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ヨハネ福音書における「真理」  

 本稿は本来著作集の「対話編・永遠の命 ーヨハネ福音書講解ー」の特注または補論として入れるべき内容の論考ですが、著作集の刊行後に執筆されたので、別冊として印刷した次第です。著作集をお持ちの方は、本稿を福音書講解の特注または補論としてお用いください。なお、本稿ヨハネ福音書の引用は、拙著「対話編・永遠の命 ーヨハネ福音書講解ー」で用いた私訳によります。原語のギリシア語はカタカナ表記を《 》に入れて用います。

目次

  序 ヨハネ福音書における《アレーセイア》
  T 序詩における真理   1:14、1:17
  U 真理を行う者     3:21
  V 霊と真理による礼拝  4:23?24
  W 真理による自由    8:22
  X 真理の霊       14:17、15:26、16:13
  Y 真理による聖別    17:17
  Z 真理の証言      18:37
  結び 《アレーセイア》の訳語について


序  ヨハネ福音書における《アレーセイア》

 新約聖書ギリシア語の《アレーセイア》という語は、どの日本語訳聖書でも「真理」と訳されているのですが、この語は共観福音書ではほとんど用いられていません。イエスを陥れようとして質問したユダヤ人たちが、「あなたは真理に基づいて教えておられる」と持ち上げているところだけです(マルコ12:14とマタイ、ルカの当該箇所)。福音を提示するために用いられることはありません。それに対して、ヨハネ福音書では19回も用いられており、しかもヨハネが福音を提示する重要な箇所で、この《アレーセイア》という語が用いられています。この事実は何を意味しているのでしょうか。ヨハネがこの《アレーセイア》という語を用いるとき、どういう事態を指しているのでしょうか。この《アレーセイア》というギリシア語の訳語としては、どの日本語訳聖書でもいつも「真理」という日本語が用いられていますが、それは適切なことなのでしょうか。ヨハネ福音書におけるこの《アレーセイア》という用語の主要な七つの場合(T?Zの七項)について検討してみたいと思いますが、その前にヨハネがキリストにおいて到来した福音の事態の中心に《アレーセイア》を置くに至った経緯を、ここでは新約聖書の範囲内で簡単に見ておきたいと思います。

 新約聖書の中で最初に書かれた文書はパウロ書簡ですが、パウロ書簡において《アレーセイア》という語はかなり用いられています。パウロ書簡の中でも初期のものとみられるガラテア書で、パウロはこの《アレーセイア》という語を用いています。「福音の真理《アレーセイア》が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした」と言っています(ガラテヤ2:5)。パウロが戦った「そのような者たち」というのは、異邦人信者に割礼を要求した者たちのことです。パウロは「福音の真理《アレーセイア》」のために、生涯「そのような者たち」と戦わなければなりませんでした。パウロはまた、アンティオキアの共同の食事で、ユダヤ人信者がユダヤ教の規定を守るために共同の食卓ら身を引いていった時、彼らが「福音の真理《アレーセイア》」に従って歩んでいないと非難しています(使徒2:14)。ガラテヤ書の他の箇所(4:16、5:7)では、この「福音の真理」のことを、《アレーセイア》という語だけで指しています。

 このような用例から分かるように、「福音の《アレーセイア》に従って歩む」とは、福音が与える現実に忠実に行動することを指しています。パウロはアンティオキアの集会から独立してエーゲ海の沿岸諸地方に福音を宣べ伝え、テサロニケやコリントやエフェソに有力な集会を形成しましたが、その苦難に満ちた伝道活動を顧みて、こう言っています。「....... 大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています」(コリントU6:4~7)。このような苦難に満ちた福音を宣べ伝える働きは、パウロにとって「真理《アレーセイア》の言葉」を宣べ伝える働きであり、「神の力」によるものでした。パウロにとって福音は「真理《アレーセイア》の言葉」なのです。

 パウロは「わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならば(何事でも)できます」と言っています(コリントU13:8)。パウロにとって「真理《アレーセイア》」とは、「福音の真理《アレーセイア》」のことであり、福音がわたしたちの人生にもたらす新しい現実とか実体を指しています。ところが最後の著述と見られるローマ書では、このような意味と用例の「真理《アレーセイア》」は現れず、その第一章と第二章で、人類の背神の現実とか、ユダヤ教の誤りを指摘するために用いられているだけです(ローマ書1:18、1:25、2:8、2:19)。パウロの「福音の真理」という表現の内実は、むしろパウロの次の世代の弟子たち著作と見られるコロサイ書やエフェソ書に受け継がれて見られようになります。

 コロサイ書の著者は、コロサイの信徒たちの信仰と愛について聞き及び、それを与えてくださった神に感謝した上で、「それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました」と言っています(コロサイ書1:5)。ここで彼らがパウロから聞いて信じた福音が「真理《アレーセイア》の言葉」と言い換えられ、同じものとして扱われています。福音は「真理《アレーセイア》の言葉」、すなわち福音は、偽りの言葉でなく本当のことを語る言葉であるだけでなく、言葉だけで実体のない空疎なものではなく、それを信じる者にその言葉が指す実体を与える現実的な力である、と言っているのです。このことをパウロは、「福音はすべて信じる者に救いを与える神の力、神の働きである」と言っていました(ローマ書1:16)。この実体を与える働きが「真理《アレーセイア》の言葉」と表現されるのです。

 エーゲ海周辺のパウロ系の諸集会で、コロサイ書の強い影響の中で形成されたとみられるエフェソ書では、福音を「真理の言葉」とするコロサイ書の表現は受け継がれ、その表現を用いて福音の内実が次のように表現されています。「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」(エフェソ書1:13)。この一文に真理《アレーセイア》と聖霊の関係が見事に要約されています。「真理《アレーセイア》の言葉」というのは、内実のない「空疎な言葉」の反対で、その言葉が指し示す内実、実体を持つ言葉という意味です。そして実は、その言葉が指し示す内実、実体を与えるのは聖霊の働きなのです。聖霊の働きがなければ、福音は実体のない空疎な言葉となります。パウロも「聖霊の実」という表現を用いて、神の霊がわたしたちに与える現実を様々な形で繰り返し語っています。わたしはその現実を「信仰と愛と希望」の三相にまとめています。エフェソ書の著者は、聖霊の働きによって福音が指し示す実体を与えられる体験を、「証印を押された」という比喩で語っています。証印というのは、指し示されているもの(契約の内容など)が実体であることの保証です。

