市川喜一著作集 > 第24巻 > 第21講

附論 第一章 アジアにおける諸宗教

はじめに

 本書『福音と宗教』では第一部(上巻)「諸宗教から福音へ」で、まず第一章「宗教とは何か」で世界の諸宗教の事実を概観総括し、次にその諸宗教の中でユダヤ教という特殊な宗教において一神教信仰が成立して、その歴史の中にイエスが現れたことを第二章「聖書の神・イエスの神」で見ました。続いて第三章「キリストの福音―その成立と告知」において、復活されたイエスをキリストとするキリストの福音が世界に告知されるに至った歴史を概観しました。そして第二部「福音から見た諸宗教」(下巻)において、まず第四章「キリスト教史における福音」で、そのキリストの福音によって形成されたキリスト教という宗教の歴史を概観し、形成の原動力であった福音と形成された歴史的宗教であるキリスト教との間の緊張関係をたどった上で、第五章「宗教の神学」でキリスト教から見た諸宗教の意義について、代表的なキリスト教神学者の考え方をまとめました。そして第六章「現代の宗教問題」で、現代世界で問題となっている宗教の多元化と世界の世俗化を解く鍵が宗教の相対化にあることを示唆しておきました。そして最後に、著者が新約聖書の探求と世界の宗教史の概観から到達した神信仰の内容を、終章の「働きとしての神」で素描して終わりました。
 これで一応本論は終わったのですが、実は今後の宗教史の課題として、おもに世界の西方で成立した一神教と、おもに東方で普及している仏教という神を立てない宗教との遭遇がどうなるのかという問題があります(直前の「附論への序言」参照)。これは大きな問題で、扱うにはかなりの時間が必要です。著者は年齢の制約から、とにかく本論をまとめて一書を完結し、この問題は附論として加えることにしました。西方の一神教のことは本論で議論しましたので、この附論では世界の東方、おもに東アジアの仏教を概観して、その後に終章で述べたように「働きとしての神」を信じるという信仰と仏教の関係を考察する宗教哲学的な課題に挑戦したいと考えています。東アジアの仏教史を概観するにあたって、仏教発祥の地であるインドとその歴史的展開の中心地となる中国の宗教史を概観し、そしてわたしたち自身の日本の場合をやや詳しく扱い、チベットや朝鮮は割愛することになります。



第一節 インドの宗教史

インドの宗教 ― ヒンドゥー教の歴史

インドの歴史は、インド西部の大河インダス川の流域に前二〇〇〇年前後に形成されたインダス文明から始まります。モヘンド・ジャロやハラッパー(現パキスタン領)を中心に高度に発達した古代の都市文明の存在が知られています。この文明の担い手は母神崇拝、樹神崇拝、性器崇拝などをおこない、ヨーガや沐浴を実践していた可能性がありますが、推測の域を出ません。ところがこの文明の終わりの時期(ほぼ前一八〇〇年頃)に、北西からヒンドゥークシュ山脈を越えてインド・ヨーロッパ語族の遊牧戦士民族のアーリア人が西北インドに移動、このインダス文明の遺跡に近いインドのパンジャーブ地方に定着します。彼らは前一二〇〇年頃から前五〇〇年頃までに「リグ・ベーダ」はじめとする四ベーダ聖典とそれに付随する「ウパニシャッド」などを編纂し、それらを天啓聖典として、そこに規定されている祭式を忠実に実行することで、現世の様々な願望と死後の浄福を実現しようとする宗教、すなわちバラモン教を奉じます。祭式の場に呼び出す神々は様々ですが、とくに火の神アグニが重視され、祭壇に火を焚いてその中に供物を投げ込む祭式ホーマ(護摩)が行われます。祭式を執行する司祭階級のバラモン(ブラフーマナ、婆羅門)が発する言葉は、その言葉を実現する力をもつとされ、神々も従う真実の言葉とされます。この言葉の力によって、バラモンを至上とする理念的な階級制度(カースト制)が出来上がります。司祭階級バラモン、王侯武士階級クシャトリ、農牧商の庶民階級バイシャ、隷属民シュードラの四種姓です。