聖書学研究所 > エフェソ書研究ノート > 第 11 講
(11)エクレシアと結婚愛     エフェソ5章21〜33節

 エフェソ5章21〜33節で展開されている<キリストとエクレシア=夫と妻>の類比関係は、訓告や教えのためではなく、むしろ霊的な存在論において読むべきであろう。始めの21〜23節のほうでは命令形は一つも見あたらなく、分詞形で語られている。だから、エフェソ人への手紙のこの箇所は、夫婦の有り様を創世記の創造論からとらえ直すようにうながしている。ここでのエクレシア論は、単に人倫関係を指すのではなく、社会的、宇宙的な広がりにおいて語られている。ここでは、「創造する神の御言葉」が夫婦の「一体化」を新たに創造するという事態が生じることを指している。
 16世紀のイギリスの詩人エドマンド・スペンサーは、神によって「結ばれる」結婚に関わるこの偉大な神秘を知っていて、彼の小編『祝婚歌』を通して、家庭と社会と国家と宇宙とを一つながりに結ぶ「神の霊的な秩序」を「厳か」なものだと考えた。スペンサーの詩魂を受け継いだジョン・ミルトンも、その『楽園喪失』4巻750〜57行で、このような夫婦一体の結びつきを「結婚愛」と呼び、「人間を獣と区別する唯一のしるし」として、理性に基づくこの結婚愛を「あらゆる人間関係の基盤」に据えている。この夫婦愛は、『楽園喪失』を訳した無教会の藤井武に受け継がれ、彼はその妻の死に際して『小羊の婚宴』と題する叙事詩を書いている。作家の伊藤整は、このような西欧ヨーロッパの夫婦関係が、人間一般に通じる夫婦関係と「本質的に」異なることを見抜いていた。彼は、日本人の結婚観とキリスト教のそれとの間には、「祈りを通じて達成される」神の御前での新たな創造という、根本的な違いがあることを洞察していたのである。
 夫と妻=キリストとエクレシアのこの類比関係は、個々のクリスチャンが、イエス・キリストの救いに与ることによって初めて授与される性質のものであるから、この類比に基づくなら、エクレシアもまた、そのような個々のキリスト者による無数の夫婦によって成り立つものと見てよいであろう。だから、キリストとエクレシアを夫と妻との類比において理解することは、個々の夫婦の有り様を通して、キリストにあるエクレシアが多様性を帯びることをも意味することになろう。<夫であるキリストと妻であるエクレシア>に対しては、<父なる神と母なるエクレシア>という類比関係も考え併せることができる。この父母関係におけるエクレシア観は、その母性ゆえに統一と普遍性を志向する傾向を帯びることになろう。
 ところで、エクレシア(単数)が、個々の夫婦から成り立つのなら、エクレシアには、それぞれの夫婦愛による無数のヴァリエーションが存在していなければならない。単数のエクレシアがキリストの愛を受けて、個々の信仰者を統一的に単一のエクレシアへ帰属せしめるエクレシア観と、無数の個体から成るエクレシア観との違いがここにある。一方は上から下へ、大から小への働きかけであり、他方は、下から上へ、極微から極大へ働きかけることによって、極大(人類全体に及ぶ神のエクレシア)を定義づける働きをすることになる。
 エフェソ5章23節の「エクレシア」は単数で、神のエクレシア全体を総称している。パウロ書簡では、ガラテヤ1章4節に「ガラテヤの諸教会へ」とある。このように、パウロの頃は、イスラエルの伝統的な「カハール」(会衆)の考え方に従って、地域ごとの箇々の「集会」が意識されていたと考えられる。だから、パウロの言う「教会」も、その地域の諸集会を意味することが多かった。ただし、最初期のエルサレムのイエス=メシア宗団は、自分たちこそが、終末に成就する唯一の「神の会衆」(「カハール・エール」)であるという自覚に立っていた。パウロが、ガラテヤ1章13節で「神の教会(単数)」を迫害したと言うのは、このエルサレム宗団を意味するとも考えられよう。しかし、彼がダマスコまで迫害の足を伸ばそうとしたのは、「教会」を単に地域の教会に限定したのではなく、より広い意味で「神のエクレシア」を全体として見ていたと理解するほうが適切であろう。だとすれば、パウロが、ガラテヤ人への手紙で「エクレシア」全体を単数で総称しているのは、以後の「エクレシア」論の単数の最初期の用法として重要である。パウロにとって、エクレシアは、イエスの人格的な聖霊の働きと結びついていた。だからこそ、信者一人一人が「キリストの肢体」であるという隠喩で語ることができたのである。
 このような単数の「神のエクレシア」は、その後、「イエス・キリストの体」として、エフェソ人への手紙では中心的な主題になる(エフェソ1章22〜23節)。したがって、エフェソ人への手紙での「エクレシア」観は、その形成過程をパウロへ、さらにエルサレム宗団の自己認識へとさかのぼることができよう。おそらくその先には、ユダヤ教の伝統的な一夫多妻制を事実上否定したイエス自身の教えに基づく<夫婦一体>観が見えてくるのであろう(マルコ10章5〜9節/これと並行箇所)。
 「キリストがエクレシアを愛して御自身を献げるように」とあるような「愛」とは、自己犠牲の愛である。このような愛(アガペー)は、信仰者同士の愛であれば、十分理解できる。しかし、事「結婚」での夫婦の愛となれば、これは、性愛への否定につながりかねない。したがってここでは、エロスを<方向付ける>アガペーの働きが、恋愛を結婚愛へ向けて昇華させる働きがなければならない。恋に<落ちる>ことが、結婚へと<踏み切る>決断と意志による選びの愛へと移行することになる。「時」の視点から見れば、ただ「現在」においてのみ成り立つ「恋」から、未来を志向する結婚愛へ切り替わるという事態がここで生じることになる。
 エフェソ人への手紙のこの部分は、一夫一婦制の価値観を根拠づける大事な箇所である。もしも人類が、自然のままの性愛にある繁殖を無制限に続けるなら、人類は、それ自体の生殖欲の重みで自滅することになるであろうから。だから、結婚愛は、創造の神から人類に賜わった自己保存/生き残るための知恵なのである。この意味での「結婚愛」は、他の動物には見ることのできない人間特有の価値観であると言えよう。
 長い人類の歴史において、唯一存続し続けてきた普遍的な儀式として、「結婚式」と「葬式」のふたつがある。シエイクスピアの作品においては、喜劇はすべてが結婚で終わり、悲劇はすべて死で終わるが、この偉大な劇作家は、人類普遍の原則をその作品にこのよう形でドラマ化していると考えられる。このような視点から見るならば、ヨハネ黙示録において、最期にキリストとエクレシアとが、花婿と花嫁として結ばれる救済史の最終的な結末は、ここエフェソ人への手紙の結婚観と対応していることが見えてくる。
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