市川喜一著作集 > 第24巻 > 第20講

附 論  福 音 と 仏 教

はじめに ― 附論への序言 


キリストをまだ知らない人たちにキリストを知らせる活動については二種類の用語が使われており、その使い方を混同すると議論が混乱しますので、はじめにこの附論での用語の使い方について一言しておきます。本附論では「福音の告知」と「キリスト教の布教(または宣教)」を区別して用います。実際には両者は明確に区別できず、両方が重なっている場合が多く、本書でも今まで両方が重なっている活動を「伝道」と呼ぶこともよくありました。しかし以下の論説では論旨を明確にするために二つの用語を区別して用います。
「福音」とは、これまで本書で繰り返し述べてきましたように、神がナザレのイエスを復活させてキリストとされ、そのキリストであるイエスが十字架上に死なれた出来事が人間の神への背き(罪)を取り除いているのであり、神はわれわれ人間を無条件に受け入れてくださっているのだという、神の恩恵の告知です。これは神の恩恵の支配がついに到来したという終末的現実の報知であり、一つの新しい宗教ではありません。戦争に勝利したとか、新しい王が即位して新しい時代が来たという事実は、伝令が大声で叫んで告知《ケリュッセイン》しなけれななりません。この恩恵の到来を告知する活動が「福音の告知活動」、略して「福音活動」と言われます。新約聖書が書かれた時代(イエスの復活からほぼ一〇〇年)にはまだキリスト教という宗教は存在しません。使徒や伝道者たちの働きはみな福音活動です。この福音を受け入れた人たちが福音にふさわしく生活する仕方を教えたのが教師たちですが、彼らも福音活動の一端を担った人たちです。

この福音は広く地中海世界に伝えられて、ローマ帝国が支配する世界に「キリスト教」という新しい宗教を生み出します。福音によって集められた信じる者たちの共同体がキリスト教会となり、そこに「キリスト教」という新しい宗教を形成するにいたる消息については、前著『福音の史的展開U』の終章と本書『福音と宗教T』の第三章第四節で述べましたので、そこを見ていただくことにして、ここで繰り返しません。福音を信じて、聖霊の働きによってキリスト信仰に生きる者たちの共同体は、三世紀の半ば頃には洗礼という加入儀礼と聖餐という参加儀礼、それを効果的に執行する聖職者、および共通の教義をもつ立派な宗教として成立、他の諸宗教に対して「真の宗教」であることを誇ります。当初はローマ帝国の国家祭儀に加わらないキリスト教徒は迫害されますが、その固い結束が注目されて、キリスト教は四世紀にはコンスタンティヌス大帝によって公認され、ついにローマ帝国の国教とされるに至ります。その後のヨーロッパ世界の体制宗教となり、キリスト教が社会の体制宗教となったヨーロッパ世界は、最近までこのコンスタンティヌス体制を継承する世界となります。
宗教改革が行われた十六世紀は、その直前のコロンブスのアメリカ新大陸の発見やヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓などから始まる大航海時代と重なり、ヨーロッパ諸国が海外に植民地を求める植民地時代が始まります。ヨーロッパ諸国の植民地支配拡大の流れに乗って、ヨーロッパのキリスト教会は新植民地に自国のキリスト教を布教して、その拡大を図ります。その典型的な実例が海洋大国であったスペインとポルトガルの中南米新大陸への進出です。カトリック国であった両国は、イエズス会を先頭に活発なカトリック・キリスト教の布教活動を展開、中南米にカトリックを体制宗教とする諸国を建てていきます。宗教改革によって生まれたプロテスタント諸国は少し遅れましたが、ピューリタンが北米植民地などに進出して自分たちの改革諸教会を建設します。これらの活動はキリスト教の布教活動であり、それによってキリストを告げ知らせているという福音の告知を含みながら(重なりながら)、それだけでない複雑な様相を示しています。
十六世紀の宗教改革の時代にカトリックのスペインとポルトガルが中南米に進めたカトリック・キリスト教の布教活動については先に述べました(本書一一九頁の「世界伝道の開始」の項を参照)、また、それ以後の時代における福音とキリスト教の海外への拡大については、第四章第四節の「エキュメニズムと福音」で概観しました(本書一六二頁参照)。その結果、今やキリスト教は信徒数では最大を誇る世界宗教となっています。一つの民族の宗教ではなく、世界の諸民族に伝えられ、受け入れられて多くの民族を包摂する宗教を世界宗教といいますが、キリスト教は最大の世界宗教となったのです。それは信徒数で最大であるだけでなく、キリスト教の担い手の欧米諸国の高い文化水準と進んだ技術によって、世界の諸民族と諸国を席巻する勢いで拡大してきました。しかし、本書の第六章「現代の宗教問題―宗教の多元化と世俗化」で見たように、現代ではその勢いに陰りが見え、キリスト教は多くの問題を抱えるようになっています。キリスト教自身の問題と擬似宗教の挑戦、現実の世界が抱える戦争や貧困や思想の過激化などの諸問題はキリスト教会が背負いきれない面があります。その現実の中で、福音の担い手であるキリスト者は、福音が人を救う神の力であることだけを拠り所にして、福音が果たすべき役割を追い求めなければなりません。

