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復活信仰の構造 ー 2020年復活節講話 ー
京都  市川 喜一
はじめに

  キリスト信仰は復活信仰です。キリスト信仰は復活信仰で始まり、復活信仰に生き、復活信仰に至ります。復活信仰には三つの相(局面)があります。第一は、神が十字架につけられて死んだイエスを復活させてキリストとされたことを告知する福音を信じるという相です。第二は、キリストにあって賜る聖霊によって、現在復活の命に生きるという相です。第三は、このように福音によって集められた神の民を、神は死者の中から復活させて、神の国を完成させるという相です。今回はこの三つの相の間の関係、また、この三つの相が形成する一つの復活信仰の構造についてお話ししたいと思います。

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福音はイエスの復活の告知から始まります。イエスの弟子たちは師のイエスがエルサレムで十字架上に死なれたのを見て落胆し、部屋に閉じこもっていましたが、そこに復活したイエスが現れてご自身が生きていることを示されます。弟子たちが生業につくために戻っていたガリラヤでも、復活されたイエスが現れて、弟子たちにこの事実を世界に証言するように召されます。ペトロたち弟子たちはエルサレムに戻り、ペンテコステの日に祭りに集まってきた群衆に向かって叫びます、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は復活させてキリストとされた。わたしたちはその事実の証人です」(使徒言行録2章14〜39節要旨)。 この時からキリストの福音は世界に宣べ伝えられ始めます。わたしたちはこの告知を聞いて、イエスを復活させて、わたしたちの救済者キリストとされた神を信じました。

イエスの復活はすでに起こった事実です。この事実はイエスの弟子であった十二使徒が証言するだけでなく、この証言をした弟子たちを迫害したパウロも、ダマスコ途上で復活されたイエスと遭遇して、イエスを復活したキリストと宣べ伝え始めます(使徒言行録9章)。パウロは広く地中海世界を巡り歩いてユダヤ教徒以外の宗教の民にも、十字架につけられたイエスを復活させて救済者キリストとされた神を宣べ伝えます。わたしたちはイエスを復活させた神を信じています。わたしたちが信じる神は死者を復活させる神です。世界にはさまざまな宗教があり、さまざまな神が信奉されています。しかし死者を復活させる神、あるいは死者を復活させる神を信仰の中心に置く宗教はほかにありません。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるのです」 (ローマ書10章9節)。

イエスは「肉によればダビデの子孫から生まれ」、今から2000年ほど前に地中海東岸のパレスチナで30年ほどの短い生涯を送った一人のユダヤ人です。しかしその主張と働きが、その国の宗教であるユダヤ教の規定に反したという理由で、ユダヤ教の最高法廷で死刑の判決を受け、異教徒の支配者ローマ総督に引き渡されて十字架刑に処せられたのです。しかし十字架上に死なれたイエスを、神は三日目に復活させました。「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」。「聖なる霊」とは人間の内に働かれる霊なる神を指します。イエスは神の霊によって、すなわち神の働きによって復活されたのです。この事実を告げ知らせるのが福音です。それは、神がイエスを復活させてキリストとし、そのキリストにおいて最終的な救いの働きを成し遂げられたことを告げ知らせる言葉です。それは人間に神が語りかける決定的な言葉です。そのような言葉ですから、それは「神の福音」と呼ばれます(ローマ書1章1〜5節)。

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「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」という時、「救われる」とはどういうことなのでしょうか。それは、わたしたち人間すべての者が陥っている悲惨な状況から救い出されるということです。東洋の賢者ブッダは人間存在の状況を苦と観じ、苦からの解脱の道を探り、苦を克服する心のあり方を説きました。しかし一般に人間は自分の力や働き、自分の知恵や悟り(心のあり方)で、その悲惨な現実から脱出できないのです。そのような状況にある人間に、福音は別の道を告知します。「福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(ローマ書1章16節)。福音は神の力、神の働きなのです。神が救いを与えてくださるのです。神が、すなわち、わたしたちを存在させている根源的な働きである方が、わたしたちをその悲惨な状況から救出してくださるのです。