インド人はこれをバルナ(色)と呼びましたが、これは肌の色で支配者のアーリア人と土着の先住民を差別する語でした。この四種姓の上位の三つは再生族と呼ばれ、成人して入門式を行い、ベーダの祭式に参加する資格を認められましたが、最下位のシュードラは入門式を行えない一生族と呼ばれ、ベーダの祭式から締め出されていました。時代が下ると、さらにその下に不可触賎民という階層が加えられて、厳しく差別されます。この四種姓のカースト制はインド社会の基本的な構造となり、人生を学生期、家住期、林棲期、遊行期に四つの時期に分けて規定するアーシュラマ(生活期)制度と共に、現代までインド社会にその影響を残しています。このバラモン教もベーダの最後期に成立した哲学的文書であるウパニシャッドになると、宇宙の根本原理であるブラフマンと個人存在の本体であるアートマンは同一であるとする「梵我一如」の思想など、高度な哲学的思想を生み出しています。なお、このウパニシャッドでは輪廻と業(ごう)の思想が出てきて、そのような思想が前七世紀から六世紀にかけてインド社会に急速に広まります。
このようなバラモン階級を中心とするベーダ文化の枠組みが、前六世紀から前四世紀にかけて崩壊し、バラモン教が土着の民間信仰などを吸収して大きく変貌し、ヒンドゥー教を形成します。ヒンドゥー教は、キリスト教やイスラム教や仏教のような特定の創唱者と教義をもち、諸民族に入信を呼びかける世界宗教ではなく、むしろ宗教的な観念や儀礼と融合したインド人の生活風習の全体であり、インド人に生まれた者は生まれながらヒンドゥー教徒ななります。その点では日本の原始神道と同じく民族宗教の一つですが、ヒンドゥー教は途方もないほどの包摂力をもち、多神教も一神教も無神論さえ含み、高度な哲学的思想から民間の原始的信仰や呪術さえ含んでいます。ヒンドゥー教には神として礼拝される神格は多数ありますが、中でもブラフマー、ビシュヌ、シバの三大神格の礼拝を中心に形成されることになります。
このバラモン教の変貌の過程で、前五〇〇年前後には社会的大変動を背景に反バラモンの自由思想家が輩出し、インドに新しい宗教をもたらします。その代表格は共に王族クシャトリ出身のマハービーラが創始したジャイナ教と、ゴータマ・ブッダが説いた仏教です。ジャイナ教はベーダを否定する無神論的多元論に立脚(原子論も含む)、四姓制度を認めず、不殺生(アヒンサー)や無所有を強調、苦行により業を滅ぼして輪廻からの解脱を説きます。ジャイナ教の勢力はインド国内に止まりますが、インド思想と文化に大きな影響を残しています。一方、仏教は神があるとかないというような形而上学的な問題は益なきこととして議論せず、人間が生きるべき道として法(ダールマ)を追求します。一切は苦であると認識し、その根源を妄執・渇愛に見出し、その妄執渇愛を断じて涅槃を実現するように勧めます。その道として、快楽主義と苦行主義の両極端を捨てて、中道の「八正道」を実践するように説きます。
仏教は初期には経典を結集、統一的な教団として進展します。とくに前三世紀にはマウリア朝アショーカ王の帰依と保護を受けて興隆し、西方のギリシア人世界や南方のスリランカや南アジアにまで仏法を伝えています(南伝仏教)。しかし、前一世紀にはブッダの遺骨を収めた仏塔を中心に集まった信徒たちの間から、ブッダを崇め、ブッダ信仰を中心にして、仏教を出家修行者に限らず広く在家の者を含めるものに変えようとする運動が起こります。彼らは自分たちの仏教を、多くの者を悟りの世界に導く大きな乗り物という意味で大乗と称し、戒律中心の在来の修行者の仏教を小乗と呼んで批判します。この大乗の運動は急速に広まり、彼らはその主張を盛る多くの経典、すなわち大乗仏典を生み出します。この大乗仏教は中央アジア(西域)を経て中国に伝わり(北伝仏教)、さらに韓国、日本やチベットにも伝わって東アジアに大きな仏教圏を形成します。このことは項を改めて項UとVで中国と日本の宗教史を取り上げる際に扱うことにします。
