市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第1講

序 論  ルカ二部作の成立

はじめに―福音書の配列について

 新約聖書は大きく分けると、福音書と使徒書簡の二つの部門に別れます。福音書が先に置かれて、その後に使徒書簡が続いています。福音書の部門については、現行の新約聖書では、マタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書、ヨハネ福音書、使徒言行録の順に並んでいます(使徒言行録も福音書の部門に入ることについては後述)。この配列では、ルカ福音書と使徒言行録の間にヨハネ福音書が入ってきているので、ルカ福音書と使徒言行録が同じ著者によって書かれた一連の作品であることが見落とされがちです。後で詳しく見ることになりますが、ルカ福音書と使徒言行録は、同じ著者により一つの構想のもとに書かれた連作であって、切り離して理解することはできません。
 マルコ、マタイ、ルカの三つの福音書は内容と構成が並行しており、並べて比較することができることから「共観福音書」と呼ばれていますが、この三者の前後関係と依存関係については、マルコ福音書が最初に書かれ、そのマルコ福音書の枠を用いて、マタイ福音書とルカ福音書がその後に書かれたという見方がほぼ確立しています。マタイとルカの前後関係は確認できませんが、ルカ福音書を使徒言行録と一体として取り扱う必要から、マルコ、マタイ、ルカの順序が適当ではないかと考えます。
 それで、わたしは四福音書を配列するとき、マルコ福音書、マタイ福音書、ルカ福音書と使徒言行録の順序に並べ、ヨハネ福音書は(他の三福音書とは性格が違いますので)別枠として最後にもってくるか、または使徒言行録を最後に置くために、ヨハネ福音書をマルコ・マタイの次に置き、ルカの二部作を最後に置くのが適切ではないかと考えています。


第一節 ルカの福音提示

ルカの二部作

 「ルカ福音書」と「使徒言行録」という二つの文書は、同じ著者によって、同じ意図をもって書かれた著作であることは、両書の序文からも明らかです。両書の共通の意図と性格については後で述べることにして、ここではまず著者が同じであることだけを確認しておきます。「使徒言行録」の著者はその序文(一・一〜二)で、同じ献呈者であるテオフィロ(ルカ一・三)に向かって、「わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、・・・・天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」と書いています。これは先に書いた福音書を指していることは間違いありません。用語や文体も、両書が同じ著者による著作であることを指し示しています。著者は、先の第一巻(福音書)に続いてこの第二巻(使徒言行録)を書いて、同じテオフィロに献呈しています。
 ルカは二つの別の著作をなしたのではなく、第一部と第二部からなる一つの著作をなしたと見るべきです。もしその一つの著作に標題をつけるとしたら、それは「イエス・キリストの福音 ― その史的展開」としてよいでしょう。第一部(ルカ福音書)ではイエスによる福音の展開、第二部(使徒言行録)では使徒たちによる福音の展開を記録したといえます(「展開」という用語については後述)。世に福音を提示する文書を福音書というのであれば、第一部だけでなく、第二部を含む全体を「ルカによる福音書」と呼ぶべきです。
 しかし、これは一つの著作が二つの部に分けられるというのではなく、別の著作であったことは事実です。それぞれの著作は、当時の書物の最大容量の長さであると見られ、別の書巻として制作され、別の時期にテオフィロに献呈されたと見られます。その間隔は正確には分かりません。一〇年ぐらいであったと見る研究者もいます。しかし、二部作が一つの構想の下に緊密に構成されていることを見ますと、その間隔はそれほど大きくはなく、かなり短い間隔で執筆されたのではないかと考えられます。
 ここでは伝統的な呼び方に従って、第一巻を「ルカ福音書」、第二巻を「使徒言行録」と呼んでいきますが、両者は一つの著作であるという視点を見失わないようにしなければなりません。両書をまとめて「ルカ二部作」とか「ルカ文書」と呼ぶこともあります。

ルカ二部作の意図と性格

 著者は、この著作の意図を自ら第一巻(ルカ福音書)の序文でこう明言しています。

 「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります」。(ルカ一・一〜四)

