市川喜一著作集 > 第29巻 ペトロ ― 弟子から使徒へ > 第4講

第四章 エルサレム共同体と使徒ペトロ

エルサレム共同体における使徒ペトロ

 前章で述べたように、五旬祭の日、聖霊の力に溢れたペトロの証言と勧告を聞いたエルサレムのユダヤ教徒たちは、「大いに心を刺されて」、イエスを拒否して十字架の死に至らせた罪を悔い改め、イエスをキリストと言い表すバプテスマを受け、ペトロを中心にしてイエスを信じる者たちの集まりがエルサレムに誕生したのでした。 

 この「イエスを信じる者たちの集まり」がどのような姿であったのかを、その集まりを形成した使徒たちの働きの側から描いたのが、ルカが著した「使徒言行録」という文書です。しかしルカがこれを書いたのは、おそらく一〇〇年前後であって、おそらく二世紀に入ってからのことであると見られます。この出来事から七、八十年以上が経っています。そのルカの信仰や立場から、この初期のキリスト信仰の民の集まりを描いた記事は、どうしてもルカの福音理解からの影響を避けることはできません。その影響を考慮に入れて、当時の事実を描くことは至難の試みですが、ここで新約聖書が提供する事実から判断できる限りで、最初期のエルサレム共同体の実態に迫ることを試みます。

 わたしたちはもはや当時の「イエスを信じる者たち」の姿やその言動の事実を伝える資料を直接手にすることはできないのですから、ルカが集めてこの「使徒言行録」に用いた資料を利用する以外に方法はありません。ルカの「使徒言行録」で語られている最初期の「イエスを信じる者たちの集まり」の姿を材料として使いながら、現在のわたしたちの信仰理解から最初期の「イエスを信じる者たち」の姿や歩みを描くことを試みたいと思います。

ルカ二部作(ルカ福音書と使徒言行録)の成立年代については、拙著『福音の史的展開U』402頁の第八章第一節「ルカ二部作成立の状況と経緯」を参照してください。

 なお本書はペトロの活動を描くことを主題としていますので、本章はペトロがエルサレム共同体の指導的立場で働いた時期に限定して、エルサレム共同体を描くことになります。ペトロはヘロデ王の迫害の時(使徒一二・一〜五)、奇跡的に牢獄から解放されて救出されますが、その直後、「そこを出て、ほかの所へ行った」とされます(使徒一二・六〜一七)。エルサレムを去った後のペトロの足取りはわかりませんが、最終的には帝国の首都ローマに到達したと伝承は伝えています。ヘロデ王の迫害は四四年のことですから、本章では三〇年の五旬祭の時から四四年のヘロデ王の迫害事件までの十四年間の、エルサレム共同体におけるペトロの活動を扱うことになります。

エルサレム共同体における財産の共有

 ルカもこの日のペトロの告知の結果、エルサレムの民に起こった信者たちの様子を報告しています。信者たちは「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」ので、周囲のユダヤ人たちから宗教心の厚い立派な人たちだと賞賛され、好意を寄せられていました(使徒二・四三〜四七)。その中に「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」(使徒二・四四〜四五節)という部分があります。この財産の共有は最初期のエルサレム共同体の大きな特色であり、その具体的な姿は使徒言行録四・三二〜三六に描かれています。「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく」、すべての資産は使徒たちの管理下に置かれたのでした。

 資産の共有ということができたのは、最初期のエルサレム共同体がキリストの《パルーシア》(来臨)を間近に待望していたからであると考えられます。ルカは《パルーシア》待望が衰えた時代に執筆しているので、総じてルカは最初期のエルサレム共同体が熱烈な来臨待望の共同体であったことに触れるのを避けているようです。新約聖書の文書の中で最初のものと言われるパウロの「テサロニケに信徒への手紙一」では、テサロニケの信徒たちの熱烈な《パルーシア》待望が証言されています(テサロニケT四・一三〜一八)。それよりもずっと初期のエルサレム共同体の《パルーシア》待望はそれ以下ではなかったはずです。

 このエルサレム共同体での財産共有に時に、アナニアとサフィラ夫妻が売った土地の代金をごまかして使徒たちに持ってきたのを、ペトロは見抜いて、それを神を欺く行為だと叱責します。すると二人ともペトロの足下に倒れて息絶えるという事件が伝えられています(使徒五・一〜一一)。この記事からも、最初期共同体においてペトロの権威がいかに大きく、その指導が具体的であったかが窺われます。