ところが四世紀に興ったグプタ王朝が全インドを支配しますが、この王朝の興隆と共にインドは仏教の時代からヒンドゥー教の時代に転換、仏教は次第に衰微します。グプタ朝は民族主義的な王朝で、民族伝統のベーダ聖典を尊び、ヒンドゥー教を国教として扱います。この時代には多くのヒンドゥー寺院が建てられ、美術品で飾られ、様々な神格を崇めるヒンドゥー教の各宗派の思想や勢力が進展し、古代インド文化が開花した時代となります。法顕がインドに来て『仏国記』(四一二年頃)を著したのもの、このグプタ朝の時代です。さらにこの時代について特筆すべきは、グプタ王朝成立前の時代に作られていた史詩が編集されて「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」という完結した二つの長大な叙事詩になってことです。この二つの叙事詩は、この王朝の時代にヒンドゥー教の聖典として広く用いられて、ヒンドゥー教精神が国民に浸透します。「マハーバーラタ」は大いなるバーラタ族の歌という意味で、古代インドの神話、伝説、物語を含んでいます(インド人は自分たちの国名を今も「バーラタ」と呼んでいます)。「ラーマーヤナ」はラーマー王子の遠征という意味で、ラーマ王子が悪魔にさらわれた妃シーターを救出するために行った遠征の物語です。ラーマ王子はビシュヌ神の化身とされ、ヒンドゥー教男性の理想像となり、シーター妃は女性の理想とされます。なお「マハーバーラタ」の中の一つの詩篇「バガヴァッド・ギーター」(主神の歌)は、最高神ビシュヌに熱烈な信仰(バクティ)をもって帰依して、その恩恵にあずかるべきことを説いています。その中にはヒンドゥー教におけるバクティ(後述)による信仰を説く次のような言葉があります。「ひとえにわれに帰依すべし。われ汝を一切の罪悪より解脱せしむべし。汝、憂いるなかれ」、「われは一切生類に対して平等なり。……信仰心をもってわれを拝するものあらば、彼らはわれの中に在り、またわれも彼らの中に在り」。
しかし民族大移動により西ローマ帝国が滅んだのとほぼ同じ時代に、インドではフン族の侵入によってグプタ王朝も衰退に向かい、各地に群小諸王朝が分かれ争います(六世紀)。七世紀に有力となったヴァルダナ王朝の時代にはヒンドゥー文化が栄え、玄奘三蔵が渡来して(六四五年帰国)、後に『大唐西域記』が出ることになります。このヒンドゥー教優勢の時代には仏教もインドの土着的要素を取り込み、タントラ的ヒンドゥー教と融合(これが密教)、徐々に独自性を失い、ついに一二〇三年にはイスラムによって修行の中心寺院を破壊されて、インド社会の表面から消えることになります。なお、この時期(八世紀前半)にはシャンカラが出て、『ブラフマ・スートラ注解』を著し、宇宙の根本原理であるブラフマンは自己の本体であるアートマンと同一であるというウパニシャッドの原理から、現実の人間が輪廻に苦しんでいるのは、アートマンと非アートマンを区別できない無明にあるとして、この無明を滅して解脱(アートマンとブラフマンの一体化)を求めるという、一種の神秘主義を説いています。
このインドにイスラムが入って来て支配を広げるにともなってインドは変化します。七世紀にアラビア半島に始まったイスラム教は、近接する各方面に急速に拡大していきます。北のアラブ世界だけでなく、西の北アフリカ諸国やイベリア半島、東のイランやインドまでその勢力を伸ばします。しかしすでに八世紀には始まっていたインドでの拡大は急速には進まず、十世紀から十一世紀にかけて起こったイスラム軍の大規模で度重なる侵略によって、ガンガー川に至る地域を支配するようになり、十三世紀から十六世紀前半にかけてデリーを中心に次々と王朝を建てて、インド大部分の支配を続けます。この長期にわたるイスラム支配の期間をもってしても、インドのすべてのヒンドゥー教徒をイスラムに改宗させることはできませんでしたが、かなりの部分のヒンドゥー教徒がイスラムに改宗したのは、イスラムが神の前にすべての人間の平等を説き、カースト制を否定したので、下層の人たちが多く信奉したからであると見られます。
