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第一四章 神の国はいつ来るのか

― ルカ福音書 一七章〜一八章(一〜八節) ―

はじめに

 ルカは、ガリラヤでの福音活動を描く第一部と、エルサレムでの受難を語る第三部ではほぼマルコに従っていますが、その間に第二部として長い旅行記を置いて、そこをマルコにはない「語録資料Q」の素材や自分だけが持っている独自資料を自由に用いる物語空間としています。
 ルカ福音書一七章においては、主人に仕える僕の比喩(一七・七〜一〇)や、十人のいやし(一七・一一〜一九)など、ルカだけが持っている特殊資料も使われていますが、むしろマルコやマタイと共通の資料をルカ独自の形に構成している仕方に、ルカの特色が表れています。そのことはとくに二〇〜三七節の「神の国はいつ来るのか」の段落によく示されています。
 一七章の前半は次の三つの段落に区切るのが適切と考えられます。理由は本文で述べますが、一〜一〇節は別の主題をもつ(三つではなく)二つの段落に区切るべきです。

   兄弟間の交わり(一〜四節)
   信仰を増し加えてください(五〜一〇節)
   十人のいやし(一一〜一九節)

 後半の「神の国はいつ来るのか」(二〇〜三七節)の段落は、次章の最初の段落「やもめと裁判官」のたとえ(一八・一〜八)と一組になって、ルカが来臨遅延の問題に対処するために置いた区分(セクション)を構成します。

100 赦し、信仰、奉仕(17章1〜10節)

兄弟間の交わり

 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。」。(一七・一〜三a)

 「小さい者をつまずかせる罪」についての語録は、マルコ(九・四二)とマタイ(一八・六〜七)にもあり、マルコとマタイではこの語録はイエスが子供を祝福された記事の後に置かれています(マタイではすぐ後、マルコではやや離れて)。そこでは「これらの小さい者の一人」は子供を指すことになりますが、ルカでは子供の祝福の記事は先行せず、 別の文脈に置かれています。すなわち、ルカでは後続(三〜四節)の兄弟の犯す罪への対処についての語録と一対にされています。したがって、ルカにおいては「これらの小さい者の一人」は、兄弟たちの共同体の中での「小さい者」を指していることになります。ルカはこの一対の語録を、イエスに従う弟子たちの共同体において、小さい者(信仰の浅い者や重要視されていないメンバー)をつまずかせることなく、赦しあって、亀裂や疵のない恩恵の共同体を形成するように励ます記事にしています。

底本のギリシア語原典やNRSVは、二節で区切らず、一〜四節を一段にしています。新共同訳もそれに従っています。

 イエスは、人間の能力や価値と無関係に「貧しい者、小さい者」を受け入れてくださる父の恩恵を告知されました。そのようなイエスの恩恵の告知によって招かれた者たちの共同体では、「小さい者」を無視したり軽蔑したりして、その人が共同体にとどまることができず、信仰から脱落していくようなことがあってはなりません。それはその人をつまずかせ、倒れさすこととなり、恩恵によってご自身の民を招かれた神への大きな罪となります。イエスはこの罪の重大さを、「首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」という、イエス独特の激しい比喩で強調されます。
 三節最初の一文「あなたがたも気をつけなさい」は、後続の「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい」には意味が適合せず、先行する文を受けて、「小さい者をつまずかせることのないように気をつけよ」と続くと見るべきであるので、この文の後で区切ります。底本もこの一文は小文字で始めていますが、次の「もし兄弟が罪を犯したら」は大文字で始めて、この文の後に区切りを置いています。
 小さい者をつまずかせる罪の重大さを語る語録の後に、マルコは片方の手や足や目が「あなたをつまずかせる」ならば、その手や足や目を切り捨てて、地獄の火に落ちることなく命にあずかるようにせよ、という自分のつまずきに関わる厳しいイエスの言葉を続けています(マルコ九・四三〜四八)。マタイはマルコに従っていますが、ルカはこの部分を欠いています。ルカがこの部分を取り上げなかった理由はおそらく、続きに罪を悔い改める兄弟を赦すべきことを説く語録を置いて、この一段(一〜四節)を恩恵の共同体を目指す語録集にするため、その文脈と整合しないこの部分を採り入れなかった(略した)ものと考えられます。