 エフェソ書は四章以下の後半で、キリストの民の歩みについて実践的な勧告を行なっていますが、その中で虚しい人間の教説に引き回れることなく、「愛に根ざして真理を語り、頭であるキリストに向かって成長して」いくように勧めます(4:15)。そしてその勧めをさらに続けて、「あなたたちがキリストにあって教えられたのであるならば、イエスにおいて真理であるように、....御霊によってあなたたちの思いが新たにされ、神にかたどって創造された新しい人を身につけなさい」と、イエスにおいて実現していた真理を模範にして、御霊によって新しい人の実質に生きるように求めます(4:21?24)。そして最後に、悪が支配するこの世との戦いにおいて強くなるために、神の武具を取るように勧める中で、「真理によって腰の帯を締め」と語られています(6:14)。

 このようにコロサイ書やエフェソ書に見られるように、ヘレニズム世界で宣べ伝えられ確立されたキリストの福音は、「真理《アレーセイア》の言葉」として理解され、真理《アレーセイア》を追求するギリシア人に受け入れられていきます。その福音活動の後半期にはヘレニズム世界の代表的な大都市エフェソに移住して活動したヨハネ共同体が、その福音書に「真理《アレーセイア》」という語を用いるようになるのは自然な流れでしょう。これは十二使徒からユダヤ人の中で伝承されたイエス伝承(イエスの生涯の働きと言葉を語り伝える言い伝え)には、真理《アレーセイア》という用語は使われず、その伝承を用いて形成された共観福音書には出てこないのと対照的です。

 なお、二世紀に入ってからエーゲ海地域の集会で用いられた牧会書簡と呼ばれるテモテ書やテトス書でも、「真理《アレーセイア》」という語はよく使われており(牧会三書簡で15回)、福音は「真理の言葉」と言われ(テモテU2:15)、その内容の理解は「真理の認識」(テトス1:1)と称されています。しかしパウロからの書簡と称していますこれらの三書簡の成立は、ヨハネ福音書よりかなり後の時代になりますので、本稿では触れないでおきます。

(注) 牧会書簡については、著作集『パウロ以後のキリストの福音』の371頁「第七章第一節 牧会書簡の成立」を参照してください。


T  序詩における《アレーセイア》

 律法はモーセを通して与えられ、恩恵《カリス》と真理《アレーセイア》はイエス・キリストを通して成った。(1章17節)。

 ヨハネはイエス・キリストの福音を提示するにあたって、まず最初に、神の救済の言葉である《ロゴス》がわれわれ人間と同じ姿をとって歴史の中に現れたという、驚くべき秘義を賛美する「序詩」と呼ばれる一段を置いています(1:1?18)。この序詩の中で、《ロゴス》が「肉となって」わたしたちの中に現れた事態を賛美する文中に、この《アレーセイア》を用いています。

 「言葉《ロゴス》は肉となって、わたしたちの間に幕屋を張った。わたしたちは彼の栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、恩恵《カリス》と真理《アレーセイア》とに満ちていた」(1:14)。

 わたしたちキリストを信じて新しい命、永遠の命を受けた者は、それがまったく父の無条件の恩恵の賜物であることを体験し、福音が恩恵《カリス》の告知であることを身をもって知っています。ヨハネもその体験を「わたしたちは皆、彼の充満の中から、恩恵の上に、さらに恩恵を受けた」と言い表しています(1:16 私訳)。その上で、イエス・キリストによってわたしたちのもとに到来した事態を要約して言います。

(注) 16節の「充満」については、著作集の『ヨハネ福音書講解T』の32頁「キリストの充満」の項を参照してください。


 「律法はモーセを通して与えられ、恩恵《カリス》と真理《アレーセイア》はイエス・キリストを通して成った」(1:17)。

 モーセによって与えられたものは「律法」、すなわちユダヤ教という宗教でした。ユダヤ教において典型的に見られるように、宗教は、これをしなさい、これはしてはならないという戒め、倫理規定とも呼ばれる神の要求と、神と人との関わりを指し示す儀礼の規定や教理などの象徴の体系です(教理の要約である信条はsymbolと呼ばれます)。それに対してイエス・キリストがこの世界にもたらされたものは、「恵み《カリス》と真理《アレーセイア》」だ、とヨハネは宣言するのです。宗教が人間にこうしなさい、こうしてはならないという神の要求を課するのに対して、キリストは無条件に神が良きもの与えてくださる世界、すなわち恩恵《カリス》を示されます。

 福音が恩恵《カリス》の告知であることは、どの福音書も強調しています。ところがヨハネ福音書だけは、キリストにおいて現れた福音の事態を指し示すのに、恵み《カリス》と並んで真理《アレーセイア》を置いているのはなぜでしょうか。この問いに対しては、以下のUからZの各項で「真理《アレーセイア》」の用例を用いて答えることになりますが、ここで結論を先取りして答えると、ヨハネは「モーセは宗教という象徴をもたらしたが、キリストはその宗教が象徴する実体とか現実をもたらした」という主張をしていると言えます。

 ヨハネは、宗教が神と人との関わりを儀礼とか祭儀などの象徴で指し示すのに対して、キリストは神と人との関わりの実体とか現実を与える方だと主張しているのです。シンボルとか象徴に対して、それが指し示す実体とか現実を、ヨハネは《アレーセイア》という語で指し示すのです。ですから、この場合の《アレーセイア》は「実体」とか「現実」という語で訳した方が、ヨハネが言おうとする対比が分かりやすくなります。モーセの宗教、すなわちユダヤ教が実行を要求する祭儀は、人間が神の民として生きていく上で必要な神との関わり方を指し示す象徴です。ユダヤ教の祭儀がおもに犠牲祭儀であるのは、人間が神との交わりの中で生きていくには、自分が追求する価値あるものを捧げて、神が求められる価値を追求する必要を指し示す象徴行為です。

