市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第41講

99 金持ちとラザロ(16章19〜31節)

陰府(よみ)と地獄 

 イエスが語られた言葉の中で、ここで珍しく死後の世界のことが語られています。ここでイエスが語られた言葉の意味を理解するために、当時のユダヤ教の人々が死後の世界をどのように考えていたのか、使われている用語を手がかりにして見ておきます。
 人類は太古の昔から、死者は無に帰するのではなく、この世界とは別の世界に行くのだと考えてきました。その別の世界は天空にあるとも地下にあるとも考えられていましたが、地下の場合の方が多いようです。人が死後に行く世界は、民族によりさまざまな言葉で呼ばれています。イスラエルでは「シェオール」、ギリシャでは「ハデス」、ゲルマンでは「ヘル」、そして日本では「陰府(よみ)」、「黄泉国(よみのくに)」、「根(ね)の国」などと呼ばれています。これらはみな地下の国です。もともとそこには善悪の区別はありません。そこは喜びも苦しみもない影のような世界です。善人も悪人も死ねばみなそこに行くのです。
 ところが、人間の宗教思想の進展に伴って、因果応報や審判の観念が加わり、地上で悪を行った者は死後の世界で苦しみを受けるという「地獄思想」が形成されるようになります。インドでは「ナラカ」(地下の牢獄、日本語では奈落)に八熱地獄と八寒地獄があるとされ、中国では民間信仰の死者の国である「泰山」が仏教の影響で組織化された呵責の場所としての地獄に変貌します。日本では、古来の黄泉国に仏教を通して入ってきたインドと中国の宗教思想が影響して地獄の観念が発達します。その頂点は有名な源信の「往生要集」でしょう。そこには想像しうるかぎりの責め苦が描かれています。ギリシャでも、最後の段階では「ハデス」は罪を犯した者に対して罰と浄化を課す地獄になっております。
 イエスは希望としての神の国を語られると同時に、地獄のことも真剣に語っておられます。イエスは「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言っておられます(マタイ一〇・二八)。その真剣さは、「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい」とか、「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい」というような言葉によく表れています(マルコ九・四三〜四七)。ここで、「地獄に落ちる」とか「地獄に投げ込まれる」ことが、「命にあずかる」とか「神の国に入る」ことの反対として、身体の一部を失うことよりも真剣な問題として語られています。
旧約聖書では、死者が赴く地下の世界は「シェオール」と呼ばれています。そこは神から遠く離れた、影のような存在のための場所と考えられていました。そこには審判とか罪の罰としての責め苦というようなものはありません。ところが、新約直前の時代になると黙示録的終末信仰が盛んになり、そこでは最後の審判がゲヒンノム(ヒンノムの谷)の火で象徴されて語られるようになります。
 ヒンノムの谷というのはエルサレム西南にある谷で、昔そこでモロクの神に子供を火で焼いて供えるという祭儀が行われたので不浄の土地とされ(エレミヤ七・三一〜三二)、この時代には不浄物を焼く火が絶えることがなく悪臭のただよう谷になっていたのです。この「ゲヒンノム」がそのままギリシャ語で用いられて「ゲヘナ」となります。ですから、「ゲヘナ」とは最終的な審判によって定められる永遠の地獄を意味することになります。
 一方、すべての死者が赴く地下の世界「シェオール」には、ギリシャ語訳旧約聖書ではつねに「ハデス」という用語が用いられてきました。このように「ハデス」(陰府)と「ゲヘナ」(地獄)は基本的に違う事柄を指しているのです。「ハデス」はすべての人が死後に入って行く世界であり、それは最後の審判または復活の時まで存続する中間期的な世界です。「キリストは陰府に降り」と言われる時の「陰府」は、このような中間期の死者の世界です。それに対して「ゲヘナ」は最終的な審判によって永遠に神の呪いに定められた者が落ちる終末的な苦悩の場を指しています。
 ところが、この「ハデス」の方も二つに区分されるようになります。一つは神に祝福された義人の魂が入る所であり、イスラエルでは「アブラハムのふところ」と呼ばれ、貧しいラザロが入っていった所です。もう一つは、罪深い悪人が入る所で、そこでは火に焼かれるような苦しみがあるとされます。ラザロを憐れまなかった金持ちが落ちた所です。この苦悩を伴う死後の世界に「ハデス」(陰府)という名がそのまま用いられることになります。これが狭い意味での「ハデス」です。イエスが「カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」(ルカ一〇・一五)と言われた時の「陰府」も、この狭い意味での陰府を指しています。

