市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第79講

79 恩恵による存在

 神の恵みによって、わたしは今のわたしであるのです。

(コリントT 一五章一〇節 私訳)


 これは、使徒パウロが、自分が使徒であることを語る文脈の中に出てくる文章です。パウロはこの文章で、自分が使徒であるのはただ神の恵みによるのであって、自分の内には何の根拠もないことを言い表しています。パウロはイエスを信じる者たちを迫害した者、神が遣わされたキリストであるイエスに敵対した者です。そのパウロが、今は使徒としてキリストを宣べ伝え、使徒の中でもっとも大きな働きをしているのです。
 これは、自分がキリストとしてのイエスの本質を理解し、神の御旨を悟って、キリストの敵から奉仕者に回心し、自分の優れた能力で活動した結果ではない。ただ、神が敵である自分を選び、敵をも無条件に受け入れて御自身のよいものを与える絶対無条件の恩恵によるのだと、パウロは告白しているのです。
 わたしたちも、世の中で尊敬される地位を得たり、立派な業績をあげたとき、それが自分の能力や努力で成し遂げた結果であると誇ることなく、神が与えてくださった能力や体力や境遇のおかげであるとして、神に栄光を帰します。それはキリストにある者として当然の告白です。しかし、このパウロの言葉はそれ以上に、人間存在の根底に触れる深さをもっています。
 この文章の中核は「わたしはある」《エイミ》という動詞です。その後に、わたしがどういうものであるかを説明する部分(文法上の主格補語)として、「わたしが(今)あるところのもの」という句が加えられています。パウロの場合は使徒であるという姿です。しかし、使徒であるとか、かくかくの立派な人間であるとか、これこれの優れた業績をあげた者であるという説明句(補語)がある場合だけでなく、それが何もない場合も、わたしたちは言います、「神の恵みによって、わたしはあるのです」。
 わたしが今人間として存在していること自体が神の恵みによります。わたしは自分の意志や能力や価値で存在しているのではありません。創造者の無条件の恩恵が、存在する根拠が何もないわたしを存在させているのです。自分の存在自体が神の恩恵によるものであることに目覚めるとき、わたしは自分の状態がどのようなものであっても、存在することを喜び感謝することができます。恩恵によって存在しているという自覚は、神に愛されていることの自覚だからです。わたしの存在自体が神の愛を証ししているのです。

                              (天旅 二〇〇八年4号)