 ルカはここで《ディエーゲーシス》(ここで「物語」と訳されている語)という、新約聖書ではここだけに出てくる注目すべき用語を使っています。この語は、「わたしたちの間で実現した事柄について」の「歴史的説明」という意味で用いられています。この事柄については、「最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに」書き連ねて、「歴史的説明」の書を著すことを、すでに多くの人が試みてきた、とルカは言っています。その中にはマルコ福音書が含まれていることは確かです。ルカは、マルコ福音書を前に置いてこの福音書を書いています。マルコ福音書だけでなく、ルカは他の奇跡物語や比喩物語集、また現在「語録資料Q」と呼ばれているイエスの語録集などの文書も手元にもっていたでしょう。ルカは、「すべての事を初めから詳しく調べている」者として、それらを「順序正しく書いて」、自分なりの「歴史的説明」の書を著して、「敬愛するテオフィロ」に献呈しようとします。
 そして、このような「歴史的説明」の書を献呈する意図を、「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたい」からだとします。献呈する相手の人物は、すでに「教えを受けている」者とされています。すなわち、この「歴史的説明」の書は、すでに信者である人たち、キリストの民《エクレーシア》内部の人たちに宛てて書かれています。彼らが、自分たちの受けた教えが歴史上に実現した出来事という確実な根拠に基づいていることを確認して、信仰を確かなものにするために書かれた書です。
 同時に、この書が「テオフィロ」に献呈されている事実は、この「歴史的説明」の書が、外のローマ社会の人々に向かって、キリストの民の信仰を弁証するために書かれた書であることを示唆しています。というのは、「テオフィロ」につけられた《クラティストス》という語は、高位高官の人物に敬意をもって呼びかけるときの敬称(英語 Most Excellent)ですから、この人物はローマ社会を代表する教養ある高位の人物であり、ルカはこの人物にこの書を献呈するという形で、ローマ社会に向かって、この信仰が「わたしたちの間で実現し、最初から目撃した人々がわたしたちに伝えた」確かな歴史的出来事に基づくものであり、それを報告することでその確かさ、健全さを説明しようとしていることになります。このように、外の人たちに向かって自分の信仰の根拠と内容を説明し、外の人たちの承認や同意を得ようとする文書を「護教文書」と言い、そのような著作をもって世に働きかける著作家を「護教家」と呼びます。ルカの著作は、そのような「護教文書」のはしりです。ルカの後に出た二世紀の多くの「護教家」は、ローマ皇帝などローマ社会を代表する人物に宛てて、多様な護教文書を書くことになります。ルカの二部作には、このような護教文書としての性格が見られます。
 なお、「テオフィロ」はルカの著作活動と出版を支援した後援者(パトロン)ではないかと見られます。彼が実在の人物かどうかが議論されていますが、たとえ実在の人物ではなくても、ルカの著作の意図や性格を理解する上で変更の必要はありません。

福音の史的展開

 ルカは自分の著作を《ディエーゲーシス》(歴史的説明)の文書としています。その「歴史的説明」は、「わたしたちの間で実現した事柄について」、「すべての事を初めから詳しく調べて」いるルカ自身が「順序正しく書いて」仕上げた著作です。この「わたしたちの間で実現した事柄・出来事」は、本来目に見えない神のご計画とか働きが、わたしたち地上の人間の間で、すなわち地上の歴史のただ中に、目に見える出来事の形で実現したことを指しています。
 福音は、イエス・キリストの出来事において成し遂げられた神の救いの働きを世界に告知する言葉です。このイエス・キリストの出来事(この方の生涯・働き・言葉)こそ、「わたしたちの間で実現した事柄」、わたしたち地上の人間の歴史の中に起こった救いの出来事に他なりません。《ケリュグマ》(福音)はそれを告知する直接的な言葉ですが(たとえばコリントT一五・三〜五)、ルカはそれを《ディエーゲーシス》(歴史的説明)の文書として提示します。わたしは、この本来目に見えない神の言葉である福音が歴史上の出来事として起こり、その中に自らの本質を開き示していく相を「福音の史的展開」と呼んでいます。わたしは、この「福音の史的展開」を跡づけて、その中で福音の本質を追究することを生涯の課題としていますが、それはルカがしたことを現代においてしようとしていることに他なりません。
 ルカはこの課題を成し遂げようとして、第一巻(福音書)を書きあらわしました。しかしその課題は、イエス・キリストの出来事を語る第一巻だけで終わることはできませんでした。ルカは、このイエスの復活後、この方をキリストとして世界に宣べ伝えた使徒たちの働きを見ています。彼らが宣べ伝える「福音」と、その結果歴史の中に生み出され、歴史の中に歩む「キリストの民」《エクレーシア》を見ています。それも「わたしたちの間で実現した事柄」、神の働きの歴史的展開に他なりません。ルカは第二巻(使徒言行録)を書きあらわして、イエス復活以後の福音の史的展開を文書にします。その序文(使徒言行録一・一〜二)は、これが同じ著者による第一巻の続編であることを示すだけの短いものですが、その意図とか性格は第一巻と変わりません。福音書の序言で示した著作の目的と性格は、この第二巻にも続いています。