 モーセの宗教、すなわちユダヤ教が象徴の体系であるのに対して、キリストはその象徴が指し示す実体を与えてくださるのです。その実体をヨハネは《アレーセイア》と呼ぶのです。「真理」というと何か大学で追求する最終目標を指しているような漠然とした理念が思い浮かびますが、ヨハネ福音書では「真理」はすでに歴史の中に現れたのです。「真理」は今現在、信じる者に与えられるのです。「真理」は信じる者にとって現実なのです。「真理」は実体なのです。永遠の命の実体なのです。ヨハネはこのような序を置いて、以下の本論でその現実を展開していくことになります。


U  真理を行う者   

 悪を行う者は光を憎み、自分の行いが明るみに出なように、光の方に来ない。真理を行う者は、自分の行いが神によってなされたものであることが明らかになるように、光のもとに来る。(3章20?21節)

 序詩を終えて、ヨハネは1章19節から本論に入り、他の福音書と同じく、イエスの活動を洗礼者ヨハネの活動から始めます。洗礼者の叫びに神の呼びかけを聞かれたイエスは、洗礼者の運動に身を投じ、荒野での祈りと洗礼活動を共にされます。その間にイエスは神から聖霊を受けて新しい段階の活動に備えられます。洗礼者ヨハネもその事実を認めて、「わたしは御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」と証言します(1:32?34)。また洗礼者ヨハネの弟子の中からイエスに共鳴して、イエスの弟子となる者が集まります。1章でこれらのことをことを書き終えたヨハネは、2章でガリラヤに戻られたイエスの活動に短く触れて、ガリラヤのカナで行われた婚宴で水をぶどう酒に変えるという最初のしるしを伝え、2章の半ばからすぐに、イエスが過越祭のためにエルサレムに来て活動されたことを語り出します。エルサレムの住人であるヨハネは、ガリラヤでの活動について語ることは少なく、エルサレムでの活動について詳しく語ることになります。

 エルサレムに入られたイエスは、まず最初にエルサレム神殿で捧げ物の動物を売って商う者や両替商を縄の鞭で追い出すという激しい象徴行為をされます。またエルサレムで多くの病人を癒すなどのしるしを行い活動されます。そして3章に入って、夜ひそかに訪れてきた議員のニコデモとなされた対話を伝える記事になります。この対話の中で、イエスは神の国に入るには新しく生まれること、すなわち霊によって生まれることが必要であるという秘義を語られます。この対話では《アレーセイア》という語は出てきませんが、イエスがニコデモに向かって、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と言って驚き、さらに「わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」と言っておられます。このことから、イエスが(ひいてはヨハネ共同体が)自分が体験した地上のことを証言しているのに、すなわち地上の現実を語っているのに、聞いている者がそれを信じないことが嘆かれているのです。

 この信じる者が地上で体験している現実が、ヨハネがいう《アレーセイア》に他なりません。このイエスとニコデモの対話も、《アレーセイア》をめぐる対話であると言えます。したがってその対話の締めくくりの部分に、「真理《アレーセイア》」という表現が自然に出てくることとになります。ニコデモに対するイエスの言葉が、15節までか、21節まで続くのかは争われていますが、21節の《アレーセイア》もイエスとニコデモの対話の一部として理解してもよいでしょう。ヨハネは、ニコデモとの対話の中で「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」と言って、キリストの十字架の死を指し、その十字架されたキリストを信じる者が永遠の命を受けることを神の愛の働きとして、有名な16節以下の宣言を書き記すのです。

 その中で(16?21節)、ヨハネはこの十字架されたキリストの出現を「光が世に来た」と表現し(19節)、「悪を行う者は光を憎み、真理を行う者は光の方に来る」と言っています。ここでは「悪を行う」が「真理を行う」と対比されています。悪を行うとは、ここでは倫理的な悪を行うことを指すのではなく、真理に背く行為を続けること、真理に背く生涯を送ることです。真理に背く生涯を送る者は、自分の生が空虚であることが明るみにでないように、光のもとに来ようとしません。「真理を行う」とは、神が「その独り子を与えるほど愛して」与えてくださった現実に従って行為すること、そのような生涯を送ることです。神が無条件の恩恵によって与えてくださった現実(それが真理《アレーセイア》です)に生きる者は、その行為と生涯が自分からなされたものではなく、「神にあって」すなわち神の働きによってなされたことが明らかになるように、光であるキリストのもとに来るのです。十字架されたキリストのもとに来るのです。このように「真理」は人々を二種類に分けます。真理に背を向ける者と真理を行う者とに二分します。ヨハネはこのことを「神の裁き」と呼び、この裁きが現に行われていると言っています。これは「真理による裁き」と言ってもよいでしょう。


V  霊と真理による礼拝 

 「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来るであろう。いや今が今がその時である。実に父はこのように礼拝する者を求めておられるのである。神は霊である。神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。(4章23?24節)

 これはイエスがサマリアの女に語られた言葉ですが、この言葉はヨハネ共同体がこの世界に向かって叫んでいる福音の告知の言葉でもあります。ヨハネは「今がその時である」と言って、周囲の様々な宗教によって神を礼拝している民に、「霊と真理をもって父を礼拝するように」呼びかけるのです。ここで ヨハネは、「唯一の神である父は、人間が神を父として信じて尊び、神がその霊によって与えてくださる「神の子としての現実」(これがヨハネがいう真理です)に生きることによって、神と人との真実な関わりが実現することを求めておられるのだ」と言っています。ここで神の霊、聖霊と「真理」との深い関係が見事に表現されています。

 「まことの礼拝をする者」の「まことの」は、真理《アレーセイア》の形容詞形です。「礼拝」は人間が神と関わるときの行動様式の総体です。われわれ人間は、自分の能力や視界を超える超越者を体験し、その超越者、宗教学で「聖なるもの」と呼ばれるもの、普通「神」と呼ばれるもの、との関わりの中で生きてきました。その関わりの中で行われる営みの総体が、礼拝とか宗教と呼ばれます。そして人間の歴史は、その営みが実に多様な形で現れ、様々の違った姿をとってきたことを示しています。そのような現実の中で、ヨハネは「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」と宣言します。「(そういう時が)来る」という動詞は現在形で、現在から未来にわたって実際に行われる働きや状態を記述します。ヨハネは、そういう時が必ず来ると宣言するのです。

