78 思い悩むな(12章22〜34節)
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」。(一二・二二〜二三)
このように、群衆一同に向かって地上の富に対する貪欲を戒められたイエスは、弟子たちに向かっては、地上の富に頼ることなく、ただ父の配慮に委ねて、思い悩むことなく生きるように励まされます。この「何を食べようか、何を着ようかと思い悩むな」という勧告の本筋は、思い悩まないではおれないわたしたちに、イエスは「空の鳥を見よ、野の花のことを思え」と呼びかけ、わたしたちが「ただ神の国を求める」ならば、空の鳥を養い、野の花を装ってくださる父が、必要なものを与えてくださるのだ、というイエスの語りかけにあります。この「空の鳥、野の花」を指してなされた簡明なイエスの語りかけに、二三節、二五〜二六節、二九〜三〇節が加えられて、イエスの語りかけの文を複雑にしています。これらの付加部分はルカとマタイに共通していて、すでに「語録資料Q」の段階で加えられていたと考えられます。ルカは最後に、資料の他の箇所にある語録(三二節と三三〜三四節)を加えて、この「思い悩むな」勧告を、マタイと違った形で締めくくっています。
「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」。(一二・二四)
マタイには「空の鳥(とり)」とありますが、ルカでは「烏(からす)」となっています。イスラエルでは烏(からす)は汚れた鳥です(レビ一一・一五)。ルカはヨブ三八・四一や詩編一四七・九の影響で烏(からす)としたのでしょうか。鳥(とり)でも烏(からす)でもここの文意の理解には影響はありません。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない空の鳥を、汚れた鳥とされる烏(からす)も含めて、神は養っておられるのです。烏(からす)よりもはるかに価値があるあなたがたを、神が養ってくださらないことがあろうか、とイエスは言われます。「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか」。(一二・二五〜二六)
ここで、思い悩むことの愚かさを示すために、本筋から離れた議論が加えられます。わたしたちはいくら思い悩んでも、寿命をわずかでも延ばすことはできません。この誰もが認めざるをえない事実を突きつけて、思い悩むことの愚かさと無益さを、イエスは聴く者に納得させられます(二五節)。ここで「寿命をわずかでも延ばす」と訳されているところは、「背丈を一ペキュスほどでも伸ばす」と訳すことも可能です。ここに用いられている名詞はおもに「年齢、寿命」という意味で用いられる名詞ですが、「身長」という意味もあります。ペキュスは長さの単位(約四五センチ)ですから、これを文字通りにとると、「背丈を一ペキュスほどでも伸ばす」と訳すことになります(岩波版佐藤訳、ウルガタも)。イエスの比喩の使い方からすると、イエスがこう言われたことも十分ありうることです。しかし大多数の翻訳は、数値なしの「ペキュス」を副詞的に「わずかに」と理解して「寿命をわずかでも延ばす」と訳しています。どちらの訳をとっても、思い悩むことでそのようなことはできない、という大意は同じです。
ここで思い悩んだからといってできないことの典型とされていること(寿命あるいは身長に僅かを加えること)が、「こんなごく小さな事さえできないのに」とされて、「なぜ、ほかの事まで思い悩むのか」と、思い悩むことの愚かさが人生のすべての範囲に広げられます(二六節)。この節はマタイにはなく、「語録資料Q」にはなかったと推察され、ルカが加えたものと考えられます。「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ 、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ」。(一二・二七〜二八)
次に「何を着ようか」という思い煩いについて、野原の花を指して、その愚かさが語られます。野に咲く花は、働きもせず紡ぎもしないけれども、あのように美しく装って咲いているではないか。その装いを、イエスは栄華を極めたソロモンに優るものとして指し示されます。旧約聖書にはソロモンの衣装の華麗さを記述する箇所はありませんが、イスラエル史上もっとも繁栄したソロモンの宮廷の華麗さは、後々の世の語りぐさになっていました。イエスは、野に咲く花の美しさを、その時のソロモンの衣装に優るものと見ておられます。ここで「野原の花」と訳されている原語《クリノン》は、「慣例的に『ゆり』と訳されるが、必ずしもユリ科の植物ではない平凡な野花を指した」とされます(織田・小辞典)。ここでは春のパレスチナを華麗に彩る紫アネモネではないかという推察もありえます。紫は王者の衣の色ですから、ソロモンの衣装との比較が自然に聞こえます。
その上で「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださっているのだ」と言われます。ここでは「花」ではなく「草、乾し草」です。パレスチナの農民は乾し草や野の枯れ草を集めて燃料として炉に投げ込みました。そのような草に混じって一緒に炉に投げ込まれるような野の花も、「神はこのように装ってくださっている」と、イエスは言われます。わたしたちがただ「ああ、きれいだなあ」と見ている、野の草の中に花が咲いているという平凡な事実に、イエスは神の配慮と働きを見ておられます。これは、雨が降り太陽が照らすというごく日常的な事実の中に、父の絶対無条件の慈愛を見ておられた(マタイ五・四五)のと共通するイエスの霊眼です。「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」。(一二・二九〜三〇)