わたしたち人間の苦境、悲惨な状況について、そのこまごまとした状況や実例はここで描写することは必要ではなく、それをするゆとりもありません。その実感は一人一人違っていることでしょう。ここではただ一つの共通の問題、わたしたち人間にどうしても解決できない問題、解けない謎を取り上げます。それは死の問題です。すべての人は死にます。死はわたしたち人間にとって永遠に不可解な謎であり、不安の源泉です。わたしたちは、死ねば自分は無くなるとは考えていません。死の向こう側でも自分は自分だと考えています。ただその自分が死後どのような姿で存在するのかが分からなので不安なのです。そのような不安に対して、様々な宗教がいろいろな回答を提案しています。名称は違いますが、極楽とか天国、あるいは黄泉とか地獄というような死後の世界があり、この地上の生き方が死後どこに行くのかを決めると教えています。そして、この宗教の教えとか儀礼を守る者が天国に入るのだ、と主張する宗教が多いようです。

人間はなんらかの宗教が支配している社会に生まれてきます。キリスト教世界に生まれた者は、洗礼を受けてキリスト教徒の一員として教育され、キリスト教徒として生き、キリスト教徒として葬られます。イスラム世界に生まれた者は、コーランとそれを解釈する法学者の与える諸規定に従う生涯を送ります。それがムスリム(イスラム教徒)です。それ以外の生き方をすることは大変困難です。仏教国に生まれた者は、それぞれ戒名を受けて後生(死後の世界)を保証されます。このように宗教が支配する世界に福音が響き渡り、宗教とは関係なく、宗教とは別に、死を克服し、復活の命、永遠の命に生きる道を指し示します。

 先に「福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です」と言いました。しかし、その宣言には、「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも」という重要な句がついています。福音は「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人をも、信じる者すべてを救いに至らせる神の力である」と宣言しているのです(ローマ書1章16節)。当時の用例では、ユダヤ人というのはユダヤ教という宗教に所属している人々であり、ギリシア人というのはユダヤ教以外の人々、異教徒の全体を指す用語でした。従ってこの聖書の言葉は、「福音は、どの宗教の民であっても区別なく、信じる者すべてを救いに至らせる神の力、神の働きである」と宣言しているのです。神の力、神の働きを身に受けて救いに至るためには、ユダヤ教とかキリスト教とか、特定の宗教に改宗する必要はありません。パウロがあれほど激しく異教徒に割礼を要求することに反対したのは、救いをユダヤ教の枠に限定することに耐えられなったからです。どの宗教の者でも、福音が宣べ伝える復活者イエス・キリストに全存在を投入して従って行けば、その信仰によって救われるのです。その結果、所属している宗教から出ていかなければならなくなる場合もありえます。キリスト教からも出ていかなければならない場合もあります。

宗教の外で、宗教とは無関係に、神が人をその苦境から、死の縄目から救い出される方法が現れました。それを告げ知らせるのが福音です。福音の使徒パウロは言います、「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(ローマ書3章21節)。ここでユダヤ人パウロが「律法とは関係なく」と言う時の「律法《トーラー》」とは、当時の用例からすると、ユダヤ教という宗教の全体を指します。「神の義」というのは、ここでは神がその約束に忠実に、神が神としての誠実を現して救いの働きをされることです。「律法と預言者」というのは、イスラエルの民がその歴史の中で生み出してきたモーセ五書と預言者の書、すなわち彼らの正典、旧約聖書のことです。この一句でパウロが語る言葉は、「イエスを復活させて救済者キリストとする神の働きは、イスラエル宗教史に証言されて、宗教の枠の外で、宗教とは関係なく現された」と宣言しているのです。