 人間が礼拝する神、宗教が関わりを追求する神は霊であるのですから、そして人間は霊的存在として造られているのですから、神と人間の関わりも当然霊の次元のことになります。しかしヨハネは、神との関わりが霊によるものであるのは当然として、「真理《アレーセイア》」にもよるものでなければならいと主張します。ヨハネがいう《アレーセイア》とは、これまでに見てきたように、偽りとか虚偽に対する本当のことを意味するだけでなく、空虚に対して実体があること、現実であることを指しています。英語でいう「リアリティ」が近いように思います。ヨハネが「神は霊であるから、神を礼拝する者は霊と真理をもって(直訳は「霊と真理において」)礼拝しなければならない」と言うとき、人間が神との間にもつ関わりは、神の霊が与えてくださる現実、わたしたちの内に形成される実体に基づくものでなければならない、と主張しているのです。

 (注) 神の霊、聖霊が「真理《アレーセイア》の霊」、すなわち「リアリティの霊、実体の霊(実体を与える霊)」と呼ばれることについては、「Y 真理の霊」を参照してください。



W  真理による自由    

 そこでイエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたたちがわたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子であり、真理を知るようになる。そして真理はあなたたちを自由にするであろう」。  8章31?32節 


 ヨハネ福音書8章の30節から終わりまでの8章後半部は、イエスが「ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた」言葉です。その中でイエスは対話の相手、すなわち「イエスを信じたユダヤ人たち」に対して、「あなたたちは悪魔という父から出た者であり、自分たちの父の欲望を行おうとしている」という厳しい言葉を投げつけておられます(8:44)。このような激しい言葉を突きつける相手の「イエスを信じたユダヤ人たち」とは、どのような人たちなのでしょうか。この箇所はヨハネ福音書の中でも解釈が分かれる最も難しい部分です。しかし、この部分には「真理」という言葉が集中して6回も出てきており、「真理」という用語の理解にとって重要な箇所でもあります。

 この論争の最初に「真理はあなたたちを自由にするであろう」と、真理の働きが「自由にする」という語で語られています。「自由」がこの論争の核心です。「自由」という用語は、ヨハネ福音書ではこの部分(32、33、36節)以外には出てきません。「自由」という語はガラテヤ書、コリント書、ローマ書に多く出てくる、パウロ独自の用語です。この事実からすると、この箇所のヨハネはパウロの福音理解の影響を強く受けていると言えるでしょう。

 新約聖書の時代では、「自由」は何よりも「奴隷、または奴隷状態」の対立概念でした。このことは「自由にする」というイエスの言葉を聞いたユダヤ人たちが直ちに、「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」と反論したことからも窺われます。「自由にする」は「(奴隷を)解放する」と同じであり、パウロ書簡においても「自由」は「解放」という語と置き換えることもできます。

 この8章後半部でイエスが語りかけておられる「ご自分を信じたユダヤ人たち」というのは、イエスを聖書が約束したメシアであると認めたユダヤ人という意味であろうと思われます。彼らもユダヤ人でありユダヤ教徒である限り、神の救いは当然契約の民であるユダヤ人だけに及ぶのであり、救われて神の民に入る者は割礼を受けてユダヤ教徒にならなければならないと信じている人たち、ユダヤ教を神の民の条件と考えている人たち、神の民をユダヤ教内に限定する人たちであったと思われます。

 そういう人たちに向かってイエスは言われます、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。ここでヨハネが「わたしの言葉にとどまるならば」というとき、この「わたしの言葉」は「わたしというロゴス」という特別な表現で、「わたしが語るもろもろの言葉」というより「わたしの存在によって語られる神のロゴス(単数形)」にとどまる、すなわち復活者キリストであるイエスに結ばれ、そのキリストの内に生きる、パウロが「キリストにあって」という現実を指していると理解すべきです。そのように復活者キリスト・イエスに結ばれて生きるとき、わたしたちの地上の生はイエスに従う生となり、イエスの弟子として霊的次元の現実(リアリティー)に生きることができます。それが「真理を知る」ということです。

(注) この点に関して詳しくは、著作集『対話篇・永遠の命ーヨハネ福音書講解T」の326?327頁を参照してください。


 このようにして知った「真理」、すなわちキリストにあって神が与えてくださる霊的次元のリアリティーが、わたしたちを「自由にする」のです。わたしたちをさまざまな束縛から「解放する」のです。先に見たように、「自由にする」は「解放する」と同じです。当時では「自由にする」は「奴隷を解放する」ことを意味していました。ですから、それを聞いた「ユダヤ人たち」は、「わたしたちはアブラハムの子孫である。今まで誰の奴隷にもなったことはない」と言うのです。しかし社会的な身分は自由人であっても、神との関わりという霊的な次元では、人間はみな神から離反しているのであって、その離反の中で生き続けている限り、神に敵対する霊力の支配下にあります。その現実をヨハネは「罪の奴隷」という比喩的な表現で語るのです。

 イエスが「真理はあなたたちを自由にする」と言われるとき、「人が神との交わりのリアリティー(現実、実体)に入るとき(それが真理を知るということです)、そのリアリティー(真理)が人を神からの離反という罪から解放する」と言っておられるのです。神からの離反という罪から解放されて神との交わりに入った者は、いつまでも神の家にとどまります。奴隷は主人の家にいつまでもとどまる資格はありません。この社会的現実を比喩としてヨハネは、子であるイエス・キリストによって解放された者は、いつまでも子(キリスト)と一緒に父のもとにとどまるのだという議論を展開します(8:34?47)。この議論の中に「真理」という語が5回も出てきます。この事実からも、イエス・キリストによる救済の現実を語るのに、「真理《アレーセイア》」というが語が指し示す現実が、ヨハネにとっていかに重要であったかがうかがえます。

(注) 8章34節から47節に至る「この議論」の詳細については、著作集『対話篇・永遠の命
ーヨハネ福音書講解T』324??339頁の「28 真理は自由を与える」と「29 悪魔の子ら」の二つの項を参照してください。本稿では真理《アレーセイア》」という語の用例から、その意義を示すことに限定します。


