市川喜一著作集 > 第29巻 ペトロ ― 弟子から使徒へ > 第3講

第三章 エルサレムでの最初の証言

エルサレム到着

 ガリラヤからエルサレムに到着したペトロたちの一行は、とりあえずイエスが最後の日を過ごされた家に泊まったことでしょう。この家はイエスが弟子たちと一緒に「最後の晩餐」の集まりをした家であろうと推察されます。その家はエルサレムの南西地区にあり、エルサレム城壁の南西角のあたりにあるエッセネ門の近くになります。  

最後の晩餐が行われた家については、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』361頁「過越の食事の準備」の項を参照してください。

 イエスはガリラヤで病人を癒やし神の国の福音を宣べ伝える働きを進めておられた時も、大祭の度ごとにエルサレムに上り、その近辺の地域でも活動をしておられたので、エルサレムを中心とするユダヤの地域にも、イエスを信じる者がかなりいました。それでイエスは、最後のエルサレム入りのとき、過越の食事をする部屋を準備するために弟子にこう命じておられます、「都のあの人のところに行って、こう言いなさい」。といういことは、イエスが「都のあの人」と言えば誰を指しているのか、弟子たちは了解していたということです。弟子たちはイエスが命じられたとおり「あの人」の家に行って過越の食事を準備します(マタイ二六・一七〜一九)。

 ガリラヤの弟子たちが大変な決意で移住しようとしてエルサレムにきた時、最初に泊まった家はこの家であったことはごく自然なことです。その時その家の二階の部屋に集まって熱心に祈った人たちの名前が上げられています(使徒一・一三〜一四)。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子のユダの十一名(イエスが生前選ばれた弟子でイスカリオテのユダを除く十一名、マルコ三・一三〜一九参照)と、イエスの母マリヤ、イエスの兄弟たち(二〜四名)、そしてガリラヤでイエスの働きに協力した数人の女性たちです。それは二十名足らずの小さな集団でした。

 ところがそれに続く次の段落(使徒一・一五〜二六)では、百二十人ほどの人々の集まりでペトロがその中に立ち、イエスを裏切って仲間から脱落したユダの代わりに使徒の務めを継がせる者をくじで決めています。この百二十人という人数は、おそらくイエスのユダヤ地方の活動でイエスを信じるようになっていたエルサレムの人たちでしょう。この記事からも、エルサレムに移住してきた人たちの中でペトロが指導的な立場であったことがうかがわれます。

パルーシア待望の日々

 ペトロたちがガリラヤから危険を承知でエルサレムに戻ってきたのは、復活されたイエスが栄光の中にこの世界に来臨されて神の国を完成されるのを待つためでした。復活されたイエスは天に昇り、いまや栄光の神の御座の右に座しておられます。このように栄光の座に座しておられるイエスは、やがて神の定められた時に、この世界を支配する権威と力をもって、この世界に来臨されます。イエスも弟子たちに語っておられました。終わりの時には大きな苦難が世に臨むが、その苦難の後、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見ることになると予告しておられました(マルコ福音書一三章)。

 このような栄光のキリストの来臨を、初代のキリスト信仰者は「キリストの来臨《パルーシア》」と呼びました。ユダヤ人、すなわちユダヤ教徒のキリスト信仰の者たちは、栄光のキリストが世界に臨み、その栄光を現されるのは当然エルサレムにおいてであると信じていました。ペトロたちの一行が危険を顧みずエルサレムに向かったのは、ガリラヤで出会った復活者イエスの栄光の来臨《パルーシア》をエルサレムで待つためであった、とわたしは理解しています。

 ルカは受難後のイエスについてこう書いています。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(使徒一・三)。わたしは先に(第三章で)述べたように、ペトロはイエスの受難の後、失意の中でガリラヤに帰り、漁師の生業に戻っていました。そこでガリラヤの湖畔や湖上で復活されたイエスと出会い、復活者イエスへの信仰をもって立ち直り、それを証言すべくエルサレムに戻ってきたのです。このガリラヤでの日々は、イエスの十字架死の翌日の過越祭から五十日目の五旬祭より少し短い期間になるのですから、ルカが「四十日にわたって彼らに現れ」と書いている四十日とほぼ合致します。

