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第一〇章 終わりの日の裁きを前にして

       ― ルカ福音書 一二章 〜 一三章(九節) ―

はじめに

 ルカ福音書の中央部、すなわち三部で構成されている福音書の第二部は、「ルカの旅行記」と呼ばれ、ガリラヤからエルサレムに向かわれるイエスと弟子の旅の期間という建前をとっていますが、実際には旅程やその期間の出来事を語るところはごく少なくて、ほとんどが「語録資料Q」やルカの特殊資料(L)を用いて構成された、ルカ独自の記事です。
 ガリラヤでの活動を描く第一部と、エルサレムでの受難と復活を語る第三部では、ルカはほぼマルコに従って書いていますが、この第二部ではマルコの物語の枠から離れて、手元にある資料を活用し、ルカ自身の構想によって物語を進めていきます。
 この「ルカの旅行記」がどのような原理で構成されているのか、その構想を正確に理解することは困難で、様々な学説があります。しかし、一見ばらばらに見える段落配置にも一定のまとまりがあることが見られます。今回扱う部分(一二・一〜一三・九)も、終わりの日の裁きを前にした歩みと心構えを説くという主題が一貫していて、一つの区分(セクション)を構成していると見られます。このような切迫した終末を語る語録とルカ自身の終末観の関係という問題は、後の適当な場所で扱うことにして、ここでは語録群を講解することに専念します。
恐れずにイエスを言い表す

 新共同訳では三つの段落に細分されていますが、一二章の一〜一二節は一つの主題に貫かれた小区分を形成していると見られます。その主題は、終わりの日の裁きを前にして、この地上でイエスを言い表すことの必要性と重要性です。


74 偽善に気をつけさせる(12章1〜3節)

 とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。(一二・一 前半)

 イエスの病人をいやし悪霊を追い出す働きを見て、多くの群衆がイエスの教えを聴こうとして集まってきます。そのような群衆がいるところでも、イエスはまず弟子たちに語りかけ、イエスに従う者としての心構えを教えられます。群衆もそれを聴いていて、途中で問いかけイエスが答えられたりしますが(一三節)、その問答を機縁にしてまた弟子に教えられます(二二節)。それで、イエスの言葉が弟子に向けられたものか皆に向けられたものかが問題にされたりします(四一節)。弟子に語られた言葉が続いた後、「イエスはまた群衆にも言われた」と対象が再び変わります(五四節)。このような状況は、一三章一〇節で「安息日にイエスはある会堂で教えておられた」とされる箇所まで続きます。このような状況の継続が、終わりの日の裁きを前にした歩みと心構えという主題が一貫している事実と共に、一二章一節〜一三章九節をひとまとまりの区分と見ることを促します。

 「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である」。(一二・一 後半)

 「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」というお言葉は、マルコにもマタイにもあります。ただその語録が用いられている状況がルカと違います。マルコ(八・一四〜一五)では、ガリラヤ湖を渡る船の中で、パンを十分に持っていなかったことについてイエスが語られた言葉として用いられています。マルコでは「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に気をつけなさい」となっています。マタイ(一六・五〜六)でも状況はほぼ同じで、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」となっています。もはやユダヤ教の中の区別に関心のない異邦人に向かって著作しているルカは、「ヘロデのパン種」とか「サドカイ派の人々のパン種」は略して、ファリサイ派をユダヤ教の代表として扱っています(ルカの時代のユダヤ教はファリサイ派だけでした)。
 イエスがこのお言葉を弟子たちに語られたことの意義は、様々な解釈があり議論が残りますが、ルカは明確に一つの解釈を与えています。すなわち、マルコにもマタイにもない「それは偽善である」という句を加えて、イエスが注意された「ファリサイ派の人々のパン種」とは偽善であると明言しています。当時のキリスト者共同体はユダヤ教を偽善の体系と見ていたことが、他の文献からもうかがえます(たとえば『ディダケー』八・一)。
 「偽善」というのは、もともと役者がつける仮面から来た語で、外から見えるところが中身と違うことを指します。ユダヤ教が人間の内面的な悪をそのままにしながら外に見える行為が律法に適う者を義人としていたことを、キリスト者共同体は「偽善」として激しく攻撃しました(マタイ二三章)。ルカはこの「ファリサイ派のパン種」の語録を、ユダヤ教の偽善との対比で、イエスの弟子は人間の内面の奥底まですべてを見通される神の前に真剣に生きることを求める文脈に置きます。

 「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」。(一二・二〜三)

 この「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」という二節の言葉は、当時のユダヤ人の間で諺とか格言のように使われていたと見られます。イエスはこの格言をご自身の中に到来している「神の国」の性質を指す言葉として、「ともし火」のたとえの中で用いられました(マルコ四・二一〜二二の講解を参照)。同じ言葉を、ルカはマルコと違う文脈で用いています。ルカの文脈では、この格言的な言葉は、いくら覆い隠しても終わりの日に神が裁かれるときにはすべてが明らかになるのだから、自分の本当の姿を外面的な行為で飾って隠そうとすること(偽善)は通らないし、無意味であると言っていることになります。
 ルカは、次ぎの三節の語録も「だから」という語で続けて、同じ意味で用いています。「暗闇で言ったこと」や「奥の間で耳にささやいたこと」というのは、人が隠れてしたことを指しています。どのように覆い隠しても、神の前にはすべてが明らかになることが、「明るみで聞かれ」とか「屋根の上で言い広められる」という表現で語られています。
 ところが、同じ語録がマタイでは違った文脈に置かれ、違った意味で用いられています。マタイではここの二節と三節の言葉は、イエスが弟子たちを「神の国」を告げ知らせるために送り出されるとき、「人々を恐れるな」と前置きして語られた言葉になっています(マタイ一〇・二六以下)。ここの三節の言葉もマタイでは、「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」と、秘やかにイエスから教えられた「神の国」の奥義を広く大胆に告知するように励ます言葉になっています。ルカでは「〜されるであろう」と未来形の事実ですが、マタイでは「〜しなさい」と命令形です。
 このように、同じイエスの語録が各福音書記者によって違った文脈に置かれることで、違った意味合いを帯びることが分かります。他の福音書における意味は、その福音書の講解に委ね、ここではルカの言おうとするところに耳を傾けていきましょう。