X 道であり、真理であり、命であるキリスト

  イエスはトマスに言われる、「わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない」。 (14章6節)

 イエスは弟子たちと過ごされた最後の夜に、この世に残していく弟子たちに最後の言葉を語られます。それは共観福音書では、弟子たちにパンを裂いて与え、ぶどう酒を回し飲ませて、「これはわたしの体、わたしの血である」という衝撃的な言葉を語り、イエス亡き後は主イエスの十字架の死を記念するために、これを行えという「主の晩餐」制定の記事でした。ところがヨハネ福音書ではこのような晩餐に関する記事はなく、この世に残していく弟子たちへの訓戒と励ましの言葉が詳しく語られます(13章?17章)。この最後の夜のイエスの言葉は「訣別遺訓」と呼ばれ、ヨハネ福音書の大きな特徴となります。
 
 イエスは弟子たちから去って行こうとされています。そのことをあからさまに語られたとき(13:33)、ペトロは「主よ、どこへ行かれるのですか」と訊ね、「あなたは今はついてくることはできない」と言われて、「命を捨てても」ついて行く決意を表明します。その決意に対してイエスは「鶏が鳴くまでに三度わたしを知らないと言うであろう」と、ペトロの否認を予告されます(13:36?38)。イエスが去っていかれると聞いて心騒がす弟子たちに、イエスは「あなたたちは心を騒がせないがよい。神を信じ、わたしを信じなさい」と励まし、父の家に場所を用意しに行くのだとその目的を明らかにして、「あなたたちはわたしが行くところに至る道を知っている」と言われます(14:1?4)。そのイエスの言葉に対してトマスが言います、「あなたがどこに行かれるのか、わたしたちは知りません。どうしてその道を知ることができましょうか」。

 そのトマスにお答えになったのが、上記のイエスの言葉です。トマスはイエスが行かれるところに至る道を知らないと言っているのですから、イエスの答えは「わたしが道である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない」だけで十分なはずです。ところがここでイエスは道のことを訊ねているトマスに、「わたしが道であり、真理であり、命である」と答えておられます。これはどうしてでしょうか。イエスとトマスの対話としては、「わたしが道である」というお答えで十分なはずです。しかしヨハネはそれに「わたしが真理であり、命である」という言葉を加えないではおれなかったのです。これはヨハネにとって、イエスは真理であり、命そのものであるからです。それはヨハネが告知する福音に他ならないからです。

 イエスのお答えの言葉は、ギリシア語では《エゴー・エイミ》という言葉で始まっています。これは英語では ”I AM” 、日本語では「わたしはある」に相当する表現で、神が御自身を顕される時に用いられる表現(フレーズ)です。共観福音書では、水の上を歩いて顕れたイエスの言葉(マタイ6:50) と裁判の場で大祭司の質問に答えたイエスの言葉に出てくる(マルコ14:62)だけですが、ヨハネ福音書では、イエスはこの「わたしはある」という神の自己顕現の句を何回も用いておられます。とくに7章から8章の仮庵祭でのユダヤ人たちとの論争でこの句をよく用いておられます(8:24、8:28、8:58)。ユダヤ人たちはこの宣言の重大さをよく理解しました。それは自分を神とすることです。自分を神として神を汚す人間を生かしておくことはできません。「ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした」と記されています(8:59)。

 (注) ヨハネ福音書における《エゴー・エイミ》の意義については、著作集『対話篇・永遠の命ーヨハネ福音書講解T』319頁以下の「特注 ヨハネ福音書における《エゴー・エイミ》」を参照してください。


 ヨハネ福音書の「イエス」は、ヨハネ共同体がその交わりの中に生きている復活者キリストと重なっています。弟子のヨハネが親しく接した地上のイエスの言動の報告と、現在長老ヨハネが率いるヨハネ共同体が聖霊によってその働きを受けている復活者キリストの告知が重なっています。この福音書のイエスが「わたしが命のパンである」と、この《エゴー・エイミ》の後に「命のパン」という補語をつけて語り出されるとき、この文はこの復活者キリストであるイエスこそが、この方のもとに来て、その方を信じる者が受ける永遠の命を指し示しているのです。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」。この復活者キリストであるイエスこそ、人類にとって「まことのパン」なのです(6:22)。パンが比喩また象徴として指し示している実体なのです。

(注) この《アレーセイア》の形容詞形は、普通「まことの」と訳されて、「まことの光」(1:9)、「まことの礼拝」(4:23)、「まことのパン」(6:32)、「まことの食べ物、まことの飲み物」(6:55)、「まことのぶどうの木」(16:1)、「まことの神」(17:3)のように用いられています。このような場合の「まことの」も、「偽りの」の反対の「本当の」という意味よりも、もはや比喩や象徴ではなく「実体の、実物の」という意味に理解すべきでしょう。

 このように《エゴー・エイミ》の後に補語を置いて、その方が成し遂げてくださる働きを加えた形が、ヨハネの福音告知の代表的な形式です。14章6節の場合も、復活者イエス・キリストを信じることが、まことの神である父のもとに至る道であることが宣言されているのです。しかしヨハネはこの福音書全体で、復活者キリストであるイエスこそ真理《アレーセイア》そのものであり、そのイエス・キリストを信じることが永遠の命《ゾ−エー》であることを告知してきました。イエスの最後の言葉となるこの訣別遺訓において、イエスが「わたしが道《ホドス》である」と言われたその《エゴー・エイミ》に、《アレーセイア》と《ゾーエー》を加えないではおれなかったのでしょう。こうして、この節は《エゴー・エイミ》を用いたヨハネの福音告知の最後になって、その全体を締めくくる重要な一文になります。



Y  真理の霊  

  「しかし、その方、すなわち真理の霊が来るときには、あなたたちをすべての真理に導き入れるであろう」。 (16章13節前半)