 しかし「財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」というエルサレム共同体は、生産や収入の面を欠き、十年、二十年後には貧窮の状態に陥ったようです。パウロは自分の福音活動で形成された大都市の異邦人共同体から、エルサレム共同体への援助の資金を集める募金活動に奔走することになります。

迫害に耐えるエルサレム共同体

 イエスが「神の国」を神の無条件の恩恵による支配として告知されたことを、ユダヤ教の原則に反するとしてイエスを取り除くことを画策し実行したユダヤ教指導層は、そのイエスの名によって生まれながら足の不自由な男を立って歩かせるなど、イエスと同じような力ある働きなし(使徒三・一〜一〇)、復活されたイエスはやがてイスラエルの救済者メシアとして来てくださるのだと告知して(使徒三・一一〜二六のペトロの神殿説教)、ますます多くのユダヤ教徒を集める使徒たちを放置することができず、使徒たちを代表して民に語りかけるペトロとヨハネを逮捕して牢に閉じ込めます(使徒四・一〜四)。

 次の日に開かれた最高法院で「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」という尋問に対して、ペトロが大胆に答えます、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使徒四・一九〜二〇)。生まれながら不自由な足を癒やされた人がそばに立っているのですから、議員たちは二人を処罰することはできず、イエスの名によって活動しないように厳しく命じて釈放します。

 使徒たちのイエスをキリストと宣べ伝える活動は著しく、「人々は病人を大道りに運び出して、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした」ほどでした(使徒五・一二〜一六)。しかし、この状況に直面した「大祭司と仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた」という事態になります(使徒五・一七〜一八)。「ところが夜中に主の天使が牢の戸を開け」、使徒たちを解放し、「この命の言葉を残らず民衆に告げる」ように命じます(使徒五・一九〜二〇)。

 牢から奇跡的に解放された使徒たちは神殿の境内で、神殿に集まるユダヤ教徒にイエスを信ずべきことを語り始めますが、それを聞いた大祭司は守衛長とその部下を派遣して、使徒たちを逮捕させ、使徒たちを最高法院に引き立て尋問します(使徒五・二一〜二八)。それに対してここでもペトロがほかの使徒たちを代表して答えています、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒五・二九〜三二)。

 これを聞いた最高法院の議員たちは「激しく怒り、使徒たちを殺そうと考え」ます(使徒五・三三)。その時、ファリサイ派の碩学ガマリエルが立って、テウダやガリラヤのユダの実例をあげて、「あの者たち(使徒たち)から手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものであれば、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者になるかもしれないのだ」と勧告します。この勧告を受けた最高法院は使徒たちを鞭で打ち、イエスの名で語ることを厳しく禁じて釈放します(使徒五・三三〜四二)。

 このように最初期のエルサレム共同体は時のユダヤ教指導部から激しい迫害を受けるのですが、それに耐えてイエスをキリストと告白する信仰によって結束、その信仰を貫きます。そのさいペトロは、その共同体を代表する使徒として苦難に耐え、その使命を貫きます。

「ヘレーニスタイ」の分離

   エルサレム共同体のユダヤ人信徒たちはユダヤ教の枠の中でイエスを信じる者、すなわちイエス派ユダヤ教徒であったわけです。ところがその中にユダヤ教の根幹であるモーセ律法を忠実に順守しない傾向の信徒が出てきて、モーセ律法順守派の信徒と対立するようになります。そのような状況が使徒言行録の六章の記事にうかがわれます。ルカはこう記しています。「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。『わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。』一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカルノ、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた」(使徒六・一〜六)。

 エルサレムは二言語都市です。エルサレムはイスラエルの民というユダヤ教徒の中心都市ですから土地の言語であるアラム語が用いられているのは当然ですが、ヘレニズム時代の世界的都市として当時の共通語であるギリシア語も広く用いられていました。従って使用言語の違いから、ユダヤ教会堂にもアラム語を用いる会堂とギリシア語を用いる会堂があったわけです。ルカはここで《ヘレーニスタイ》(ギリシア語を話すユダヤ人)と《ヘブライオイ》(ヘブライ語を話すユダヤ人)という語を用いて、このユダヤ人信徒の中の区分を表現しています。

