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死よ、お前の刺はどこにあるのか            2021年3月14日

この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです、「死は勝利にのみ込まれた」。 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。 死よ、お前のとげはどこにあるのか。

(コリントT 15章54〜55節)


T パウロのコリント書簡

 パウロが長年指導的な一員であったアンティオケの集会から離れて、地中海沿岸の各地にキリストの福音を告げ知らせる独立自給の福音活動を進め、アカイア州の州都であった大都市コリントに活発で有力な集会を形成します。ところが、そこを去ってエフェソに滞在中に、コリントの集会に様々な問題があることを知ったパウロが、正しいキリスト信仰を保持するように諭すために書いたコリントの集会宛の手紙が「コリントの信徒への手紙」です。パウロが去った後のコリント集会には、分派の問題や家庭生活上の問題、集会の進め方や訴訟問題、激しく現れる聖霊の働きへの対処の仕方など、多くの問題が起こっていました。そのような問題についてパウロの指導を仰ぐために派遣されて来た使いの者に、パウロは懇切な手紙を書きます。それが後に編集されて二通のコリント書簡となり、新約聖書に収められてわれわれに伝えられることになります。

 パウロが宣べ伝えたキリストの福音とはどういう内容のものであったのか、それを理解するのにもっともよい資料は「ローマの信徒への書簡」であると言われています。たしかにローマ書は確実にパウロ自身が書いた書簡の最後のものであり、キリストの福音のもっとも包括的で体系的な提示であると広く見なされています。わたしの著作「パウロによるキリストの福音」シリーズもローマ書の講解を最後に置いています。たしかにローマ書に較べるとコリント二書簡は、コリント集会に起こった諸問題を取り扱っているので、話題は多岐にわたり、体系的な著述ではありませんが、信仰生活の具体的な局面を取り扱っているだけに、パウロが宣べ伝えた福音の姿を具体的に知ることができます。

 伝えられた諸問題の中で、コリントの集会の中の一部の者たちが、「死者の復活などない」と言って、死者の復活の信仰を否定している事実を、パウロはもっとも深刻な問題として、最後に取り上げて詳しく反論しています。それが第一の手紙の15章です。この章は、新約聖書の中で復活信仰についてもっとも詳しく論じた章として、「復活の章」と呼んでもよい章です。彼らはイエスの復活を否定したのではありません。「死者」は複数形です。福音を信じて主イエス・キリストの民となった者たちを、神は終わりの時に死者の中から復活させて、救済の業を完成されるという信仰を、彼らは否定したのです。


U 「死者の復活」がなければ

 パウロはこの章で、まずコリントで宣べ伝えた福音を再確認します(1〜11節)。その上で「死者の復活」を否定することは、キリストの復活を無意味にすることになると論じ、キリストの復活を核心的な内容とする「キリストの福音」を空しくすることだと主張します(12〜19節)。パウロは「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」と繰り返していますが(13節と16節)、それは、人間は死ねば再び生き返って命を回復することはない、という医学や科学の論理ではなく、これは「神が死者の復活という形で人間を救済されるのでないならば、救済者であるキリストを復活させることもなかったはずだ」という救済史の論理です。

 このように死者の復活を否定することによってキリストの復活を否定すれば、それはキリストの復活を告知する使徒の、ひいては新約聖書の証言を偽証とし、復活者キリストから受ける聖霊による神との交わりも空虚なものとなり、わたしたちは罪に支配された自分自身の中に放置されることになります。コリントの第二の手紙では、死者の復活を語る箇所(4:1〜5:10)で、死者の復活を否定することは、死者からの復活にあずかることにふさわしい者にしてくださり、その保証として聖霊を与えてくださった神を否定し、聖霊を否定することになるのだと議論を進めています(5:5)。


V 初穂キリスト

 このように「死者の復活」を否定することはキリストの復活を否定する深刻な誤りであることを示した後、パウロはキリストの復活を信じることは「死者の復活」の信仰を含んでいるのだということの根拠を語ります。「しかし今や、キリストは眠りについた人たちの初穂として、死者の中から復活されたのです」(20節)。まずそれは「初穂」という比喩で表現されます。どの民族にも最初の収穫を神に捧げる宗教儀礼がありますが、これは全収穫が本来神のものであるとして感謝を捧げるための象徴行為です。イスラエルのヤハウェ礼拝においても家畜の初子や畑の初物が捧げられました。初穂は全体を含んでいるのです。

 キリストは「眠りについた人たちの初穂として」復活されたのです。「眠りについた人たち」というのは、最初期の共同体において、キリストにある生涯を終えて亡くなった人を指す表現でした。神はキリストにあって地上の生を終えたご自身の民を、復活によって完成しようとされているのです。それを示すために、神の民を代表するキリストを初穂として死者の中から復活させたのです。

