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103 聖霊として働く神

 神の喜びとされるところのために願うことと働くことを、あなたたちの中で働いているのは神であるから。

(フィリピ書二章一三節 私訳)

br> このパウロの言葉は前節で、自分がいないときも福音の言葉に従うことで救いの達成に努めるように勧めた直後に、その理由を述べたものです。パウロはその理由として、「あなたたちの中で働いているのは神であるから」と重大な発言をしています。そして、その後に「あなたたちの中で働いている」神の働きの目的内容を、「願うことと働くこと」という二つの動詞の不定詞で表現しています。願うことを働くことの前提とすれば、「あなたたちの中で働きを働いているのは神である」ということになります(*1)。この表現は、働きとしての神が人間と関わるときの姿を端的に表現しています。
働きとしての神が人間の救いを成し遂げるにさいし、信じる者たちが救いの達成のために願い働く働きの中で、実は神ご自身が働いておられるのだ、とパウロは言っているのです。そして、信じる者たちの中に働く神が聖霊と呼ばれるのです。パウロは「福音は、すべて信じる者を救いに至らせる神の力だ」と言っています(*2)。力は変化をもたらす働きです(*3)。信じる者を救いへと至らせる働きを働いておられるのは、聖霊という姿で働いていられる神ご自身なのです。新約聖書はしばしば、聖霊は神から与えられる賜物とか、神から下って来る力というような表現をしますが(*4)、実は神ご自身が下って来て聖霊として働いておられるのです。神はキリストの中に働いて、救いのための働きを成し遂げられました。その働きが福音として告知されている今は、福音を信じる者たちの中にキリストを復活させた力を働かせておられるのです(*5)。
信じる者たちの中に聖霊として働かれる神の働きに二つの面があります。一つは信じる個々の人間の中に働いて救いに至らせるという個人的な面です。この面での聖霊としての神の働きは、解放、変容、完成という三つにまとめられます。解放というのは、罪と死の支配力からの解放です(*6)。変容というのは、悲惨な人間の現実の中で、信じる者の中にキリストの像が形成され、本来の神の子の実質が現れていく過程です(*7)。完成とは、信じる者が死者の中からの復活にあずかり、神の子の栄光が完成することです。これは信じる者の希望です(*8)。
もう一つの面は、信じる者たちの共同体の中に働かれる聖霊の働きとしての面、社会的な面です。福音を信じてキリストに合わせられて生きるようになった者たちは、おのずから交わりをもち、この世にはない別の原理で結ばれる共同体を形成します。その共同体を新約聖書は、世から呼び出された民という意味で「エクレシア」と呼びます(*9)。このような世のものでない共同体を建て上げる(形成する)ことは、人間の計画や努力でできることではありません。それはただ聖霊による神の働きだけがなしうることです。新約聖書(とくに後半(使徒言行録と使徒書簡)はこのことを証言しています(*10)。この特異な共同体は、世界にキリストの福音を告げ知らせることだけを使命としています(*11)。その働きは、個人の場合と同じく、解放、変容、完成を目指しています。世界が罪と死の支配から解放されること(*12)、人間のすべての営み(文化)が変容されて、神の子にふさわしい形に変えられていくこと(*13)、そして神の国が完成することです。それは希望の中にありますが、エクレシアはその目標に向かって、ひたすら歴史の中を歩みます(*14)。共同体は歴史をもちます。エクレシアという共同体は、神が人類を救われる歴史、すなわち神の救済史の担い手となります(*15)。神は歴史の中に働く神です。
この二つの面において神が働かれる仕方は、あまりにも深遠で多彩です。とうてい語り尽くすことはできません。パウロと共に「誰が神の道を理解し尽くせよう」と叫んで、み前にひれ伏すほかありません(*16)。