 「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」。(一七・三b〜四)

 共同体内の小さい者をつまずかせないように気をつけるように促した後に続けて、ルカは罪を犯した兄弟の扱いに関する語録を置きます。「もし」以下の三節の文は、マタイ(一八・一五)にほぼ同じ内容の語録があり、「語録資料Q」から採られたと見られます。この語録を先の「小さい者をつまずかせる」罪の重大さを語る言葉の続きとして聴くならば、この「罪を犯す」は、共同体の中の「小さい者」を無視したり軽蔑して、その人を傷つける行為を指すことになります。そのような言動を見かけたら、そのような言動はしないように戒めるべきであると求めていることになります。
 しかし、ここの「罪を犯す」をそのように狭く限定する必要はないでしょう。共同体においてキリスト者としてふさわしくない行為、怒ったり、罵ったり、心を傷つける言動を広く指すと見てよいでしょう。そのような言動があれば、それを放置することなく、そのようなことをしないようによく語り聞かせなさいと勧めます。マタイ(一八・一五)の並行箇所では、「行って二人だけのところで忠告しなさい」となっています。語り聞かせた結果、その人が自分の言動が悪かったと気づいて悔い改めるならば、「赦してやりなさい」と勧めます。すなわち、その犯した罪の行為のゆえにその兄弟を共同体の交わりから放逐するようなことはせず、今までのように受け入れなさいと勧めています。このことをマタイの並行箇所は、「行って二人だけのところで忠告しなさい」の後に、「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と表現しています。
 このように、ここの「罪を犯す」は、「聖霊を汚す罪」のように救いの成否にかかわる罪ではなく、共同体の兄弟間の交わりにおけるキリスト者として不適切な言動を指していると理解できます。この理解は、この「罪を犯す」ことの実例として、「あなたに対して罪を犯す」場合が取り上げられていることからも補強されます。「あなたに対して罪を犯す」は、神に対する背神・背信の罪ではなく、誰かがあなたに悪をなし、心を傷つけるような行為をした場合を指しています。
 ルカはこの場面で、「彼があなたに対して一日に七回罪を犯しても、あなたは七回その人を赦すべきである」という「語録資料Q」の語録に基づいて書いていると推察されます。イエスが「七回どころか、七の七十倍までも赦せ」と言われたとする印象深い語録が、これと並行するマタイ(一八・二二)に伝えられていますが、これはペトロが「兄弟がわたしに対して罪を犯したら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と訊ねたのに対して、兄弟を赦すことの重要性を強調するためにマタイが拡張した結果ではないかと推察されます。

 Robinson et al., "The Critical Edition of Q" は、この箇所(Q一七・四)の原文を次のようにしています。「そして、もし彼(あなたの兄弟)が一日に七回あなたに対して罪を犯すならば、あなたもまた七回彼を赦すべきである」。マタイの並行箇所におけるペトロの質問は、この語録がこの形で知られていたことを示しています。

 こうして、この一段(一〜四節)は共同体内の交わりを傷つける行為に対する対処の仕方を勧告した内容でひとまとまりをなしています。

信仰を増し加えてください

 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」。(一七・五〜六)

