聖書学研究所 > エフェソ書研究ノート > 第 10 講
(10) 光の告発     エフェソ5章11〜12節

実を結ばない闇の業に加わらないで、
むしろ、それらを明るみに出そうとしなさい。
彼らのもとでひそかに行なわれていることは、
口にするのも恥ずかしいことです。
しかし、光にさらされると、すべてのものは
光に変じるのです。
     (エフェソ5章11〜14節)

 エフェソ人への手紙は、新約の書簡の中でも、コロサイ人への手紙と並んで珍しく論争的な語調の少ない書簡である。紀元80年頃に書かれたと思われるこの書簡は、ユダヤ教の会堂から一応の独立を果たしたキリスト教の諸教会が、その規模も固まりかけて、ある程度の自信を持って、エクレシアの外に広がる異邦人の世界へ福音宣教の目を向けようとしていた頃に書かれたと思われる。特にここに引用した5章11〜14節には、このようなエフェソ人への手紙の特徴がよく表われている。
 これまでの教会は、どちらかと言えば、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との融和や律法と福音との関係などに意を用いてきたが、この書簡は、いよいよ異邦人世界に向けて本格的な伝道に乗り出そうとする始まりを告げる書簡である。しかし、この文面を注意深く読めば、気になる点が二つほどある。
(1)キリストの光を宿して異邦人の闇の業を照らすことは、とりもなおさず、異邦世界の偶像礼拝とこれにまつわる淫行その他の「悪徳」を指摘し、これを告発することにつながる。しかし、「光に照らされた者は、すべてが光に変貌する」とは限らない。光よりも闇を愛して、光を憎み光に来ようとしない者もいるからである(ヨハネ3章19〜20節)。ヨハネ共同体の体験に基づくこのような厳しい半面にも留意しないと、異邦世界からの思わぬ反撃と憎悪を招くことになりかねない。
 キリストのエクレシアは、それまでは、ローマ帝国から公認宗教として扱われてきたユダヤ教の枠内に留まることによって、比較的安全に活動を続けることができた。しかし、キリストのエクレシアが、ユダヤの会堂から次第に独立するにつれて、エクレシアの活動は、ローマ帝国によるユダヤ教への公認から逸脱することになった。エフェソ人への手紙に代表される小アジアのエクレシアは、このような危険性に対してやや無警戒であったのではないか? と思われる〔Frend, The Rise of Christianity. 151.〕。
(2)エフェソ人への手紙は、パウロのガラテヤ人への手紙やローマ人への手紙に見られるような律法観、すなわち、律法には、<人間の義>を誘い、逆に人を罪に陥れる危険性があること、言い換えると<律法主義>に走る危険性が潜んでいることにあまり関心を向けていない。パウロの律法観には、「律法違反」の罪だけでなく、同時に「律法主義」による「人間の義」に固執することによる罪も含まれていた。しかし、エフェソ人への手紙では、罪はもっぱら律法違反のほうに向けられていて、福音とユダヤ教の律法との関係は、言わばパウロによる伝道の段階で、すでに「解決済み」であるという前提に立っているように見受けられる。このような前提に立って、新たなキリスト教倫理を対外的に宣べ伝えようとする意図をこの書簡に読み取ることができる。
 異邦人世界に向かう場合には、律法的な義を強調することが、異邦人キリスト教徒に新たな束縛をもたらし、聖霊の働きを阻害する危険性があった。だからパウロは、律法主義が、ユダヤ的優位性を異邦世界に誇示することで、福音伝道の妨げになることを強く警戒したのである。しかし、これから異邦の世界へ向かおうとするエフェソ人への手紙には、パウロのこのような配慮と警戒心がほとんど見られない。
 この結果、パウロの異邦人世界への対応の仕方と、エフェソ人への手紙の異邦世界への対応とは幾分異なることに注意したい。御霊の光を宿した者が、その光に照らされる人たちに向かう場合に、律法主義的な「人の義」を立てないように留意することが大切なことを見落としてはならない。この点に対する洞察が欠ける場合には、律法の優位性を異邦世界に誇示することで、異邦人の側からの反感や憎悪を招く結果に陥るおそれがあるからである。自己の宗教的な信念が、律法主義によって「人の義」へと変じることを警戒するところに初めて、新の意味での宗教的な寛容が成り立つ。だから、キリストのエクレシアの倫理性をそのまま無媒介に異教世界の「堕落」と「偶像礼拝」に対する攻撃に向けることは、ヘレニズムの人たちの反感を助長する恐れがあること、エフェソ人への手紙が宛てられたエクレシアは、この点をもう少し警戒すべきだったのかもしれない。
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