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市川喜一氏の新約聖書講解完結を喜ぶ
2013年5月6日月曜日

 京都在住のキリスト教独立伝道者、市川喜一氏が、四半世紀に亙って書き継いでこられた新約聖書の講解が、このほど完結した。

 市川氏は、1930年の生まれで、現在82歳。京大法学部卒業の翌年、25歳のころ、主からの招命を感じて独立伝道を開始され、爾後57年間、既成の教会組織にも、研究組織にも、出版機関にも拠らず、独立して知友に福音を伝えてこられた。1977年(46歳ごろ)から、甲南大の私市教授、大阪経済大学の久野教授、京大の水垣教授、プール学院大学の田辺教授、京都工芸繊維大学の井上教授とともに、新約聖書のギリシア語原典を読み、討論し、釈義を試みる研究会を始められた。研究会は36年後の今日も続いている。

 市川氏は、1986年(55歳ごろ)に、市川氏個人の福音理解を証言する雑誌「天旅」を創刊し、新約聖書の講解の連載を開始された。2000年の古希の誕生日には、ホームページ「天旅」を開設し、福音誌「天旅」に連載された内容をインターネット上でも公開され始めた。更に、2002年からは、オンデマンド出版で、新約聖書講解の刊行を開始された。講解は、昨年11月に刊行された福音誌「天旅」第160号に最終回が掲載され、ホームページ「天旅」への掲載も本年3月23日に終了、更に、オンデマンド出版の最終巻となる「ルカ福音書講解V」も本年4月1日に刊行され、ここに27年間に亙る講解刊行事業は完結した。粗末な装幀の全17巻が、いま、わたしたちの目の前にある。

 わたしは、市川氏に面識も縁故もないが、10年余り前から、市川氏の講解を読み始め、その完結を願ってきた。こころから「おめでとうございます」と申し上げたい。日本人は、新約聖書に対する得難い手引きを手に入れたと考える。

 市川氏の講解は、以下の点を兼ね備える稀有のものと考える。

 第一に、ギリシア語原典の緻密な読みに裏づけられている。既存の翻訳は、いずれも工夫が凝らされているが、ギリシア語の表現の外延と内包を正確に日本語に移し替えることは不可能に近い。プネウマとカルディアとプシュケーが日本語に移され、訳語固有の連想が働き始めると、読解は妄想に近くなる。「日本教」が混入し、和臭が漂う。市川氏や内村鑑三の講解は、ギリシア語原典にきちんと規律されているため、原典と併せ読んで違和感がなく、イメージも論旨も極めて明快である。

 第二に、市川氏自身の深い信仰に裏づけられている。市川氏自身の聖霊体験が、読者がイエス様やパウロを生き生きと思い描くことを助けてくれる。また、紙背に覗く市川氏の、堂々として敬虔な、うつくしい人柄が、この長大な講解を読み続ける支えとなる。

 第三に、福音の史的展開が事実に即して、論理的に把握されていることである。イエス様に発する福音は、歴史の中で、様々な人々に担われて展開し、その各段階の姿が新約聖書の諸文書として残されている。諸文書を、広く内外の歴史的な研究に照らして読み解き、一定の歴史的な環境の下での福音の史的展開の姿を正確に描き出すことによって、その向こうに、光源としてのイエス様がくっきりと浮かび上がってくる。

 この3つを実現するための資質と努力を、一つの人格の中で鼎立させ持続させることの難しさは想像に余りある。
 市川氏は、「天旅」誌の終刊の辞で、「この国において聖霊体験に基づく聖書信仰と学問的な神学研究が橋渡しができないで分裂している現状を憂い、その淵を越えて両者を統合することを志し」た、と書いておられる。その志は、このたび、見事に成就したと思う。
 このたびのことは、日本人の精神史における、大きな出来事だと考える。

(講解は「天旅」ホームページで読むことができ、書籍版は天旅出版社に直接注文できる。)



著者(市川)からのコメント

 最近インターネット上で「市川喜一」で検索したところ、天旅ホームページと並んで上記の感想の投稿が出てきました。お名前は記されていませんので、投稿者がどなたであるかは確認できませんでした。

 わたしの新約聖書講解の著作を丁寧に読んでくださり、その意義を評価してくださっていることに深く感謝すると共に、その内容について著者から一言のコメントをつけさせていただいて、誌友諸氏に紹介させていただきます。

 投稿者はその前半で、市川の独立伝道者としての働きを紹介してくださり、その独立の立場に共感を寄せてくださっていることは感謝でなりません。そして、後半で市川の新約聖書講解の特色と意義を3点にまとめてくださっています。その各点について著者としてのコメントをつけさせていただくと:

 第一の「ギリシア語原典の緻密な読みに裏づけられている」とありますが、たしかにわたしは各文書の正確な理解を追求して、わたしの学力の及ぶ限りの努力はしましたが、なにぶんギリシア語の専門家ではなく、とうてい「緻密な読み」まではいきません。しかし、自分の信仰理解からは納得できない伝統的な読み方や解釈にはかなり思い切った提案をしてきました。その結果、「イメージや論旨が明快」になっているとするならば、このような不十分な議論を用いてでも、読者に明確なイメージを与えてくださる御霊の働きとして感謝あるのみです。

 第二の「市川氏自身の深い信仰に裏づけられている」としてくださっている点については、わたしはこの講解を学術的注解として書いているのではなく、わたしは聖書をこう読んでいるという、わたし自身の信仰告白として書いているので、自然の結果であろうと思います。ただ評者が「紙背に覗く市川氏の、堂々として敬虔な、うつくしい人柄が、この長大な講解を読み続ける支えとなる」としておられるのは、的を射ていないように思います。わたしのような、こつこつと努力を継続する以外に取り柄のない、破れの多い弱い人間を用いて、恵みの御霊が長年かけてこのような長大な講解を書かせ、同じ恵みの御霊が、真剣に聖書を理解しようとしてこの長大な講解に向かう読者を助けているのだと思います。

 第三の「福音の史的展開が事実に即して、論理的に把握されている」とされ、それによって「光源としてのイエス様がくっきりと浮かび上がってくる」としてくださっている点については、著者が全新約聖書研究のまとめとして書いた「福音の史的展開」の意図を的確に捉えてくださっており、評者の炯眼に尊敬と感謝を覚えます。

 また最後に著者の志がこの講解によって成就したとしてくださっていることに感謝します。有難うございました。

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