1 この点については、水垣渉『宗教的探求の問題 ー 古代キリスト教思想序説』(創文社)の第十章「はたらきをはたらく神」が、この「はたらきをはたらく神」というパウロの特異な表現について詳細な議論を展開し、その重要性を明らかにしていますので、それを参照してください。なお、ここでは同じ動詞《エネルゲイン》が「働いておられる」という分詞形と「働くことを」という不定詞形で使われています。この動詞の名詞形が《エネルゲイア》で、この動詞が用いられている意義についても、同書(347頁以下)で詳しく解説されています。
2 ローマ書一章一六節。
3 物理的な力やエネルギーは、物体の位置や速度を変えたり、物質の形や状態を変えたりします。物理的な力はベクトル量です。すなわち、大きさだけでなく方向をもつ量です。パウロが「福音は救いに至らせる神の力だ」というとき、この神の力の方向、すなわり信じる者を変化させる方向が指し示されているのです。その方向は救いに向かっています。その方向への変化は、後で見るように、人間の解放、変容、完成へと向かう方向です。
4 たとえば ルカ福音書一一章一三節、使徒言行録一章八節、ガラテヤ書三章二節など。
5 エフェソ書 一章一九〜二一節。
6 ローマ書 八章二節。
7 コリントU 三章一八節。
8 死者の中からの復活についてはコリント第一書簡の十五章が詳しく論じています。またローマ書八章一一節参照。なおそれが希望であることについては、ローマ書 八章二三〜二五節を参照。ただ、二四節前半は「希望によって救われている」ではなく、「希望へと救われている」、すなわち信仰によって救われた結果、このような希望に生きるようにされている、と理解すべきです。
9 新約聖書では信じる者たちの共同体を指すのに《エクレーシア》という語が使われています。このギリシア語は、当時のギリシアの都市国家(ポリス)でポリスの重要事項を決定するために召集された市民たちの集会を指していました。福音によってこの世から呼び出されて形成された共同体を、最初期(新約聖書の諸文書が書かれた時期)の信仰者は《エクレーシア》と呼び、終わりの日に召集されると預言されている《カハル・エール》(神の会衆)であるとして(コリントT一章二節など)、ユダヤ教の組織的共同体である《シナゴーグ》と区別しました。この《エクレーシア》は普通日本語訳聖書では「教会」と訳されていますが、日本語の用法では教会は祭儀、教理、聖職者をもつ組織的な宗教団体を指すので、新約聖書の《エクレーシア》の訳語としては不適切です。ここでは《エクレーシア》というギリシア語の日本語の表記で「エクレシア」を用います。
10 ルカは使徒言行録で、使徒たちの働きを通して聖霊が信じる者たちの共同体を各地に形成された歴史を物語っています。使徒書簡(とくにパウロ書簡)は聖霊だけがエクレシアを建て上げる力であることを詳細に語っています。たとえば、パウロはコリント第一書簡の一二〜一四章で、エクレシアを形成する聖霊の働きを詳細に描いています。
11 使徒言行録一章八節。ところが福音によって形成されたキリスト教会は、自分たちの宗教であるキリスト教を宣べ伝えました。キリスト教という容器にキリストの福音が入れられているのですが、キリスト教という容器が絶対化されているので(教会の外に救いはない!)、その福音活動はキリスト教への改宗運動となりました。しかし復活の主が弟子たちに委ねられたのは「わたしの証人となる」ことでした。すなわち、キリストとしてのイエスにおいて成し遂げられた神の救いの働きを、聖霊の力によって告知することでした。
12 世界の歴史は悲惨です。人間の社会は絶えず紛争、暴力、流血、不正、搾取、恐怖、死や破滅の不安に満たされ、平和とか正義が支配するのはそれらの悲惨な諸現実の間に挟まれた束の間のことです。この歴史の現実は、人間の実存的状況、すなわち人間を本来の在り方から離れさせる力、罪と死の支配力に支配されているからです。人間を救う神の力である福音が、この罪と死の支配から歴史を解放します。
13 キリスト信仰に生きる共同体が、この世界の人間の営みが形成する文化(国家などの社会制度なども含めて)とどう関わるのかの問題は、エクレシアの出発のときからずっと問題になってきました。文化に対して反発し対決するする姿勢、 文化に超越して自分の領域に閉じこもる姿勢、その中間の様々な姿勢があります。この問題については、アメリカの神学者リチャード・ニーバーがその著『キリストと文化』で、その姿勢を五つに分類してそれぞれの意義と長短を論じています(拙著『福音と宗教』の第二章第六節のティリッヒを扱ったところで要約紹介しています)。その最後にあげている「文化の改造者キリスト」という関わり方、すなわち文化の中に入って行って、文化の中で働き、文化を内側から神の御心にふさわしい形に変容していくことを使命とするという関わり方が、エクレシアが文化の世界で果たすべき役割でしょう。
14 「神の国」はイエスの福音告知において中心の主題でした。それは昔イスラエルの預言者たちが告知した「神の支配」実現の告知でした。神が、その民を神以外の支配力から解放して、直接の支配を確立されるとの告知でした。イエスはその「神の支配」を多くの比喩を使って告知されました。しかしイエス復活後の福音告知においては、キリストとしてのイエスにおける神の救いの働きと、その結果としての現在の聖霊による救済の現実に重点が置かれ、「神の国」は救いに向かって働く神の働きの《テロス》(終わり、目標)として、「神の支配」の完成として、希望の中に位置づけられることになります。
15 共同体は個人の生存期間を超えて存続しますので、その成立、発展、消滅などの出来事は、長い時間軸で記述される歴史をもつことになります。人間の救済のための神の働きも、地上では歴史となります。すなわち、神は地上の多くの民の中からアブラハムを選び、その子孫をご自身の民としてその中に働き、時満ちてその民の中のイエスを死人の中から復活させてキリストとし、そのキリストとしてのイエスにおいて成し遂げれられた救いの働きを世界に告知して、それを信じる民の中に働き、人間の救済の働きを進めておられます。この神の救済のための働きの歴史が救済史であり、聖書(旧約聖書と新約聖書)はその神の救済史の証言です。エクレシアはキリストの出現から「神の国」の完成に至るまでの救済史の担い手、すなわち神の救済の働きがその中で行われ、それを通して世界に向けられる担い手となります。
16 「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(ローマ書一一章三三節)。高揚した文体で書かれているローマ書十一章三三節から三五節のパウロの神への賛美の叫びは、ローマ書の中でイスラエルの民の救済を論じる第三区分のの末尾に出てきますが、これは第一区分から第三区分までの全体、すなわちユダヤ人と異邦人の区別なく、信じる者すべてを救われる神の働き全体への賛美と理解すべきでしょう(ローマ書の区分については、拙著『パウロによる福音書 ー ローマ書講解』の を参照してください)。