十六世紀後半からはトルコ・モンゴル系のムガル人のイスラム帝国が官僚制に基づく中央集権的な国家を建設、とくにアクバル帝の時代にインド国家の近代化を進めます。しかしヒンドゥー教の民衆を改宗させることは不可能であることを認め、諸宗教に対して寛容政策をとります(イエズス会士も迎えたそうです)。この王朝の時代にデリーの巨大な「赤い城」が建てられたり、妃を偲ぶ華麗な霊廟「タージ・マハル」が建造されます。このムガル帝国のインド支配ははほぼ十八世紀の初めまでが最盛期で、徐々に衰退、インド大反乱(セポイの反乱、一八五七年)によってイギリスに席を譲ります。

ヒンドゥー教における信愛(バクティ)

ここで少し立ち止まって、ヒンドゥー教における信心(敬虔)について少し見ておきたいと思います。ヒンドゥー教は多神教で、多くの神々が崇められていますが、その神々への崇拝はブラフマー、ビシュヌ、シバの三大神格の礼拝に集約されてきます。ヒンドゥー教の主神とも言えるこの三神は、ブラフマーが宇宙を創造し、ビシュヌが維持し、シバが破壊すると信じられていました。ブラフマーは最高神で、宇宙存在の根本原理として尊ばれますが、民衆の神礼拝(祭儀も)はおもに、もともと太陽神であったビシュヌ神(およびその化身)と、破壊と再生のシバ神(およびその化身)に捧げられるようになります。その礼拝はベーダ時代の供犠ヤジュニャ(祭火に供物を投げ入れる儀式)に代わって、神像に直接供物を捧げるプージャーと呼ばれる独自の祭儀を生み出します。この儀式は日々家庭で行われる簡素なものから、寺院や祭りで祭司が行う大規模なものまで多岐にわたりますが、ヒンドゥー教民衆の主要な宗教行事となります。
そのような祭儀で礼拝されるビシュヌ神とシバ神は、その聖文書で「純粋なバクティしか好まない。ほかのものは偽物である」と言っており、「バクティ」と呼ばれる礼拝者の純粋な信愛と帰依が求められいます。バクティとは、信じる最高の人格神に、肉親に対するような愛の情感を込めて、絶対的に帰依することであり、普通「信愛」と訳されています。このことから、ヒンドゥー教においても祭儀の様々な形式よりも、信じる者のバクティを重視する宗教改革的な運動が行われることになります。たとえば十六世紀の神秘家のチャイタニアは、「無明からの解脱を得るためには、じつは叡智はもはや必要ではなく、愛があれば足りるのである」とも言っています。バクティの対象としては、ビシュヌ神やシバ神だけでなく、女神(デーヴィー)やその女性的エネルギーであるシャクティー(性力)そのものも対象になり、そのシャクティーへの帰依がヒンドゥー教においてタントラ宗教を生み出します。
ここでヒンドゥー教全体におけるバクティの位置あるいは意義を見ておきましょう。ヒンドゥー教の目標は、宇宙の根本原理であるブラフマンと個我の魂であるアートマンの合一、すなわち梵我一如の境地に達して、輪廻(サンサーラ)と業(カルマ)の連鎖からの解放、すなわち解脱(ムクティ)を得ることです。ヒンドゥー教の基本的な聖典となったウパニシャッドは、目標としての梵我一如を掲げると同時に、人間の生の現実として輪廻と業の果てしなき連鎖を説き、それがヒンドゥー教の人生観、死生観の基本となっています(この輪廻と業の思想は仏教を通じて日本でも底流となっています)。このような輪廻と業の連鎖からの解脱に達する道として、インド民衆の聖典となって愛唱されている「バガバッド・ギータ」(前出)には三つの道が提示されています。それは「三つのヨーガ」として示されていますが、ここでヨーガというのは目標に至るための「手段、方法、道」という意味の語です。