた」と宣べ伝えています。イエスはたしかに復活されました。しかしイエスの復活はわたしたちと何の関わりもないのでしょうか。イエスの十字架上の死は「わたしたちの罪のために」という関係が明確に語られています。ところが復活については、わたしたちとの関係は語られていません。イエスの復活は「わたしたち」と何の関わりもないのでしょうか。パウロはどう宣べ伝えたのでしょうか。パウロがどう宣べ伝えたのかは、パウロが死者の復活を語っている章、コリント第一書簡の一五章を見ればはっきり分かります。イエスを復活させた神は、イエス・キリストに属する民を復活させてくださる、とパウロは宣べ伝えています。

 パウロは「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」と言っています。これは「神がご自身に属する民を死者の中から復活させるという形で、救済を完成されるというご計画でなかったならば、救済される民を代表するキリストを復活させることはなかったはずだ」という救済史の論理です。キリストの復活はキリストに属する民の復活を含んでいるのです。キリストの復活はキリストの民の復活の初穂です。このことをパウロはアダムとキリストという救済史のもっとも大きな枠組みを用いて確認していきます。パウロはこの長い章で「死者の復活」を否定する者たちを反駁します。現代の教会はこの章をしっかり聞かなければなりません。教会は礼拝ごとに使徒信条を唱え、「我は身体のよみがえりを信ず」と告白しながら、自分が復活することを真剣に人生の土台とか目標として生きている信者はいません。わたしはこの章を読んで、神はイエスを復活させることによって、わたしに「わたしはあなたを復活させる」と語っておられる言葉を聞いたのです(その間の消息は、拙著「パウロによるキリストの福音U」の第六章「死者の復活」をご覧ください)。


結び

 わたしは、新約聖書が証言する福音を、わたしを存在させている神の最終的・決定的な語りかけとして聞きました。そして、福音はこのような内容をもつ神の言葉であることを証言することを、生涯の課題として生きてきました。この福音を聞かられる方が、この福音に神の語りかけを聞かれ、その言葉の背後には信実そのものである神がいますことを知って、この福音の言葉に身を委ねられるように願います。それが永遠の命なのです。
           
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