ですから、このイエス・キリストに現れた神の働きに、自分のすべてを委ねる者が「救われる」のです。パウロはこのことを「人が義とされるのは律法の実行によるのではなく、信仰による」と言っています(ローマ書3章28節)。パウロはここで「義とされる」というユダヤ教徒特有の表現を使っています。それは神に受け容れられて、神の民の一員と認められ、神との交わりと神の栄光に与ることです。それはユダヤ教徒にとって人生究極の目標です。それは「律法の実行による」のではありません。ユダヤ教という宗教の規定に従う行為によるのではなく、「信仰による」のです。イエス・キリストに現れた神の恩恵の働きに、自分のすべてを委ねる信仰によるのです。ですから、異邦人が割礼を受けて、ユダヤ教の実行によって義とされようとすることに、パウロは激しく反対します。神は信仰によって義とした者に聖霊を与えて、その中に御自身の働きを進められます。異邦人はユダヤ教に改宗しなくても、異邦人のままで、キリストから聖霊のバプテスマを受け、その聖霊の働きによって「主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていくのです」(コリント第二3章18節)。その人を変えていく聖霊の働き、すなわち神の働きは、宗教とは無関係に、宗教の枠の外で行われます。

 福音の使徒パウロは、「ところが今や、律法とは無関係に、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が現されています」と言った直後に、その神の義を説明して、「すなわち、イエス・キリストの信仰による神の義であり、すべて信じる者に与えられるのです。そこには何の差別もないからです」と言っています。そして続けて、「人間はすべて罪に陥ったので、神の栄光を失っており、ただ、キリスト・イエスにある贖いによって、神の恵みにより、無代価で義とされるのです」と言っております(ローマ書3章21〜24節、私訳)。人はすべて罪に陥っているので、すなわち神への背反の中にいるので、人が義とされて神に受け容れられ、神との交わりの中で神の働きを受け、神の栄光に達するためには、神への背反という罪が取り除かれなければなりません。実にこの罪を取り除く働きも、神がキリストにあって成し遂げてくださっているのです。ここで「キリスト・イエスにある贖いによって」と言われていることがそれです。

 神は十字架につけられたイエスを復活させ、キリストとされました。キリストは十字架された復活者です。パウロはこの「十字架されたキリスト《クリストス・エスタウローメノス》」を福音として宣べ伝え伝えます(コリント第一2章2節)。復活者は十字架の姿をした方として現れます。この方において、神はわたしたち背く者の「贖い」を成し遂げられたのです。背くことで罪と死の支配に陥っている者を赦して、ご自身との交わりに受け容れる働きが「贖い」です。神は十字架されたキリストにおいて、この贖いを成し遂げられたのです。わたしたちは、この「十字架の姿をした復活者キリスト」にあって、死者を復活させる神との交わりに入れられるのです。復活信仰は「十字架された形の復活者キリスト」において可能になります。

 神はその限りない愛から発する恩恵によって、背く者が立ち帰ってくる時、無代価で、無条件に受け容れ、御自身の子としての資格を与えて迎え入れてくださいます。そのことをイエスはあの「放蕩息子のたとえ」で語っておられます(ルカ福音書15章11〜24節)。父から離れ去っていたことを悔いて、父のもとに帰ってきた息子に、父は「死んでいた子が生き返ったのだ」と喜び、子としての資格を示す服や指輪、履き物を与えて祝宴を開きます。この父親のように、神はどのような者でも、背きを悔い改めて帰ってくる者を、無条件に受け入れて、ご自身の子にふさわしい質の命を与えて、新しい生き方を与えてくださいます。わたしたちが生まれながらに生きてきた命とは異なる、新しい命に生きるようにしてくださいます。

 わたしたちがこの地上に生まれたときに、その命にふさわしい体を与えられているように、キリストにあって新しい命を与えられた者には、その命にふさわしい体が与えられます。しかし、わたしたちがこの体をもって地上に生きているかぎりは、キリストにあって与えられた新しい命は、この地上の体の中に隠されています。この地上の体が滅びる時、すなわち死を迎える時、キリストにあって賜った新しい命は裸のままでいることはなく、それにふさわしい新しい体、パウロが「霊の体」と呼ぶ体が与えられることを、私たちは確信しています。キリストにあって賜る新しい命は、新しい「霊の体」をもって生きるようになることを信じています。この信仰が「死者の復活」と呼ばれることになります。

