市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第29講

29 外なる人・内なる人

 だからわたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

(コリントU四・一六)


 これは使徒パウロのような特別な人だけが言える言葉ではありません。キリストにあって生きる者であれば、だれでもこう言うことができます。文頭の「だから」も、キリストにあって上からの新しい命をいただいている者であれば、それを根拠にして「それゆえに、わたしは落胆しません」と言うことができます。
 何故そう言うことができるのか、その消息が続いて語られます。人生の苦しみは「生、病、老、死」の四苦といわれますが、ここではとくに「衰えていく」という表現で「老」の問題が取り上げられています。人生において老いることは辛いことです。それは身体の力が衰えるだけでなく、心の働きも弱くなり、社会からも疎んじられて、生き甲斐や希望が痩せ細っていく辛い時期です。わたしたちが身体の中で生きているこの命は日々衰えていきます。後は死を待つだけという時期が確実にやって来ます。
 ところがキリストにある者は、このような辛い老いの姿(それは病と死を含む姿です)を「それは外なる人の姿であって、自分の姿ではない」と見る別の自分がいることを知っています。それは、必ず老いていく自分と違う別の自分、この身体の中にあって必ず老いて死に至る生命とは違う別の命が始まっていることを知っている自分がいるからです。キリストにあって神から賜っている命、永遠の命に生きる自分が、この身体において生きている生まれながらの命の姿を「外なる人」と見させるのです。このように見させる自分が「内なる人」であり、その人は神の恵みの力をますます深く知ることによって日々新たにされ、力が増し加わっていくことを自覚しています。
 この「外なる人」と「内なる人」は二人の別人ではありません。一人の「わたし」です。キリストにある者は、一人の自分の中に「外なる人」と「内なる人」の二つの相、二つの姿があることを知っています。この死に定められた外なる人の命が、やがて内なる人の命に飲み込まれて、自分が一つにされて完成する時を待ち望んでいます。それが復活です。キリストにある者の老年は、日々衰えていく「外なる人」の中で、「内なる人」が日々新たに復活の希望を輝かせる日々となります。