市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第9講

第九章 主の祈り

       ― ルカ福音書 一一章 ―

はじめに

 前章から、ルカ福音書の主要三区分の第二部になる「ルカの旅行記」に入っています。この第二部では、どういう原理で段落が配列されているのかを理解することが困難です。旅行記といっても旅行の行程が区分を決めているわけではなく、おもに「語録資料Q」やルカの特殊資料の素材が、ルカの構想によって並べられています。この旅行記は、ガリラヤとかエルサレムという枠にとらわれないで、イエスの福音活動を描こうとしたルカの構想によるものと考えられます。本稿では便宜上、現行の福音書の章区分にしたがって講解を進めています。旅行記の構成については、第二部の講解を終えた後で、ふりかえって検討する予定です。
 今回扱うルカ福音書一一章は、強いて分けると、前半(一〜一三節)は祈りについてのイエスの教えをまとめ、後半(一四〜五四節)はイエスと周囲のファリサイ派や律法学者たちとの対立を扱っていると見ることができます。前半の祈りについてのイエスの教えの部分の中心は「主の祈り」ですから、一一章を扱う本章の標題を「主の祈り」とします。この標題は一一章全体の内容を指すものではありませんが、その重要性から今回の標題として掲げておきます。
   祈りについて


67 祈るときには(11章1〜13節)

祈りを教えてください

 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。(一一・一)

 ルカは、イエスが祈りの人であったことを強調し、繰り返しイエスが一人退いて祈られたことを描いています(五・一六、六・一二、九・一八、九・二九)。ここでもイエスは寂しいところで一人祈っておられたのでしょう。ルカがこのようにイエスの祈りの姿を強調するのは、ルカの時代の共同体において、祈りが信仰者の重要な資質であるとして強調されていたからであると考えられます。
 弟子たちも、イエスの知恵と力の源泉が祈りにあることを感じていたのでしょう、イエスが祈りを終えられたとき、イエスに祈りを教えてくださるように願います。弟子たちは普段から祈りの秘訣というようなものを教えていただきたかったのかもしれません。しかしここでは、ルカは「ヨハネが弟子たちに教えたように」という句を加えて、この願いを共同体が祈るべき祈りを与えてくださるようにという願いにし、「主の祈り」への導入としています。
 洗礼者ヨハネの周囲に集まった弟子たちは、師のヨハネから教えられた祈りを共に祈ることで共同体を形成していたと見られます。それをモデルにして、イエスの弟子たちも師イエスから弟子が祈るべき祈りを教えてくださるように願います。同じ祈りを祈ることは、宗教共同体を形成するために重要な要因です。ここで教えられた祈りは、後にルカの時代でもキリスト信仰共同体で集会ごとに祈られていた共同の祈りであると見られます。ルカは、その祈りの起源をイエスご自身が弟子たちに直接教えられた祈りとしてここに置きます。

   「主の祈り」のテキスト

 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
 『父よ、
 御名が崇められますように。
 御国が来ますように。
 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
 わたしたちの罪を赦してください、
  わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。
 わたしたちを誘惑に遭わせないでください』」。 (一一・二〜四)

 この祈りはイエスご自身の祈りです。イエスはご自分が祈っておられない祈りを弟子たちに祈るように求める方ではありません。わたしたちはイエスが祈っておられた祈りを、イエスと共に祈ることによって、イエスと共に神の前に生きる民となるのです。したがって、この祈りはわたしたちキリストの民にとって最も基本的な重要な祈りとなります。
 この祈りは福音書において二つの形で伝えられています。一つはマタイ福音書(六・九〜一三)に伝えられている形であり、もう一つがこのルカ福音書の形です。比較のためにマタイ福音書の本文を掲げておきます。

 天におられるわたしたちの父よ、
  御名が崇められますように。
  御国が来ますように。
  御心が行われますように、
    天におけるように地の上にも。
  わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
  わたしたちの負い目を赦してください、
    わたしたちも自分に負い目のある人を
    赦しましたように。
  わたしたちを誘惑に遭わせず、
    悪い者から救ってください。(マタイ六・九〜一三)

 マタイもルカも共に「語録資料Q」を用いていると考えられます。一見して明らかなように、マタイの方がルカよりも長くなっています。ルカにない部分はマタイが付け加えたと推定されます。ただ、付加部分がマタイの筆によるものか、それともマタイ以前にすでに共同体で用いられていたのかは争われています(EKK注解のルツは後者の蓋然性が高いとしています)。おそらく、マタイのテキストもルカのテキストも著者の個人的な編集の結果ではなく、マタイの方はユダヤ人の集会で、ルカの方は異邦人の集会で実際に祈られていた形に由来するのでしょう(エレミアス)。
二つのテキストを比較して、構成はルカの方が「語録資料Q」の形に忠実であるが、用語はマタイの方が「語録資料Q」の表現に忠実であるとする見方が、現在研究者の間で一般的です。その代表例としてクロッペンボルグの「Q資料」の復元を引用しておきます(引用はクロッペンボルグ他著・新免貢訳『Q資料・トマス福音書』日本基督教団出版局より)。