パラダイスと神の国

 この狭い意味での「ハデス」、すなわち苦しみの死後世界である「陰府」に対して、祝福された死後の世界は「パラダイス」(新共同訳では「楽園」)と呼ばれます。イエスは十字架の上で、横で十字架にかけられている者に、この語を用いて、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」(ルカ二三・四三)と言っておられます。
 《パラディソス》(英語ではパラダイス)というのは、「(壁で囲まれた)園」を意味するペルシャ語から借用されたギリシャ語で、七十人訳ギリシャ語聖書や初期ユダヤ教においては、まず創世記二章の「エデンの園」を指す用語でした。それはたしかに楽園でした。そして、預言者やユダヤ教黙示文学は未来の祝福を、アダムの罪によって失われた楽園が終わりの日に回復することだと表現しました(エゼキエル三六・三五、イザヤ五一・三など)。初めの時のパラダイスが終わりの時に再来するという希望です。それだけでなく、このパラダイスはすでに現在隠された形で存在しており、アブラハムをはじめとする父祖たちや、エノクやエリヤような義人たちがそこにいると、ユダヤ教では信じられていました。初期にはすべての死者は「シェオール」に行くと考えられておりましたが、後期には不信心な魂は「シェオール」へ、義人の魂は「パラダイス」へ行くと信じられるようになっていたわけです。ですから、パラダイスには初めの時のパラダイス、終わりの時のパラダイス、現在の隠されたパラダイスという三つの相があることになります。
 新約聖書でもこの三つの相でパラダイスが取り上げられています。初めの時のパラダイス、すなわちエデンの園は直接には言及されていませんが、当然のこととして前提されています。終わりの時のパラダイスについては、ヨハネ黙示録(二・七)で、「耳ある者は、御霊が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園(パラダイス)にある命の木の実を食べさせよう」と言われています。この他、黙示録では新しいエルサレムは再来のパラダイスとして描かれています。現在の隠された相のパラダイスについては、パウロが触れているところがあります。パウロは「彼は楽園(パラダイス)にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです」(コリントU一二・四)と、他の人のような言い方をしていますが、これは「第三の天にまで引き上げられた」パウロ自身の体験を語っているわけです。イエスが十字架の上で「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた時も、この相のパラダイスを指しておられます。
 このように、地獄(ゲヘナ)と陰府(ハデス)が違うものであるように、「神の国」と「パラダイス」とは違うのです。「神の国」と「地獄」は終末的な現実であって、神と人間の関わりの最終的な形態です。神の国は祝福された形態であり、地獄は絶望の姿です。それに対して、「パラダイス」と「陰府」は死者の魂が赴く世界であって、最終的な決定がなされるまでの中間期の形態です。その中で祝福された場がパラダイスであり、苦悩の場が陰府となるわけです。
 このような死後の世界についての観念はファリサイ派のもので、ギリシア思想の影響を受けて形成されたヘレニズム期ユダヤ教の特色を示しています。イエスの時代のユダヤ教徒はほぼこのような死後世界をこのように考えていたのであり、イエスはその観念を前提にして、「金持ちとラザロ」のたとえ話で福音の真理を説いておられます。
 このように、聖書においては「神の国」と「パラダイス」とは違った現実を指しているのですが、この二つの概念はしばしば混同されているようです。とくに日本語では、「天国」という曖昧な用語が混乱をひどくしているようです。普通日本語で「天国」というと、すべての死者が赴く死後の世界のことが考えられているようです。この世で結ばれなかった恋人が死んで天国で結ばれるというように言われます。昔は地下にあった黄泉の国が、近代になってキリスト教の影響からか天に移ったようです。しかも、「天国」は苦しみのないよい所であるとイメージされていますから、これは聖書のいう「パラダイス」に近いわけです。ただ日本人が言う「天国」は義人も悪人もみな入る所ですから、この点で「パラダイス」とは違います。
 ところで、イエスが宣べ伝えられた「神の国」を、マタイ福音書が当時のユダヤ人の習慣から「神」という用語を避けて「天」を用いて「天の国」と表現し、それを日本語訳聖書が「天国」と訳したことから、混乱が生じたようです。この訳によって、イエスは、日本人が勝手に想像している死後の祝福された世界である「天国」を宣べ伝えた人物であるという誤解や、「神の国」と「パラダイス」の区別がつかなくなるという混乱が引き起こされたようです。新共同訳が「天国」という訳語を避けて「天の国」としたのは、この混乱を避けるためだと思われます。