 ここでやや唐突に信仰を増し加えるという主題が出てきます。先行する段落と強いて関係づけるために、罪を犯した兄弟を七回も赦すことができるように「信仰を増してください」と願ったのだという説明がされることもありますが、これは無理で(他人の罪を赦すために信仰の力が必要とされることはありません)、別の場面で使徒たちが自分たちの信仰の弱さを感じて、いつも信仰によって力強い働きをしておられる主に、このようなお願いをしたことがあり、それをルカがここで(とくに前段との関係なく)取り上げたものと見られます。その場面とは、おそらく悪霊を追い出すとか病気をいやすなど「力ある働き」をする場面で、使徒たちは力の不足を感じることがあったのでしょう(マタイ一七・一九〜二〇参照)。
 先の段落(一〜四節)では、「イエスは弟子たちに言われた」となっていますが、この段落では「使徒たちは主に言った、・・・・そこで主は言われた」と、「使徒たち」と「主《ホ・キュリオス》」との間の対話になっています。ここでは用語にこだわって、「イエスと弟子たち」の間の対話はイエスが地上におられたときの出来事、「使徒たちと主」との間の対話は、復活後に福音告知のために遣わされた使徒たちと復活の主との対話である、と区別する必要はないと考えられます。ルカは、本来復活の主によって福音告知のために派遣された者を指す「使徒」という称号を、「十二人」については地上の働きの時期から用いており、「主《ホ・キュリオス》」という称号も、これまでに見てきたように福音書の中でしばしばイエスを指すのに用いています。たしかに、福音書は地上のイエスの働きを描くものですが、その中に復活者キリストの告知が重なっており(ヨハネ福音書だけでなく共観福音書においても)、両者の区別が困難な場合もあります。この場合は、表現が具体的であることからも、ここにはイエスの語録が用いられているとしなければなりませんが、弟子たちがこのイエスの語録を、復活後の福音告知の働きおいて「主《ホ・キュリオス》」からの言葉として聴いていたので、このような語り方になり、その語りをルカがそのまま伝えたと見ることができます。
 六節の「この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」という語録は、マタイにも同じ内容の語録が少し違った形で伝えられています。マタイ(一七・二〇)では「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる」となっており、「あなたがたにできないことは何もない」という言葉が続いています。マルコ(一一・二三)にも、「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる」という形で伝えられています。
 弟子たちが「わたしどもの信仰を増してください」とお願いしたとき、イエスはまずからし種の比喩を用いて、信仰とは大きい小さい、多い少ないという量の問題ではなく、信じるか信じないかの問題であることを教えられます。信じるという行為は、その大きさがからし種ほどか大きな岩ほどかは問題ではない、信じるという全身的行為があるとき、人間の常識と理解ではありえないことが起こるのだ、とイエスは言っておられるのです。陸から海に移るのが桑の木でも山でも同じです。そのようなことは人間の常識と理解では起こりえないことです。しかし、わたしたちが「信じる」という行為をするとき、その起こりえないことが起こる、とイエスは断言されます。これはイエスご自身が普段なしておられる「奇跡」の秘密を語り出された言葉として重要です。
 量を問題にするのは、信仰を何か自分の内にある能力のように見ているからです。イエスのお答えは、その考えを根底から否定します。信仰とは何か自分の内にある能力とか資格ではなく、徹底的に神の信実と能力に自分を明け渡して、神の言葉に従うことです。神の信実だけを根拠にして、神の言葉に従うとき、神は御自分の言葉を必ず成し遂げられます。神は偽ることがありえない方であり、為しえないことがない方だからです。この消息がたとえで語り出されます。

 「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」。(一七・七〜一〇)

