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私と信仰
大垣 丹羽日出夫

 私は、本日のおすすめの話をするにあたり、その表題を「私と信仰」とすべきか、「私の信仰」とすべきか大変迷いました。私は長い間そもそも信仰とは何か、その明確な意義が私にはよくわかってなかったからです。このお勧めをするにあたり、まずその迷いの経緯をお話しします。

 信仰とは、日本語では信ずる仰ぐと書きます。聖書の原語ではどう言われているか知りませんが、日本の聖書は信じて仰ぐと書いて信仰と表記・表現されています。もう少しわかりやすく言えば、超越者もしくは絶対者、つまりキリスト教では神、主を信じて崇めるということです。それが信仰だというのです。それはそれで決して間違いではありませんが、私は少し舌足らずの表現・定義で、それだけに不正確な表現・定義だと思います。確信する神や主の存在を主観的に、心理的に信ずる、確信して崇めるだけでは、キリスト信仰ではない、その人は本当の意味で信者ではないと思うのです。主観的、心理的に神や主が必ずいらっしゃると確信して崇めているから、キリスト信者、その確信や信念が強いから熱心なクリスチャンだというのは、正確ではないと考えるのです。単に確信や尊崇ではなく、更に進んで主観・心理を超えて心=魂のうちに奥深く、神が実在して私たちの中に入ってきて、私達を救ってくださることを実存として実感(体感)すること、この実在、実存、実感があってこそはじめて信仰と言えると思います。これを正確に表現する言葉を私は知りません。聖書では受肉という表現がありますが、何となく目に見えない物理的・抽象的な表現で、十分に理解されていません。帰依という言葉があり、奥田先生がよく使われ、もっとも正鵠を射た言葉だと思いますが、これはそもそも仏教の仏典にある用語で、キリスト教にはなじめません。市川先生はこれを神の信実だけにより頼んで生きることだと言われますが、中々イメージが湧かないのが残念です。

 ただ心理的主観的な信仰は、困難に遭遇しなくともたやすく吹っ飛んでしまいます。これを聖書は、マタイによる福音書26章31節の後半から37節にかけて次のように記しています。ペテロは12使徒の代表者です。そのペテロがイエス様をいともたやすく、あっけなく「私は知らない」と否定し、救い主であることからさえも離反してガリラヤの漁師に戻ってしまいます。他の弟子たちもみんなそうです。因みにこのことは、マルコによる福音書14章27〜31節、ルカによる福音書22章31〜34節、ヨハネによる福音書13章36〜38節の4福音書すべてに記されています。しかし私たちはペテロの否定や離反を笑えません。

 それでは聖書の語る信仰とはいかなるものか、それについて聖書はロマ書10章8節後半から10節にかけて次のように述べています。まことに「口でイエスは主であると公に言い表し、心(魂)で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるならあなたは救われるのです」。それがキリスト教のピタリ一致する信仰です。主観的に心理的にいくら口でイエス様が主であると言い表したり、神がイエス様を死者の中から復活させられたと言い表したりするだけでは、キリスト教の信仰は、信徒が平常試練に落ち込んでいないときでも吹っ飛んでしまいます。私たちは、キリストが主であること、神がイエス様を死者の中から復活させられたことを実存として、実態として、実感として信じなければ本物のキリスト信仰と言えないというのです。私自身平常時でも本当にキリスト様が主であるか、本当に神がイエス様を復活させられ、死に打ち勝って復活させて下さるか、時として迷いや疑念があります。私は一宮や大垣の牧会者からも私(丹羽)と同じだと聞き及んで、大変な慰め励ましを得ました。人間の心理や主観では、みな不完全です。ペテロや12使徒もみな同じです。それができるのは、万軍の主、神の働き、聖霊によってのみはじめて可能です。人間にはできなくても、主ならできるのです。ペテロも牧師も私も、聖霊の働きなくして、生の人間ではできないのです。つまり私たちにはできなくても、神であれば可能なのです。 私にはそこに救いがあります。だから落胆も絶望もありません。信仰にパウロもペテロも牧師も私も区別はありません。信仰は神が与えて下さったものだからです。

 本日の勧めを終るにあたり、それでは私がどうして神の思し召しでキリスト様にとりつかれたかについてお話しします。

 人間は生まれながらに不幸や不遇や困窮があります。過去の人間、現在の人間で、将来生まれる人間で、これらから免れた者、免れる者は一人もありません。中には「私はよい配偶者を得て、健康で、たくさんの子孫に恵まれ、お金の不自由もなく、一族郎党みな高学歴でそれぞれ十分立身出世や商売繁盛で、幸せで幸せで苦労は何一つありません」という人があります。しかしそんな人にも必ず本人や親族の死が待ち受けています。この世に幸福な人ほど却って、その死は余計に衝撃的で不幸です。このように生きとし生ける人間は、一人として死という不幸は免れません。いわば人生は不幸苦悩まみれといってもよいでしょう。そこで宗教が生まれます。

 即ち人間のこの不幸、苦悩から解放させ、あるいはそれを消滅させる絶対者、超越者の出現です。ここに宗教の出現があるのです。すべての人間がこの不幸、苦悩を背負っている以上、人類史上古今東西を問わず宗教を持たない歴史や国や地域、民族、人種はありません。そして当然ながらその宗教の目的は不幸、苦悩からの解放や消滅です。それは人間の本能的な悲願、大願です。

 すべての宗教は人間の悲願、大願の成就(これを「ご利益」と呼んでいます)を目指します。これを目指さない宗教はありません。キリスト教も決してその例外ではなく、否それ以上に悲願、大願の完全な成就を目指します。即ち究極の悲願は、死からの解放であります。他の宗教はこれについて生きているこの世の時代おいては不可能であるが、死んで生まれ変わると言います。キリスト教はこの世で死んでも必ず終わりの時に復活すると約束して下さるのです。

@宗教はすべてこの世の幸福の維持と不幸の滅失(成就=ご利益)を約束します。しかし成就ができないものがあります。そもそも今述べたように不老不死は絶対不可能です。それどころか、それ以外の本人に降りかかった災難、苦悩、失敗などもほとんどが成就不可能です。キリスト教の神、主は、不可能はありません。必ず約束した悲願を成就してくださいます。否願った悲願以上の賜物が与えられます。私の信仰がそうでした。

 余談になりますが、デカルトがその著書『方法序説』に提唱した有名な箴言に「我思う故にわれあり」という言葉があります。その言葉は、自我とは、自分が考える、それが自分が自分であるという実存・実証であるというようです。私はそれになぞって言えば、私は神、主を信じるそれに依存する故に私(=丹羽)は私(=丹羽)であると言うほかないと考えるのです。

Aそしてこの悲願を得る(=ご利益)のには、私達は反対給付はまったく不要です。無条件でよいのです。他の多くの宗教は、その人の喜捨(施し)、善行、修業、鍛錬を求めます。キリスト教は恵みによるものですから、ただ信仰だけでの無条件でこの悲願を獲得できるのです。 これは私のような怠惰でわがまま、不道徳な人間には大変ありがたいことで、他の宗教にはとても入って行けないことです。

Bキリスト教はこの悲願、大願成就の確かな実証があります。これは2000年前にこの世に生き、亡くなられたキリストの今の実在・実証があるからです。しかし他の宗教にはこのような実在・実証があることを私は知りません。

 ゆえに私はキリスト教の信仰に取りつかれているのです。それで私は過去も現在も、そして未来も破れかぶれの人生に何の悔いもないのです。

   (2021年10月)

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