その三つの道というのは、「ジュニャーナ・ヨーガ」(知識による道)、「カルマ・ヨーガ」(行為による道)、「バクティ・ヨーガ」(信愛による道)の三つです。第一の知識による道は、聖典の教えを師の膝下に座して学び(これがウパニシャッドの原意)、思惟・反省によって疑惑を絶ち、無我の瞑想をもって梵我一如を直感するという三段階を経て到達する道です。第二の行為による道は、祭儀行為も含めて四住期の義務を誠実に行うことでなすべき義務を果たすことですが、その際その行為の果報を期待して行うのではなく、結果を動機としない、義務のための義務の行為、無償の行為、無私の行為であるべきです。これも自己否定を通して梵我一如に達する道とされます。第三の信愛による道は、「ギータ」の一句で至高者が述べているように、「実にわれに帰依せば、たとえ罪悪から生まれた婦女子・庶民・隷民たりといえども、すべて最高の帰趨(解脱)のに赴く」のです。これはヒンドゥー教史上革命的な福音であり、解脱を一握りのエリートのものから庶民万人のものにしたのです。しかし信愛の対象は人格神ですから、ヒンドゥー教では唯一無形の絶対者は衆生の救済のために、臨機応変に姿を変えて現れ(化身とか権化神)、その象徴として様々な神像としてお供えによって拝まれることになります。これら三つのヨーガは、同じ山頂を目指す三つの登山道にたとえられ、ヒンドゥー教の哲人はこの三つのヨーガを統合した「ヨーガの統合」とか「全体的ヨーガ」を理想のヨーガとして提唱、人間の力のすべてを解脱という一つの目標に向けて結集するように呼びかけています。インド人はガンディーをこのヨーガを行った理想の人として尊敬し、「マハートマー」(偉大な魂)という尊称をもって呼んでいます(後述)。
同じ十六世紀にシク教(シーク教)を興したナーナクも、ヒンドゥー教と一神教のイスラム神秘主義の両方の遺産を継承し、彼はヒンドゥーのグル(師)でありイスラムのビール(導師)とし崇められています。また体制宗教としてのヒンドゥー教とイスラム教を否定し、「わたしはヒンドゥーでもないし、ムスリムでもない」と言って、両宗教を超えたところで宗教の完成を見ています。彼はヒンドゥー教の三主神は三神一体の神であり、輪廻による苦の循環を脱する涅槃による救済の道として、神への絶対的な帰依により、この神との脱我的合一を説き、そのための道として禁欲と苦行を否定しています。彼は神の前にはみな平等であるとしてカースト制を否定、女性もグルについて学ぶことができるとしています。このシク教も、神への絶対的帰依を中心に置く宗教として、ヒンドゥー教バクティ派の一種と見られます。神に絶対的に帰依(信愛)することで、神の恩寵によって無明の闇が払われるのですから、オットーがバクティ派のヒンドゥー教とルターの信仰義認論を比較して、『インドの恩寵宗教とキリスト教』という書を書いたのも頷けます(本書T四八頁)。

インドへのキリスト教の到来

このように実に混沌とした宗教の坩堝のようなインド亜大陸にキリスト教が到来します。じつはキリスト教はすでに十二使徒の一人トマスが東方にキリストを宣べ伝えてインドに達し、インドで福音活動を進め、そこで殉教したという伝承があります。事実、インド西海岸南部のマラバール地方にトマス派のシリア教会が現存しており、そこではトマスが「インドの使徒」として崇められています。さらにカルケドン公会議で異端として退けられたネストリウス派は東方に勢力を伸ばし、ペルシャから陸路では中国に達し(前述した景教)、海路ではアラビア海を経てインド西海岸に達し、そこで活躍するシリア人たちに伝道して、トマス派のシリア教会と融合しと推察されます。十六世紀の大航海時代にスペインと競って海外に勢力を伸ばしたポルトガルは、当時ムスリム王の支配下にあったインド西海岸中部のゴア州の良港を攻略、リスボンを模してゴアを建設、そこをポルトガルの交易と伝道の根拠地とします。一五四二年にはイエズス会のザビエルが到着、ここを拠点として日本伝道を進めています(ザビエルについては本書一二一頁を参照)。天正少年遣欧使節も往路と帰路の二回、ここを訪れています。
