市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第25講

83 悔い改めなければ滅びる(13章1〜5節)


 終わりの日の裁きが迫っていることを主題とするこの区分(一二・一〜一三・九)の最後に、その区分の締めくくりとして、悔い改めを呼びかける二つのイエスの語録が置かれます。一つは最近の歴史的・社会的な事件を引き合いに出しての語録(一三・一〜五)、もう一つはいちじくの木のたとえ(一三・六〜九)です。この二つの語録は、他の福音書にはなく、ルカの特殊資料からのものと見られます。

 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。(一三・一)

 ローマ総督ピラトがガリラヤ人(複数)を殺戮したこのイエスの時代の流血事件については、この時代の歴史を詳しく記述したヨセフスは何も伝えていません。しかし、イエスの十字架の五年後の三五年に、ピラトは彼の部隊にゲリジム山で犠牲を捧げているサマリア教徒を襲わせ、多くのサマリア人を殺します。それでサマリア人はこの事件をローマ側に訴え、ピラトは責任を問われて召喚されることになります。この事件についてはヨセフスが『古代誌』一八巻四章で詳しく伝えています。それで、ルカはこの事件と混同しているのではないかという議論もなされてきました。しかし、総督ピラトは、被支配民のユダヤ人やサマリア人の宗教感情を逆撫でするようなことをしばしば繰り返した粗暴な支配者であったので、イエスが活動された時期にこのような事件を起こしたことは十分ありえます。
 「ガリラヤ人」という呼び方は、ガリラヤの山地がローマの支配からの解放を目指す革命運動家の巣窟であったことから、このような革命運動家を指すようになっていました。ヨセフスはそのように用いています。歴代のローマ総督は、彼らの武力を用いた反ローマ活動を鎮圧するために、繰り返し部隊を出動させなければなりませんでした。ここもそのような事件の一つであったと見られます。

ガリラヤが反ローマ運動の拠点であったことについては、拙著『ルカ福音書講解 T』123頁「ガリラヤ人の抵抗運動」の項を参照してください。

 「ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」という表現も、正確に何を指しているのか解釈が分かれます。文章の前後関係からすると「彼らの」はガリラヤ人を指すことになり、(他の)ガリラヤからの巡礼者が神殿で献げようとしていた犠牲の動物の血に混ぜたことになります。しかし、このようなことができるかどうか問題です。「彼らの」を(強引に)ピラト配下のローマ軍と理解すると、ローマ軍が行う異教の犠牲祭儀の血に、この事件の犠牲者の血を混ぜたことになり、ピラトがやりそうなユダヤ人に対する強烈な挑発になります。この文を神殿区域でのガリラヤ人の殺戮を象徴的に表現したものと理解する見方も可能です。
 ローマはその強大な軍事力で、このようなガリラヤ人から始まるユダヤ人の武装闘争を鎮圧することに成功します(ユダヤ戦争)。しかし四〇〇年後には、非暴力無抵抗の絶対愛を唱えた一人のガリラヤ人、ナザレのイエスの足もとにひれ伏すことになります。ローマ帝国は三九一年にキリスト教を国教とするに至ります。
 この事件を公衆の面前でイエスに伝えた者たちの意図が問題になります。彼らはこのようなローマ軍の残虐行為を突きつけて、イエスに反ローマ闘争に立ち上がるようにうながしたのかもしれません。しかしイエスは、この事件をまったく違う視点から見ておられます。

 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。(一三・二〜三)

 イエスはこの事件を、この差し迫った時に民に悔い改めをうながすきっかけにされます。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思う」のは、当時のユダヤ教の基本的な考え方です。律法を順守して罪のない生活をしておれば、神の護りと祝福にあずかり平和で栄えるが、律法に反する罪深い生活をすれば神の裁きにより不幸と災禍に陥るという考えです。ヨブ記の著者は、必ずしもそうではない現実、義人が苦しむ不条理な現実に直面して、このような宗教の応報思想と格闘しましたが、一般民衆にはこのような応報思想が広く染みこんでいました。
 イエスは「決してそうではない」と言って、この考えをきっぱりと否定されます。このような考え方の根底には、自分が罪を犯すことなく、律法にかなった正しい行為をしておれば滅びることはないという、自分の義を立てる姿勢があります。しかし、イエスがおられる絶対恩恵の場から見れば、人間の義とか罪は相対的なもので、人間はみな神の裁きの前では滅ぶべき存在であり、神の無条件絶対の赦しの恩恵によらなければ救われません。「皆同じように滅びる」は、このガリラヤ人と同じように不慮の死に遭うということではなく、人間の尺度からする義人も罪人も差別なく、終わりの日の神の裁きの前では皆同じように滅びることを指しておられます。
 では、どうすればよいのか。自分の正しさに依り頼まないで、自分の無価値と本性的な背神を認め、その自分を神の無条件の恩恵に委ねるほかありません。これが「悔い改め」です。この悔い改めをせず、自分の価値に固執する限り、すべての人は「皆同じように滅びる」ことになるのです。

 「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。(一三・四〜五)

 イエスは同じことを、最近エルサレムで起こった事件を引き合いに出して語り出されます。シロアムの塔が倒れて一八人が死んだという事件は、他の資料から確認することはできませんが、当時の人々に広く知れ渡っていた有名な事件だったのでしょう。シロアムはエルサレムの南東部にある貯水池です(ヨハネ九・七)。そこにどのような塔があったのかは不明です。水道工事のための塔があったのかもしれません。現代でもよく工事中の事故で死亡者が出ることがあります。そのときに有名であった事件を用いて、イエスは差し迫った終わりの日に備え、悔い改めるように、すなわちイエスが告知される神の恩恵の場に来るように招かれます。