完成と継続 ― ルカの救済史

 ルカは、「わたしたちの間で実現した事柄」という文で、「実現した」を「満す」とか「成就する」という動詞の完了形・受動態で表現しています。この動詞は、(マルコやマタイで)預言の成就について用いられる「満たされた、成就した」という動詞とは少し違う形ですが、同系の動詞です。ルカはこの動詞で、イエス・キリストの出来事によって神の救済の働きが「完成に達した」ことを指し示しています。しかし、イエス・キリストにおいて完成に達した神の救いの働きは、なお地上の歴史の中で展開すべき未来をもっています。これは、その救いを受ける人間が時間の中にいるかぎり、すなわち歴史の中にいるかぎり必然の相です。
 最初キリストの福音は、預言された終末の到来として告知されました。キリストの十字架と復活において実現した救いは、すぐにも栄光の中に来臨されるキリストによって完成するという、差し迫った終末的告知でした。使徒時代にはまだその終末待望が熱く燃えていましたが、使徒後の時代、すなわち「使徒名書簡」の時代では、「来臨の遅延」が大きな問題になっていました。すなわち、エルサレムが異邦人のローマによって占領され、神殿が崩壊してもキリストの来臨はありませんでした。七〇年の神殿崩壊以後の時代の指導者たちは、キリストの民《エクレーシア》にこの問題にどう対処するのかを語らなければなりませんでした。
 この時代のキリストの民は、いつ来るのか分からないキリストの来臨による完成までの長い期間を、地上の歴史の中を歩んで行く覚悟をしなければならなくなっていました。エルサレム神殿の崩壊後のこの時代、イスラエルに代わってキリストの民《エクレーシア》が、イエス・キリストにおいて完成した神の救済を担って、歴史の中を歩む使命が与えられていることを、この時代の終わりに生きたルカはしっかりと自覚しています。神は歴史の中でその救済の働きを成し遂げ、進められるのだという救済史の思想(神学)が自覚されます。ルカはその自覚で、福音の史的展開を物語る《ディエーゲーシス》(歴史的説明)の文書二巻を書き著します。このようにして、ルカの著作は、この時代の《エクレーシア》の救済史的自覚を表現する文書となります。

「使徒名書簡の時代」については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』の序章「使徒名書簡」を参照してください。

著者と成立年代

 さて、このような「福音の史的展開」を物語る重要な二部作の文書を著した「ルカ」とはどのような人物でしょうか。これまで著者を「ルカ」と呼んできましたが、この二部作の著作自体には、著者が「ルカ」であることを指し示す文言はありません。古代教会の伝承において(エイレナイオス以来)、この二部作はパウロ文書(パウロ書簡とパウロ名書簡)にパウロの同伴者・協力者としてその名前が出てくる「医者のルカ」(フィレモン二四節、コロサイ四・一四、テモテU四・一一)が書いたとされてきましたので、伝統的に「ルカ」の著作とされてきました。本書でも、この二部作の著者を、この教会伝統に従って「ルカ」と呼んでいますが、著者が誰であるか、その人物像を正確に描くことはできません。

