72 体のともし火は目(11章33〜36節)
「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」。(一一・三三)
この語録は、マルコでは「あかりが来るとき、枡の下や寝台の下におかれることがあろうか。燭台の上に置かれるではないか」となっています(マルコ四・二一私訳)。同じことを言っているように見えますが、よく見ると違いがあります。マルコでは、人があかりをともしたり持ってくるのではなく、「あかりが来る」というやや不自然な表現が用いられています。これは、「わたしが来たのは」とか「人の子が来たのは」と言われていたイエスが、ご自身が光として世に来たことを指しておられると考えられ、危険を察して身を隠すように忠告した周囲の人たちに、イエスは内に到来している光を消したり隠したりすることなく、身を挺してその光を世に輝かせようとされる覚悟を語られたものではないかと考えられます。マルコにおけるこのたとえの意義については、拙著『マルコ福音書講解T』200頁以下を参照してください。マルコでは「ともし火」が文の主語ですが、ルカとマタイ(五・一五)では「ともし火」は人の行為の目的語です。
それに対してルカとマタイは、このたとえをともし火をともす人間(弟子)に対する勧告としています。マタイはこのたとえを「山上の説教」の導入部で用い、「あなたがたは世の光である」と言った後にこのたとえを置き、「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と説いています(マタイ五・一四〜一六)。ルカも、マタイほど明確ではありませんが、同じようにこの「ともし火」のたとえを弟子たちの使命を説く勧告の言葉としています。「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」。(一一・三四)
この語録はマタイ(六・二二〜二三)にもあり、「語録資料Q」から取られたものと考えられます。ただ、マタイでは「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」という言葉が続いています。この部分はマタイが加えたものでしょう。ルカにはこの部分はありませんが、その代わりに次の三五〜三六節の言葉を加えています。「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」。(一一・三五〜三六)
最初の文は、「だから、あなたの中にある光が闇にならないように気をつけなさい」と訳すべきです(新約聖書釈義辞典)。マタイの「あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」という事実を描く文の代わりに、ルカはそうならないように気をつけよという警告の言葉にしています。全身のともし火である目が健康であるときには全身が明るいように、内なる命の光が力強く輝いていれば、「ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように」わたしたちの人生の全体が照らし出されて、明るい光の中を歩むようになります。