 父よ、
  御名が崇められますように。
  御国が来ますように。
  わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
  わたしたちの負い目を赦してください、
    わたしたちも自分に負い目のある
    人を赦しましたように。
  わたしたちを試みにあわせないでください。

 構成は短いルカの形が用いられています。しかし、用語では傍線の部分にマタイの形が用いられています。マタイとルカで用語や動詞の時制が異なる場合、著者はマタイの方を「語録資料Q」に忠実として採用しているわけです。その根拠は、それぞれの項目を扱うときに触れることになります。

 二つのテキストの異同とそれぞれの祈りの講解は、前著『マタイによる御国の福音―「山上の説教」講解―』の「第五章・主の祈り」で詳しくしていますが、このルカ福音書講解だけを読まれる方には、同書参照で省略することはできませんので、一部重複するところがありますが、ルカの特色に重点をおいて、各項目を講解します。

「主の祈り」の構成

 「主の祈り」は、最初の「父よ」という呼びかけを別にすると、二つの部分で構成されています。前半の二つの祈りは、「あなたの名が聖とされますように」と「あなたの支配が到来しますように」という、「あなた」のことを祈り求める祈りです。そして、後半の三つの祈りは「わたしたち」のことを祈り求める祈りです。
 前半の二つの祈りは、当時のユダヤ教徒が日常シナゴーグで祈っていた「カデシュ」の祈りを圧縮した形になっています。当時のシナゴーグではアラム語の説教の後に、「カデシュ」と呼ばれる次のような祈りが祈られていました(エレミアスによる)。

 「彼(神)の大いなる名が称えられ、聖とされんことを、
   彼がその意志によって創った世界において。
 彼の王国が支配するように、
   汝らの生涯、汝らの日々、
   イスラエルのすべての家の生涯の間、
   速やかに来たって。
 彼の大いなる名が永遠から永遠に称えられんことを。
   そして、汝らはアーメンと言え」。

 「主の祈り」の前半は、これと形は同じですが、祈りの内容と根拠はユダヤ教徒の「カデシュ」とは違ってきています。そのことはそれぞれの祈りの講解で明らかにします。
 後半の三つの祈りは「わたしたち」についての祈りです。普通祈りは自分の必要の充足とか安全とか繁栄とか栄光、総じて自分のことを願い求めるものですが、イエスが教えられる祈りは、まず神のことを祈り求め、次ぎに自分のことを祈り求めるという構成になっています。しかも、自分のことを祈り求める祈りの内容は、それぞれの祈りの講解で明らかにしますが、自分の栄光を求めるものではなく、自分を無にして、信頼をもって自分を神に委ねる姿を言い表すものです。この点で「主の祈り」は、わたしたちの祈りの方向を自分から神へ転換させ、自分という存在の在り方を方向転換させる祈りです。
 なお、「主の祈り」はその簡潔さが印象的です。これだけの簡潔な祈りは、だれでも覚えることができ、唱えることができます。多くの宗教がそうであるように、祈りは祭司(司祭とか僧侶とか神官)のような専門の聖職者だけが唱えることができるものではなく、信者がだれでも唱えて、直接神との関わりをもつことができるものになったのです。キリストの民は、一人ひとりがこの祈りを日々全身をもって祈ることにより、イエスのように父との親しい交わりの中に生きていくことができるのです。

「父よ」

 イエスは祈るときはいつも「アッバ!」と呼びかけておられました。イエスが祈られた《アッバ》というアラム語を直接伝えているのは、マルコ福音書一四章三六節のゲッセマネの祈りの一箇所だけです。そこでは「アッバ、父よ」と、《アッバ》というアラム語と《ホ・パテール》(父)というギリシア語が並んで出てきます。ところで、この「アッバ、父よ」という表現はパウロ書簡(ガラテヤ書四章六節とローマ書八章一五節)にも用いられていて、ギリシア語を話す最初期の共同体の祈りで《アッバ》というアラム語の呼びかけが用いられていたことを示しています。弟子たちはイエスの「アッバ!」という祈りをいつも耳にし、そう祈るように教えられていたので、ギリシア語世界に福音を宣べ伝えたときも、自分たちの祈りに刻印された《アッバ》というアラム語の祈りを、主イエスの祈りとしてそのまま伝えたのでしょう。この事実は、間接的にイエスが《アッバ》という呼びかけで祈られたことを証言しています。
 《アッバ》というアラム語はもともと幼児語でしたが、イエスの時代までに成人した子が父親を呼ぶ言葉にもなっていました。これはおもに親しい家族の間で用いられる呼びかけの言葉ですから、イエスがこの言葉で祈られたことは、当時のユダヤ教の祈りと比べると、イエスの祈りがきわめてユニークなものであったことを示しています。当時のユダヤ教では、神の名を多く並べる祈りが行われていました。たとえば会堂で祈られる「シェモネ・エスレ」(十八祈願)は次のように始まります。
 「主よ、あなたは讃むべきかな。われらの神、われらの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、偉大にして力強く、また恐るべき神、いと高き神、・・・助け主、救い主、そして楯なる王よ。・・・アブラハムの楯よ」(山本書店『原典新約時代史』より)。
 このように、イエスが神を「アッバ!」と呼び、子としての親しい交わりに生きられたのは、イエスが神の御霊に満たされておられたからです。イエスの聖霊体験は、共観福音書が描くところによりますと、イエスがヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになったとき、聖霊が鳩のようにイエスの上に降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞かれたという形で伝えられています(マルコ一・九〜一一とその並行箇所)。この体験から、イエスの子としての自覚と、父の啓示や「神の国」告知などすべての働きが出ているのです。
 わたしたちは、イエスから「父よ、と言え」と教えられて、口先ではその言葉を発音しても、イエスのように存在のすべてを父である神に委ねる生き方の表現としての祈りにはなりません。しかし、わたしたちも十字架の場で聖霊を受けるとき、聖霊は子としての身分を授ける霊ですから、聖霊によって「アッバ、父よ」と呼んで(ローマ八・一四〜一六)、イエスのように父への無条件の信頼に生きることができるようになります(マタイ六・二五〜三四)。イエスは、言葉で「アッバ」と言えと教えられるだけでなく、復活者キリストとして聖霊を与えることによって、「アッバ」と呼ぶ祈り、イエスと同じ祈りの現実に導き入れてくださるのです。
 このルカが伝える端的な「父よ」の呼びかけが、本来のイエスの祈りの形を伝えていると考えられます。マタイは「天にいますわたしたちの父よ」としていますが、「わたしたちの父よ」は集会で祈られる共同の祈りの形であり、「天にいます」は当時のユダヤ教会堂で重要になりつつあった用語法を手本にしているとされています(EKKのルツによるマタイ福音書注解)。おもにユダヤ人で構成されるマタイ共同体の集会では、日頃このような形で祈られていたと見られます。

