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第二節 異邦人への福音書

異邦人共同体における成立

 前著『パウロ以後のキリストの福音』の終章第二節「福音書の時代」で書きましたように、使徒たちが世を去ってから一世代ぐらいの期間に「福音書」と呼ばれる新しい類型の信仰文書が生み出されました。その時期は、70年のエルサレム陥落を頂点とするユダヤ戦争から一世紀末(あるいは二世紀初頭)までの三〇年から四〇年くらいの時期になります。この時代は、まさに「福音書の時代」であり、福音の歴史的展開にとってきわめて重要な意義をもつ時代です。
 この時代の初めに、すなわち70年前後にマルコ福音書が成立したと見られます。マルコ福音書の成立地については、伝統的にはペトロがローマで殉教した後、ペトロの通訳者であり協力者であったマルコがローマで書いたとされてきましたが、しかし最近ではその内容からシリアで成立したとする見方が有力になってきています。いずれにしてもペトロが伝えたイエス伝承をまとめた文書として尊重され、この時代に急速に各地に流布し、この時代の後半には、東はパレスチナ・シリアから西はローマまで、この時代の地中海地域の福音宣教圏全体に広く知られるようになっていたと見られます。
 それで、同じくイエス伝承を用いて復活者イエス・キリストの福音を告知する文書が、各地でマルコ福音書をモデルとして生み出されることになります。この時代の後半(80年代から90年代)には、東方ではシリアでマタイ福音書が書かれ、西方ではエーゲ海地域でルカ福音書が成立することになります。この二つの福音書は、ほぼ同じ時期(この時代の後半)に書かれたと見られます。

ヨハネ福音書は、性格がかなり違い、またイエスの生涯の記述の枠組みも他の三福音書と異なりますので、比較から外します。

 マタイ福音書とルカ福音書は、同じようにマルコ福音書を基本的な枠組みとして用いていることと、共通のイエスの語録資料を用いていることから、共通点が多く、マルコ福音書を含めて三つの福音書が「共観福音書」と呼ばれることになります。しかし、マタイ福音書とルカ福音書は、その成立事情から、対照的な性格を見せています。それで、今回の主題であるルカ福音書の性格を際だたせるために、マタイ福音書と比較しながら、ルカ福音書の特質を見ていくことにします。
 両者の基本的な違いは、マタイがユダヤ人キリスト者に向かって書いているのに対して、ルカは異邦人キリスト者を対象として著述していることです。マタイ福音書が、マルコ福音書を基本的な枠組みとして用いながらも、ユダヤ人読者のためにかなりマルコ福音書を改訂し、また、ユダヤ教の枠内で伝承された「語録資料Q」を拠り所として主要な内容としているなど、律法(ユダヤ教)の立場を維持しようとしています。そのことは、前著『マタイによる御国の福音』と『マタイによるメシア・イエスの物語』のマタイ二部作で見たとおりです。マタイ福音書を生み出したシリアのユダヤ人信者の共同体(マタイ共同体)は、すでにユダヤ教会堂から出て、別の信仰共同体として異邦人社会に乗り出そうとしています。そのため、その内容は異邦人にも呼びかけるものとなっています。何よりも異邦人社会の言語であるギリシア語で書かれていることが、この福音書の異邦人社会に向かう姿勢をよく示しています。しかし、著者はユダヤ教律法学者の出身であると見られ、読者もユダヤ人共同体であることから、この福音書にはユダヤ教的な体質が色濃く残っています。
 それに対してルカ福音書は、パウロの異邦人伝道の成果として形成されたエーゲ海地域で、しかもその構成員のほとんどが異邦人出身者になった時期に成立しています。著者のルカが異邦人であるかユダヤ人であるかは確認できませんが、先に見たように、どちらであるにせよ、著者はギリシア・ローマ世界の高い教養をもち、異邦人の視点から著述を進めています。前著『パウロ以後のキリストの福音』(とくにその終章)で見たように、使徒名書簡の時代(70年のエルサレム陥落から一世紀末まで)は、もはや律法(ユダヤ教)との関係が問題にならなくなるほど、ユダヤ人の影響は小さくなっています。このような異邦人諸集会が活動しているエーゲ海地域で、このような時代の末期に成立したルカの二部作が異邦人向きの著作となるのは当然です。
 一方ルカは、使徒たちが伝えた福音と信仰を継承維持することを使命としているので、ユダヤ人である使徒たちが当然のこととして拠り所とした聖書(旧約聖書)を信仰の拠り所として尊重しています。ディアスポラのユダヤ人として幼い時から身につけてきた知識か、または回心してから数十年の学びによって獲た知識かは確認できませんが、ルカは七十人訳ギリシア語聖書に精通しており、それを引用して(マタイと較べると事例はずっと少ないですが)議論を進めています。その結果、ルカの二部作は聖書的・ユダヤ教的救済史の枠組みを基本的には保持しつつ、使徒名書簡の時代に見られたユダヤ教律法から自由になったヘレニズム的キリスト信仰を、高いギリシア的教養で表現する文書となっています。そのような性格からルカの二部作は、ヘレニズム世界に進出した使徒たちのキリスト宣教が、この使徒名書簡の時代の最後にとった形態として、福音の史的展開において重要な位置を占めています。