 イエスご自身が弟子たちの足を洗うという象徴的行為をもって始まる訣別遺訓は、イエス亡き後はこのような行為で示されたへり下った愛で互いに愛するようにという、イエスの切々な訓戒であり、そういう弟子たちのあり方が、「それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」とまで言っておられます。その他にも、この世では迫害や苦難を受ける弟子たちに対する励ましの言葉もあります。しかしその訓戒や励ましの他に、イエスは弟子たちに大きな約束を与えておられます。それは「別の同伴者」の約束です。地上に残された弟子たちがイエスを愛する愛からイエスの訓戒を守るならば、父のもとにおられるイエスは、父にイエスに代わる同伴者を送ってくださるようにお願いしてくださるというのです(14章15~16節)。

 原文では「わたしは父にお願いしよう。父は別の《パラクレートス》をあなたたちに与え、その方がいつまでもあなたたちと一緒にいるようにしてくださる」となっています(16節)。《パラクレートス》というギリシア語は、《パラ》(そばに)と《クレートス》(呼ばれた者)という語意から、一般的な用法では「助け手」という意味で用いられる語ですが、法廷用語では被告の側に立って弁護する者、弁護士を指します。それでこの《パラクレートス》は、日本語訳新約聖書では、助け主とか弁護者と訳されることが多いようです。しかしイエスが「別の」《パラクレートス》と言われるのは、これまでは弟子たちといつも一緒にいて助けておられたイエスに代わって、「別の」方が一緒にいて助けてくださるようになる、という意味ですから、わたしはこの《パラクレートス》を」「同伴者」と訳しています。

 イエスに代わって父から送られてくる別の同伴者《パラクレートス》は、16節に続く17節で
「真理の霊」と呼ばれています。「その方とは真理の霊である。世はこの霊を受けることができない。世はその霊を見ることもないし知ろうこともないからである。あなたたちはその霊を知っている。この霊はあなたたちのもとに留まり、あなたたちの中におられることになるからである」(17節)。イエス亡き後、イエスに従う弟子たちに送られてくる「別の同伴者」は「真理の霊、《アレーセイア》の霊」と呼ばれています。この「《アレーセイア》の霊」とはどういう霊でしょうか。この名によって聖霊のどのような働きが語られているのでしょうか。

 その「真理の霊」の働きは、その後に続く二ヶ所で次のように語られています。一つは、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている同伴者、すなわち、父のみもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しすることになる。あなたがたもまた、初めからわたしと一緒にいるのだから、証しをすることになる」という働きです(15章26節)。もう一つは、「しかし、その方、すなわち真理の霊が来るときには、あなたたちをすべての真理に導き入れるであろう」という働きです(16章13節前半) 。この二つは一つです。父が送ってくださる別の同伴者、すなわち聖霊は、信じる者を「すべての真理に導き入れる働き」をする霊であるから、「真理の霊」と呼ばれるのです。そして「真理の霊」である聖霊が導き入れてくださる真理《アレーセイア》の中に、イエスについての証、イエスがキリストであるという証言が含まれるからです。

 ヨハネがいう「真理」《アレーセイア》とは、象徴の言葉が指し示している現実とか実体を指しているということを思い起こしてください。ですから、ヨハネが「真理の霊」と言うとき、それは「実体を与える霊」とか「言葉を現実とする霊」という意味になります。そしてこれまでに見てきたように、これは聖霊の働きの記述です。聖霊が降り人の内に働くとき、聖霊は人が耳で聞いていた福音の言葉の実体の中へ、福音の現実の中へ導き入れてくださるのです。聖霊はこのような働きをする霊であるので、「真理の霊」と呼ばれるのです。聖霊は「実体化の霊、現実化の霊」なのです。

 新共同訳はこの13節前半を「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と訳しています。この訳は問題です。「《アレーセイア》の霊は人を実体とか現実のただ中へ導き入れる」のであって、「真理について悟らせる、真理について正しい理解を与える」ということではありません。「導く」という動詞の意味内容からして、《アレーセイア》という名詞の前に置かれている前置詞《エン》は「について」ではなく、「の中へ」の意味に理解しなければなりません。英訳(RSV)がこの箇所を into という前置詞を用いて、「彼(その霊)はあなたたちをすべての《アレーセイア》の中に導き入れる」と訳しているのは正しい理解です。原意は「《アレーセイア》の霊はあなたたちをすべての《アレーセイア》に導き入れる」です。聖霊は信じる者を《アレーセイア》(実体、現実)の導き入れるから、「《アレーセイア》の霊」と呼ばれるのです。

 新共同訳は16章の4節後半から15節までの一段に「聖霊の働き」という題をつけて、イエスが約束された《パラクレートス》が来るとき、どのような働きをしてくださるのかが語られています。その前半(11節まで)ではその《パラクレートス》が「罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」と語られています。確かにこれらは聖霊の働きですが、それは「《アレーセイア》の霊」としての聖霊の働きには入れられず、後半(12節以下)になって、聖霊が信じる者を「すべての《アレーセイア》に導き入れる」働きを語るところで初めて、《パラクレートス》が「《アレーセイア》の霊」という名で登場します。これもヨハネが《アレーセイア》という語を厳密に使っていることの現れでしょうか。


Z  真理による聖別

 「真理によって彼らを聖別してください」。  17章17節

 ヨハネ福音書の17章に、イエスが弟子たちと過ごされた最後の夜に祈られた祈りが伝えられています。この記事はどういう性格の記事でしょうか。この福音書全体が伝えるイエスの姿を瞑想しながらこの章を読むと、この祈りが最後の夜にイエスが口にされた祈りであるだけではなく、「(わたしたちの罪のために十字架上に)死んだ方、いやむしろ、復活された方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださっている」姿が思い浮かびます(ローマ書8:34)。そもそもヨハネ福音書は、イエスが地上におられた時に実際に語られた言葉と、ヨハネ共同体が聖霊によって復活者キリストとの交わりの中で聞いているイエスの言葉が、継目なく重なって構成されている福音書です。そしてこの祈りは、地上に残していく弟子たちに言い残そうと語られた訓戒(13章から始まる訣別遺訓)の締め括りの位置を占めており、この重なりが強く現れています。