「御名が崇められますように」

 この祈りの原文は直訳すると、「あなたの名が聖とされますように」となります。「聖とされる」という受動態の隠された行為者は神とも祈り手の人間であるとも解釈されます。神の場合は、神御自身が汚された御自身の名を最終的な審判と救済の行為で聖とされることを祈り求める祈りとなります。それはエゼキエル(三六・二三)が預言した、「わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする」という神の言葉の実現を祈り求める祈りになり、終末的待望の祈りとして、次の「あなたの支配が到来しますように」という祈りとよく響き合います。
 しかし、それが究極的には神の終末的行為であるとしても、祈る人間が座して、どこか自分と関係のないところで実現されるのを待っているというのは祈りの本質に適いません。祈りは、祈る者が自分を神に委ね、神の前に自分を投げ出して、祈りの内容の実現を神に願う行為です。したがってここでも、祈る者が「わたしの行為を通して、いや、わたしの存在自体を通して、あなたの名が聖とされますように」と、自分を神に投げ出して、自分を通してなされる神の行為を願い求めていると理解しなければなりません。
 では、「神の名が聖とされる」というのは、どういうことでしょうか。そもそも名とは事柄の本質を現す言葉です。神の名とは、神がどのような方であるかを示す言葉の総体です。人間は神の本質を知ることはできませんから、神が御自身を顕わしてくださる範囲内で、わたしたちは神の名を知ることができるのです。「啓示」とは、神が御自身の名を人間に現される出来事であると言えます。
 神はイスラエルの歴史の中で御自身の名を啓示してこられました。すべての存在・出来事の根源として「ヤハウェ」という名をモーセを通して啓示し、イスラエルの歴史の中で唯一の神であり、慈愛、信実、義の神であることを啓示してこられました。イスラエルの民はその苦難の歴史の中で、神の名だけに依り頼み、御名を賛美してきました。詩編は御名への賛美と、御名に寄り縋る信頼の表現です。この第一の祈りは詩編の祈りの集約です。わたしが神の慈愛だけに、また信実だけに身を委ねて生きることによって神の慈愛とか信実が現れて、神が慈愛と信実の神であるという神の名があがめられるようになることを、身を投じて願っているのです。
 イエスの第一の祈りは、「父よ、あなたの名が聖とされますように」という祈りでした。この祈りによって、イエスは神の名が聖とされる終末の時を待望されるだけでなく、御自分の存在を父の名が聖とされるために捧げられるのです。父の慈愛と信実と力が顕わされ伝えられるために、生涯を捧げられるのです。そして、最後に十字架の死に御自身を引き渡されるのも、「父よ、御名があがめられますように」という祈りの貫徹なのです(ヨハネ一二・二七〜二八)。

