市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第42講

42 今は見える

あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。

(ヨハネ福音書 九章二五節


 この言葉は、生まれながら見えない目をイエスによって見えるようにしていただいた人が、法廷で立てた証言です。その宗教法廷は、このような大きな神の業をされたイエスを、安息日律法に違反しているのであるから罪人であるとして追放しようとしているのです。そして、この人にイエスを罪人とする自分たちの判断に従うように強要しているのです。
 現代では宗教法廷に立たされることはありません。しかし、イエスを復活者キリストと信じることの愚かさを世間から批判され、その不合理性を常識と理性の法廷で攻撃されることは続いています。イエスについての世界の評価と判断は様々で、専門の神学者の間でも、実際にイエスはどのような方であったのかについて意見が分かれています。そのような中で、わたしたちもこの人と一緒に証言します、「イエスが実際にどのような方であったのか、精確にはわたしにも分かりません。ただ一つ確かに知っているのは、この方を信じることによって、見えなかったわたしが、今は見えるということです」。
 何が見えるようになったのでしょうか。わたしがイエスを信じることによって見えるようになったのは、「恩恵の支配」です。それまでは、わたしの小さい体験や知識の中にも、不条理と悲惨に満ちた人間の歴史の中にも、わたしの存在が塵のように含まれる壮大で複雑なこの宇宙にも、そのようなものがあることは全然見えていませんでした。ところが、福音が告げ知らせるイエス・キリストを信じることによって、全存在の根底である方の恩恵がすべてを支え貫いていることが、「今は見える」ようになったのです。
 十字架の場にひれ伏したとき、すなわち復活者キリストがわたしのために死んでくださったという永遠の現実の前にひれ伏したとき、聖霊によって神の愛がわたしの中に注がれ、わたしを存在させてくださっている方が、この資格のないわたしを無条件に受け入れてくださっている恩恵の事実が見えるようになったのです。それによって、イエスの「神の支配」の宣教も恩恵の支配の告知であることが見えるようになったのです。世界が創造者の恩恵によって支えられていることが見えるようになったのです。

                              (天旅 二〇〇二年3号)