ギリシア語新約聖書には、《ルーカス》という名が(ここにあげた)三カ所に出てきます。この《ルーカス》は、フィレモン書では「わたしの協力者(同労者)」、コロサイ書では「愛する医者ルカ」、テモテ書では「ルカだけがわたしのもとにいる」と言われています。二部作の著者が医者であることについては、医者特有の術語が少ないことから、これを否定する議論もありますが、当時の医者の実態からすると決定的な根拠にはならず、医者であることを示唆する箇所もあり、医者であったとする伝承は受け入れてよいと考えられます。
 なお、新約聖書には《ルーキオス》という名が二カ所に出てきます。使徒言行録(一三・一)では、アンティオキア集会の指導者の一人として、バルナバやサウロ(パウロ)と並んで「キレネ人のルキオ」という形で、そしてローマ書(一六・二一)では、パウロの同行者の一人として、ヤソンとソシパトロと一緒に、「わたしの同国人ルキオ」という形で出てきます。この二カ所の《ルーキオス》はユダヤ人ということになります。
 《ルーカス》は《ルーキオス》の短縮形で、この二つの名前は同一人物を指すのではないかという推定が行われています。《ルーキオス》はローマ書では、これから献金を携えてエルサレムに向かうパウロの同行者として名をあげられていますので、テモテ書でローマでの監禁中のパウロのもとにいる《ルーカス》と同一人物であるとすれば、その後最後までパウロと同行した「われら章句」の記録者(後述)として、つじつまが合います。しかし、この推定は根拠が弱く、確認することは困難です。

 この二部作の著者がユダヤ人であるのか異邦人であるのかが議論されています。コロサイ書(四・一〇〜一四)の文面では、ルカはパウロの同国人(=ユダヤ人)のリストとは別のグループにあげられているので、ルカの出自は異邦人であるとされてきました。さらに二部作の文体は、洗練されたギリシア語と高度のギリシア文学の教養を示しており(そのギリシア語の文体は新約聖書の著者たちの中でも最高の洗練さを示しています)、内容も異邦人向けに書かれていることから、当然のように著者はギリシア人(=異邦人)とされていました。
 しかし最近、二部作の著者はユダヤ人ではないかという議論が強くなっています。たしかに、そのユダヤ教に対する態度や詳細で多彩な聖書引用や聖書に基づく議論は、著者がユダヤ人であることを推察させる面があります。ただ、その生まれは異邦人であっても、当時の最高のギリシア的教養を身につけた後ユダヤ教に改宗したか、少なくとも「神を敬う者」としてユダヤ教会堂で信仰生活を送った人物である可能性も考えられます。
 著者が異邦人であるかユダヤ人であるかは、この場合あまり意味がありません。ユダヤ人であっても、ヨセフスやフィロンの場合に見られるように、ギリシア的環境で生まれ育ったディアスポラのユダヤ人には、高度のギリシア語とギリシア的教養の人物は珍しくありません。また、著者が異邦人であっても、入信後数十年もすれば、長年聖書(ギリシア語旧約聖書)に親しみ、ユダヤ教的な思想を深く身につけていることは十分あり得ることです。その出自がいずれであれ、この二部作の著者は、高度のギリシア的教養と深い聖書とユダヤ教への理解を身につけた教養人であったことは確かです。エーゲ海地域のヘレニズム世界に展開したキリスト信仰は、使徒名書簡の時代の後期に、その諸潮流を統合する最適の人物を見出したと言えるでしょう。
 著者問題において問題になるのは、「使徒言行録」の旅行記の中に出てくる「われら章句」です。「われら章句」というのは、「使徒言行録」の旅行記の中で、主語が「わたしたちは」となっていて、その旅行記を書いた人物自身がその旅行に参加していることを示している部分です。この「われら章句」は、パウロの旅行のトロアスからフィリピまで続き(一六・九〜一七)、フィリピでいったん途切れ、ずっと後にパウロが第三次旅行からの帰途にフィリピを訪れるときに再び現れ(二〇・五)、それ以後最後まで、フィリピからミレトスへの旅(使徒二〇・五〜一五)、ミレトスからエルサレムへの旅(二一・一〜一八)、カイザリアからローマへの旅(二七・一〜二八・一六)という旅行記に現れます。そうすると、この旅行記の著者はトロアスでパウロ一行と出会い、ひとまずフィリピまで同行し、パウロがそこを去った後もフィリピに滞在し、パウロが第三次旅行から帰ってきたときフィリピで再び一行に加わり、終わりまでずっとパウロに付き添ったと推定されます。この事実から、この「われら章句」の著者はフィリピ出身の人物ではないかという推察もあります。
 この「われら章句」については、三つの見方があります。1.古代教会(エイレナイオス)以来、この旅行記の著者は使徒言行録の著者であるルカ自身であるとする伝統的な見方。2.実際にこの部分の旅行に参加した別の人物の旅行記をルカが資料として利用したという見方。3.この「われら章句」はルカの文学的創作であるとする見方です。現代の研究者には、2と3の見方が多いようです。
 五〇年代後半のパウロの伝道旅行に同行したのが、ルカが二〇歳前後とか三〇歳前後の時であったとすると、九〇年代後半(一世紀末)には六〇歳前後か七〇歳前後となり、ルカ自身がこの頃に使徒言行録を書いたことは年齢的に十分可能性があります。わたしたちはこの二部作の著者を、若き日にパウロの後期の伝道活動に同伴し、最後の監禁の時期まで見届けた「医者のルカ」であるとする伝統的な見方に立って読んでも、特別の不都合はないと考えます。