 ルカは彼のエルサレム中心主義からか、あるいは出来事のから五〇年以上も経った後に著作したためか、イエスの受難後の弟子たちのガリラヤ行きには触れることなく、イエスの受難後は弟子たちがエルサレムに留まっていたと伝え、それをイエスの命令によるものとしています(使徒一・四)。しかしわたしは先に見たように、イエス受難後ペトロはガリラヤに戻り、そこで復活されたイエスに出会ったと考えています。マルコ福音書はそう推察させますが、この方がルカのまとめよりもイエス受難後の弟子たちの行動の史実に近いと考えます。

五旬祭の日の出来事

 ペトロたちがガリラヤからエルサレムに戻ってきて数日後、五旬祭(五〇という意味のギリシア語で《ペーンテコステ》とも呼ばれています)の日が来ます。その日にもペトロたちの一行は泊まっていた部屋で心を合わせ、一体となって懸命に祈っていてことでしょう。すると突然不思議なことが起こります。ペトロたちはすでに復活されたイエスにお会いしています。神はその長い歴史の中でイスラエルの民に約束してこられた終わりの日の救済の業をついに成し遂げられたのです。この復活されたイエスによって成し遂げられたのです。このことを思って、ペトロたちは神の大いなる御業を賛美していたことでしょう。するとその賛美の祈りが火のように自分の魂の中で燃え、もはや祈りが自分の祈りではなく、内から燃え上がる炎となってほとばしり出て、上からの大いなる力に突き動かされて、神を賛美しだします。一人ひとりはそのような状態で、もはや自分の祈りではなく、内からあふれ出る賛美で祈っているのですが、全員の祈りが渾然一体となって神への賛美の叫びになって、付近にとどろき響きます。

 その大きな物音を聞いた周囲の人たちが驚いて周りに集まってきて、ガリラヤから来た一団の人たちがそれぞれ「ほかの国の言葉」で叫ぶように賛美の祈りを捧げているのを聞いて驚きます。不思議なことに、その一団の人たちの各人が祈っている言葉が、ガリラヤ人の日常語であるアラム語ではなく、周囲に集まってきた人たちの母国語だったのです。集まってきた人々はめいめい自分の母語で彼らが祈っているのを聞くのです。この五旬祭の日の不思議な現象は、ルカによって使徒言行録二章(一〜一三節)に書きとどめられています。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

(使徒二・一〜四)


 この時祈る人々の一団の周囲に、エルサレム周辺のあらゆる国や地域に住むユダヤ教徒が、ユダヤ教の三大巡礼祭の一つである五旬祭に参加するためにエルサレムに集まっていました。異なる言語の様々な国や地域から来ていた周囲の人たちは、彼らが様々言葉で祈るその一団の人たちの祈りに、自分の母語を聞いて驚くのです(使徒二・五〜一一)。この状況を現代に置き換えてみると、たとえば日本語しか話せない日本人の集会で一同が祈っているとき、その祈りが英語やフランス語、あるいはインドネシア語や中国語、あるいはどこの国の言葉かわからないような外国語になっていて、その時周囲に居合わせた人たちの中に英語を話す人は英語の祈りを、中国語を話す人は中国語の祈りを聞き分け理解するというような現象です。

 このような現象は二千年ほど前のエルサレムの五旬祭の日に起こっただけでなく、現代でも世界の各地で熱心なキリスト教徒が集まって祈る場では起こっていることなのです。このように聖霊によって祈る祈りが、「ほかの国々の言葉」、祈る人の母語でない言葉の祈りになるとき、それを「異言」と言いますが、この異言現象は最初期のキリストの民には普通のことであり、パウロの書簡にもそのように扱われて出てきます。たとえばコリント第一書簡の十二章から十四章の大きな区分で、パウロはこのような聖霊の賜物について詳しく語っています。異言もその中の一つで、これはこの五旬祭の時に始まった新しい霊の賜物となります。

