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「市川喜一著作集」全24巻の校正を終えて
広島   谷廣 ミサエ

 市川喜一先生の全著作集24巻のハードカバー上製本の刊行に際して、校正を担当させていただきました。当時は長年働いていた仕事を定年退職し、実家の家族の介護に通いながら、寸暇を惜しんで従事したこの校正の仕事は、まさに私の生きる糧となりました。

 台所の隣の和室で朝10時から校正のための音読を始めると、わがままな愛犬の柴犬「さくら」が自室のサンルームからとことことやってきて私の左に座り、私のほうにお尻を向けて寝そびります。眠っているのか起きているのか分りませんが、私の声がうるさいという顔をすることもなく、じっと聴くように横になっています。ときにはその姿があまりにも可愛いので、スケッチをしたりしました。

 生まれて初めての校正という仕事は、かなりの集中力を要しました。一字一句、文章の流れに不自然なところはないか、送り仮名はどうか、前に書かれている事との整合性はどうか、聖書や以前の著書の引照箇所は合っているか、字体は良いか等々、本当にたくさんの注意点を細かく調べました。校正は原則として3回行いましたが、3回目に修正箇所を発見することも度々あり、人間の注意力の曖昧なことを痛感することがしばしばでした。

 私は16歳から教会や聖書研究会や集会に通って、長い間聖書に親しんできましたが、どうにも理解できず、私には受け容れられないことが多くありました。ずっと「天旅」誌を送っていただいて読んでいましたが、決定的とはなりませんでした。

 しかしこの度、この24巻の校正の仕事は、私に絶大な力を与えてくれることになりました。1日に20頁を目標に、早口で音読していくうちに、その音読の言葉に力が満ちてくるのです。まるで主が背中を押して「行け」と言っておられるようで、感謝して前へ進めるのです。逆にイエスの「処刑」と言う字を音読しようとすると、どうしても言葉が口から出るのを拒否している状態になり、発声できないのです。どの頁においても、この言葉には不思議な働きがありました。

 「言葉は神とともにあった。言葉は神であった」とありますが、本当にこの書物の言葉を読んでいるうちに、文字の中から聖霊が飛び出してきて、私の中に入ってくるのです。そして私の中で不動の力になるのです。それが主への感謝と賛美になるとき、わたしの祈りは自然に異言の祈りとなったのです。もともと私の信仰は脆く、ちょっと苦しいことが起こると、あっという間に崩れるようなものでした。そんな私がこのように力強い支えをいただいて、今は生きています。昔から弱々しく不安定な私を知っておられる方は、私が今こんなに元気で生き続けていることをお知りになって驚かれることでしょう。

 イエス・キリストは確かに言葉の中に生きておられます。「夢を見たものは夢を語るが良い。しかし神の言葉を聴いた者は正確に神の言葉を伝えなければならない」と思います。年齢とともに、自分を育ててくれた親たちのことを思います。同時に、深い愛をもって導き育んでくださった神とエクレシアのことを、しみじみと有難く思うのです。いろいろな人たちが守ってくださり、助けてくださり、食べさせてくださいまいた。しばらく群れから離れて、一人で世の務めを果たしてきましたが、老いた今、心の故郷(ふるさと)に帰って、兄弟姉妹にお会いしたいと願うようになりました。「これまでありがとうございました」と伝えなければならないと思っています。

                                (2019年11月)
                       
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