テモテ書(U四・一一)で「ルカだけがわたしのもとにいる」と言われていますが、テモテ書については著者が誰であるか、どこでの拘禁であるのかが議論されていて確認困難ですが、ルカがパウロの最後の拘禁のときに身近にいたという証言は、その伝承過程が不明でも、否定する根拠はないと考えられます。

 しかし、この時期のパウロに同伴して活動し、パウロを熟知している人物の著作としては、「ルカの二部作」(とくに使徒言行録)はあまりにもパウロ書簡から知られるパウロの実像や思想から離れているとして、現代の研究者には2または3の見方をとる人が多いようです。
 たしかにルカが使徒言行録で描くパウロは、パウロ書簡から知られるパウロの実像とは、その実際の出来事においても福音理解(思想や神学)においても、違う面があることは顕著な事実です。しかし、これは自分の著作の理念や構成を貫こうとするルカの姿勢から説明できるものが多く、ルカがパウロの同伴者であったことを否定する根拠にはなりません。たとえば、パウロ書簡ではきわめて重要な主題となっているエルサレムの聖徒たちへの献金のことに、使徒言行録は全然触れていません。これは同伴者として事実を熟知しているはずの著者にしては不自然なことです。しかし、ルカは自分の著作の意図に合わないものや関係のないものは大胆にカットして筆を進めていく著述家です。ルカは何らかの理由で献金問題に触れるのは適切でないと判断して、意図的に触れなかったと見られます。
 ルカがパウロ書簡に触れないことが問題になりますが、これはルカが著作した時期(おそらく80〜90年代)には、まだ「パウロ書簡集」が収集されていなかったか、少なくとも流布していなかった(流布は二世紀になってからです)ので、著者は「パウロ書簡集」という文書は持っていなかったし、見てもいなかったことを示唆しています。この事実は、ルカ二部作の成立が比較的早い時期であったことを示唆する材料になります。
 ルカは、序文において自分は「わたしたちの間で実現した事柄」の「目撃者」ではなく、「目撃者」たちが記録したことを整理してまとめる役割を果たす者であると明言しています。これは使徒たちから後の第二世代(使徒たちの弟子)、第三世代(さらにその弟子)の仕事です。第二世代ではペトロとパウロの一致を描くことは不可能であるとし、その他の理由もあって、ルカを第三世代と見る研究者が多いようです。この二部作の成立年代も、80〜90年代に見る説が多いようですが、70年代から二世紀初頭まで様々な見方がなされています。
 実際の成立年代を確定することは困難ですが、この二部作は「使徒名書簡」の時代の終わりに位置づけるべき文書であると、わたしは考えています。すなわち、パウロ以後にも継承されてきたパウロの福音と、パウロ以後のキリスト信仰の変容がルカの二部作に流れ込み、ここで「福音書」(二部作全体を一つの福音書と見て)という規範的な形でまとめられ、以後の時代の出発点となっていると、わたしは見ています。

ルカの二部作が、パウロ以後の「使徒名書簡の時代」の終わりに成立し、その時代の福音告知をまとめる意義をもった著作であることについては、拙著『パウロ以後のキリストの福音』の終章「パウロとパウロ以後」、とくにその第二節「福音書の時代」を参照してください。この序章「ルカの二部作」は、そこでの「ルカの福音提示」の項を再録・拡大・再構成したものです。