生前(現世)と死後(来世)の逆転

 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」。(一六・一九)
 このたとえ話は、誰に語られたのかを示す前置きなしで、突然始まります。おそらくルカの元の構成では、「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで、イエスは言われた。『あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ』」(一六・一四〜一五)という言葉に続いていたのではないかと考えられます。ところが、イエスをあざ笑ったファリサイ派の人々に対する論争の言葉(一六・一六〜一八)が「語録資料Q」から採られて挿入されたため、このたとえ話が語られた文脈が分からなくなっています。この部分(一六〜一八節)を飛ばして一五節からここに続けると、このたとえ話が「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」ということを、目に見える地上の世界での姿と見えない死後の世界での姿との対照で語るたとえ話(例話)であることが見えてきます。
 ローマの貴族階級の人たちは、下着には柔らかい麻布(原語の《ビュッソス》は亜麻布を指す)を着て、上着には紫色の衣を着るのを常としていました。パレスチナの支配階級や富裕階級の人たちもそれに倣って、そのような衣装で身を飾り、富と権力を誇示していました。彼らは日々の糧を得るために働く必要はなく、「毎日ぜいたくに遊び暮す」ことができました。このような記述で「人に尊ばれるもの」の姿が描かれます。

 「この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた」。(一六・二〇〜二一)

 この金持ちと対照して、その門前に横たわっていた「貧しい人」ラザロの悲惨な姿が描かれます。「できものだらけの」病人ラザロは、動くことも働くこともできず、その金持ちの家の前を行き来する人たちから恵んでもらうために、物乞いとして門前に置かれていました。彼はその金持ちの家から出される残飯で腹を満たしたいと思う境遇でした。彼の悲惨な境遇は、病気のため働くこともできず、ぼろをまとい、食べ物にもことかくという身体的なものだけでなく、イスラエルでは汚れた動物として卑しめられている犬にそのできものを舐められるという、イスラエルの宗教社会では最低の人間として、いや人間として扱ってもらえない状況が指し示しています。
 イエスが語られたたとえ話の中で、その登場人物の名前があげられているのはここの「ラザロ」だけです。その理由については様々な見方があります。「ラザロ」という名は、ヘブライ語の「エレアザル」、すなわち「神は助ける」という意味の名の短縮形ですから、人からは見捨てられているが神が助けてくださる人物であることを示唆するために選ばれた名であるという見方もできます。また、このたとえ話の最後に「死人の中から生き返る者」が言及されることから、ヨハネ福音書一一章のあの「ラザロ」、イエスが親しくしておられ、死人の中から生き返らされたラザロとの関連を見る説もありますが、このような関連でイエスが用いられたとするには無理があります。この問題については、この段落の講解の最後に取り上げることにします。

 「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた」。(一六・二二〜二三)

