市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第98講

98 信仰の具体性

 「霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」。

(ルカ福音書 二四章三九節)


 ルカ福音書(二四・三六〜四三)によると、復活されたイエスが弟子たちに現れたとき、弟子たちは霊を見ているのだと思い、恐れおののきます。ここに用いられている《プニューマ》を新共同訳は「亡霊」と訳していますが、原語は「霊」です。人間は常に体をもって生きていますから、体をもたない霊だけとの異常な遭遇には恐怖を感じます。恐れおののく弟子たちに、復活されたイエスはご自分の手と足を見せて、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」と言って、標題の言葉を続けられます。霊には肉も骨もないが、わたしにはそれがそなわっている、と言っておられるのです。霊には体がないが、復活されたイエスには体が具(そな)わっている、と福音書は主張しています。
 「具」という漢字の音は「グ」ですが、訓は「そなえる・そなわる」です。「具体」とは体とか形を具えていて、存在が感知できるさまを指し、形のない抽象の反対です。復活されたイエスは体のない霊ではなく、体を具(そな)えた霊であるという福音書の告知は、わたしたちの信仰にとって重要なメッセージを発しています。
 神は霊です。しかし、体のない霊ではありません。天地の万物が神の体です。神は万物を存在させる働きとして万物の中に働き、万物はその働きの結果として神の体です。その中で人間は体を具(そな)えた霊として創造されました。神に背いた人間の体は死に定められた「朽ちる体」となりましたが、創造者なる神は御自身の霊によって生きる人間に新しい体、「朽ちない体」をそなえられました。神は御自身の命に生きる御子を世に遣わし、その死によって人間の背きの罪を贖った後、御子を死人の中から復活させて、終わりに日に用意されたその「朽ちない体」をお与えになりました。パウロはその「朽ちない体」を、それが神の霊に生きる命に与えられる体であるので「霊の体」と呼んでいます。
 イエスの復活は神が終わりの日に創造される新しい天と地に生きる者たちの「初穂」です。わたしたち人間は必ず死にます。しかしキリストにあって御霊の命に生きる者は、死後いつまでも体のない亡霊の世界(=陰府)にとどまるのではなく、イエスの身に起こったように、もはや朽ちることない「霊の体」に復活することを信じ待ち望むことができます。その体はあまりにも現在の地上の体と違うために、時間と空間の枠の中にいる人間には理解も想像もできません。しかし、その体を与えるというのが福音の約束です。
(天旅 二〇一二年3号)