第三節 イエスについての証し
31 「もしわたしがわたし自身について証しをするのであれば、わたしの証しは真実ではない。 32 わたしについて証しをする者は他にあり、彼がわたしについてする証しは真実であることを、わたしは知っている。 33 ヨハネのもとに人を送ったのはあなたたちであり、彼は真理のために証しをした。 34 だが、わたしは人間からの証しを受けない。しかし、あなたたちが救われるために、このことを言っておく。 35 彼は燃えて輝くともしびであった。あなたたちはしばらくの間、彼の光の中で楽しもうと願った。
36 だが、わたしにはヨハネよりも大きな証しがある。父が、成し遂げるようにとわたしに与えてくださった業、すなわち、わたしが行っている業そのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのである。 37 また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださってきた。あなたたちはいまだかってその方の声を聴いたこともないし、お姿を見たこともない。 38 また、あなたたちはその方のお言葉を自分の内に留めていない。その方が遣わした者をあなたたちは信じないからである。39 聖書を調べてみなさい。あなたたちは、聖書の中に永遠の命があると考えているのだから。だが、聖書はわたしについて証しをするものである。 40 それなのに、あなたたちは命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
41 わたしは、人からの誉れは受けない。42 しかし、あなたたちの中に神への愛がないことを、わたしは知っている。 43 わたしが父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし他の者が自分の名によって来るならば、あなたたちは受け入れるのであろう。 44 お互いの間で誉れを受けるのに、唯一の神からの誉れを求めないあなたたちは、どうして信じることができようか。
45 わたしがあなたたちを父に告発すると考えるな。あなたたちを告発するのは、あなたたちが望みをかけてきたモーセである。 46 あなたたちがモーセを信じたのであれば、わたしをも信じたであろう。彼はわたしについて書いたのであるから。 47 だが、彼が書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしの語ることを信じることがあろうか」。
証人としての洗礼者ヨハネ
先行する段落(五・一九〜三〇)では、イエス自身が自分のことを「父から遣わされた子である」と証ししておられます。それに対してユダヤ人からは、「あなたは自分について証しをしている。だから、あなたの証しは真実ではない」(八・一三)という批判が出ることを前提にして、その批判に応えるためにこの段落が始まります。もしわたしがわたし自身について証しをするのであれば、わたしの証しは真実ではない。(三一節)
人が自分自身について立てる証言は信用できないとするのが、ラビのユダヤ教における原則です。イエス(ひいてはヨハネ共同体)もそれを認めます。その上で別の証人を登場させます。わたしについて証しをする者は他にあり、彼がわたしについてする証しは真実であることを、わたしは知っている。(三二節)
「わたしについて証しをする者は他にあり」というその「他の者」(単数形)が洗礼者ヨハネを指していることは、後に続く三三〜三四節から明らかです。この福音書(とくに前半)では、洗礼者ヨハネが最大の証人です。彼はこの証言のために神から遣わされたとされます(一・六〜八)。ヨハネのもとに人を送ったのはあなたたちであり、彼は真理のために証しをした。(三三節)
この文では「あなたたち」が強調されています。著者ヨハネはイエスの権威を認めないユダヤ人たちに対して論争しています。あなたたち自身がヨハネのもとに人を遣わして、ヨハネの証言を求めたではないか(一・一九)。彼の証言をあなたたちはよく知っているはずだというのです。その洗礼者ヨハネは、自分はメシアではなく、自分の後に来る方が「世の罪を負う神の子羊」であり、「聖霊によってバプテスマする方」であると、「真理のために」証言したではないか(一・二〇〜三四)。あなたたちは彼がイエスについてなした「真理のための」証言を受け入れるべきではないか、と迫ります。だが、わたしは人間からの証しを受けない。しかし、あなたたちが救われるために、このことを言っておく。(三四節)
イエスの言葉が真理であることは、人間の証言を得て初めて成立するのではありません。すぐ後(三六節以下)に語られるように、神ご自身が証ししてくださるのです。しかし、洗礼者ヨハネの権威を認めているユダヤ人たちが、ヨハネの証言によってイエスを信じるようになるために、本来は人間の証しは必要ではないのだが、あえてヨハネの証言をあげておく、と著者はユダヤ人に語りかけます。彼は燃えて輝くともしびであった。あなたたちはしばらくの間、彼の光の中で楽しもうと願った。(三五節)