 イエスを信じたユダヤ人信者は一つの共同体を形成し、財産も共有して生活していたのですから、使用言語の違いから日々の生活で意思の疎通を欠くことも出てくるの避けられません。当時のエルサレムの人口比はイスラエル人が九割、ギリシア系住民が一割と言われており、《ヘブライオイ》が多数を占めていました。単純にこの割合で考えると、エルサレム共同体も《ヘブライオイ》が圧倒的に多く、《ヘレーニスタイ》は少数派ということになります。ペトロや十二使徒も《ヘブライオイ》なのですから、使用言語の違いもあって、《ヘレーニスタイ》は自分たちの状況が指導部の十二使徒たちに十分通じていないのではないかという心配をしなければなりませんでした。それがあるとき、食事に関する「日々の分配のことで」出た苦情が使徒たちの耳に入ります。

 そこで使徒たちは全員を集めて、自分たちは祈りと神の言葉に仕えることに専念することができるように、他に七人を選びその仕事を任せるように提案します。この提案は受け入れられて七人が選ばれますが、その名前は皆ギリシア語名であって、この出来事は《ヘブライオイ》の十二使徒が指導する《ヘブライオイ》の信徒集団と、ステファノら七人が指導する《ヘレーニスタイ》のグループが別の指導体制下に入り、エルサレム共同体は二つのグループに分離したことを意味します。事実、使徒言行録にはこの七人が食事のことなどエルサレム共同体の日常生活の世話をしたという記事は一切なく、むしろステファノやフィリポなどの活発な福音活動が語られることになります。     《ヘレーニスタイ》については、M・ヘンゲル『イエスとパウロの間』(土岐健治訳・教文館)の31頁以下と71頁以下の第一章の「補遺」を参照してください。

ステファノの殉教

 この七人の《ヘレーニスタイ》指導者の代表的な人物ステファノについて、ルカは使徒言行録で六章から七章という例外的に大きな部分を割いて、詳しくその人物と殉教の経緯を描いています。ステファノは「恵みと力に満ち、すばらしい不思議なわざとしるしを民衆の間で行っていた」ので、「リベルテン(解放された奴隷)の会堂」に所属する者たちやキリキア州やアジア州出身のユダヤ人会堂の者たちが論争を仕掛けますが、「知恵と御霊によって語る」ステファノに歯が立ちません。それで民衆を扇動してステファノを捕らえ、神殿冒?と律法批判の罪で司法権(裁判権)もある会堂に訴えます(使徒六・八〜一五)。

 会堂での裁判でステファノは、アブラハムの時から説き起こし、主の民イスラエルがいつも「聖霊に逆らう」民であり、「正しい方が来られることを預言した人々を殺しました」と堂々たる弁論を展開します。その弁論はイスラエルの救済者である義人イエスを殺した罪を告発して、イスラエルに悔い改めを迫る厳しい弁論でした。それを聞いた者たちは激しく怒り、ステファノを都の外に引きずり出して石を投げ、打ち殺してしまいます(使徒七章)。

 ところが、このステファノの殉教の影響を語る部分(使徒八・一〜三)に不思議な記述があります。「その日、エルサレムの教会(共同体)に対して大迫害が起こり、使徒たちの他は皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」とありますが、これは宗教団体に対する弾圧や迫害はます指導者を標的にするものですから、指導者である使徒たちは弾圧されずエルサレムに残ったという記事は奇妙に聞こえます。しかしこの迫害が《ヘレーニスタイ》の会堂での出来事であることを理解すれば、この記事の奇妙さ、不自然さは解消されます。使徒たちは皆《ヘブライオイ》ですから、使徒たちとその指導下にある《ヘブライオイ》の共同体には迫害は及ばず、迫害の圏外にいて、彼らはエルサレムに残ったことになります。なお、この箇所で使徒言行録の後半の立役者パウロが初めて舞台に登場するのですが、本書では使徒ペトロのその後の歩みだけをたどることになります。

フィリポの福音活動

 《ヘレーニスタイ》の指導的七名の二番目に名があげられているフィリポの福音活動が、使徒言行録の八章(四節以下)に伝えられています。最初にサマリアで福音を伝え大きな成果を上げたことが語られます。フィリポはサマリアで「神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせ」、多くの人を信仰に導きバプテスマを施します。しかし聖霊はまだだれの上にも降っていなかったのです。それで、サマリアの人たちが神の言葉である福音を受け入れたことを聞いたエルサレム共同体は、ペトロとヨハネをサマリアに行かせます。二人がサマリアに来て、イエスを信じた人の上に手を置いて祈ると、その人たちは聖霊を受けます。こうして「神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせる」神の言葉は、それを信じる者が聖霊を受けて、聖霊によって歩むときにはじめて実体(リアリティー)になることが、この最初期の伝道活動においてすでに示されているのです。