 やがてラザロは死んで、貧しさゆえの苦労と苦悩から解放され、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれます。ここには「楽園」という語は出てきませんが、アブラハムがいるところが楽園《パラディソス》です。先に「楽園」《パラディソス》には、アダムとエヴァがいた最初の楽園と終わりの日に完成する終末的な楽園の他に、現在隠された形で存在する楽園があることを見ましたが、ラザロは、アブラハムや父祖たちやエノクやエリヤなどの義人がいるこの楽園に入ったのです。
 ラザロは天使たちに導かれて、「アブラハムの胸へと(あるいは、懐の中に)」連れて行かれます(直訳)。この表現は、ある人物ともっとも密接な関係にあることを指す表現です。ヨハネはこの表現を、「父のふところにいる独り子である神」(ヨハネ一・一八)についてと、最後の晩餐のとき「イエスの胸に向かって」着席していた「イエスが愛された弟子」について(ヨハネ一三・二三)用いています。ここの原文には「宴席」という語はありませんが、新共同訳は、この表現を宴席での位置を示すものとして、説明的に訳したのでしょう。
 金持ちも死んで葬られますが、彼は陰府(ハデス)に墜ちます。先に見たように、この時代には「陰府」《ハデース》は、ヘブライ初期の善人も悪人も行く死後の影の世界《シェオール》ではなく、悪人が責め苦を受ける場所になっています。その責め苦は、すぐ後で本人が「わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」と言っていることから、火で焼かれるような責め苦であることが分かります。これは、終わりの日の神の裁きが火で行われるという当時の終末思想が「陰府」での責め苦にも反映しているのでしょう。「その責め苦の中で目を上げて」、はるか遠くにアブラハムと「アブラハムの懐にいるラザロ」を見ます。

「火による審判」については、拙著『パウロによるキリストの福音U』100頁の注記を参照してください。

 「そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます』」。(一六・二四)

 死後の世界での楽園《パラディソス》と陰府《ハデース》の位置関係はどうなっているのか。間に渡ることができない大きな淵があるのに(二六節)、陰府から楽園の様子を見ることができるのか、あるいは「大声で」叫べば聞こえるのか、などと詮索することは無用、無意味です。イエスは神と人間の永遠の関係をたとえ話を用いて語っておられるのであって、それをこの世の時間と空間の枠の中の思考で詮索すべきではありません。わたしたちは、わたしたちの存在を超える神に祈り叫んでいます。この金持ちも、ユダヤ人として、すなわちアブラハムの子孫の一人として、自分たちと神との関わりの根拠となっている父祖アブラハムに憐れみを叫び求めます。
 炎の中でもだえ苦しんでいる金持ちは、その灼熱の苦しみから一時でも逃れることができるように、「ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」と懇願します。地上に生きているときには、自分の家の門前で飢えに苦しみ、その食卓から落ちこぼれる残飯で空腹を満たしたいと願ったラザロと、立場が完全に逆転しています。今は、宴席にいるラザロの指先の一滴の水を懇願しなければならない立場です。

 「しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ』」。(一六・二五)

 彼の懇願の叫びはアブラハムに聞こえます。しかし、アブラハムはこのように言って彼の懇願を退けています。アブラハムはこの金持ちに「子よ」と呼びかけています。たしかに彼はアブラハムの子孫です。しかし、アブラハムの子孫であることが自動的にアブラハムに約束された神の祝福をもたらす根拠にはなりません。すでに洗礼者ヨハネも「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」と言っています(三・八)。わたしたちは、先祖の宗教体験の上に築き上げられた立派な「宗教」の中にいるのだから、それで救われているのだと、既成の「宗教」に安住することはできません。今自分の魂が神とどのような関わり方をしているかが問題です。
 この地上で金持ちであった者にアブラハムが言っている言葉は注目されます。彼が今陰府でもだえ苦しみ、ラザロが楽園の祝福を受けているのは、「地上に生きていたとき、彼は良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた」ことだけが理由としてあげられています。だから(=その事実だけで)、今ここで(楽園で)ラザロは慰められ、もと金持ちは(陰府で)もだえ苦しむことになるのだ、とアブラハムは言っています。もと金持ちは生前、悲惨な境遇のラザロを憐れむことなく、自己の快楽だけを求めて贅沢な暮らしをしていました。また、ラザロはただ神の助けだけに依り頼んで祈っていたことでしょう。しかし、そのような倫理的宗教的な資質はいっさい問題にされていません。ただ、生前彼は良いものを受け、ラザロは悪いものを受けていたという事実だけが理由とされています。生前と死後は、善い境遇と悪い境遇が単純に逆転しています。
 この逆転はルカの思想の特色です。正確に言えば、ルカはこのような終末的逆転の待望に燃えていた最初期共同体の一面を忠実に伝える歴史家であった、と言うべきかもしれません。イエスはその福音告知において「貧しい者たち」への祝福を宣言されました。その告知を、マタイは「山上の説教」の冒頭で、イスラエルの知恵思想によって霊的倫理的勧告に仕上げています。それに対してルカは、「平地の説教」の冒頭で、貧しい者たちへの祝福と対比して、富める者たちへの断罪をつけ加えています(六・二四〜二六)。ルカが伝えるイエスは、来るべき時代における富裕階級と貧困階級の逆転を唱える革命家と理解されかねない面があります。事実、イエスをそのような革命家の一人と見る説もあります。