 このたとえ話は、ほとんどの翻訳と注解書で、先行する「信仰を増してください」という主題から切り離されて、別の主題を扱っているとし、別の標題がつけられています。たとえば岩波版佐藤訳はこの一段に「謙遜のすすめ」という標題をつけて、一つの段落として扱っています。新共同訳も、この部分には「奉仕」という標題を割り振り、五〜六節の「信仰」から区別しているようです。しかし、七節には一節と五節にあった新しい場面とか主題を導入する句はありません。六節の「からし種一粒ほどの信仰があれば・・・」を説明するたとえ話として自然に続いています。ただ、その関連が理解しがたいので、切り離して別の主題を扱う段落としているようです。
 この一段は、新しい場面を導入する句がないという形式上の理由だけでなく、内容からも六節の「からし種一粒ほどの信仰」を説明するたとえとして理解すべきである、とわたしは考えます。このたとえ話をたんなる謙遜の勧めとするのは、イエスをあまりにも平凡なたとえの語り手とすることであり、そんなあまりにも当たり前のことを語られるイエスを想像することはできません。イエスのたとえは「神の国」のことについて、また信仰のことについて、わたしたちの常識を根底から揺さぶる鋭い言葉です。このたとえを「謙遜のすすめ」とか「奉仕の心構え」と理解することは、宴席に招かれた客が上席を選ぶのを見て語られたイエスのたとえ(一四・七〜一一)をたんなる謙遜の勧めと解釈するのと同じ誤りです(当該箇所の講解を参照)。
 このたとえは、主人に対する僕(原文は奴隷《ドゥーロス》)の立場を記述した上で(七〜九節)、それを比喩として「あなたがたも(その奴隷の立場と)同じことだ」と言って、「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」と結論(一〇節)を述べています。この結びの一〇節の言葉が、「わたしどもの信仰を増してください」という使徒たちの願いに対する主の回答となっています。
 「わたしどもの信仰を増してください」という使徒たちの願いに対して、主は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」と言って、信仰とは大小とか強弱というような量とか程度の問題ではなく、信じるという行為をするかしないかの問題であることを示された後、「信じる」という行為の質を教えるためにこの主人に仕える僕のたとえを語られます。
 このたとえの眼目は、信仰の行為とは人間の側の価値とか資格とか能力によるものではないことを示すためです。使徒たちは、信仰とは何か自分の内にある能力のようなものと考えていたようです。ですから、それを増し加えていくならば、さらに力強い働きができるはずだと考えて、それを増し加える方策を主に尋ねています。それに対する主の答えは、そのような信仰に対する弟子たちの理解を根底から覆します。
 このたとえによって主は、信仰とは神が命じられたことを、自分の側に何の理解も根拠も能力もなくても、それが神の言葉であるという理由だけで、神の言葉に従って行動することである、と教えておられるのです。このように神の言葉に従って行動するとき、神がご自分の言葉を成らせて、人の目には奇跡と見える力ある働きをなされます。そのとき、わたしたちはそれが自分の能力でなされたものでないことを自覚して、「わたしたちは当然のことをしただけであり、わたしたちには何の価値も能力もありません」と告白するのです。
 このような意味の信仰によって命じるとき、その言葉を成し遂げるのは神ですから、できないことはありません。イエスはこのことを、「この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」と、イエス独特の意表を突く表現で語っておられるのです。
 この主人に仕える僕のたとえは、ルカだけにあるルカの特殊資料です。「わたしどもの信仰を増してください」という「使徒たち」の願いも、ルカだけにあり、他の福音書にはありません。使徒たちが、自分たちの信仰理解をくつがえすようなイエスのたとえを聴いたことを思い起こして語り伝えたものを、何らかの経路で入手したルカが、このような信仰についての主と使徒たちの対話として構成したと考えられます。

この一七章一〜一〇節の区分は、様々な主題の語録が集められているだけで、統一的な主題を見出すことはできないとして、三つまたは四つの段落に分けることが多いようです。新共同訳は、この区分を一つの段落としていますが、それに「赦し、信仰、奉仕」という三つの標題をつけています。NRSVは、この区分を(新共同訳と同じ)三つの段に分けて、全体に「イエスの語録(複数形)」という標題をつけています。岩波版佐藤訳は、この区分を四つの段落に分け、それぞれ「躓きに面して、ほか」、「兄弟の罪」、「芥子種ほどの信」、「謙遜のすすめ」という標題を与えています。アーラントの「四福音書対観」も、これと同じく四つの段落に分けています。このような分け方は、おもに五〜六節と七〜一〇節の関連を理解することができないことから生じた結果であると見られます。しかし、この講解で見たように、一〜四節は共同体内における信仰の交わりの形成に関する勧告であり、五〜一〇節は信仰に関する主と使徒たちの対話という、それぞれ独自の主題の統一性のある内容ですから、わたしはこの区分は二つの独立した段落として扱い、次のように段落分けすべきであると考えます。
 兄弟間の交わり(一〜四節)
 信仰を増し加えてください(五〜一〇節)