 ここでサマリアで評判の高い宗教家シモンとの対決が起こります。シモンもフィリポの伝える福音を信じてバプテスマを受けるのですが、ペトロとヨハネが手を置いて祈ると信者に聖霊が降るのを見て、自分にもそのような力を授けてもらいたいと金を差し出します。これに対してペトロは「神の賜物を金で手に入れようとする」シモンを厳しく叱責します。こうしてシモンは霊的権威とか力を金で買おうとする「シモニー」(聖職売買)の原型となります。

 フィリポは天使の指示でサマリアからガザに下る道を行く途中、馬車の中で預言者イザヤの書を読んでいるエチオピアの高官に出会い、そのイザヤの預言の意味を尋ねる高官に、それはイエスを指していることを教え、その高官を信仰に導きます。途中水のあるところにさしかかり、その高官にバプテスマを授けます。彼は国に帰り、エチオピアにイエス・キリストの福音を広め、エチオピアを世界最初のキリスト教国としたという後日物語の端緒になる出来事が伝えられています。フィリポはその後地中海沿岸の町アゾトに出て、そこから北上して沿岸の諸都市で福音を伝え、ついにシリアの州都である大都市カイサリアに達します。その後の記事によると、フィリポはこのシリアの中心地カイサリアに定住、ここに腰を据えて福音活動を進めたようです。

ペトロ、カイサリアへ

 使徒という身分は本来、自分が受けたキリストの福音を世界の各地に告知することを使命とするのですから、使徒ペトロもエルサレムに留まることなく近隣の各地に福音を宣べ伝える旅に出かけます。その旅が使徒言行録九章の三二節から簡潔に語られています。まずエルサレムから西に海に出た所にあるリダで福音を伝え、そこの「聖なる者たち」を励まします。たぶん先にガザから北上して沿岸諸都市に福音を宣べ伝えたフィリポの働きによって、ガザから北にあるリダにもイエス・キリストを信じて神の民に属する「聖なる者たち」がいたのでしょう。その一人でアイネアという八年も床についていた病人を、ペトロがイエス・キリストの名によって立ち上がらせるという奇蹟が起こります。それを見てリダと近くのシャロンの人の多くが主イエス・キリストを信じるようになります(使徒九・三二〜三五)。

 ペトロはさらに北上してヤッファという町に到着します(ヤッファは現在のテルアビブの一地区)。そこにタビタという名の婦人がいましたが、ペトロ到着の少し前に病気で亡くなります。ペトロが町に来ていることを聞き及んだ知り合いの寡婦たちが、ペトロにすぐに来るように頼み、ペトロは遺体が置かれている階上の部屋に案内されます。寡婦たちはドルカス(カモシカという意味のタビタの愛称)が作ってくれた衣類などを見せて、亡くなったタビタの優しさを泣きながら訴えます。そこで皆を外に出して、ペトロが跪いて祈り、遺体に向かって「タビタよ、起きなさい」と言うと、タビタは目を開き生き返ります(使徒九・三六〜四一)。

 ペトロはイエスがなされたと同じような驚くべき働きを見せたので、このことがヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主イエス・キリストを信じるようになります。こうして信仰に入った多くの人たちに引き留められて、ペトロはしばらくヤッファに留まり、イエスのことを語り、福音を告げ知らせる働きを続けたものと考えられます。それは「ペトロはしばらくの間、ヤッファで皮なめし職人のシモンという人の家に滞在した」というルカの報告からもわかります(使徒九・四二)。そしてペトロがこのヤッファでシモンにの家に滞在しているときに、次の項で見るように重大な意味のある出来事が起こるのです。

ペトロと一緒にサマリアに派遣されたヨハネの名は、サマリアでペトロと一緒に行動していることが報告された後には一切出てきません。おそらくヨハネはサマリアからエルサレムに戻り、沿岸地方の旅はペトロだけが(あるいはヨハネ以外の同行者と)行ったと推察されます。