地上の富に対するルカの思想、いや最初期共同体の対し方の問題は、大きな主題であり、ここで扱うことはできません。別の機会に触れたいと思います。

 イエスは社会体制を変革するためとか政治権力の在り方を変えるために来られた革命家ではありません。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(二〇・二五)と言われた方です。イエスはあくまで「神の支配」を告知するために世に現れた方です。「神の支配」は権力による支配ではなく、人間の霊性における恩恵の支配です。その「神の支配」においては、目に見える人間の世界での価値評価が逆転しています。「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるもの」なのです。これの裏側は、「人に卑しめられるものは、神に尊ばれるもの」となります。この逆転をイエスはたとえ話で語っておられるのです。
 この「人に尊ばれるもの」を経済的価値に限定すると、イエスは革命家のように見えてきますが、「人に尊ばれるもの」は財産とか富という経済価値だけではありません。人間社会で価値あるものと評価されるすべて、とくに内面的なものです。経済的に豊かな生活とか、学問・技術・芸術など文化的に豊かなことは、たしかに価値あるものであり、熱心に追求すべきものです。しかし、それをもつことを誇り、神との関わりにおいてそれらを持つ自分を価値あるものとする在り方が「神には忌み嫌われるもの」になります。イエスはここで、とくに人の前に自分の宗教的価値を誇るファリサイ派の人々を考えておられると見られます(一五節)。ここの「金持ち」はファリサイ派の人々を指す象徴です。
 それに対して、イエスは「人に卑しめられるものは、神に尊ばれるもの」の実例としてラザロの姿を語られます。卑しいラザロの姿は、ユダヤ教社会で「罪人」として卑しめられている「貧しい人たち」の象徴です。彼は自分の中に何も誇るものがなく、何ももたない者として神の前に出ています。神の前に胸を打って「罪人のわたしを憐れんでください」としか祈れない「こころ砕かれた者」が、神から義とされる(=受け入れられる)のです(一八・一三)。
 このように見ると、この「金持ちとラザロ」のたとえも、イエスの「恩恵の支配」の福音を、当時の死後の世界の観念を舞台として指し示すたとえであることが見えてきます。そうであるならば、舞台となった死後の世界の姿を、絶対化したり固定化することには注意しなければなりません。それぞれの民族、それぞれの宗教には固有の死後観があり、その内容も用語も違います。それに向かって、ここで見たユダヤ教の死後観を絶対的なものとして押しつけるのではなく、現在生きている者への「恩恵の支配」を告知するたとえとして、この「金持ちとラザロ」の例話を理解することが必要です。

 「『そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない』」。(一六・二六)