このようにキリスト教も一世紀からインドに足跡を残してはいますが、それはごく小さい地域に限られていて、十世紀から始まったイスラムの広大な地域の支配と王朝の建設や、多くの人口のイスラムへの改宗、イスラム神秘主義のスーフィズムがヒンドゥー教に及ぼした影響(たとえばシク教の成立)という巨大な足跡と比べると、ごく断片的で小さなものにすぎません。ところでプロテスタント国のイギリスも、大航海時代には他のヨーロッパ諸国と競って海外に植民地を求め、一六〇〇年には東インド会社を設立しています。イギリスは十八世紀後半からは積極的にインド経営に着手、勢力を伸ばしていきます。一八五七年にはセポイの反乱を鎮圧、ムガル帝国の皇帝を退位させて、イギリス国王はインドの統治権を東インド会社から接収します。そして一八七七年にヴィクトリア女王がインド女帝を兼ねることになって、インドは完全にイギリスの領土となります。イギリスは産業革命以来の資本主義生産の輸出先の市場を求め、インドの土着工業を抑圧ないし破壊して、重税と束縛によって民衆を苦しめたので、次第に反英運動が盛んになり、一八五五年にはインド国民会議が設立され、日露戦争の日本の勝利も刺激となって、インド民族の独立運動が盛んになります。
インド独立に至る政治的過程に立ち入ることはできませんが、その過程でヒンドゥー教徒は南でインド連邦(バーラト)、ムスリムは北に分かれてパキスタンを形成することになります。二十世紀における二つの大戦を経て、一九五〇年にインドは完全に独立したインド連邦共和国となります。インド共和国は世俗国家として、その憲法は信教の自由を保証しています。国民は圧倒的にヒンドゥー教徒ですが、ヒンドゥー教を国教としているわけではありません。このようにインドはしばらくキリスト教国のイギリスの支配下にありましたが、その政治的統治は比較的期間が短いこともあり、めぼしいキリスト教の布教活動もなく、イギリスはインドにキリスト教を植え付けることはできませんでした。これはイスラム教のインドでの浸透と比べると多くのことを考えさせます。インドのように宗教的に高度に発達した文化をもつところでは、キリスト教という別の体制宗教を持ち込むことはできず、キリストの福音をインドに確立するためには、キリスト教という体制宗教の導入ではなく、信教の自由を拠り所にして、ヒンドゥー教体制の中で福音の告知と証言がなされなければならないのではないかと考えさせられます。福音とヒンドゥー教との関係については、独立期のインドの宗教運動が参考になりますので、最後にそれを略述してインドの項の結びとします。

現代のインドと福音

イギリスは一世紀半の統治の期間にヒンドゥー教のインドに教会を形成するなどして直接キリスト教を根づかせることはできませんでしたが、間接的にインドが福音に門戸を開くのに貢献したのではないかと考えられます。それはインドの知的階層がイギリスに留学、イギリスの近代思想と近代国家の在り方を学んで、それによってヒンドゥー教の宗教改革運動とインド独立運動を進め、インドに近代的な独立国家を形成する力となったからです。インドの独立期に指導的な役割を果たした人物はほとんど皆イギリス留学組です。インド連邦共和国は世俗国家として憲法で信教の自由を認めています。これはイギリスを含めヨーロッパ諸国が啓蒙思想によって政教分離の原則の上に近代国家を形成してきた歴史的事実の延長上にあります。イギリスは長年閉ざされていたインドの門戸を開き、多くのヒンドゥー教徒がヨーロッパの歴史、科学、政治的社会的制度、風俗習慣を知るようになり、古来の諸制度や風習の問題点(たとえばカースト制)を自覚するようになり、ヒンドゥー教の改革運動が始まることになります。一方、欧風化の流れに反発して、ヒンドゥー教古来の宗教心を取り戻そうという方向の改革も見られます。ここでインド独立に至る期間と独立後のヒンドゥー教の改革運動とその意義を見ておきましょう。