「御国が来ますように」

 この祈りの原文は直訳すると、「あなたの支配(統治)が到来しますように」となります。「支配」と訳した原語は《バシレイア》です。このギリシア語は《バシレウス》(王)の支配を意味する語です。「神の《バシレイア》」は、日本語訳では「神の国」と訳される場合が多いのですが、本来は神が支配される領域ではなく、神が王権をもって支配される支配関係、王の統治、王権支配を意味する語です。
 現実の世界では神の支配が行われていません。神以外の様々な力が現実の世界を支配しています。むしろ神に敵対する力が優勢に支配しています。その中で最たるものは罪の力です。人間は罪の力に支配されて、神に背を向け、神が望まれることと反対のことをしています。謙虚に人に仕えるのではなく、高ぶって人を支配しようとし、誠実に言葉を用いず、偽りに溢れ、人を生かし助けることに遅く、人を傷つけ殺すのに速いのが現実です。神の民はそのような世界で、罪の支配が打ち破られ、慈愛と信実の神が支配される時が到来するように祈らないではおれません。そのような神の支配が到来する時は、神の創造の目的が達せられるとき、終末の時です。この祈りは終末的な神の栄光の実現を祈り求める祈りです。
 先に「カデシュ」の祈りのところで見たように、イスラエルの民は日々この祈りを捧げていました。イエスもこの祈りをもって、神の支配の到来を祈り求め、そのために身を献げて働かれました。イエスは「神の支配」を告知することをご自分の使命とし(四・四三)、権威ある言葉でそれを告知し、多くのたとえを用いて「神の支配」の姿を解き明かし、人々を「神の支配」に入るように招かれました。たしかにイエスの「神の国」告知には、洗礼者ヨハネと同じように、その時代に向かって神の裁きが近いことを宣言する預言者的な一面があります。
 しかし、同時にイエスは「神の支配」がすでに到来していることを告げ知らされました。イエスの「神の国」告知には、当時の終末待望と決定的に違う面があります。イエスは預言者の語った終わりの日の「神の恵みの年」が到来していると告知されたことを、ルカは最初に明白にしています(四・一七〜二一)。イエスご自身も、悪霊を追い出す働きを指して、「わたしが神の指で追い出しているのであれば、神の支配はあなたたちのところに来ているのだ」と言っておられます(一一・二〇)。イエスのたとえは神の支配が到来していることを指し示しています。時は満ち、花婿はすでに来ています。畑は色づき、収穫の時が来ています。新しいぶどう酒を新しい革袋に入れる時が来ています。
 イエスの中に到来している神の支配は「恩恵の支配」です。イエスは、律法の規準では罪人として排除される者も、神は父の慈愛をもって無条件に受け入れてくださっているという「恩恵」を告知し、徴税人や遊女も仲間とするという行動で示されました。律法順守を神の民の規準として固執する当時のユダヤ教指導層は、このような恩恵の支配を告知するイエスを憎み、ついにはローマの支配者に引き渡して処刑します。イエスの十字架の死は、イエスが「恩恵の支配」の告知を貫かれた結果です。イエスは命をかけて、「父よ、あなたの支配が到来しますように」という祈りを貫かれたのです。
 イエスはご自分の中に「神の支配」が到来していることを知っておられるゆえに、その現実を体現しておられるゆえに、終末の完成を現実的なものとして待ち望み、その将来の到来を告知されました。今聖霊によって復活者キリストを内に宿すキリストの民は、聖霊によってキリストの現実を味わい知っているゆえに、ますます強くそのキリストの終末的顕現を待ち望まざるをえません。現在のわたしたちにとって、「あなたの支配が来ますように」という祈りは、「主イエスよ、来たりたまえ」という祈りになります(黙示録二二・一七)。

ルカが伝える「主の祈り」には、マタイにある「あなたの意志が行われますように」という祈りがありません。この祈りは、「語録資料Q」にはなく、マタイ共同体が形式を整えて祈る中で付け加えられたものと見られています。この祈りの内容と、それが付け加えられた意義については、拙著『マタイによる御国の福音―「山上の説教」講解』273頁以下の「第五節 御心が行われますように」を参照してください。

「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」

 この祈りは「糧」に付けられている形容詞《エピウーシオス》の解釈をめぐって意見が分かれています。この形容詞の元になる動詞として、意味の異なる二つの動詞が考えられ、語学上はどちらとも決められません。その一つは「存在するのに必要な」という意味を示唆し、もう一つの動詞からの派生とすれば「明日の」とか「将来の」という意味になります。「日ごとの食物」という伝統的な理解は第一の意味を取っているわけです。

この祈りの解釈は、わたしたちの基本的な祈りの内容に関わるので重要です。それで、先に拙著『マタイによる御国の福音―「山上の説教」講解』281頁以下の「パンとは何か」の項でやや詳しく講解していますので、それをほぼそのまま引用しておきます。

 ところが、この形容詞は「明日の」という意味に理解すべき強い根拠があります。当時の諸言語に精通していることでは古代教会の第一人者であり、アラム語圏のシリア・パレスチナでも活躍したヒエロニムスが、「ナザレ人福音書」の中では《エピウーシオス》にアラム語の《マハル》が当てられていると述べています。「ナザレ人福音書」というのは、ギリシア語のマタイ福音書をアラム語で解説的に翻訳したもので、アラム語を用いるシリアのユダヤ人キリスト教徒の間で用いられていた福音書です。ギリシア語の「主の祈り」をアラム語に翻訳するにさいして、翻訳者は当然自分が日頃唱えている祈りの言葉を用いたはずです。この事実から、イエスや弟子たちが語ったアラム語の伝承においては、この箇所は《マハル》(明日)という語が用いられていたと、十分推察できます。