 陰府でもだえ苦しみながら、「ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」と懇願したもと金持ちに対して、アブラハムは現在の二人の境遇が地上での生涯の必然的な結果であることを語りましたが(前節)、「そればかりか」と言って、ラザロを送ることができない理由をさらに付け加えます。それは、「わたしたち」、すなわちアブラハムを代表とする義人たちがいる楽園《パラディソス》と、「お前たち」、すなわち地上で遊び暮らしていた金持ちがいる陰府《ハデース》との間には、越えることができない「大きな裂け目が置かれている」(直訳)からです。それを越えてラザロを陰府に遣わすことはできません。
 ここに用いられている「裂け目」《カスマ》(新共同訳では「淵」)は、死後の世界の二つの領域(楽園と陰府)が越えることができない断絶した領域であることを象徴しています。このような死後観は、地上の人間の目には隠されている霊界の奥義を語る黙示文書によって形成されたものと考えられます。黙示文書にこの語が出てくるのは稀ですが、義人と罪人が行く領域が截然と分かれていることは共通しています。旧約続編に収録されているものの中では、「エズラ記(ラテン語)」にもこの二つの領域の分断が語られています。たとえば同書の七章三六節には、「懲らしめの穴が現れ、その反対側には安息の場所がある。また、地獄のかまどが示され、その反対側には喜びの楽園が見える」とあります。

死者の中から生き返る者

 一五章の「放蕩息子のたとえ」が別の焦点(弟息子の帰郷と兄息子の抗議)をもつ二つの物語で構成されていたように、この「金持ちとラザロのたとえ」も、別の焦点をもつ前半(一九〜二六節)と後半(二七〜三一節)の二つの物語で構成されています。前半では、尊ばれるものと卑しめられるものの生前と死後の世界での逆転が焦点となっていましたが、後半では、死者の中から生き返った者の地上での告知が主題になっています。

 「金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください』」。(一六・二七〜二八)

 金持ちは、「アブラハムの懐」、すなわち楽園から自分がいる陰府にラザロを遣わすことができないと告げられて、「では、わたしの父親の家にラザロを遣わしてください」と願います。父親の家にいる五人の兄弟が「こんな苦しい場所」に来ることがないように、よく言い聞かせてほしい、というのです。死んだラザロが地上の人たちのところに行くことは、陰府から地上の世界に戻ることです。古代の人たちは、そのような陰府からの地上の世界への帰還はあり得ることとして語っていました。ギリシアの世界ではオルフェウスの神話が有名です。オルフェウスは死んだ妻を陰府から連れ戻すために、陰府の世界に降ります。結局は、連れ戻すときに後ろをふりむかないという約束に背いたために妻を地上に連れ戻すことはできませんでした。日本にも「黄泉帰り(よみがえり)」という言葉があります。死んで黄泉(陰府)に下った人が地上に帰ってくることです。この物語の金持ちは、ラザロが陰府から地上に戻って、まだ地上にいる五人の兄弟に警告するように取りはからってください、とアブラハムに懇願します。

死んだ人が生き返ってこの世に帰ってくることを指す「黄泉帰り」(よみがえり)と、イエスに起こった「復活」は違う事柄であり、この二つの用語は区別しなければなりません。この区別については、拙著『対話編・永遠の命 ― ヨハネ福音書講解T』436頁を参照してください。

 「しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい』」。(一六・二九)

 この懇願に対してアブラハムは、その必要はないと答えます。というのは、この金持ちと兄弟たちはユダヤ人であり、ユダヤ人には神から遣わされたモーセと預言者たちが神の戒めと神の言葉を伝えているのだから、モーセが伝えた律法と預言者が伝えた神の言葉に耳を傾けて従うならば、このような苦しい場所に来ることはないのだからです。

 「金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう』」。(一六・三〇)