 しかしパウロは初穂という比喩にとどまることなく、直ちに「死者の復活」をアダムとキリストという神学的な対比の枠で根拠づけます(21〜22節)。その根拠として、パウロは「死が人によって来たのだから、死者の復活も人によって来るのです」と原則論を述べた後(21節、ギリシア語原文には「一人の」という語はついていません)、その原則をアダムとキリストに適用して、死者の復活を根拠づけます。パウロはこう続けます、「つまり、アダムにあってすべての人が死ぬことになったように、キリストにあってすべての人が生かされることになるのです」(22節)。

 「死が人《アントローポス》によって来た」というのは、創世記冒頭の三章で語られている、最初の人アダムが神への背きによって死ぬべき者になったという物語を指しています。ヘブライ語の《アダーム》は人という意味の名詞であって、創世記冒頭の三章のアダムの物語は、人類の現実を神話的な衣装で物語っているのです。その現実をパウロはギリシア語で「死が人《アントローポス》によって来た」というのです。それと同じ原理で、「生かされる、命を与えられる、命のないところで命を与えられる、すなわち死者の復活も、人《アントローポス》によって来るのです」。キリストは死者の中から復活する者たちの代表です。キリストは「最後のアダム」、終わりの日の人間、終わりの日に創造される人間の代表なのです(45節)。


W 復活の順序

 このように復活者キリストは、終わりの時に死者の中から復活する人間の代表者なのです。しかし現実の人間は時間の枠の中にいます。復活もその時間の枠の中で起こるものであることを、パウロは「ただ、一人一人にそれぞれ順序があります」と言って、その順序を語ります。「最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます」と言っています(23〜24節)。最初に初穂であるキリストが死者の中から復活され、次にキリストの《パルーシア》の時にキリストに属する民が復活するというのです。キリストが初穂として復活されたことは、すでに起こった事実です。そして次の「キリストの《パルーシア》の時にキリストに属する民」が復活するということは、キリスト復活の福音を聞いてキリストを信じ、キリストに属する者たちが待ち望んでいる未来です。わたしたちキリストに属する者はこの二つの「時の間に」生きております。

 《パルーシア》という語は、到来、到着、臨席というような意味の語です。すでに復活して栄光の座におられるキリストを信じている最初期の教団(エクレシア)は、そのキリストが栄光の姿をもって世界に現れることを《パルーシア》と呼びました。日本語では「再臨」と言われることが多いようですが、この語には「再び」の意味はなく、「来臨」とか「顕現」という語の方が原意に近いようです。わたしたちは「キリストの来臨」「キリストの顕現」を待ち望んでいるのです。そのときに「死者の復活」が成就し、わたしたちは栄光のキリストにまみえ、死によって分かたれた愛する者に再会するからです。

 パウロは《パルーシア》のことを語った後に、「次いで世の終わりが来ます」と言っています。すでに《パルーシア》が死すべき人間には時間を超えた世界ですから、「その後」とはどういうことか、《パルーシア》の後にどのようなことが起こるのかは、わたしたちの理解や想像を超えます。パウロは「次いで世の終わりが来ます」と言った後、そのときに起こることを語っていますが(24〜28節)、わたしたちには理解と想像を超えることですから、無理に解釈する必要はなく、「最後の敵として、死が滅ぼされます」という世界が来ることを望み見て、すべてを支配される神を賛美すべきでしょう。


X 復活の体

 「死者の復活」を聞いた人が必ず抱く疑問は、「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」ということです。それに対してパウロは穀物の種を比喩として答えます、「あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体に与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります」(37〜38節)。死者の復活もそれと同じで、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」と答えます(42〜43節)。

 わたしたち地上の人の生涯は、体を具(そな)えた生命として生きています。人間の生は「具体的」です。その霊において命の源泉である神から命を頂きながら、それを体をもって現して隣人と交わり、社会を形成しています。人間が形成する社会とその歴史は「具体的」です。ところがその体は卑しくて欲望に引き回され、弱くてしばしば病み衰え、やがては朽ち果てて死滅します。しかし死者の復活に際して神がご自身の民に与えてくださる新しい体は、もはや卑しいものではなく輝かしいものであり、もはや弱いものでなく力強いものであり、もはや朽ちるものではなく朽ちないものなのです。その新しい体がどのようなものであるのか、わたしたちは想像することすらできません。キリストの他はまだ誰も復活していないのですから、それを指す概念も言葉もなく、その内容を理解したり想像することはできません。

 しかし人間の存在の基本的様式は死後も変わりません。すなわち体をもって自己を表現し、神との関わりと自分と共に生きる相手との関連で存在します。この地上の弱い体が滅び去った後、時間の彼方において創造者なる神が与えてくださる体は、もはやこの地上の体のような卑しいもの、弱いもの、朽ちるものではなく、輝かしいもの、力強いもの、朽ちないものなのです。パウロはこのことを「つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」と、「霊の体」という表現を用いて語ります(44節)。現在の「自然の命の体」があるのと同じように確実に、「霊の体」もあるのです。わたしたちキリストにある者は、キリストにおいて語られた神の約束を信じています。すなわち、この朽ちるべき地上の体が滅んだ後、創造者はキリストにあるご自身の民に朽ちない体を与えて完成してくださることを信じています。