イエスが常に輝く「世の光」であるのに対して、ヨハネはしばらくは「燃えて輝く」が、いずれは消えていく(松明(たいまつ)のような)「燈火(ともしび)」とされています。洗礼者ヨハネが霊感を受けて、終末的な審判の切迫を告知している短い宣教活動の期間中、多くのユダヤ人はヨハネこそメシアではないかと期待し、イスラエルの復興を夢見て、期待の高揚を経験しました。洗礼者ヨハネの活動を見たユダヤ人の体験を、このような「しばらくの間燃えて輝くともしび」にたとえて、洗礼者ヨハネの証言は後に来る復活者イエス・キリストの証言であることをユダヤ人に思い起こさせます。父御自身の証し
だが、わたしにはヨハネよりも大きな証しがある。父が、成し遂げるようにとわたしに与えてくださった業、すなわち、わたしが行っている業そのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのである。(三六節)
ヨハネ福音書は繰り返し、病気を癒し悪霊を追い出すなどのイエスの働き(奇跡)を、イエスが神から遣わされた方であることの「しるし」として指し示しています。その「しるし」がここでは「証し」として、それを見た者がイエスを信じるべき根拠とされます。この福音書は、「しるしを見て信じる」だけでは不十分としながらも(二・二三〜二五)、イエスがなされる業が、イエスを信じるために与えられた「しるし」であるという意義を強調します(一四・一一)。この福音書における「しるし」の意義については、二章の「カナの婚礼」についての講解、とくに「最初のしるし」の項(本書86頁以下)を参照してください。
そのような業は、イエスご自身の霊的能力によってなされる業ではなくて、「父が、成し遂げるようにとわたしに与えてくださった業」と言われています。子は父がなさることを見て同じことをされているのです。イエスがなさっている業は、人の業ではなく、父の業です。その業(働き)がとうてい人間にはできないものであることが、イエスが父から遣わされた方であることを証ししているのです。また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださってきた。あなたたちはいまだかってその方の声を聴いたこともないし、お姿を見たこともない。(三七節)
ここで論争相手のユダヤ人に対して強烈な言葉が投げかけられます。自分たちこそまことの神を知っている世界で唯一の民であると自負するユダヤ人に対して、この福音書のイエス(ひいてはヨハネ共同体)は、「あなたたちはいまだかってその方の声を聴いたこともないし、お姿を見たこともない」と断言するのです。この節の動詞(証しをする、聴く、見る)はみな現在完了形で、現在までずっと続いてきた状況を描いています。それは、現在に至るまでのイスラエルの歴史を総括する宣言です。また、あなたたちはその方のお言葉を自分の内に留めていない。その方が遣わした者をあなたたちは信じないからである。(三八節)
あなたたちユダヤ人は、イエスを遣わされた父の「声を聴いたこともないし、お姿を見たこともない」だけでなく、「その方のお言葉を自分の内に留めていない」と、著者はユダヤ人を非難します。聖書の証し
聖書を調べてみなさい。あなたたちは、聖書の中に永遠の命があると考えているのだから。だが、聖書はわたしについて証しをするものである。(三九節)
こうして、イエスの父、すなわちイスラエルの神が、やがて遣わされる子について語ってこられたことが、聖書について具体的に取り上げられます。ここで「聖書」と訳した語は、原文では「書かれたもの」(複数形)です。1世紀末(この福音書が書かれる頃)までユダヤ教の正典は確定していませんでした。「トーラー」(モーセ五書)と「預言者」は確定していましたが、「諸書」はまだ流動的であり、全体をまとめて「聖書」と呼ぶことはありませんでした。当時ユダヤ教において権威のある文書は、たんに「書物」とか「聖なる書」(複数形)と呼ばれていました(ロマ一・二)。
「あなたたち」、すなわちユダヤ人たちは「聖書の中に永遠の命があると考えている」人たちでした。ユダヤ教においては、律法(トーラー)を正しく理解して順守することが命に至る唯一の道ですから、律法を記した聖書こそその中に命を持っている書だと考えられていました。救いとか永遠の命を書物の中に求めるという性格は、捕囚後のユダヤ教において始まっていましたが、70年の神殿崩壊以後は、「書かれたもの」がさらに重要な信仰の拠り所になり、「書物の宗教」としての性格が一段と決定的になっていました。著者ヨハネはそのような段階のユダヤ教に向かって、「(あなたたちが命の拠り所としている)聖書はわたしについて証しをするものである」、すなわち聖書は御子イエス・キリストについて証言するもので、御子こそユダヤ教の本体であると主張するのです。それなのに、あなたたちは命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。(四〇節)