 ルカの二部作の成立地域についても、アンティオキアやカイサリアなど諸説がありますが、二世紀末に著述した教父エイレナイオスは、ルカの著作はアカイアで成立したという伝承を伝えています。ルカの二部作は、アカイアを含むエーゲ海地域で成立・流布していたことは現代の批判的な聖書学も認めています(たとえばH・ケスター)。パレスチナとかシリアというような他の地域からのものを含め、エーゲ海地域でそれまでに伝えられていたケリュグマ伝承とイエス伝承、その地域のエクレシアで成立していた賛歌や説教、伝記などすべてがこのルカの文書に流れ込み、それがこの「使徒名書簡」の時代に形成されたキリスト信仰を受け継ぐルカの神学の枠組みの中でまとめられ、この二部作が生み出されたと見られます。
 ルカの二部作は、新約聖書の中でも群を抜いて巨大な作品です。二部作の合計では全五二章になります。マタイの二八章、ヨハネの二一章に較べても、いかに巨大な作品であるかが分かります。それは全新約聖書の約四分の一の分量を占めます。それは、パウロとパウロ以後の時代の福音をまとめあげ、次の時代へ引き継ぐためのピボット(回転軸)の位置を占めています。二世紀以後のエクレシアは、このルカの路線を継承して「教会」を形成していくことになります。

時代の総合としてのルカの二部作

 前著『パウロ以後のキリストの福音』で見たように、とくにその終章「パウロとパウロ以後」でまとめたように、エルサレム陥落以後の「使徒名書簡」の時代は、一方ではユダヤ教黙示思想から脱却してヘレニズム世界の思想の枠組みの中でキリスト信仰を確立しようとする潮流があり、他方にはキリストの来臨を中心にしたユダヤ教黙示思想の枠組みを維持しようとする潮流があり、二つの潮流が絡み合い、対抗し、新しい総合を求めて模索していた時代ではないかと見られます。この総合の試みの一つが、この時代を締めくくるような意義を担って現れたルカの二部作、すなわちルカ福音書と使徒言行録ではないか、とわたしは見ています。
 この「使徒名書簡の時代」の二つの潮流について、ルカは両者を総合し、そこから生まれる新しい方向を模索しています。一方でルカは、マルコ福音書や「語録資料Q」に伝えられているイエス伝承を継承し、パレスチナ・ユダヤ人が伝えたパレスチナの伝承を十分活用しています。その中にはマルコ一三章の「小黙示録」と呼ばれるパレスチナ・ユダヤ教の黙示思想的伝承も含まれています。
 しかし同時に、ルカはエルサレム神殿はすでに崩壊し、イスラエルを核とする救済史は成り立たたなくなっていること、「異邦人の時代」が始まっていることもしっかりと見据えています。もはや黙示思想的な来臨待望だけに生きることはできません。キリストの民はこれから何百年も何千年も地上の歴史を歩む覚悟をしなければなりません。イエス・キリストの出来事において成し遂げられた救済の出来事を土台として、その上に《エクレーシア》の中に働く神の救いの歴史を築いていかなければなりません。
 ユダヤ人である使徒たちが伝えたように、聖書の救済史の枠組みは維持すべきですが、それはもはやパレスチナ黙示思想的な形においてではなく、ユダヤ人と異邦人とからなるキリストの民《エクレーシア》を担い手とする歴史の中での歩みの中で形成されるべきものになります。その歩みの根拠・土台として、ルカはイエス・キリストにおいて成し遂げられた神の救済の出来事と、その土台に立って歴史の中を歩むキリストの民の範例として、最初期の《エクレーシア》の姿を、二部作として書きとどめます。新しい救済史理解が始まります。この方向の先に、エイレナイオスの救済史神学が成立し、それがその後の正統派の教会の神学を方向づけます。
 ルカの二部作の成立年代については議論が続いていて確定はしていません。大体は一世紀の終わり頃と見られていますが、二世紀初頭と見る研究者もいます。実際の成立年代については、ルカ文書よりも遅いものがあるかもしれませんが、福音の展開史の視点からは、わたしはルカの二部作を「使徒名書簡」の時代を締めくくる位置にある著作だと見ています。ルカ文書はそれまでに伝えられたすべての伝承を統合し、これからのキリストの民《エクレーシア》が進むべき方向を指し示す位置にあると見られます。