57 いちばん偉い者(9章46〜48節)
小さい者
イエスが語り出された受難の予告を理解できない弟子たちは、自分たちの理解でメシアとしているイエスがエルサレムに入られる時に実現する栄光を期待して、その時には「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」という議論をし始めます。弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。(九・四六)
この場面も、ルカはマルコ(九・三三〜三七)の記事をかなり大幅に簡略化しています。マルコによると、この場面は一行が山から下りてカファルナウムに帰って来たときの出来事になっています。イエスはいよいよ受難の地エルサレムに旅立つ前、ガリラヤ伝道の本拠地となっていたカファルナウムでしばしの時を過ごされます。その時にもなお、人の上に立つことだけを考えている弟子たちに、イエスは神の国における在り方を教え諭さなければなりませんでした。イエスは一人の子供の手を取り(マルコではさらに「抱き上げて」)言われます。、イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われます。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」。(九・四七〜四八)
イエスが指し示される「子供」は、無邪気とか純粋さの象徴ではなく、自分では何もできない「小さい者、低い者」の象徴です。存在する価値もないとして社会で無視されている者の象徴です。このような「小さい者」を「イエスの名のために受け入れる」とは、イエスがそのような小さい者を愛し、ご自分を一つにしておられる故に受け入れることです。自分にはそうする理由は何もありませんが、イエスがそうされ、またわたしたちにそうすることを願われる故に、そのような小さい者を受け入れ、自分をその小さい者と同じ場に置くことです。