 パウロは、「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」と言っています(コリント第二4章14節)。イエスを復活させた神を信じる者は、その神がイエスと共に自分も復活させてくださることを知っています。キリストにあって賜る聖霊によって、新しい命に生きる者は、その命が復活に至る命であること、復活の質を持つ命であることを知っています。パウロは、この滅ぶべき体をもって生きている古い命、生まれながらの命に生きる自分を「外なる人」と呼び、新しく聖霊によって与えられた命、復活の質をもった命に生きる自分を「内なる人」と呼んで、苦難の中にあって、「たとえわたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの内なる人は日々新たにされていきます」と叫びます。そしてその理由を、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注いでいます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と付け加えます(コリント第二4章16〜18節)。

 わたしは著作集の「パウロによるキリストの福音V」で、この「外なる人」と「内なる人」の対比が語られている「コリント人への第二の手紙4章から5章(11節まで)」の箇所に、「復活信仰の具体相」という見出しをつけて、やや詳しく講解しています。復活信仰というのは、キリスト教信条の復活に関する項目を信奉していることではなく、この項目Uで述べたように、聖霊によって賜った復活の質をもった新しい命に生きているという現実を指します。この復活の命の現実が、項目Tで述べた過去のイエスの復活を生きた現実となし、続く項目Vで述べる将来の「死者の復活」の根拠となり、それをわたしたちの人生の具体的な目標とします。聖霊による命の現実こそ、わたしたちの復活信仰の構造の基礎となります。聖霊による命の現実が、復活信仰の全構造を支えます。

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 最後に、わたしたちの復活信仰の第三の局面、すなわち、わたしたちキリストにある者は死んでこの地上の体が滅んだ後、「霊の体」と呼ばれる別の体を与えられて、死者の中から復活するのだという「死者の復活」の信仰について触れなければなりません。死後の世界から帰ってきた者は誰もないのだから、死後のことについて語る言説は、すべて根拠のない想像とか願望に過ぎないとして、新約聖書に語られている「死者の復活」も現実のキリスト教世界で切り捨てられています。「我は身体のよみがえりを信ず」という条項を含む使徒信条を唱えるキリスト教世界でも、死者の復活、死者たちの中からの復活を自分の人生の目標として語り、この地上の人生を生きている人はほとんどいません。  このことは使徒パウロの時代にすでに起こっていました。パウロはアンティオキアでペトロやバルナバと対立して、アンティオキア集会から離れて独立の福音活動を始めます。そのことは使徒言行録の15章以下に語られていますが、それによるとパウロはキリキア峡谷からアナトリア山地(現在のトルコ領)を横断してトロアスにいたり、そこから海路でギリシアに入ります。ギリシアではフィリピ、テサロニケ、アテネで福音活動をしてアカイア州の州都コリントに到着します。この経済的に発展した新興の大都市コリントには1年半も滞在して活動、おもに異邦人から成る大きな集会を形成します。コリントの集会は使徒パウロがかなり長期間滞在して直接指導した大きな集会で、聖霊の働きも著しく、熱気に溢れた集会だったようです。しかし、聖書的伝統がない異邦人信者が多く、しばしば信仰内容や信仰生活上の問題を引き起こし、自分たちで解決できなくて、パウロに手紙や使者を送って問い合わせ、指導を仰いでいます。

 そうした密接な交流の中で、パウロはコリント集会のある者が「死者の復活などはない」などと言って、死者の復活の信仰を否定している者がいることを知ります。コリントの集会から問い合わせてきた諸問題に答えた後、最後に最も重要な問題として、コリント人への第一の手紙の最後になる15章で、パウロはこの「死者の復活」の問題を取り上げます。パウロはこの章で、自分を含め復活されたキリストに出会った体験をした証人を次々にあげた後(1〜11節)、「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」と言って、驚きを隠していません。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」と、死者の復活を否定することは福音活動もキリスト信仰も一切を空しくしてしまうことだとします(12〜19節)。

 その中で、「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです」と言っているパウロの言葉は普通、人間は死ねば復活することは無いのだから、死んだキリストが復活したはずはない、という常識的あるいは科学的論理で理解されていますが、パウロはそんなことを言っているのではありません。それは「神が死者の復活という形で人間を救済されるのでないならば、救済者であるキリストが復活されることもなかったはずだ」という意味であり、パウロは救済史の論理を用いて語っているのです。ですから、死者の復活を否定する者はキリストの復活を否定し、復活したキリストにおいてなされた神の救済の働きを否定し、キリスト信仰を空しくするものだ、とパウロは激しく反対するのです。

