109 徴税人ザアカイ(19章1〜10節)
ザアカイの救い
イエスはエリコに入り、町を通っておられた。(一九・一)
マルコはイエスの一行が「エリコを出て行こうとされたとき」、すなわちまだエリコの町におられるときに盲人を見えるようにされたと伝えていますが、ルカはザアカイの出来事をここに置くために盲人のいやしをエリコに入られる前の出来事としました。そしてザアカイをエリコの住民として、ここに登場させます。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。(一九・二)
ルカがザアカイの出来事をここに置いたのは、エルサレムに入られる直前にイエスが行われた目覚ましい救いの出来事、しかもまったく対照的な二人の救いの出来事を並べて、これからエルサレムに入られる方の姿を際だたせるためであったのでしょう。「徴税人の頭」と訳されているギリシア語原語は《アルキテローネース》ですが、この語は新約聖書ではここだけに出てくる語であり、この時代までの他のギリシア語文献にも出てこない語で、その意味を確定することは困難です。一般にローマの支配者からある地域の徴税を請け負い、複数の配下(下請け)の「徴税人」《テローネース》を使って税を集める「徴税請負人」と理解されていますが(先に拙著でもそう説明しました)、当時のパレスチナではそのような徴税システムは確認できないという異論もあり、「有力な、主要な、代表的な徴税人」と理解すべきであるという主張もあります。「徴税人」《テローネース》自体が請負制で税を徴収する者でした。いずれににせよ、ここではザアカイがユダヤ教でいつも「罪人や徴税人」と並べられて、イスラエルの民の資格のない者として扱われている「徴税人」であることが重要で、徴税システムでの資格や地位は問題ではありません。
イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。(一九・三〜四)
多くの力ある働きをなされるナザレのイエスの評判は、ガリラヤでもユダヤでもユダヤ人の間に広く鳴り響いていました。またユダヤ教社会では厳しく差別され疎外されている徴税人とも親しく交わりをもたれる方であるという事実は知れ渡っていました。ザアカイはそのようなイエスに何としても一度会ってみたいと願っていました。その強い願いには、ザアカイが意識しない深いところで神の働きかけがあったと推察されます。彼もまた神に選ばれていた一人です。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。(一九・五)
そこを通りかかったイエスは、いちじく桑の木に登っているザアカイを見られます。そして、彼に向かって言われます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日あなたの家に泊まらなければならない」(直訳)。イエスは「泊まりたい」という願いではなく、「泊まらなければならない」と、必然を示す言葉遣いをしておられます。イエスもいちじく桑の木の上のザアカイの姿をごらんになったとき、エルサレムに入る前夜を過ごすために神が備えられた人物であることをお知りになります。ここでザアカイがイエスに会うことと、イエスがザアカイの家に泊まってエルサレム入りに備えることが、神の定められた必然として起こっています。ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。(一九・六)
ザアカイは急いで木から降りてきて、喜んでイエスを自分の家に迎え入れます。家に迎え入れたことは、ザアカイがイエスを心に受け入れたことを示しています。イエスを受け入れたとき心に湧き上がる喜びは、人の計らいや理解を超えた不思議な喜びです。この喜びは、このときザアカイに魂の転換、救いが来ていることを示しています。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」。(一九・七)
イエスがザアカイの家に入られるのを見たユダヤ人たちは、イエスが「罪深い男」の家に入って宿をとったことを批判してつぶやきます。ユダヤ教社会では、徴税人は泥棒と同列に扱われ、その仕事そのものからして聖なる契約の民イスラエルには加わることができない汚れた者とされていました。ユダヤ人は、神に受け入れられる清い者であるために、汚れた「罪人」と接触することを極力避けました。食事を共にすることなどはしてはならないことです。「罪人」の代表格である徴税人の家に泊まることなど、もってのほかです。しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。(一九・八)
ここでザアカイが「立ち上がって」言ったとされているのは、何を意味するのでしょうか。直前の七節の続きとしては、家の前で非難がましくつぶやいているユダヤ人たちに宣言するために「立ち上がって言った」ということになりますが、ここでは「主に言った」となっています。呼びかけも「皆さん」ではなく「主よ」です。ルカはしばしばイエスを「主《ホ・キュリオス》」と呼んでいますが、ここでも「主に言った」は、イエスを主《ホ・キュリオス》として受け入れてひれ伏しているところから「立ち上がって」、これから主に従っていく自分の決意を言い表したものと受け取ることができます。ここで「だまし取る」と訳されている動詞は、新約聖書ではこことルカ三・一四の二カ所だけに出てくる動詞で、三・一四では洗礼者ヨハネが兵士たちに「脅し取る」ことを禁じています。徴税人の場合は、正当な根拠なく余分な税を取り立てることを指しています(三・一二〜一三参照)。
イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」。(一九・九〜一〇)
このザアカイの言葉を聞いてイエスは、「今日、救いがこの家を訪れた」と言って、ザアカイの救いの体験を確認されます。そして、その理由として「この人もアブラハムの子なのだから」という言葉を加えておられます。イエスから見れば、徴税人であれ遊女であれ、「アブラハムの子」はアブラハムに約束された祝福を受け継ぐ者です。アブラハムの子
ここでイエスはザアカイの救いを「この人もアブラハムの子なのだから」という言葉で根拠づけておられます。これが何を意味するのかを、ここで検討しておきたいと思います。相続は信仰に基づくことになるのですが、それは恵みによって約束がすべての子孫、つまり、律法に基づく者だけでなく、アブラハムの信仰に立つ者にも実現するためです。アブラハムはわたしたちすべての者たちの父なのです。「わたしはあなたを多くの民の父として立てた」と書かれているとおりです。アブラハムは死者を生かし、存在しないものを存在へと呼び出す神を信じ、その神のみ前でわたしたちの父となったのです。(ローマ四・一六〜一七 私訳)
パウロはこのような信仰によって福音をモーセ律法の枠から解放し、ユダヤ人以外の諸民族に福音をもたらしました。こうしてパウロによって成立した異邦人の共同体を基盤として活動したルカが、「アブラハムの子なのだから」というイエスの言葉を伝えるときに、それを「アブラハムの血統に属する民の一員であるから」という意味で伝えたのではなく、「アブラハムの信仰に立つ者であるのだから」という意味で伝えたと推察されます。少なくとも、パウロ系の異邦人共同体では、そのように理解されていたと考えられます。ザアカイの信仰はまだ十字架・復活のキリストへの信仰ではありませんが、ザアカイは律法の外で、律法と関係なく、信仰によって救われる者の典型として語り伝えられたことでしょう。「律法とは無関係の、信仰による義」に生きるわたしたちも、この意味の「アブラハムの子」としてザアカイを語り伝えます。