あなたたちがその中に命があると考えている聖書はわたしについて証しをする書であるのに、その聖書の本体であるわたしを受け入れようとしないのは間違いではないかというイエスの言葉(三九〜四〇節)は、イエスを父から遣わされた子であると信じないユダヤ人(ユダヤ教会堂)に対する著者ヨハネ(ヨハネ共同体)の論争です。人からの誉れと神からの誉れ
ユダヤ人が子について証しをする聖書を持っていながら、子であるイエスを信じない理由を、著者はどこに誉れを求めるかという視点から論じます。以下の一段(四一〜四四節)は、誰からの誉れを求めるかで、その人物がどこから来たかが判別できるという主張をかかげています。わたしは、人からの誉れは受けない。(四一節)
イエスは人から遣わされたのではなく、また、この世から来られたのでもないので、「人からの誉れは受けない」と言われます。これは、イエスは人からの誉れを受ける必要はない、人からの誉れをイエスの証しとする必要はない、あなたたちユダヤ人の承認を必要としない、とヨハネ共同体がユダヤ人に言っているのです。しかし、あなたたちの中に神への愛がないことを、わたしは知っている。(四二節)
冒頭の「しかし」は、人からの誉れを求めないイエスと、神への愛がないため人からの誉れだけを求めるユダヤ人とを対比しています。わたしが父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし他の者が自分の名によって来るならば、あなたたちは受け入れるのであろう。(四三節)
「名によって来る」は「遣わされる」の別表現です。イエスは父の名代として遣わされて、この世に来た方です。だから、イエスは自分を遣わした父の誉れだけを求め、自分には父からの誉れだけを求められます。イエスがそういう方であるのに、ユダヤ人はイエスを受け入れません。ユダヤ人は父を愛し敬っていないからだと、著者は断定します(四二節)。お互いの間で誉れを受けるのに、唯一の神からの誉れを求めないあなたたちは、どうして信じることができようか。(四四節)
自分の価値を根拠にして立つ者は、その価値に対する人からの承認と賞賛を求めます。彼らは神からの承認を必要としません。人間同士の間での賞賛とか誉れだけを求めている者たちは、神からの誉れを求めないのですから、神が遣わされた方を受け入れる必要がありません。著者は、ユダヤ人がイエスを信じないのは、彼らが人間からの誉れだけを求めているからだと診断します。モーセの告発
わたしがあなたたちを父に告発すると考えるな。あなたたちを告発するのは、あなたたちが望みをかけてきたモーセである。(四五節)
イエスは、自分を信じないユダヤ人を神の前に告発して裁きを求めることはされません。イエスは民を裁くために来られた方ではなく、民を救うために来られたのです(三・一七)。ここの「告発する」は未来形です。最後の裁きの場で、ユダヤ人のイエスへの不信仰を告発するのは、イエスではなくモーセであるとされます。モーセといえば、イスラエルに神の契約と律法を与えて、イスラエルを神の民としたユダヤ教の最高の預言者です。ユダヤ人は、自分たちはモーセの弟子であるとし、モーセを自分たちが神の民であることの最終的な拠り所としていました。そのモーセが、神の裁きの場でイエスを信じないユダヤ人を告発するというのです。あなたたちがモーセを信じたのであれば、わたしをも信じたであろう。彼はわたしについて書いたのであるから。(四六節)
「彼はわたしについて書いた」というのは「モーセ五書」を指しています。ユダヤ教においては、《トーラー》と呼ばれる「モーセ五書」はみなモーセが書いたとされていました。その「モーセ五書」は子であるイエスについて証言しているのであるから、モーセを真に信じたのであれば、イエスを信じることになるし、逆にイエスを信じないことはモーセを信じないことになると、著者はイエスを信じない現在のユダヤ教会堂を告発しているのです。だが、彼が書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしの語ることを信じることがあろうか。(四七節)
「彼が書いたこと」の原文は「彼の文字(複数形)」です。ユダヤ教においてモーセの著作とされる「トーラー」(モーセ五書)全体を指しています。「トーラー」は「聖書」の核であり、基礎となる部分ですから、この節でも先の「聖書はわたしについて証しするものである」という主張が繰り返されていることになります。むすび ―― ヨハネ共同体とユダヤ教会堂との論争
以上見てきましたように、ヨハネ福音書五章は、地上のイエスとその時代のユダヤ人との対話というよりは、復活者イエス・キリストを神として告白するヨハネ共同体と、たとえメシアであっても人間を神とすることを最大の?神とするユダヤ教会堂との激しい論争を描いていることが分かります。もちろん、福音書はこの論争を通して、復活者イエス・キリストを神とする自分たちのキリスト告白を、世界に向かって告知しているのです。しかも、著者は自分たちのキリスト告白を地上のイエスに重ねて語ります。これが受肉信仰を形成することになります。