 まず最初の一段(1ー5節)で、イエスはご自分のために祈られます。父が子であるイエスにお与えになった地上でなすべき働き、すなわち十字架上に人類の罪を背負って神の子羊として捧げられるべき時が来たことを悟って、「父よ、時が来ました」とご自身を父に委ね、父にその苦しい死を通過して子としての栄光を与えてくださるように祈られます。ヨハネ共同体は父がイエスを復活させて、子であるイエスに栄光をお与えになったことを見ています。その栄光とは、復活した子が自分に属する者たちに永遠の命を与えるようになることです。その永遠の命を定義する言葉、「永遠の命とは唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」は、復活されたイエスをキリストと告白しているヨハネ共同体の証言であり、この世に対する告知です。ここにもイエスの言葉とヨハネ共同体の告白が重なっていることが見られます。

 次にイエスは、父が世から選び出して子であるイエスにお与えになった者たち、すなわち地上に残していく弟子たちのために祈られます(6ー19節、とくに9節)。すでにイエスは地上に残していく弟子たちに詳しく、今後のことについて訓戒を与えておられます(13ー16章の訣別遺訓)。それは、この世から救い出されてイエス・キリストに属する者となった弟子たちが、この世では憎まれて、苦しい戦いを続けなければならないからです。その戦いについて訓戒を与えられたのは、すでにその戦いに勝利しておられるイエスの喜びが、弟子たちにも満ちるようになるためでした。その弟子たちがこの世にあって、父の御力によって守られ、その戦いに勝利するように祈られるのです。その祈りの中で、「真理によって彼らを聖別してください」という祈りが注目されます(17節)。

 「聖別される」という表現は、イエスや弟子たちユダヤ教徒には馴染み深いものでした。彼らの聖なる書(旧約聖書)には、「聖別する」という語が繰り返し出てきます。とくに出エジプト記やレビ記の祭儀に関わる規定には繰り返し用いられています。それは、普段わたしたちが日常自分のために用いているどんなものでも、それを神の御用のために取り分けて、神の御用にだけ使うようにする行為を指しています。たとえば、わたしたちが普段水や酒を飲むために使う杯を、神に捧げ物のぶどう酒を入れて神殿で使用するためには、その杯を「聖別して」その用途にだけ使うようにします。普段わたしたちが寝起きする建物も、それを神を礼拝する場所として用いる時は、その建物を聖別して礼拝専用の建物、すなわち神殿とします。荒野を旅している時は特製の天幕が礼拝の聖所でした。神への捧げ物はすべて神殿で「聖別して」捧げます。そして、その場所で神の礼拝行為に携わる人を、仲間の中から選び出し、「聖別して」祭司とします。物や人を「聖別して」神を礼拝するためのものにするには、普通その物や人に油を注いで「聖別された」ことを示しました。

 イエスは地上に残していく弟子たちについて、「真理によって彼らを聖別してください」と祈られました。イエスは弟子たちが「聖別されて」、すなわちこの世のためではなく、神の御用のためにその存在が用いられる者となるように願われます。しかしそれは、弟子たちが特定の宗教の制度によって「聖別されて」聖職者となって、その宗教行事だけに携わる者となることではありません。イエスは弟子たちが「真理によって」聖別されて神の御用に捧げられた者になることを願われるのです。では「真理によって」聖別されるというのは、どういう仕方での聖別でしょうか。

 先に見たように、ヨハネ福音書では「真理」《アレーセイア》とは真理の霊すなわち聖霊が導き入れてくださる神との交わりの現実、神の恩恵の現実、その中でわれわれの内に始まった永遠の命の実体のことでした。イエスは弟子たちが、宗教の儀式とか制度化された資格などによって神の事柄に携わる者となるのではなく、聖霊によって与えられた現実とか実体によって神の御用に携わる者、神の恩恵の賜物をこの世界にもたらす仕事に携わる者となるように、父に祈られるのです。昔イスラエルの預言者は、油を注がれて預言の務めに聖別されました。今福音を告知する者は、真理の霊によって、すなわち聖霊によって賜る現実によって聖別されて、世界の中で神の恩恵の賜物を証言する働きに携わることになります。

 この祈りの直後に、イエスは父に「あなたの言葉が真理です」と言い表されます。ヨハネ共同体は復活者キリストとの交わりの中で、そのキリストを指し示す福音の言葉、イエス・キリストによって語られた神の言葉は現実であり、実体であることを知っています。その確信をイエスの言葉として「あなたの言葉は《アレーセイア》(現実、実体)です」と言い表します。聖霊によって福音の現実、キリストにおいて語られた神の言葉の現実を体験することにより、わたしたちは「聖別され」ます。すなわち、わたしたちの生涯は神の御用のために生きるように、この世の中から選び分たれるのです。イエスは弟子たちが真理によって聖別されるために、ご自身を聖別されます(19節)。イエスはただ神の御用のために、すなわち世の罪を担って「神の子羊」として捧げられるという役割を果たすために、ご自分を捧げられます。こうして、わたしたちイエス・キリストを信じる者の聖別は、イエス・キリスト御自身の聖別に根拠づけられることになります。

[  真理の証言     

 そこでピラトはイエスに言った、「では、お前は王なの か」。イエスはお答えになった、「わたしが王だと言うのはあなただ。わたしは真理に証を立てようとして、そのために生まれ、そのために世に来た。真理からの者はみな、わたしの声を聴く」。 ピラトはイエスに言う、「真理とは何か」。(ヨハネ福音書 18章37?38節a)

 イエスは逮捕された夜、大祭司一族の実力者アンナスのもとで予審の取り調べを受け、早朝に開かれた公式の最高法院で、自分を神として神を汚したというでっち上げの罪状で死刑の判決を受けます。当時ユダヤ人には死刑を執行する権限がなかったので、イエスを処刑してもらうためにローマ総督ピラトのもとに連れて行き、イエスが自分を王であると称して、ローマに反逆したと訴えます。ユダヤ教指導層は、イエスを?神という宗教的罪状で死刑を宣告しますが、ローマ総督には反逆という政治的罪状で訴えます。訴えたユダヤ人たちは、その夜に行われる過越の食事をするのに、異邦人の家に入って汚れを受けることを避けて、総督官邸には入りませんでした。そこでピラトは官邸にイエスを呼び出し、「お前がユダヤ人たちの王であるのか」と尋問します。ヨハネはこのピラトの官邸での裁判の成り行きを、その福音書の18章の28節から40節で報告しています。