この節では文頭に置かれた「あなたがた」が強調されています。他の者はともかく、弟子としてイエスに従おうとするあなたたちは、何を食べようか、何を飲もうかと考えたり思い悩むようなことはあってはならない、とされます。この強調は三一節の「ただ神の国を求めなさい」まで続いており、「あなたたち」はそのようなことに思い悩むことなく、ひたすら「神の国」を求めることに集中すべきだと続きます。これと同じ語録がマタイ(六・三一〜三二)の並行箇所にあり、これは「語録資料Q」から取られています。「異邦人」という句がイエスに遡るものか、あるいはイエスの語録集がユダヤ人の信仰運動であるQ共同体で形成される過程で、非ユダヤ教徒に対するユダヤ人の日常的な呼び方が混入したものかは議論があります。弟子の在り方を弟子以外の者たちとの対照で語るとき、「異邦人」という呼び方を用いるのは、「語録資料Q」の流れにあるマタイには多くありますが(五・四七、六・七、六・三二、一〇・五、一八・一七)、ルカではここ一箇所だけです。
「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」。(一二・三一)
では、イエスの弟子がそれだけを目標にしなければならない「神の国」とは何か。また、「神の国を求める」というのはどういう生き方を指すのかが問題になります。この問いは、福音書全体、いや新約聖書全体の探求の結果として答えることができる問いであって、ここはその答えを出す場所ではありません。ここでは、弟子としてイエスに従う者は、「何を食べようか、何を着ようか」と地上の生活のことで思い悩むことなく、イエスがそれに生涯を捧げておられる「神の国」の告知の働きに、自分の生涯を捧げて専心すべきことが求められています。そうすれば、生活に必要なものは、その必要を知っておられる父から、「神の国」のための働き対する霊的報酬に「加えて」与えられるのだ、とイエスは約束されます。これはイエスご自身の生き方から出る約束です。そして多くの弟子が、その約束が信実であることを実際に体験してきました。
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。(一二・三二)
イエスと共に「神の国」を専心追い求める弟子は、この世ではいつも少数派です。イエスの時も、福音書が書かれた時期においても、そしていつの時代でも少数派です。違う生き方をする少数派は、周囲の多数派から非難され、迫害されるのが常です。少数派として迫害される弟子たちの群れに向かって、イエスは「小さな群れよ、恐れるな」と励まされます。「恐れるな」と言われる根拠は、「神の国を与えることは、あなたたちの父の意志である」からです。この文ははっきりと理由を示す接続詞で、先の「恐れるな」に続いています。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」。(一二・三三〜三四)
この語録はマタイ(六・一九〜二一)にもあり、「語録資料Q」から来ています。マタイは別の文脈に置いていますが、ルカは、「この世」と「来るべき世」の対比の中でこの世の富について語られたこの小区分(一二・一三〜三四)の締めくくりとして、この位置に置きます。新共同訳ではこの語録は弟子たちに語られた「思い悩むな」の段落に入っていますが、群衆に語られた先の「愚かな金持ちのたとえ」の段落も含めて、地上の富に関わる小区分全体の締めくくりとして置かれていると考えられます。この語録の主題となる《セーサウロス》を新共同訳は「富」と訳していますが、この語は本来「集められた(貴重な)品物」を指しており(この語の動詞形は「集める」の意)、土地や家屋、家畜や穀物というような資産(一二・一三〜二一)ではありません。また、虫や錆や盗人の被害の対象になるのは、高価な衣類や香料、貴金属や宝石などであるので、協会訳のように「宝」と訳す方が適切と考えられます。
マタイの並行箇所と較べると、宝は地上に積まず、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない天に積むようにという主旨は同じですが、ルカはマタイにはない「自分の持ち物を売り払って施しなさい」という言葉を加えて、天に宝を積むにはどうすればよいかを具体的に指し示しています。ここにも地上の富に対するルカの厳しい姿勢が見られます。先にも触れたように、ルカには地上の富に対する厳しい(否定的な)姿勢が見られるところから、ルカは最初期共同体の一部に見られたエビオニズム(一種の清貧主義)とかクムランのような修道院的傾向に近いのではないかという推察もあります。
キリスト教の歴史の中では、この言葉に文字通りに従って、自分の資産全部を売り払って貧しい人々に施し、自分は無一物になって修道僧の生活に入った人たちがいました。そこまで行かなくても、この言葉に励まされて、自分の大きな資産を慈善事業に寄付する人がキリスト教社会にはよくあります。そのような人たちは、たしかに天に宝を積んだ人たちです。しかし、すべての人がそれができるわけではありません。できないことを悲しんでイエスのもとから立ち去ってはなりません(一八・二三)。「人間にはできないことも、神にはできる」と言って、イエスはそのような人をも受け入れてくださっています。人には様々に異なった召しがあります。召されたところに従って、イエスに従えばよいのです。時に応じて、わたしたちにできないことを神ができるようにしてくださいます。