市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第43講

43 愛は大地のように

愛はすべてを包み、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを担う。

(コリントT 一三章七節 私訳)


 人間はみな愛が人生の生き甲斐であることをよく知っています。そして、本性的に愛して生きています。ところが、この本性的な愛は破れやすく、同じく人間に本性的な自己愛から出る偽善や嫉妬に満ち、矛盾し、しばしば人間を苦しめます。友人、恋人、親子、夫婦と人間的な絆が強くなるほど、人間は愛の破綻に苦しんでいます。
 その破れを包み込むのが、聖書が《アガペー》と呼んでいる愛です。イエスが身をもって示された父の慈愛です。敵対する者も無条件で受け入れる、あの絶対の恩恵に現れている父の慈愛です。パウロが聖霊の賜物として描いた愛、上から賜る新しいいのちの質としての愛です。この愛が、人間の破れた愛を包み込むのです。
 使徒パウロは、聖霊による愛《アガペー》の永遠性を賛美する箇所(コリントT一三章)で、嫉妬など人の本性的な弱点を駆逐する《アガペー》の働きを要約しています。そして、最後に愛の姿を歌い上げた言葉が標題の言葉です。これこそ「愛の賛歌」の最終版です。この句で用いられている「すべて」は、全部とか全体という意味ではありません。関わる個々の相手とか状況について、いかなる相手をも、いかなる状況においても、包み、信じ、望み、担うという意味です。相手の価値や立場がどのようなものであっても、敵であっても、また、状況がどのように不利で絶望的であっても、相手を包み込み、信じ抜き、共に喜ぶ将来を望み、苦難・苦悩を自分の側で担うのです。それは人間から出るものではなく、神の霊だけが可能にする愛です。
 わたしは、パウロが「すべてを」と言っているところを、次のような比喩で表現して愛唱しています。
 「愛は、海のように包み、太陽のように信じ、星空のように望み、大地のように担う」。
 海はどのようなものでも大きな懐に包み込んでいます。そのような形のものは包み込めないと拒否しません。太陽は、よい実が生じることを信じて、倦むことなく来る日も来る日も、万物に命の光を注いでいます。星は闇夜に輝いて、行くべき方向を指し示しています。大地は万物をその上に担い、どのようなものを載せても、重くて嫌だと苦情は言いません。そのように、破れ果てた人間世界で、《アガペー》は包み、信じ、望み、担うのです。そうすることによって、破れ果てた人間の愛を癒やし、壊れた関わりを建て上げてゆくのです。愛は大地のように人間存在を支えているのです。

                              (天旅 二〇〇二年4号)