 福音は「キリストはわたしたちの罪のために死んだ」と告知して、キリストの死がわたしたちとの関わりでもつ意義を明確に語っています。すなわち、わたしたち神に背いている者が無条件に赦されて神に立ち帰ってくることができる道を開いてくださったという意義です。ところがキリストの復活に関しては、その事実がわたしたちにとって何を意味するかは語られていません。その意義をパウロはこの15章全体で語るのです。それはこう語られています、「しかし今や、キリストは眠りについた人たちの初穂として死者の中から復活されたのです」(コリント第一15章20節)。「眠りについた人たち」というのは、キリストに属する者たちの中ですでに亡くなった人たちを指します。キリストの復活は、亡くなったキリスト者たち復活の初穂だというのです。

 初穂は全体を代表します。畑の初物や家畜の初子を捧げるのは、収穫の全部を神に捧げる宗教行事です。初穂は収穫全体を代表しています。ペトロやをはじめ使徒たちは福音告知の最初期に、「イエスに起こった死者たちの中からの復活を宣べ伝え」ました(使徒4章2節)。イエスの復活は、終わりの日に復活する者たちの最初の実例となったのです。パウロも、「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」と言った後、「ただ一人一人に順序があります」と言って、「最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときにキリストに属している人たち、次いで世の終わりが来ます」と言っています(コリント第一15章21〜24節)。わたしたちは初穂キリストの復活とわたしたち自身の復活の間にいます。二つの復活の時の間にいるのです。キリストの復活はわたしたちの復活の初穂であるとの意義は、拙著『パウロによるキリストも福音U』の第六章「死者の復活」で詳しく論じていますので、それを見てくださるようにお願いします。

 新約聖書を信仰の拠り所とし、「我は身体の復活を信ず」という告白を含む使徒信条を信仰の基本的な表現としているキリスト教世界が、「死者の復活」の信仰に立つことができず、実践的には棚上げにしてしまっているのは、「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」分からない、いや想像することさえできないからだと思われます。その疑問に対してパウロは、ただの種粒が地に落ちて朽ちた後、神はそれぞれに麦などの立派な体を与えてくださるように、「死者の復活もこれと同じです」と言って、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」と断言します(コリント第一15章42〜44節)。

 わたしも死後自分がどのような姿で存在するのか、時が来て神がどのような体を与えて死者を復活させ、神の国を完成されるのか、理解することも想像することもできません。わたしはただ、神は信じる者の初穂としてイエスを復活させたという福音を、神の揺るがない言葉と信じています。神の国は死んだ者たちの共同体ではなく、生ける者たちの共同体、復活者の共同体です。同じ神を信じているイスラエルの民の中で、死者の復活を否定しているサドカイ派の人たちと、すでに旧約聖書の中に「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と、死者たちの復活を見ておられたイエスとの違いを見落としてはなりません(ルカ福音書20章27〜40節)。

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 以上、私たちの復活信仰には三つの相があることと、それぞれの相の内容を語りました。この三つの相の復活信仰は、それぞれ別個の復活信仰であるのではなく、一つの復活信仰を構成しています。わたしたちの復活信仰は一つの全体であって、三つに分けられる信仰ではありません。最後に、この三つの相の復活信仰がどのような関わり方をもって一つの全体を構成しているのか、わたしたちの復活信仰の構造を見ておきたいと思います。

 実は項目Uの最後に述べたように、「十字架された姿で現れる復活者キリスト《クリストス・エスタウローメノス》」に自分をすべて投げ込む質の「キリスト信仰」によって、そのキリストから聖霊のバプテスマを受け、聖霊によって生きるようになった新しい質の命こそが、復活信仰の基礎また土台となって、その三つの相の復活信仰を一つにして支えるのです。聖霊の現実が復活信仰の現実なのです。このことを示す典型的な実例が聖書の中にあります。それはヨハネ福音書11章にあります。その章は、イエスが死んで四日も経つラザロを呼び戻して生き返らされた、というイエスの力ある働きを語っています。その時、墓に行く前にラザロの死を嘆く姉マルタと交わされた対話が伝えられています(ヨハネ福音書11章21〜27節)。