コルネリウスに聖霊が降る

 ペトロがヤッファで皮なめし職人シモンの家に滞在しているときに、カイサリヤに駐在するローマ軍部隊「イタリア隊」の百人隊長コルネリウスからの使いの者がペトロのもとに来ます。このコルネリウスというローマ軍人は異邦人(異教徒)ですが、イスラエルの神を信じて祈り、ユダヤ人のために多くの施しをするなど、神を畏れる敬虔な人物でした。しかし割礼を受けるには至らず、ユダヤ教の周辺で「神を敬う者」として信仰生活をする「信仰心あつい」人でした。このコルネリウスが神に祈っているとき、幻の中で天使を見て、ヤッファの皮なめし職人シモンの家にいるペトロを招くようにお告げを受けます(使徒一〇・一〜八)。

 一方、コルネリウスの使いがヤッファの近くまで来た頃、祈っているペトロに幻による啓示が与えられます。ペトロが祈りの中で忘我の境地に入ったとき、大きな布のような入れ物が天からつり下ろされてきて、その中にあらゆる種類の獣や鳥が入っていて、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」という声を聞きます。ユダヤ教徒にとっては、食べてもよい「清いもの」と食べてはいけない「汚れたもの」(たとえば豚)は、律法に規定されていて厳しく順守されていました。ペトロは驚いて、「主よ、そんなことは絶対にできません。わたしは汚れたもの何一つ食べたことはありません」と拒否します。それに対して天からの声は、「神が清いとされるものを、清くないと言ってはならない」という声が反ってきます。このことが三度まで繰り返し起こります(使徒一〇・九〜一六)。

 翌日、ペトロは使いの者たちと出かけてカイサリアに到着、コルネリウスは親族や友人を集めてペトロを神からの使者として迎え、「足もとにひれ伏して拝み」ます(使徒一〇・二三〜三三)。そこでペトロはコルネリウスの家に集まった一同に、イエスの働きとその十字架の死と復活の出来事を語り、このイエスを信じて、罪の赦しにあずかり、来たるべき神の裁きに備えるべきことを説きます(使徒一〇・三四〜四三)。すると、ペトロがこれらのことをなおも話し続けているとき、「御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った」という驚くべきことが起こります。この事実が驚くべきことであるのは、異邦人(異教徒)が「異言を話し、神を賛美している」のを同行のユダヤ人たちが聞いたからです。この出来事はとくに割礼を受けている信者にとって大きな驚きでした。彼らにとって割礼を受けていない異教徒(非ユダヤ教徒)が神の契約の民に加わるのは考えられなかったのです。しかしペトロはこの聖霊の働きの事実を見て、彼らに水のバプテスマを施し、正式に彼ら無割礼の者が神の民であることを認めます(使徒一〇・四四〜四八)。

ペトロ、エルサレムを去る

 サマリアやリダとかヤッファ、カイサリアなどの沿岸諸都市で福音を宣べ伝える活動をしてエルサレムに帰還したペトロは、(おそらくペトロにとっては)思いがけない事態に直面します。割礼を受けている者たち(エルサレム共同体は割礼を受けている者たちの共同体です)が彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言って、ペトロにその律法違反の行為について説明を求めたのです(使徒一一・一〜三)。その批判と非難に対して、ペトロはコルネリウスの家でのことを「順序正しく」説明し、「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか」と言って、それが神からであることを強調して答えています(使徒一一・四〜一八)。

 実はこの頃、エルサレム共同体はイエスの兄弟ヤコブの権威と指導下にありました。その指導態勢の交代がいつ頃起こったのかは特定できませんが、ユダヤ教徒の共同体は長老会議の指導下にあることが普通でしたから、エルサレム共同体もユダヤ教徒の共同体として自然に、その共同体で古参の経験豊かな長老に指導を委ねていました。ペトロをはじめ使徒たちはその使命から各地を転々と旅して福音を伝える者ですから、エルサレムに定住して共同体を代表して指導する役目は長老たちに委ねられることになります。その長老たちの中でイエスの兄弟ヤコブは、イエスの兄弟であるという血統と、「義人」という通称(ニツクネーム)が示すように律法熱心で周囲のファリサイ派ユダヤ教徒からも評判高い人として、自然にエルサレム共同体を代表する人物となっていたようです。