ペトロの最初の福音告知

 ペトロたちの祈る一団の周囲に集まり、彼らの異言の燃えるような祈りに驚いた人々は、「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているいるのだ」などと言って嘲ります。そのような嘲笑に対して、ペトロが他の弟子たちを代表して立ち上がり、声を張り上げて語り出します。その時のペトロの言葉が、ルカによって要約されて使徒言行録の二章に伝えられています(使徒二・一四〜三六)。

 立ち上がったペトロは最初に、酔っているのだという人たちの言葉に対して、今は朝の九時だから酔っているのではないと反論して、これは預言者ヨエルの預言が成就している事態であるとして、そのヨエル書(三・一〜五)の預言を引用します(一四〜二一節)。

神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。
わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。
上では天に不思議な業を、下では地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙がそれだ。
主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。
主の名を呼び求める者は皆、救われる。

 このことが今目の前で起こっているのだと宣言した上で、「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください」と言って、イエスの出来事が神がその終わりの日に成し遂げてくださった救いの業であることを告げ知らせます。ペトロはこのように告げ知らせます。

「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」。

   

(使徒二・二二〜二四)


 こう言ってイエスの十字架と復活の事実を告げ知らせた上で、その出来事が聖書(イスラエルの民の聖書、旧約聖書)に書かれている通りに起こったことだということを示すために、イスラエルの民が来たるべきメシアの原型として敬愛しているダビデの実例やその預言を引用します(同二五〜二八節)。そして、そのダビデがキリストについて「彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない」(詩編一六編八〜一一節)と語ったのは、キリストの復活を前もって知っていたからだとします。このように、ダビデは預言者として、また来たるべきキリストの原型として語りましたが、その預言の通りに神はイエスを復活させたのだとペトロは語り、自分たちはその事実に出会った証人として立っているのだと語ります(同二九〜三二節)。

 そして最後に「あなたがたが今見聞きしている」この不思議な現象(ペトロたちの異言の祈りの現象)は、イエスが神の右に上げられ、約束されていた聖霊を父なる神から受けて注いでくださったという出来事なのですと言って、再びダビデの詩編(一六編一〇節)の言葉を引用して、聖書(旧約聖書)を神の言葉と信じているユダヤ教徒にアピール、そして最後にこう言って締めくくります(同三三〜三六節)。

「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主《キュリオス》とし、またメシア《クリストス》となさったのです」。

(同三六節 私訳)


本節の最後の文で説明のために用いた《キュリオス》と《クリストス》というギリシア語については、拙著『福音の史的展開T』111頁の「補注ーメシアかキリストか」を参照してください。

エルサレム共同体の成立

 このペトロの告知を聞いたエルサレムのユダヤ教徒は「大いに心を打たれ」、ペトロに「わたしたちはどうしたらよいのですか」と訊ねます。それに対してペトロはこう答えています。

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」。

(使徒二・三七〜三九)


 これは、五旬祭の日にペトロが周囲に集まったユダヤ教徒に説いた言葉が記録されていて、ルカがそれを用いて書いたものというよりは、キリストを信じる者の共同体がずっと告知してきた福音を、その共同体が発足した時からの告知としてルカがまとめてここに置いたものと見てよいでしょう。ここエルサレムに集まってきたユダヤ教徒の多くは、すでに洗礼者ヨハネから罪の赦しのバプテスマは受けています。イエスはユダヤ教徒に対するその宣教活動において、「バプテスマを受けよ」とは言っておられません。ペトロはここでそのユダヤ教徒に向かって「イエス・キリストの名によって」バプテスマを受けるように求めています。それはナザレのイエスをキリストと信じて告白し、そのキリストであるイエスに身を委ねることを表明する行為としてバプテスマを受けることを意味しています。

 ペトロは「悔い改めなさい。イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい」と言っています。ここで神から赦されなければならない罪とは何でしょうか。それはイエスを拒否して、イエスを十字架につけたというイスラエルの罪です。イエスを信じなかった者、イエスを拒否した者はそういう行為に荷担したのです。確かにここでは「罪」は複数形で語られています。しかしそれは「罪の赦し」という慣用句における用例がここに出てきたからであって、ペトロがこの日に「罪」と言ったのは、神が遣わされたイエスを拒否して十字架の死に至らせた罪を指していると理解すべきです。ペトロは「(この方を)あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」と言っています(使徒二・二三)。