《エピウーシオス》の意味については、EDNT(新約聖書釈義辞典)は二つの意味を併記するだけで決定していません。TDNT(キッテルの新約聖書神学辞典)は「明日の」という意味を退け、この語を時ではなく量を指示するものとして、「わたしたちが必要とする(量の)パン」と理解しています。新共同訳も採用しているこの理解は、旧約聖書のマナの物語を想起させ、説得的です。しかし、「ナザレ人福音書」のアラム語訳を根拠として「明日の」と理解すべきであるというエレミアス(新約聖書神学T)の主張は、学界にも受け入れられてきているようで、最新のEKK新約聖書註解(ルツ)も「明日のための」という訳を提案しています。なお、ナザレ人福音書の当該箇所については、教文館『聖書外典偽典別巻・補遺U』26頁の第五断片を見てください。

 さらに、ヒエロニムスは「明日のパン」という表現の意味について次のように書いています。「明日という意味の《マハル》によって、ここの意味は、われわれの明日、つまり未来のパンを今日われわれにお与えくださいということになる」。《マハル》は字義の上では「明日」ですが、広く「未来・将来」を指す語であり、信仰の世界では「神の明日」として終末を意味する語です。彼は「主の祈り」のパンを、生活に必要な食物としてのパンではなく、終末時のパン、すなわち終末的な生命に必要なパンと理解していたのでした。パンをこのように終末論的に理解することは、初めの数世紀の間、東方教会でも西方教会でも支配的であったようです。なお、ヒエロニムスのラテン語訳聖書(ローマカトリック教会公認のウルガータ)では、ここは panem super-substantialem(超実体的なパン)となっています。
 カトリック教会の霊的・比喩的解釈に対抗して、宗教改革は聖書の文字通りの解釈を主張したので、このパンの祈りも宗教改革以来文字通りに物質的なパンを指すと解釈されるようになりました(ツウィングリは霊的解釈に留まりました)。しかし、次の祈りの「負債・借金」は明らかに罪の象徴的表現ですから、パンを文字通りの解釈に限定することはできないはずです。
 次にこの祈りが置かれている文脈を検討します。マタイも「主の祈り」を「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。だから、あなたがたはこう祈りなさい」という前置きで導入し、「主の祈り」のすぐ後に感動的な「空の鳥、野の花」の説話(六・二五〜三四)を置いています。この文脈は「主の祈り」を、生活上の必要に思い煩うことなく、ひたすら霊的・終末的現実である神の国を祈り求めて生きる者の祈りとしています。この文脈は「パン」を、生活に必要なパンとしてではなく、「明日のパン」、すなわち来るべき神の国における命のための糧と理解するように求めています。
 ルカの文脈では、(すぐ後で詳しく扱うことになりますが)これが聖霊を祈り求める祈りであることがさらに明らかになります。イエスは「主の祈り」(一一章一〜四節)を教えられた後、「夜中の来訪者のたとえ」を語り(五〜八節)、そのたとえの結論として「求めよ、そうすれば与えられる」というお言葉を与えておられます(九〜一三節)。ルカは五〜一三節を直後に置くことで、「主の祈り」を解説しているわけです。その解説は、「絶えず祈れ」という一般的な祈りの勧めと理解するよりは、「夜中の来訪者」がパンを求めていることから、とくに「主の祈り」の中のパンの祈りに関する解説と理解すべきであると考えられます。するとこの解説は、友人の求めであっても起きて与えるのを断る無精な主人でも、しきりに願うので起き上がって友人が必要とするパンを与えるとすれば、まして天の父は求めて止まない者に聖霊をくださらないことがあろうか、という意味になります。ルカは「主の祈り」の中のパンを聖霊を指すものと理解しているわけです。

パンの祈りをこのような文脈に置いたのは福音書記者マタイとかルカであって、イエスと弟子たちの状況では、今日の生存に必要なパンを父に求める祈りであったという議論もあります。しかし、この祈りは、何も携えないで巡回して「神の国」を宣べ伝えるように送り出された弟子たちの特別な状況(ルカ一〇・四〜九)を反映するものではないとの指摘もあります(ルツ)。いずれにしてもこの場合、「放浪のラディカリズム」という特別の状況による解釈に限定することは適当でないと考えられ、新約聖書(福音書)が置いている文脈で解釈するのが、現在のわたしたちにとって適切であると思われます。

 マタイでは「今日」とあるところが、ルカでは「毎日」となっています。それに応じて動詞形も、マタイでは一回的な行動を示すアオリスト形ですが、ルカでは現在形が用いられていて、動作の繰り返しが含意されています。おそらく、マタイが「語録資料Q」の緊迫した終末待望の語法をそのまま伝えているのに対して、ルカは主の「パルーシア」(来臨)が遠い未来に感じられるようになった時代に、歴史の中を歩む「教会の時(日々)」を前提にして書いているので、「今日」を「毎日」に変えたのだと考えられます。わたしたちは、マタイの「明日のパンを今日お与えください」という祈りを、歴史の中で日々祈るという形で、ルカの表現をも生かす結果になると思います。 