 ヨハネ福音書以外の福音書(共観福音書)はマルコに従い、ピラトは群衆がいる公開の裁判で「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問し、イエスがその問いに対して「それはあなたが言っていることだ」とだけお答えになっています。ギリシア語原典では《シュ・レゲイス》(あなたが言う)だけで、「あなた」を意味する《シュ》が強調されています。「言うのはあなただ」というような返答です。イエスがピラトの尋問にお答えになったこの一言葉は群衆も聴いたのですから、ユダヤ人の間に広く知られています。それでヨハネも官邸の中でのピラトの尋問とそれに対するイエスの応答にこの《シュ・レゲイス》を用いますが、ヨハネはこれを「あなたがそう言うのか」という疑問文に読み替えて(ギリシア語ではそう読むことも十分可能です)、イエスが「わたしの国はこの世のものではない」と言って、ご自分の使命を語り出されるきっかけにしています。

 総督官邸の中で行われたイエスとピラトとの間のやりとりの言葉は、弟子たちも訴えたユダヤ人たちも聞いていないのですから、イエスの生涯とその意義を深く理解するヨハネが、ここでこの世の政治的権力を代表するピラトの前では、イエスはこのように語ることになるとして、自分で構成して記事にしたものであると理解せざるを得ません。これは史実というよりは、ヨハネが福音を語る語りの一部であると考えられます(官邸側の人物から漏れた可能性も排除できませんが)。そう理解する時、イエスの生涯を《アレーセイア》の体現として、《アレーセイア》という観点から記述してきたヨハネが、イエスの地上の最後の言葉として、イエスの生涯の意義をこの《アレーセイア》で締めくくるのは当然です。ヨハネはイエスの生涯の意義をこうまとめます、「わたしは真理《アレーセイア》に証を立てようとして、そのため に生まれ、そのために世に来た」。

 これまでに見てきたように、「真理《アレーセイア》」を信仰が与える現実、神との交わりの実体と理解すれば、ここでヨハネがイエスの生涯の意義をこのように語っていることの重要性が理解できます。イエスの地上の生涯の目的は、真理《アレーセイア》の証言のためであったのです。イエスはご自身が体験され、ご自身の生涯に実現されたた真理《アレーセイア》をこの世界で証言して、この真理《アレーセイア》に生きることこそ永遠の命であることを示し、人々がこの真理《アレーセイア》を追い求め、それを見出して真の命に生きるように、その生涯を捧げられたのです。

 エフェソ書の著者は「イエスの内にある真理《アレーセイア》」、「イエスにおいて実現していた真理《アレーセイア》」という表現を使っています(エフェソ書4:21)。おそらくこれは、パウロがしばしば「イエスこそ真理《アレーセイア》をその身に体現しておられた」と語っていたからだと推察されます。最初期の信者は、語り伝えられるイエスの働きや教えの言葉を聞くとき、それこそ神がこの世界に与えてくださっている恩恵の事実とか実体であると感じいたと思います。たとえばヨハネ福音書が6章で、イエスが「わたしが天から降ってきた命のパンである」と言われたとき、ここでは《アレーセイア》という言葉は用いられていませんが、キリストであるイエスを信じて永遠の命に生きている信仰者は、パンが実際にこの地上の命を養うように、このキリストとしてのイエスが今自分が生きている永遠の命の実体であることを感じたと思います。イエスは、神がこの世に与えてくださっている永遠の命の実体、すなわち命の真理《アレーセイア》を、このパンの言葉で証言しておられるのです。

 このようにイエスの働きとその言葉の全体が、「真理《アレーセイア》を証言する」のであり、イエス・キリストの出来事全体が神の贖いの実体、「救済の真理《アレーセイア》」を指し示しているのです。イエスは地上の生涯の最後の日に、「わたしは真理を証言するために生まれ、世に来た」と証言されるのです。神から遣わされた方が肉となってこの世にお生まれになったことの意義を、イエスご自身がこのように証言されます。

 わたしたちは「自分は何のために生まれてきたのか」という問いを自分に突きつけないではおれません。この問いにイエスは死を前にして明確にお答えになります、「わたしは真理《アレーセイア》を証言するために生まれ、世に来た」。イエスの出現は、この世に神の真理、神との交わりの現実を証言するためであったのです。同様にわたしたちキリスト者も、この問いに自分の人生をかけて答えます、「わたしは福音の真理を証言するために生まれてきたのです。この世におけるわたしの存在の意義は、キリストにある現実、キリストにあって生きている神との関わりの現実を証するためです」。

 イエスは「真理からの者はみな、わたしの声を聴く」と言われます。「真理からの者」というのは、直訳すると「真理から存在している者」という表現で、神との関わりの現実《アレーセイア》に目覚め、その現実に生きている者、すなわち真理から生まれた者、真理に属する者という意味です。そういう者は、イエスの言葉が真理から発していることを直感あるいは共感して、イエスに聞き従います。真理によって生まれたのではなく世に属する者は、イエスの言葉は理解できず、それに従うことはできません。イエスは先に「羊の囲い」のたとえを語られました(10章1?18節)。キリストに属さない者は、真理、すなわち神との関わりの現実から発せられるイエスの声を聞き分けることができません。キリストにあって神との関わりの現実にある者は、イエスの声を聞き分けて従うのです。


結び  《アレーセイア》の訳語

 以上、Tから[までの各項で見てきたように、ヨハネが《アレーセイア》という語を用いるとき、それはイエスに体現されていた現実、あるいはイエスをキリストと信じる者に与えようとされていた現実、救いの実体を指してることが分かります。すると、そういう意義を伝える日本語の訳語としては、「真理」という語はあまりにも内容が漠然としていて適切でないように考えられます。Tから[の各項目で指摘したように、《アレーセイア》の内容からしますと、「現実」とか「実体」という語の方が適切ではないかと思います。英語では「リアリティ」という語を用いるのがよいと思いますが、日本語では大体は「実体」とという訳語を用い、場合によっては「現実」という訳が適切な場合は「現実」とするという形がよいのではないかと考えます。将来ギリシア語新約聖書を日本語に翻訳するときに、この論考を参考にしていただければと願って、これを書き残す次第です。

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