 その課題について本書も様々な角度から考察してきましたが、福音が仏教に対して果たすべき役割についてはまだ触れていませんでした。福音がキリスト教自身とユダヤ教やイスラム教などの一神教宗教に対してもつ意義と役割については本論で論じるところがありましたが、世界宗教の一つであり、その固有の生命力をもって活発な活動を見せている大きな宗教である仏教について考察することはほとんどありませんでした。世界の宗教史をまとめたエリアーデの『世界宗教史』を紹介したところでも述べたように、これからの世界の最大の課題は、キリスト教に代表される神を信じる宗教と、神を立てない宗教である仏教との関わり方になると考えられます。この課題は世界宗教史の問題であるとともに、宗教哲学の大問題であり、この小著がよく扱いうるところではありません。それで本書の本論は終章で述べたように、「働きとしての神」で一応締めくくり、福音と仏教との関係を附論として論じてみたいと願っています。ただ仏教に関しては著者は一門外漢であり、議論する資格はありませんし、高齢からくる限界もあって十分な議論はできませんが、許される範囲で、福音の場から見た仏教と、その仏教圏への福音活動について考察しておきたいと願います。それに日本はその仏教圏にある国として、日本人キリスト者としてこの問題を放置できない責任があると思われます。
 一口に仏教と言っても、世界の諸民族に拡大した世界宗教としての仏教には様々なタイプがあります。大きく分けると、最初に仏教が成立したインドから南方に伝わった南伝仏教と、北方に伝えられた北伝仏教があり、両者はずいぶん性格が違います。南伝仏教は「上座部仏教」とも称されるように、仏教の僧たちの集まりで議論したとき、上座に座った弟子たちが主張した仏教教団の在り方、戒と律の順守を強調する傾向の仏教で、この型の仏教は初期にスリランカや東南アジアの諸国(ミヤンマーやインドネシアなど)に伝えられます。北伝仏教は、少し時代が下ってインドに生まれた大乗仏教が北方の中央アジアに伝わり、それから東漸して中国やチベットに伝わり、さらに朝鮮半島を経て日本にも伝えられて有力で大きな仏教圏を形成します。本書ではこの仏教圏、すなわち東アジアに成立した仏教圏における福音の位置について考察しようと思います。東南アジア諸国には仏教の他にヒンドゥー教やイスラム教も伝えられて、複雑な様相を示しています。ヒンドゥー教については後述のインドの宗教史で扱うので、またイスラム教についてはすでに本論で扱っていますので、この附論「福音と仏教」ではおもに北伝して東アジアに定着した仏教における福音の位置について考察することになります。そのためにこの附論では、まず東アジアの仏教の展開を跡づけるために、宗教史上中心的な位置にあるインドと中国の宗教史を概観し、次いで中国から大きな影響を受けて成立しているわれわれ自身の日本の宗教史を概観し、その上で東アジア仏教圏における福音の立場の意義とこれからの福音の働きについて考察したいと考えています。この東アジア仏教圏は、西方の欧米キリスト教圏とは対立する異質な宗教文化圏を形成しており、これからの世界の課題はこの二つの宗教圏の関わりが大きな主題となると考えられます。