欧風化の流れに対抗し、同時に神像崇拝やカースト制というようなヒンドゥー教の陋習に反対、ウパニシャッドを基礎とする合理的な有神論を展開して、インド古来のブラフマン信仰を時代に沿ったものにしようとする改革運動、「ブラフーモ・サマージ」(ブラフマン協会)の運動がローイによって十九世紀に始められます。その会員には知識人が多く、詩人タゴールの父親もその一員としてベンガルの知識人の指導者となってヒンドゥー社会の改革を目指します。シールはインドの科学思想の推進者となり、セーンはキリスト教をヒンドゥー教徒に受け入れやすい性格のものとして説き勧めます。これらの優れた個性の影響で、このブラフーモ・サマージの運動はその後合理主義やキリスト教的な方向に分かれていきます。その中でヨーロッパの宗教思想にもっとも大きな影響を与えたものに「ラーマクリシュナ・ミッション」があります。これは十九世紀の中頃に出たヒンドゥー教の最高の神秘家の一人ラーマクリシュナの精神を受け継いで、それを内外に広める働きをしたビベーカーナンダの運動です。
ラーマクリシュナはベンガル(インド東北部のガンガー川流域の地方)の貧しいバラモン家系の出身で、幼時から神秘的体験の素質があったようです。二〇歳のころ、カーリー女神を祀る寺院の寺僧となりますが、生きた神の姿を見たいと日夜ヨーガの瞑想に励みます。彼はカルカッタ近郊のこの寺院から離れることなく、訪れる真の行者に師事して、ヒンドゥー教伝来の各種のヨーガを行じ、エクスタシーにおいてヒンドゥーの神々を直接体験する見神の体験を重ねます。ついに彼は(彼の表現によれば)「無相の実在の底なき深みに溶け入り、無分別三昧の境地」に入ります。この境地において、彼はウパニシャッドが説く絶対者ブラフマンと個我の魂アートマンの融合を体験しますが、十分な学校教育を受けず読み書きも十分でなかったラーマクリシュナは、それを誰にも理解できるたとえを用いて語るようになります。その後も彼はイスラムの神秘主義体験の行者スーフィーについてイスラムの神秘体験を重ねたり、キリスト教についても同じように理解と体験を深め、ヒンドゥー教の諸宗派も含め世界の宗教はすべて神に至る道であるとの確信に到達、宗教相対主義の理解を示しています。彼はヒンドゥー教の中でヒンドゥー教を相対化する深みに到達していると言えます。彼は教えを聞く者に自分と同じように苦行と瞑想の道に入るようなことは求めず、神に仕えようとするする者はこの現世で隣人に誠実に仕えるように説いています。
このラーマクリシュナの精神を世界に広めたのが、彼の弟子のビベーカーナンダです。彼はカルカッタの富裕な弁護士の子で、カルカッタ大学で英語による近代教育を受けています。彼は若い時にブラフーモ・サマージに触れて、同輩と一緒にラーマクリシュナの教えを聞くようになります。近代思想によってこのヒンドゥーの伝統的聖者の教えを厳しく吟味しますが、内面の欲求抑えがたく、ついにラーマクリシュナの弟子となって神秘的体験に至ります。一八八六年にラーマクリシュナは後事を彼に託して死去します。彼は兄弟弟子とはかって修道団を結成、インド各地を遍歴、一八九三年にシカゴで開催された世界宗教会議に出席し、諸宗教の協力とヒンドゥー教の卓越性を印象づける感動的な演説をして、一躍世界的著名人となり、その後帰国するまで四年間欧米の各地を巡り、重要都市にセンターをつくり、一八九七年に「ラーマクリシュナ・ミッション」を創設、翌年にはカルカッタ近郊に修道院を設立、ラーマクリシュナの精神の普及に努めます。彼は近代インドを代表する宗教家として欧米では高く評価されています。
