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(2)知恵の御霊  エフェソ1章17節

エフェソ人への手紙1章17節は、この書簡全体にかかわる重要な内容を含んでいる。感謝から執り成しへ移行する礼典的な表現の中で、真正のパウロ書簡をも含めて、これほど荘重な文体は類を見ない〔Ernest Best, Ephesians. ICC.161〕。17節全体の構成は、直訳すれば以下のようになる。

わたしたちの主イエス・キリストの神、
栄光の父が、
あなたがたに知恵と啓示の霊を授与するように
彼の知識において。

 
 1行目の文頭に来る「ヒナ」(「〜のために」「〜のこと」ここでは訳出されていない)は、直前の「感謝してあなたがたのことをわたしの祈りに覚え〜」を受けているから、目的を表わすと言うよりは、感謝と執り成しの内容を導入するためであろう。1行目の「わたしたちの主イエス・キリストの神」は、構文的に見れば2行目の「栄光の父」と同格になるが、この並列関係を内容的にどのように見るのかが問題になろう。「神」と「父」とを入れ替えて解釈しようとする注釈者さえいるが〔Best, Ephesians.161〕、ここの言い方は、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」(コロサイ1章3節)と関係しているのかもしれない。「イエス・キリストの神」というキリスト教的な表現は、アンティオキアのイグティオス(98年〜117年?)においては、さらに「わたしたちの神イエス・キリスト」(「エフェソスに宛てた手紙」序文)という言い方へ発展している。
 2行目の「栄光の父」は、その直前の句を受けて、父の栄光が、イエス・キリストにおいて初めて真の輝きを発すると解釈することもできるが〔シュナケンブルク『エペソ人への手紙』78頁〕、エフェソ人への手紙においては、「父」は「源」を意味するから(3章15節)、この句は、イエス・キリストの神が「栄光の輝きの源泉」であると同時に、内容的には、続く「知恵と啓示の霊」の源ともなることを意味すると考えられる。
 3行目の「知恵と啓示の霊」は問題が多い。「霊」とは神の聖霊を指すのだろうか? それとも人間に具わる「霊」と理解すべきだろうか? 「霊」には冠詞がないから、通常人間的な意味で理解されているが("a spirit of wisdom and revelation"〔NRSV〕"the spiritual gifts of wisdom and vision "〔REB〕)、冠詞がないことだけで、「聖霊」を意味しないとする根拠にはならない。おそらく聖霊の働きを受けることによって、人間に分与される「知恵」であり「啓示」のことであろう。「知恵と啓示の霊」という言い方は、コロサイ人への手紙1章9節の「あらゆる霊的な知恵と洞察によって」と関連づけることもできるが、その内容は、むしろ第一コリント人への手紙2章10〜12節によって理解するほうがよい。ただし、ここ17節では、「知恵」と「啓示」は分けられるべきものではなく、真の知恵は神の内に隠されているものであるから、聖霊によって真の「霊的な」知恵が人間に開示される/啓示されることを意味すると思われる。
 4行目の「彼の知識において」は、授与された「知恵と啓示」を通して「彼(神)を認識するようになる」ことであり、この「認識」において初めて、「神を知る知識」が人間に具わることになろう。なお「霊」と「知性」(ヌース)との関わりについては、第一コリント人への手紙14章14〜15節を参照。
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