 その朽ちない体が与えられるときこそ、預言者の「死は勝利にのみ込まれた」という預言(イザヤ書25章8節)が成就します。その成就は一人の預言者の預言の言葉の成就だけではなく、イスラエルの全歴史の意義の成就であり、死の影に歩む人類の呻きの解決です。その成就に思いを馳せ、使徒パウロは聖霊に溢れて、死という最後の敵に向かって勝利の凱歌を挙げます、「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」。(54〜55節)

【注】ここで翻訳の問題を取り上げておきます。パウロの手紙のこの箇所は、新共同訳では次のように訳されています。「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか』」。この読み方はほぼすべての現代語訳に見られます。わたしの知る限り、聖書からの引用を「死は勝利にのみ込まれた」だけで終わらせる訳はありません。しかし、わたしはこの箇所を以上のように、死者の復活が実現するときに成就する預言の言葉は、イザヤ書(25:8)の「死は勝利にのみ込まれた」に限定すべきだと考えます。その後の「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」という部分(55節)は、鍵カッコの外に出して、それが成就する時を思い歓喜に溢れたパウロが、聖霊によって発した勝利の凱歌だと理解すべきであると考えます。その部分はたしかにホセア書13章14節を思わせる内容ですが、用語や語順は七十人訳ギリシア語聖書とあまりにも違っており、引用文とするのは無理 です。それはパウロが日頃親しんでいる聖書の用語や内容を用いて、現在パウロが実感している死に対する勝利を聖霊に溢れて叫んだものと理解するべきです。ギリシア語原文には鍵カッコは用いられていませんので、その使用と読み方は解釈の問題となります。(詳しくは拙著「パウロによるキリストの福音U」333頁の「死のとげ」の項を参照)


Y 死に対する勝利
 死には刺があります。死は人間の身体の機能がすべて停止して働かなくなる生物学的な現象です。わたしたちは皆、そのことは必ず起こること、すなわち死という事実は必ずやって来ることを十分承知しています。その死が起こるまでの短い時間をどう生きるかが、人間の生の究極の問題です。そしてこの問い、「お前はこの死に定められた生をどう生きるか」という問いに、多くの人は生のもっとも盛んな時期、すなわち青春期に直面します。そのとき死は生を否定する力として、生を脅かし、生きる歓びを全面的に享受することを許しません。生はその絶対的な否定である死に直面するとき、そのはかなさ、無意味さ、弱さに戦慄を覚えます。この生に対する死の否定的な働き、死の現実が生のただ中にもたらす恐れや不安が、聖書のいう「死の刺」です。

 パウロはいく度も死に直面するような苦難に満ちた生のただ中で、「私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです」と語ることができたのです(フィリピ1:21)。キリストという絶対的な価値の故に、生きることと死ぬことを相対化することができたのです。パウロにとって、死の刺は無くなっていました。「キリストにある」という場では、生と死は相対化されます。

 宗教とか信仰は死の事実を取り去ることはできません。どの宗教、どの信仰の人も必ず死にます。宗教は、死に取り囲まれている人間から、「死の刺」を取り去ることを追求してきました。わたしはキリスト教や仏教など宗教の信徒となって、その宗教を実践することではなく、福音を信じることによって、パウロと共に「死よ、お前の勝利はどこにあるのか」と叫ぶことができるようになりました。それは「死の刺」が取り去られたからです。信仰によってこの希望、すなわち復活の希望へと導き入れられたからです。

 パウロはこの勝利の凱歌の後に、「死の刺は罪であり、罪の力は律法です。しかし、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を与えてくださる神に感謝します」と言っています(15:56〜57)。体のすべての機能が停止するという生物学的出来事である死が、わたしたちにとって「刺」となるのは、わたしたちが神に背を向けて、命の根源である神から離れ去っているからです。この事実をパウロは端的に「死の刺は罪」と言って、その「罪の力は律法」だと続けます。人間の罪、命の源泉である神からの離反を暴露して、死を刺にするのは「律法」です。罪は律法、神からの諸要求を梃子にして人間を押さえつける力となります。律法というのは、ユダヤ人にとってユダヤ教という宗教の全体です。この「死の刺は罪であり、罪の力は律法です」という短い文は、パウロの全神学が要約されています。

 「死の刺」に痛めつけられている人間も、「キリストにあって」という恩恵の場に来るとき、宗教という枠の外で神の無条件の恩恵によって救われ、「わたしたちは救われて、このような(復活の)希望を持つに至ったのです」と告白することができます(ローマ書8:24 私訳)。死は必ず来ます。しかし死の刺は取り去られています。復活の希望に生きるわたしたちは、キリストにあってパウロと共に、「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」と勝利の凱歌をあげ、キリストによってこの勝利を与えてくださった神に感謝します(15:57)。

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