この「イエスの兄弟ヤコブ」については、拙著『福音の史的展開T』246頁以下の第三章第一節「エルサ    レム共同体と主の兄弟ヤコブ」を参照してください。

 ペトロがサマリアや沿岸の諸都市を巡回してエルサレムに帰ってきた頃の状況を。ルカは使徒言行録の一二章で語っています。そのころローマの属州であったイスラエルは、実際の政治ではヘロデ大王の孫ヘロデ・アグリッパ一世(在位三七〜四四年)の支配下にありました。このヘロデ王はローマ皇帝たちと交流が深く、クラウデウス帝からは厚遇されて祖父のヘロデ大王と同じ版図の領地を認められていました。彼はファリサイ派に迎合してエルサレム共同体を迫害、口実を設けてその指導者の一人、ゼベダイの子ヤコブを逮捕・処刑します。それがユダヤ人に喜ばれたので、さらにペトロを逮捕して牢に入れます(使徒一二・一〜五)。

 エルサレム共同体の信徒たちは熱心にペトロのために祈っていました。すると裁判の日の前夜、天使が現れ、牢獄の厳重な監視の下にあるペトロを救い出すという奇蹟が起こります。天来の不思議な力によって死の獄舎から救い出されたペトロは、そのころ住まいとしていたマルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家にたどり着き、門の戸をたたきます。取り次ぎに出た女中は、喜びのあまり門も開けないで家の中の人たちに、ペトロが門の前に来ていると告げますが、家の中の人たちは信じることができず、女中は気が変になったのだなどと言って取り合いません。しかし女中が言い張るので、彼らが戸を開けてみると、そこにペトロがいたのです。驚き騒ぐ彼らをペトロは手で制して、主が自分をヘロデの牢から連れ出してくださった次第を語り、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言って、「そこを出てほかの所へ行った」と伝えられています(使徒一二・五〜一七)。

 ルカが伝えるこのペトロ救出の物語から、エルサレム共同体がヘロデ王の時代に存亡の危機にさらされていたことを知ります。おそらくほかの使徒たちもエルサレムにはおれなくなって出て行ったので、エルサレムには使徒はいなくなります。それまでもユダヤ人の共同体であるエルサレム共同体は、ユダヤ人の集団の通例に従い長老団の指導の下にありましたので、それまで使徒たちと長老たちの指導下にあったエルサレム共同体は、この頃には長老たちの指導、とくに長老たちの代表格の「イエスの兄弟ヤコブ」の指導下にあったようです。

 ここでペトロがエルサレム共同体を代表する使徒として活動した時代は終わり、使徒としてのペトロの生涯は次の段階に入ります。使徒ペトロがエルサレムで活躍した時代は、ヘロデ王の迫害は四四年の王の突然の死(使徒一二・二〇〜二三)の直前ですから、三〇年のペンテコステの日の最初の証言から十四年ほど続いたことになります。

新約聖書でペトロの名が繰り返し現れるのはこの使徒言行録一二章までであって、後は使徒言行録一五章の「使徒会議」の場面で一回出てくるだけです(使徒一五・七)。その後では一度も出てきません。新約聖書ではこの後ペトロは舞台から消えています。もし新約聖書の範囲内で「エルサレムでの使徒ペトロ」の姿を描くのであれば、ペトロに関する記述は使徒言行録一二章で終わらなければなりません。しかし歴史的に確かな伝承では、その後ペトロはローマに来て、そこで殉教したとされています。それに新約聖書正典に含まれている「ペトロの第一の手紙」はローマで執筆されたとされますので、ペトロはローマに来て、しばらくローマで活動、そこで殉教したという伝承の枠でペトロの最後を語ることになりますが、本   書は新約聖書の範囲内の記述に止めます。「ペトロの第一の手紙」については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』301頁以下の「第六章 寄留の民の苦難と希望」を参照してください。

エルサレム会議での使徒ペトロ

 ヘロデ・アグリッパ王の弾圧の後エルサレムを離れたペトロは、その後各地を旅を続け、イエス・キリストの福音を告げ知らせる働きをつづけ、ついにローマ帝国の首都ローマに至ったようです。しかしその間のペトロの旅の経路や日程については、確実なことはわかりません。使徒言行録はその後半でパウロの働きに集中しており、ペトロは先の項で取り上げたようにエルサレムを去って以後、ここで取り上げるエルサレム会議以外はその名が出てきません。