 このアブラハムの答えに、金持ちはさらに願います。彼自身、この世にいる時にはユダヤ教徒としてモーセ律法を知り、預言者の教えも会堂で聴いていたのですが、このように陰府でもだえ苦しむ結果になったのです。兄弟たちもユダヤ教徒として安息日には会堂でモーセ律法を学び、預言者の言葉に耳を傾けていますが、同じような生活をしている彼らも同じように陰府に落ちることになります。しかし、もし死んだ者が地上に戻り、死後の世界のことを語り伝えて、楽園の喜びと陰府の苦しさを知らせてやれば、彼らも悔い改めて真剣にモーセ律法と預言者の言葉に聴き従うようになり、このような苦しい場所に来ることをから逃れることができるはずだ、と訴えます。
 この金持ちの訴えは、人間社会の宗教の姿を代弁しています。いくら正義や道徳を説いても人間は善くならないが、生き返って死後の世界から戻ってきた者が楽園の楽しさや陰府の苦しみを伝えてやれば、そのような苦しい場所に落ちることがないように、人々はこの世で善くなるように真剣に努めるであろうとして、宗教は楽園や極楽の楽しさと、陰府や地獄の恐ろしさを見てきたように説きます。しかし、死後の世界から帰ってきて、その様子を伝えた者はいません。死後の世界の様子を語る言葉はすべて、現に生きている人間の霊性の姿を語る象徴語です。霊的なリアリティーに基づかない、想像で語られる死後世界の物語は、現実の人間の霊性を善や知恵へと変えていく力はありません。そのことをアブラハムは、次のような言葉で金持ちに説きます。

 「アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう』」。(一六・三一)

 ユダヤ教徒には、神からの語りかけの言葉としてモーセ律法と預言者の書が与えられています。その言葉に聴き従うことが、神との交わりの中で霊性を高め、神の祝福の中で喜びと平安に生きる道なのです。モーセと預言者に聴き従おうとしない者には、たとえ死者の中から生き返ってこの世に戻り、死後世界の楽園や陰府の様子を語る者があっても、その言葉はモーセと預言者によって与えられた神の言葉以上のことはなしえないのです。
 このことは、ユダヤ教黙示文書の意義について考えさせます。ユダヤ教にはヘレニズム時代に黙示思想が起こり、多くの黙示文書が生み出されました。「黙示」というのは、人の目には隠されている神の秘密が特別に選ばれた人に啓示されて人に伝えられることです。その選ばれた人にはエノクとかエリヤとかダニエルなど、イスラエルの歴史に現れた義人たちがいます。彼らに啓示された神の秘密は、おもに天界の実相と将来に対する神の計画です。たとえば「エノク書」では、神や天使や諸霊がいる天界は、地上の人間は見ることができず隠されていますが、その実相が天界をめぐってきたエノクに天使によって示されます。その実相がエノクによって人々に語られたとされるものが「エノク書」という黙示文書です。「ダニエル書」は、これから神がなそうとされている救いの働きの計画(現在それは神の御旨の内に隠されています)を幻の形でダニエルに示され、異教の王の迫害下にいる神の民に伝えたものです。
 エノクは死者の中から生き返った者ではありませんが、天界の隠された実相を見て地上に帰ってきた(とされる)人物です。そのような人物から死後の魂が行く天界の実相を語り聞かされても、それで悔い改めたユダヤ人は少数で、大部分はこの金持ちのように、モーセ律法と預言者の書を聴いても行わず、天界のことを語る黙示文書などは無視して暮らしていたのです。
 ここで「死者の中から生き返る者」が言及されていることから、この言葉は、イエスの復活以後の時期に共同体が行った復活者イエスの告知を受け入れないユダヤ人たちを批判している言葉であり、たとえそのものはイエスのものであっても、三〇〜三一節は後からの付加であるとする見方があります。しかし、復活を示唆する表現があるからという理由で、これを復活を告知した最初期共同体から出たものとする必要はありません。イエスご自身、ご自分の受難の死を復活の光の中で見ておられました。そのイエスが、「死者の中から生き返る者」の告知が受ける扱いを予見されたことは十分にありうることです。このたとえ全体をイエスが語られたと理解することは十分可能です。
 イエスは「地獄」を真剣に問題にされました。しかし、イエスは地獄(陰府と厳密に区別されていません)に落ちる恐怖を説いて悔い改めを勧めた方ではありません。イエスは、あくまで「恩恵の支配」を告知して、恩恵が来ているのだから神に立ち帰りなさいと説かれたのです。このたとえにおいても、陰府での苦しみを描いて、悔い改めを迫っておられるのではなく、神の無条件絶対の恩恵の支配を描いておられるのです。先にのべたように、わたしたちは、現在生きている者への「恩恵の支配」を告知するたとえとして、この「金持ちとラザロ」の例話を理解することが必要です。

ラザロはイエス?