現代のインドの宗教性とか霊性を広く世界に印象づけた人にタゴールとガンディーがいます。タゴールはベンガルのカルカッタ生まれで、父親はインド宗教の近代化に重要な役割を果たした宗教家です。彼はインド古典を学んだ後、イギリスに留学して西欧のロマン派文学にも親しんでいます。一八九〇年から十年間、父から農村の土地管理を任されて、農村文化に触れ、自然の中で全人教育を行う寄宿学校を建てて、農村改革運動を進めます。彼もブラフーモ・サマージに属していましたが、その制約を超えて文学や詩の創作活動を進め、一九一三年にその英訳詩集『ギーターンジャリ』でノーベル文学賞を受け、世界各地を訪れてロマン・ロランやアインシュタインらと交流を深め、彼のインドの神秘主義的な文学や詩集が高く評価され、現代のインド文化を代表する一人となっています。日本でもタゴールを紹介する翻訳などの活動が進められています。
ガンディーもインドの小さな藩王国の大臣の長男ですが、四年間ロンドンに留学、弁護士資格を得て一八九一年に帰国します。イギリスではキリスト教にも触れ、イエスの教えにも深く感動したようですが、彼自身は最後までヒンドゥー教徒であることを貫きます。帰国二年後にある訴訟事件の依頼で南アフリカにわたり、そこで働くインド人季節労働者の市民権獲得闘争を指導することになります。彼はその運動を「サティヤーグラハ」(真理の把握)と名づけ、その大衆的非暴力抵抗運動を成功に導きます。この二十二年にわたるアフリカでの活動が彼の人生を決定します。一九一五年の帰国後も、各地の労働争議を「アヒンサー」(非暴力)の原則を貫いて解決、第一次大戦後にはインド・ムスリムのヒラーファト運動(もともとはカリフ制に対する反対運動)も糾合して、一九一九年から第一次サティヤーグラハ闘争を指導し、反英民族運動全体の指導者として活躍します。一九三〇年にはイギリス支配の象徴である塩税に反対する非暴力の「塩の行進」に始まる第二次サティヤーグラハ運動によってインド大衆のあらゆる階層を大規模な反英政治闘争に組み入れ、ネルーが率いる国民会議派を最大の大衆的民族運動組織に成長させます。このネルーが独立後のインドの初代首相として近代国家としてのインドを率いることになりますが、ガンディー自身はなおインド社会に巣食う不可触賎民制やヒンドゥーとムスリムの対立の除去という課題に取り組みます。しかし独立に際して、最終的にインド分割を阻止できず、一九四八年に狂信的ヒンドゥー主義者の凶弾に倒れます。インド人は彼をヒンドゥー教の模範的人物として尊敬し、「マハートマー」(偉大な魂)という尊称を呈して、「マハトマ・ガンディー」と呼んでいます。

結び ― インドにおける福音

 本項ではインドの宗教史をごく簡単に通観し、イスラム教もキリスト教もインドで生まれ育ったヒンドゥー教に代わる体制宗教とはなりえず、その影響と抑圧を通してヒンドゥー教の改革と深化に貢献するだけになったことを見ました。しかしこのイスラム教とキリスト教国イギリスのインド統治によってインドが近代化し、とくに近代化したイギリスの影響によってインドが信教の自由を公式に認める近代国家となったことは、これからの福音告知の活動に大きな意義のある歴史的な出来事であると思います。すでにインドでは、ヒンドゥー教にもバクティ派の恩寵宗教の土壌ができており、またラーマクリシュナ・ミッションに見られるような現代の諸改革によって、体制宗教の相対化も理解されており、彼らの目的とする絶対者からの働きかけや語りかけを受け入れる地盤ができています。畑はよく耕されています。すでにアメリカのカリスマ的な福音伝道者の活動も伝えられています。しかしインドのような土壌に福音の種子を植えつけ根付かせるには、まだ長くて地道な福音活動が必要なのでしょう。われわれ東洋のキリスト者は、神の言葉がその内に秘める力に信頼して、蒔いた種の発芽と結実を忍耐をもって待つ農夫のように(マルコ四・二六〜二九)、福音の実がインドに豊かに結ぶように待つ忍耐が必要でしょう。性急にキリスト教という体制宗教に改宗することを願ったり期待すべきではありません。