最近日本語訳が出た現ローマ教皇ベネディクト一六世のJ・ラッツィンガー著『ナザレのイエス』では、基本的には伝統的な生活に必要なパンという解釈に立ちながら、ヒエロニムスの終末論的な解釈も紹介し、教父たちの聖体のパンに関する祈りであるとする解釈やヨハネ福音書六章の「命のパン」である霊なるキリストを指す解釈を含ませています。これが現在のカトリック教会の解釈と見てよいでしょう。NRSVは本文で「日ごとのパン」とし、欄外に「明日のためのパン」という訳を添えています。

「わたしたちの罪を赦してください」

 先にマタイのテキストとの比較で、マタイでは「わたしたちの負債を赦してください」となっているところが、ルカでは「わたしたちの罪を赦してください」となっていることを指摘しました。おそらく「語録資料Q」では「負債」とあるのを、マタイはそのまま用い、ルカは「罪」と言い換えたのだと考えられます。マタイが用いているギリシア語は「負債、借金」という意味だけの語です。イエスが用いられたアラム語では、「負債」を意味する語は「罪」という意味もあるので、アラム語を理解するユダヤ人信者向けに書かれたマタイ福音書では、「語録資料Q」の「負債」をそのまま用いても「罪」を指していることが十分理解されたのに対し、異邦人向けに書いているルカは、「負債」が罪の象徴であることを示すために一度は「罪」というギリシア語を用い、「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」という付加の文で「負い目、借金」という語を残しています。
 罪は神に対するわたしたちの負債です。負債は決算の時に清算されなければならないように、罪は神の裁きの時に清算されなければなりません。そして、その清算の時が迫っているのです。イエスはしばしば神の裁きの日が迫っていることを、決算のたとえを用いて語られました(一六・二、マタイ一八・二三、二五・一九)。イエスの「神の支配」告知には、終わりの日の裁きが迫っているという終末的な一面があります。その日に備えてわたしたちができることは、「わたしたちの負債(罪)を赦してください」と祈ることだけです。だれが人間存在の根源的な背きを自分の行為で清算することができるでしょうか。
 裁きの日に罪が赦されることを祈るように教えるのはユダヤ教も同じです。イエスの場合、「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」という言葉が加えられている点が違います。これは、わたしたちの罪が赦されるための条件ではなく、わたしたちが終わりの日に罪の赦しを願うことができる場が与えられていることを指し示しています。
 イエスは無条件絶対の恩恵を告知されました。そして、それを信じる者に無条件に罪の赦しを宣言されました(五・二〇、七・四八など)。自分が神の無条件の恩恵の場にいるのであれば、自分に負い目のある隣人を赦さないではおれません。もし赦さないならば、それは無条件の恩恵の場にふさわしくなく、自分をその場から追い出すことになります。この消息をイエスは「仲間を赦さない家来」のたとえ(マタイ一八・二一〜三五)で語られました。「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」というのは、祈る者がそのような無条件の恩恵の場で隣人の負い目を赦していることを言い表しています。すでに無条件の赦しを受けているのですから、自分に負い目のある者を赦すことができるのです。そしてそのような恩恵の場にいるから、終わりの日に神が最終的な審判を行われるときに、自分の罪を赦していただくことを願うことができるのです。
 そして、いまキリストにある者は、十字架の場でこの祈りを祈ります。キリストの十字架によって無条件に赦されているという恩恵の場に生きる者として、人を赦すことによって恩恵の場にとどまり、来るべき決算の時にも恩恵によって(すなわち、赦されることによって)栄光に与ることができるように待ち望んでいます。この祈りにも、終末が現在に突入してきているというイエスの「神の支配」告知独自の終末論、そして「キリストにある」という場の独特の終末論の姿がよく現されています。

「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」

 新共同訳が「誘惑」と訳している語《ペイラスモス》は、もともと「(人を)テストする」という意味の語で、肯定的な意味ではその人の信仰が本物であるかどうかを試して鍛えるという「試練」の意味と、否定的な意味では信仰を捨てて誤った道に引き込もうとする「誘惑」という意味の両面があります。
 イエスの生涯は始めから終わりまで《ペイラスモス》にさらされていました。イエスが直面された誘惑は荒野の四十日だけではありません。王としようとする民衆の声、しるしを求めるファリサイ派の人たち、受難の道を諫める弟子の忠告など、イエスは使命からそらせようとする誘惑にたえずさらされておられました。その最後の、おそらく最大のものはゲッセマネでしょう。そこでイエスは父の御心に委ねきる祈りによって、誘惑に打ち勝ち、試練を乗り切られます。そして、眠り込んでしまっている弟子たちに、「誘惑《ペイラスモス》に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(マルコ一四・三八)と励まされます。
 わたしたちの人生も《ペイラスモス》の連続です。人生に苦難は避けられません。人生の苦難はわたしたちには信仰を貫くための苦しい試練となり、人生の幸運や快楽も信仰を捨てさせる誘惑ともなります。この祈りは、そのような試練や誘惑が来ないように祈っているのではありません。信仰の生涯に《ペイラスモス》が来ることは避けられません。この祈りは《ペイラスモス》に「引き込まれないように」(直訳)祈っているのです。誘惑に負けて信仰を失うことがないように、父の助けを祈り求めているのです。「誘惑に陥らないように」祈っているのです。新共同訳の「誘惑に遭わせないでください」は、「誘惑に陥らないようにしてください」と変えなければなりません(マルコ一四・三八と同じく)。
 マタイが伝える「主の祈り」では、この祈りと一組になって、「悪い者から救ってください」という祈りが加えられていますが、ルカにはこの祈りはありません。おそらく「語録資料Q」にはなく、マタイが付け加えたものと考えられます。終わりの日が近づくと、神に敵対する勢力(悪しき者、サタン)がますます激しく神の民を試み誘惑するという、当時のユダヤ教黙示思想の中で、マタイはこの祈りを「誘惑に陥らないようにしてください」を補完する祈りとして加えたのでしょう。この祈りがなくても、「誘惑に陥らないようにしてください」が終末的な祈りであることには変わりはありません。ただ、ルカの形は信仰生活一般の場面での祈りとして祈るようになる門戸を開いたとは言えるでしょう。