 マルタはイエスに言います、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。マルタはイエスこそ、死の問題、人類がその悲しみに耐えられない問題、マルタが現に今直面しているこの死の問題を解決してくださる方であると信じています。それに対してイエスは言われます、「あなたの兄弟は復活する」。イエスには復活信仰が溢れています。その復活信仰がこう宣言させます。その言葉に対して、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と応えます。神は終わりの日に御自身の民を死者の中から復活させてくださるという「死者の復活」の信仰は、祭司階級のサドカイ派はモーセ五書にないからとして拒否していましたが、当時のユダヤ教民衆の主流であったファリサイ派はこれを主張し、当時のユダヤ教徒はこの信仰を受け容れていました。マルタは敬虔なユダヤ教徒として、この信仰を言い表します。

 それに対してイエスは言われます、「わたしが復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。ヨハネ福音書では、地上のイエスと復活者キリストは重なっています。ヨハネは若き日に一緒にいてその働きを見聞きした地上のイエスと、その後長年聖霊によって交わり、その言葉を聞いてきた復活者キリストを重ねて、晩年にこの福音書を書きます。そのキリストであるイエスこそが復活であり、命そのものである、と世界に宣言するのです。このキリストであるイエスに合わせられて、この方から賜る聖霊によって生きるとき、この方こそ「復活であり、命である」ことが体験できます。

 ヨハネ福音書はその全編を通じて、このイエスにこそ命《ゾ−エー》があり、このキリストであるイエスに自分を投げ込んで従うとき(これがキリスト信仰です)、キリストからこの命《ゾーエー》を受ける、と語っています。ヨハネはこの命《ゾーエー》を、人間が生まれながらに持っており、やがて必ず死んでいく生命と区別して、「永遠の命」と呼んでいます。この「永遠の命」は、この地上の体が死んで滅んでも、消滅しません。このことをイエスは、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われます。

 わたしたちの体は、この地上の生命が終わるとき、朽ち果てて滅びます。しかし、キリストが与えてくださる命《ゾーエー》、永遠の命は、この体が滅んでもなくなりません。生き続けます。そしてその命にふさわしい体が与えられます。パウロが「霊の体」と呼んだ新しい体が与えられます。これが復活です。永遠の命は復活を含んでいます。「永遠の命」とは復活に至る質の命であると言えます。ヨハネ福音書のイエスは、このような命に生きる者に、「わたしはその人を終わりの日に復活させる」と言われます(「6章39、40、44、54節)。ヨハネ福音書のイエスは、キリストに合わせられてこのような復活の質を持つ命に生きることを、一息に「わたしが復活であり、命である」と言われるのです。

 イエスはマルタに、「あなたはこのことを信じるか」と迫られます。墓の前で、すなわち死という冷厳な事実の前で、「わたしが復活であり、命である」ということを信じるか、と迫られます。そのイエスの問いかけにマルタは応えます、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」。「世に来られるはずの神の子、メシア」は当時のユダヤ教徒の表現です。わたしたちは今、イエスに向かって、「主よ、あなたこそキリストです」と告白します。「主イエス・キリスト」、この告白をなす者、すなわち、神がイエスを復活させてキリストとされたことを信じて、このキリストに自分をすべて投げ込んで従う者に、神はご自身の霊、聖霊を与えて、復活の質を持つ命、永遠の命を与え、復活に至る道を歩ませてくださいます。

 現在このような質の命に生きることが、死後の復活の希望を確かな現実として、今を生きる力とします。死の現実の前で、復活の希望を確かなものにします。わたしは自分の人生において、「わたしが復活であり、命である」と言われる方に出会い、この方にあって、死者の復活の希望をもって、死の現実に立ち向かうことができることを、キリストにおける神の恩寵として感謝し、限りなく神を賛美します。
     
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