異邦人向けの表現

 ルカの二部作の内容がどのような意味で異邦人向けであり、異邦人のキリスト信仰の表現であるかについては、個々の段落の講解で触れることになりますが、ここでは用語や表現法など表面的な事柄で、ルカの二部作が異邦人向けであることを示す事例をあげておきます。
 ルカは、ギリシア語だけを用いている異邦人読者のために書いていますから、聖書やイエス伝承にあるヘブライ語やアラム語などセム語系の用語を用いないようにしています。たとえば、「アッバ」、「ボアネルゲ」、「エファタ」、「ホサナ」などマルコ福音書やマタイ福音書に出てくるセム語系の用語は、ルカの並行箇所には用いられていません。また、「ラビ」というヘブライ語は、「師、先生」とか、「主人、先生」という意味のギリシア語に変えられています。「ゴルゴダ」というヘブライ語の地名も省略されて、「されこうべの場所」という意味を表現するギリシア語だけになっています。
 用語においては、共観福音書ではルカだけに出てくる「救い主」《ソーテール》という称号が注目されます。キリスト教二千年の歴史の中でイエスの称号として重視され、広く用いられてきたこの称号は、意外なことに新約聖書では最後期の一部の文書に現れるだけで、他の称号と較べると全体としては用例がきわめて少ないのです。
 この「救い主」《ソーテール》という称号は、パウロにも一例(フィリピ三・二〇)だけ見られますが、パウロ以後に少し用いられ(エフェソ五・二三)、最後期の牧会書簡に至って急増し、一〇例となります。また、最も遅い時期の文書と見られるペトロ第二書簡に五回出てきます。他には、ヨハネ福音書(四・四二)とヨハネ第一書簡(四・一四)に一例ずつ、ユダ書(二五)の一例だけです。それだけにルカがこの称号を四回(福音書で二回、使徒言行録で二回)用いていることが目立ちます(福音書の二回は一・四七と二・一一、使徒言行録の二回は五・三一と一三・二三です)。
 この「救い主」という称号は、福音書の中で初期のマルコ福音書には用いられず、また後期でもユダヤ人向けのマタイ福音書にも出てきませんが、後期に異邦人向けに書かれたルカの二部作に出てくるようになります。これは、ルカ文書成立の環境が、牧会書簡のような最後期の文書の異邦人環境と似ていることを示唆しているのではないかと考えられます。先に前著『パウロ以後のキリストの福音』の「牧会書簡」の章で紹介したように、牧会書簡の著者はルカではないかという説もあるくらいです。
 ギリシア・ローマ世界では、都市を侵略者から解放したり、世界に平和を樹立した将軍や皇帝が「救い主」という称号で称えられていました。異邦人読者には、メシアとか贖い主というようなユダヤ教的な称号よりも、この「救い主」という称号の方がずっと分かりやすく親しみやすい称号であったのでしょう。イエス・キリストは、イスラエルの「メシア」から「万民の救い主」へと変貌します。この世界での福音の展開を締めくくるような位置にあるルカの二部作で、この「救い主」という称号が用いられるようになるのも理解できます。ユダヤ教徒が汚れた異教徒たちを指すのに用いた「異邦人」《エスノイ》(複数形)という呼称は、ヘレニズム世界での宣教の場では世界の諸民族を指す用語となり、キリストは世界のすべての民の救い主として宣べ伝えられるようになります。「異邦人への使徒」、すなわち非ユダヤ教徒への福音を委ねられたパウロから出発した宣教運動は、ルカの時代には世界の諸民族(万民)への救済使信として告知されることになります。