終末の場での祈り

 総じて「主の祈り」は終末的な祈り、すなわち終末の場に生きる者の祈りです。前半の二つの祈りは、終わりの日における父の栄光の顕現と支配の到来を祈り求め、その祈りに身を投げ出しています。後半の三つの祈りは、その日を前にして、終末的現実の中身である聖霊を祈り求め、恩恵の場にとどまって、すべての試練・誘惑を乗り切って、終わりの日の栄光にあずかることを祈り求めています。
 「主の祈り」は世に向かって、人間の魂の方向が根本的に間違っていることを示しています。人間は自分の手の業の栄光、自分の力の支配、自分の意志と願望の実現ばかりを求めていますが、それが根本的に逆転して、自分ではなく、自分を存在させている方の栄光と支配と意志の実現を求めなければならないのです。そのとき人間は人間として本来あるべき方向に向かっているのです。
 さらに、この「主の祈り」は人間がいる場所が根本的に間違っていることを示しています。世界は創造者の裁きという終末に直面しているのに、時《カイロス》を見分けることができず、自分たちの時がいつまでも続くかのように錯覚し、恩恵の場に来ようとしていません。人間は自分の知恵と力で自分の問題を解決することはできず、恩恵の場で賜る神の霊の知恵と力で、お互いに愛し合うことによってのみ将来を持ちうるのです。
 世界の危機的な状況において、イエスが教えられ、キリストにある小さい群が祈るこの祈りが、暗夜の燈火のように、人間の根本的な問題がどこにあるのかを示し、どの方向に解決があるのか、進むべき方向を照らし出しています。

「真夜中の友人」のたとえ

 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです』。すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません』。しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」。(一一・五〜八)

 「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」と願った弟子の求めに応じて、イエスはまず祈るべき内容を教えられました。それが「主の祈り」です。イエスは続いていかに祈るべきかを教えられます。その教えが五〜一三節にまとめて置かれています。祈りは神に願い求めることですが、その「求める」姿勢とそれに対する父の対応が、三つの語録群(五〜八、九〜一〇、一一〜一三)で語られます。この区分を貫く主題は「求める」です。
 その第一(五〜八節)はたとえの形で語られています。たとえそのものは日常的な体験でとくに説明の必要はないでしょう。そのたとえが言おうとしていることが、最後に明白な言葉で語られます。すなわち、「その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」ということです。
 ここで「しつように頼めば」と訳されている部分は、直訳すると「彼の無理強いのゆえに」とか「彼の執拗さのゆえに」となります。ここに用いられている「無理強い、厚かましさ、執拗さ」という名詞は、ここだけで他には出てきません。しかし、イエスはほぼ同じことを「やもめと裁判官」のたとえ(一八・一〜八)で語っておられます。そこでは執拗に裁判を求めるやもめに裁判官は根負けして、裁判をしてやろうとします。この裁判官を引き合いに出して、イエスは神が求め続ける民のために裁きを行われると保証されます。
 この「夜中の友人」のたとえでも「やもめと裁判官」のたとえでも、イエスは弟子たちに、どのように状況は苦しくても、祈り求めることを止めないように諭しておられると見られます。先に見たように、「主の祈り」が終末に直面して生きる場での祈りであるとすれば、このたとえは現実が約束された栄光にはほど遠いような苦しい厳しい状況であっても、祈り求め続けるならば、神は必ず正しい裁きを行い、民に栄光を与えてくださると保証しておられると理解できます。事実、「やもめと裁判官」のたとえでは、やもめの願いに根負けした裁判官のことを語った後、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」という言葉が続いています。
 しかし、同じようなことを言っている「夜中の友人」のたとえを、ルカは「主の祈り」の直後に置いています。これは、「主の祈り」にあるパン《アルトス》を求める祈りを、同じく《アルトス》を夜中に求める友人のたとえで説明し、それを祈り求めることを止めないように励ますためであると考えられます。そして、そのパンが聖霊を意味することが、この祈りを止めないように励ます区分(五〜一三節)の最後の「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」という言葉で明示されます。

