市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第14講

72 体のともし火は目(11章33〜36節)

 「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」。(一一・三三)

 この語録は、マルコでは「あかりが来るとき、枡の下や寝台の下におかれることがあろうか。燭台の上に置かれるではないか」となっています(マルコ四・二一私訳)。同じことを言っているように見えますが、よく見ると違いがあります。マルコでは、人があかりをともしたり持ってくるのではなく、「あかりが来る」というやや不自然な表現が用いられています。これは、「わたしが来たのは」とか「人の子が来たのは」と言われていたイエスが、ご自身が光として世に来たことを指しておられると考えられ、危険を察して身を隠すように忠告した周囲の人たちに、イエスは内に到来している光を消したり隠したりすることなく、身を挺してその光を世に輝かせようとされる覚悟を語られたものではないかと考えられます。

マルコにおけるこのたとえの意義については、拙著『マルコ福音書講解T』200頁以下を参照してください。マルコでは「ともし火」が文の主語ですが、ルカとマタイ(五・一五)では「ともし火」は人の行為の目的語です。

 それに対してルカとマタイは、このたとえをともし火をともす人間(弟子)に対する勧告としています。マタイはこのたとえを「山上の説教」の導入部で用い、「あなたがたは世の光である」と言った後にこのたとえを置き、「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と説いています(マタイ五・一四〜一六)。ルカも、マタイほど明確ではありませんが、同じようにこの「ともし火」のたとえを弟子たちの使命を説く勧告の言葉としています。
 マタイとルカがマルコから表現が変わってきている事実は、イエスご自身の告白の言葉が弟子たちの福音告知の活動の中で伝承される過程で、その意味合いが微妙に変わっていったことを示唆しています。しかしその変化は、弟子たちがイエスと同じように、自分たちに与えられた光を世に輝かすことを使命として受け取った結果であり、意義深い変化だと言えます。

 「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」。(一一・三四)

 この語録はマタイ(六・二二〜二三)にもあり、「語録資料Q」から取られたものと考えられます。ただ、マタイでは「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」という言葉が続いています。この部分はマタイが加えたものでしょう。ルカにはこの部分はありませんが、その代わりに次の三五〜三六節の言葉を加えています。
 三三節の語録とこの三四節の語録は、もともと別の文脈で伝えられていたのでしょうが(マタイではこの二つは続いていません)、ルカは次の三五〜三六節を含め、この三つの語録を「ともし火」を連結語として結びつけ、一連の語録群として段落を形成します。
 三三節の語録とこの三四節の語録は、共に「ともし火」を比喩として用いたものですが、その意味内容は違います。三三節の方は、キリストにあって与えられた命の光の扱い方についての勧告ですが、この三四節は、身体における目の役割を比喩として、この命の光がわたしたち人間の全存在、全生涯に占める決定的な位置を語っています。
 目が健康で、視力が十分にあるときは、周囲がよく見えて、自分がどこにいて、どのような状況にいるのかが見えます。自分の全存在の場所や状況が理解できます。ところが、目が病んでいて、視力が衰えたりなくなったりしますと、周囲が見えなくなり、自分がどこにいるのか、また自分がどのような状況にいるのかが見えなくなり、自分の全存在が暗闇になります。
 そのように、今キリストにあって賜っている命の光は、わたしたちの全人生、全存在の意味を照らしだす「ともし火」なのです。それが内にあって輝いているときは、自分の存在の位置や姿がよく見えてきます。神とのかかわり、隣人とのつながり、時の流れの中での位置などが見えてきて、自分の存在が明るく照らし出されるようになります。
 それに対して、その内なる光がなくなれば、「ともし火」を持たないで暗闇の中を行くように、自分の位置も状況も見えず、自分の存在の全体が暗闇の中に沈んでしまいます。この状態をマタイは「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」という言葉で表現しました。

 「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」。(一一・三五〜三六)

 最初の文は、「だから、あなたの中にある光が闇にならないように気をつけなさい」と訳すべきです(新約聖書釈義辞典)。マタイの「あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」という事実を描く文の代わりに、ルカはそうならないように気をつけよという警告の言葉にしています。全身のともし火である目が健康であるときには全身が明るいように、内なる命の光が力強く輝いていれば、「ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように」わたしたちの人生の全体が照らし出されて、明るい光の中を歩むようになります。

 この「ともし火」の段落(一一・三三〜三六)が批判者たちとの対立と対決を主題とする区分に置かれているのは、批判者たちに取り囲まれて歩む弟子たちに、イエスの弟子としての在り方を説くためと考えられます。それは、キリストにあって賜っている命の光こそ批判者に対抗して生きる力の源泉であり、その内なる命の光を消すことなく、人々の前に輝かすように説き勧めています。これは結局マタイ五・一四〜一六と同じ主旨の勧告です。