 先にイエスが語られたたとえの中で、登場人物の名があげられているのは、ここのラザロだけであることの意味を問題にしましたが、ここでその問題に帰りましょう。そこで見たように、「ラザロ」という名は「神は助ける」という意味の名です。イエスがこの「ラザロ=神は助ける」という名を用いられる時、誰を念頭においてこのたとえを語っておられるのでしょうか。
 このたとえが語られた理由ないし目的を理解するには、それが語られた文脈が重要です。このたとえは、イエスを批判するファリサイ派の人々や律法学者たちに反論するために(一五・一〜三)語られたたとえ集(一五〜一六章)の最後に置かれたたとえです。この「金持ちとラザロ」のたとえがファリサイ派の敬虔とか宗教に対する反論であることは、このたとえが、イエスを嘲笑したファリサイ派の人々に向かってイエスが「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」(一六・一四〜一五)と反論され、その例話として語られたという文脈(前述)からも確認されます。
 そのような意図で語られたたとえであるならば、このたとえの「金持ち」はファリサイ派の人々を象徴し、「ラザロ」は批判嘲笑されているイエスを指しているのではないか、という示唆が浮かび上がります。たしかにこのたとえの金持ちは「人に尊ばれるもの」をすべて得ている者の姿です。そのように、ファリサイ派の人々も「人に自分の正しさを見せびらかす」ことによって、「人に尊ばれるもの」になり、この世では「義と敬虔」を独占しているように振る舞っています。それに対してイエスは、「人に尊ばれるもの」は何もなく、むしろラザロの姿が象徴していたように、「人に卑しめられるもの」だけの姿をしておられます。それは、預言者イザヤが「主の僕」について預言した通りです。

 「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」。(イザヤ五三・二〜三)

 イエスはこのたとえで人間として扱われないラザロの悲惨な状況を描いておられますが、それはイスラエルの民から見捨てられ、十字架上の処刑という最も卑しい姿で民の外に放棄されるイエスの事実からすれば、誇張ではなくなお不十分な描きかたです。
 ところが、地上で(=この世)で義人であることを誇り、神の栄光にあずかる者であることを主張しているファリサイ派の人々は、来るべき世では「神に忌み嫌われるもの」として、神から裁きを受けることになります。それに対して、地上では「人から忌み嫌われ」、十字架の辱めを受けたイエスは、「神から尊ばれるもの」として、高く挙げられ、栄光の座に着かれます。人から見捨てられる者ですが、「神が助ける」からです。神はこの方を死人の中から復活させて高く挙げられるのです。「神は心をご存知である」から、すなわち人間の奥底の姿をご存知であるからです。神は、「人から尊ばれるもの」をもつことを誇るファリサイ派の人々の心の高ぶりと偽善を見ておられます。
 イエスは、そのことが起こる前に、死後の世界を舞台としたたとえを用いて、ご自身の来るべき十字架の死と、それに続く復活の栄光を語っておられるのではないか、と考えられます。最後の「死者の中から生き返る者」が語りかけても、モーセと預言者に耳を傾けない者(イスラエル)は悔い改めないであろうという言葉も、このような理解で読めば、イエスの言葉として自然に理解できます。
 キリスト教会はこのたとえから多くのことを読み取り、また読み込んで、このたとえを用いて説教してきました。金持ちは貧しいラザロに憐れみの心を持たなかったので陰府の苦しみに落ちたのだから、憐れみの心を持って貧しい人を助けるようにとか、ラザロは神の助けだけを祈り求めていたので楽園に入ったのだから、苦境に落胆せず祈り続けるようにとか、死後の世界に備えて教会の教えに聴き従うようにとか、様々な用い方をしました。それはそれなりに意味のあることですが、イエスが語られた時の意味は、ここで見たように、ファリサイ派に対してご自身の姿を語るたとえであると考えられ、そのように読むときに、このたとえの真義が輝いて見えてきます。