だれでも求める者は受ける

 「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。(一一・九〜一〇)
 この有名なイエスの言葉を、マタイは違う文脈に置いています。おそらく独立に伝えられていたイエスの語録を、ルカは「主の祈り」のパンを求める祈りの解説と励ましの文脈に置いて、求める者が聖霊を受けることの確実性を保証しています。
 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(九節)というイエスの言葉は有名で、キリスト教の外の世界でもよく引用されます。その時この聖書の言葉は、どのような困難に直面しても、状況がどのように難しくても、断念することなく熱心に追求するならば、必ず目標に達することができるという激励の意味で用いられています。しかし、そのような意味であれば、イエスでなくても誰でも言えることであって、これが「福音」であるとは言えません。イエスの言葉の凄いところは、「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」という一〇節にあります。一〇節は《ガル》という理由とか根拠を示す小辞で九節に続いています。この結びつきは重要ですので、一〇節には「からである」という理由を示す語をつけて訳すべきです。
 イエスが「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と断言されるのは、イエスが「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」という世界に生きておられるからです。この「だれでも」求める者は受け、捜す者は見つけ、門をたたく者には開かれるというのは凄い宣言です。いったいどうして、このようなことが断言できるのでしょうか。
 わたしたちの体験はこれと反対です。この世では何を求めても、それを受けるには資格とか条件が厳しく要求されます。この世で地位を求めても資格や学歴が求められ、よい大学の門に入るためには厳しい入学試験に合格しなければなりません。ある分野で成功を求めても、生まれつきの才能とか健康が条件となります。努力したからといって、「だれでも」求めるものを得るというわけにはいきません。
 ところが、イエスは「だれでも」、すなわち、何の資格や能力がない者でも、求める者は受けるという世界に生き、そのような世界を告知されるのです。それは神の恩恵の世界です。恩恵が支配する場では、人は神から、何の資格がなくても、無条件に受けることができるのです。神が人間に与えてくださるものは、資格を問うことなく、求める者には誰でも無条件で与えられるのです。神と人とは本来そのような無条件・絶対(相手の価値に絶した関係という意味)の関係でつながっているのだというのが、イエスの告知です。イエスは人とこのような関わりにある神を「父」と呼ばれるのです。父は子を無条件に愛して、良いものを与えるからです。

この語録に関する以上の講解は、前著『マタイによる御国の福音―「山上の説教」講解』333頁以下の「求めなさい」の項をほぼそのまま引用しました。イエスのこの言葉が「恩恵の支配」の場に成立するものであることは、マタイもルカもまったく同じです。

 この「だれでも」については、ルカでは、割礼を受けているユダヤ教徒でも、割礼を受けていない異邦人であっても関係なく「だれでも」という意味が重要であったと考えられます。ルカは、異邦人も割礼のないままでキリスト信仰によって義とされ神の民となりうるという「無割礼の福音」を確立することを生涯の課題としたパウロを継承しています。ルカは、パウロの「無割礼の福音」によってイエスのこの言葉が実現し、律法による資格とは関係なく、「だれでも」キリスト信仰によって神の民となり、神から「良いもの」を受けることができることを、このイエスの言葉で宣言しています。
 そしてルカでは、父が恩恵により無条件で与えてくださるその「良いもの」とは聖霊であることが、次の語録で明確にされます。

聖霊を与えてくださる父

 「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。(一一・一一〜一三)

 マタイではこの語録の最後の言葉は、「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」となっています。この語録は、どんなに悪い人間でも、自分の子供には良いものを与えるという父親としての姿を比喩として、良いと悪いの対照で語られていますので、まして完全に善そのものでおられる天の父が、子として求める者に良いものをくださらないことがあろうか、というマタイの形が原型であろうと考えられます。
 しかし、ルカはすでに最初期の共同体において、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、キリストの民が聖霊を受け、聖霊によって熱く燃えて神の民として歩んでいる歴史を十分見ています。ルカは、聖霊こそキリストの民の命の源泉であることをよく知っています。その事実が、地上のイエスの働きを語る福音書においては、父は求める者に聖霊を与えてくださるという父の約束の言葉となります。ルカは、キリストを信じて求める者には無条件に聖霊が与えられるという約束を、「父の約束」と呼んでいます(使徒一・四)。
 子供にとって真に良いものとは何であるかを知っているのは、子供ではなく父親です。わたしたちは自分が祈り求めているものが与えられないことをしばしば体験します。しかし、その場合でも天の父はわたしたちに聖霊をという真に良いものを与えて、いかなる状況にも耐えて、命に歩むことができるようにしてくださっているのです。
   対立と対決

 ここから一一章の終わりまで、すなわち一一章の後半は、イエスと批判勢力の対立と対決が基調になっています。しかし、その基調からすると、なぜここに置かれているのかを理解するのが難しい語録も含まれています。ルカがなぜこのような配置にしたのかというルカの構成への問いも意味がありますが、それ以上に個々の段落がわたしたちに語りかける福音の使信が重要です。それをルカの配列に従って見ていくことにします。