 この指摘を聞いたユダヤ教徒は「心を突き刺され」ます。三七節は「大いに心を打たれ」と訳されていますが、ここに用いられている語は、「心を打たれる」という程度の語ではなく、「心を突き刺される」というほどの激しい語です。ここに集まったユダヤ人の中には、つい先日公開されていたピラトの法廷で、「十字架につけろ」と叫んだ者もいたかもしれません(マルコ一五・一三)。その法廷にいなかったにせよ、イエスの慈愛に満ちた働きは広く知られていました。そのイエスをイスラエルの民を代表する最高法院は死に定め、ユダヤ教とは関わりのない異教徒、ローマ総督の手を借りて、十字架の死に至らせたのです。

 ルカは、その日ペトロの言葉を受け入れた人が三千人ほど、イエスをキリストと言い表すバプテスマを受け、ペトロを中心にしてイエスを信じる者の集まりがエルサレムに誕生したと報告しています(使徒二・四〇〜四二)。イエスを信じた人々は、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と要約されています。ここに《エクレーシア》と呼ばれるようになるキリストの民が呱々の声をあげ、この歴史の中に誕生したのです。

賜物としての聖霊

 この五旬祭(ペンテコステ)の日にペトロは周囲のユダヤ人に、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます」と言っています。先に述べたように、これはこの日になされたペトロの告知の記録ではなく、キリストの民が周囲の世界に向かって、代々にわたって宣べ伝えてきた福音の要約です。ところが現代のキリスト教会はこの告知の前半、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい」の部分は熱心に宣べ伝えていますが、その結果を語る後半の部分、「そうすれば賜物として聖霊を受けます」の部分は、十分に語っていないのではないでしょうか。

 「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい」と宣べ伝える教会は、そうした悔い改めの結果の部分、「そうすれば賜物として聖霊を受けます」をも明確に宣べ伝えなければなりません。それがなければ、悔い改めて、すなわち自分の人生には必要ないとして退けていたイエスをキリスト、救済者、自分の存在の土台として受け入れた意味が全うされません。悔い改めてイエス・キリストに属する者として歩み始めるに際して、「賜物として聖霊、すなわち神の霊」を受けて、その聖霊の働きによって現実に新しい命、神から受ける永遠の命に生きるようにならなければ、命のリアリティーに生きるのでなければ、意味がありません。

 このペトロが語った言葉の最後の部分は、ギリシア語原文では「そうすれば聖霊の賜物を受ける」となっています。しかし「聖霊の賜物」という表現は、ルカの時代までの教会の用語では、預言とか異言など、聖霊の働きの特定の現れを指すようになっていたので、ここでは「賜物として聖霊を受ける」と訳したことは適切です。わたしたちが聖霊、すなわち神からの霊を受けて、人間存在の根底から新しくされて永遠の命に生きるようになるには、「悔い改めてイエス・キリストを受け入れ、そのキリストによって神からの離反の罪を赦されて生きる」ことが必要です。聖霊はキリスト教というなにか特定の宗教に所属することで受けるのではなく、また宗教的・道徳的な立派な働きをして、その報いとして受けるのでもなく、ただキリストにあるという信仰によって受ける賜物なのです。報酬ではなく、無代価の賜物なのです。

 そのことを世界に告知し、そのようにキリストにあって、キリストに属する者として生きる場、そこで聖霊が働く場、キリスト信仰者の共同体である《エクレーシア》を形成することが、キリスト信仰に生きる者たちの使命です。ペンテコステの日に聖霊を受けたペトロたちイエスの弟子たちは、迫害や妨害を受けながらも、復活されたイエス、わたしたちの罪のために十字架上に死に、三日目に復活されたイエスをキリストとして告白し、そのキリストを宣べ伝え、エルサレムにイエス・キリストを信じるユダヤ人の共同体を形成し、周囲のユダヤ教徒や異教徒にこのイエス・キリストを宣べ伝えます。このエルサレム共同体が以後の復活証言、キリストの福音の世界的拡大の拠点とし、重要な役割を果たすことになります。