 このエルサレム会議は異邦人信徒の割礼問題について、アンティオキア共同体に起こった問題に対処するための会議ですから、アンティオキア共同体を代表して参加したバルナバやパウロたちと、エルサレム共同体のユダヤ人長老たちとの間の激しい論争になります。エルサレム共同体のユダヤ人長老たち、とくにファリサイ派から信者になった数名が立って、イエスを信じた異邦人信徒もイスラエルと契約を結ばれた神との契約に入るためには、契約のしるしである割礼を受けなければならないと主張します(使徒一五・一〜五)。

アンティオキア共同体の成立については、拙著『福音の史的展開T』226頁の「U アンティオキア共同体の成立」を参照してください。アンティオキア共同体を代表してバルナバと共にこのエルサレム会議に参加して、異邦人信者には割礼は必要でないことを強く主張したパウロについては、同じ『福音の史的展開T』208頁の「T パウロの回心」を参照してください。なおこのエルサレム会議の年代やその会議の意義などについての詳細は、同書の327頁以下の第三章第三節「エルサレム会議とその前後」を参照してください。本書ではこのエルサレム会議においてペトロが果たした役割を語ることに限定します。

 ここでルカは「使徒たちと長老たちは、この問題について協議をするために集まった。議論を重ねた後、ペトロが立って言った」とし、その会議の場でペトロが、コルネリウスの家で体験した聖霊の働きに基づいて、異邦人信者に割礼を施す必要が無いことを主張したと伝えています(使徒一五・六〜一一)。このペトロの体験に基づく証言を聞いた会議の場は全体が静かになり、アンティオキアの共同体から送り出されてアナトリアの諸都市に福音を伝えたバルナバとパウロの報告に耳を傾けます。

 この会議の場でのペトロの証言が、最初期の福音活動の歴史においてその方向を決定するのに重要な契機になったのですから、ルカがこのコルネリウスの家での出来事を重視して、五旬祭の日の聖霊の傾注の記事よりも大きなスペースを割いて報告しているのも理解できます。この決定的な神の働きの証言を聞いて会議の大勢も決まったと判断したのでしょう、議長役のヤコブが「わたしはこう判断します」と言って、聖書の預言(アモス書九・一一〜一二)も引用して会議の決定を宣言します(使徒一五・一二〜二一)。

 この会議の決定をアンティオキア共同体に伝えるために、ユダとシラスの二名を選んで会議の決定を手紙にして届けます。その手紙は、「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶します」という言葉で始まり、異邦人がユダヤ教徒と一つの共同体を形成するために順守してほしいことを「偶像に捧げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いを避けること」という最小限の四項目にまとめ、「その必要な事柄以外、一切(無割礼の異邦人である)あなたがたに重荷を負わせないことに決めました」、すなわち割礼などのユダヤ教の要求は求めないと書いています(使徒一五・二三〜二九)。

 このエルサレム会議でヤコブが果たしている議長の役割からも、この時期には「イエスの兄弟ヤコブ」がエルサレム共同体を代表しており、従って七〇年のエルサレム神殿崩壊までの最初期の福音運動全体の中心にいたことがわかります。

使徒ペトロのローマでの殉教死について

 新約聖書がペトロについて記述しているのはここまでです。従ってそれ以後のペトロの行動やペトロに関する出来事や状況などは、新約聖書以外の文書や伝承、言い伝えによって語ることになります。そのような伝承の中にも歴史的に確実とみられるものもありますので、そのような伝承に基づいて構成された物語が広く伝えられています。

 そのような確実視されている伝承で広く受け入れられて伝えられているのは、ペトロは各地で伝道活動をした後、ローマに到着、そこでしばらく滞在し活動した後、ネロ帝のキリスト教徒迫害のときに殉教の死を遂げたという伝承です。新約聖書の中にある「ペトロの第一の手紙」はローマで書かれたという主張は広く受け入れられています。しかしペトロのローマ到着と滞在、ローマでの殉教死は、新約聖書の証言に含まれるものではないので、新約聖書での証言に基づいて語る本書ではここまでにします。ローマで書かれたという「ペトロの第一の手紙」については、その手紙の成立についての様々の議論を見ていただくことにして、ペトロの活動の歴史的事実を新約聖書の証言の範囲内で語る本書では触れないことになります。

「ペトロの第一の手紙」については拙著『パウロ以後のキリストの福音』の第六章「寄留の民の苦難と希望」を参照してください。

ペトロに関する歴史的諸問題については、クルマン『ペトロー弟子・使徒・殉教者』(荒井献訳・新教出版社)の「第一部 歴史的問題」を参照してください。