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第二節 御子の権威

13 御子の権威(5章 19〜30節)

 19 そこでイエスは答えて、彼らにこのように言われた。「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。子は、父がなさることを見るのでなければ、何一つ自分ですることはできない。父がなさることは何でも、子も同じようにするのである。 20 父は子を愛して、御自分がなさることをすべて子に見せるからである。そして、このようなことよりももっと大きな業を彼に見せるであろう。 それは、あなたがたが驚くことになるためである。21 父が死者たちを起こして命を与えるように、子もまた同じように自分の望む者たちに命を与えるからである。 22 父は誰をも裁かず、いっさいの裁きを子に委ねておられる。 23 それは、すべての人が父を敬うように、子を敬うようになるためである。子を敬わない者は、子を遣わした父を敬わないのである。
 24 アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は永遠の命を持っており、裁きに到ることなく、死から命に移っている。
 25 アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。死んでいる者たちが神の子の声を聞く時が来る。いや今がその時である。そして、聞いた者は生きる。 26 父がご自分の内に命を持っておられるように、子にもまた命を与えて、子が自分の内に命を持つようにされたからである。 27 そして、裁きを行う権能を子に与えた。彼は人の子だからである。28 このことを驚いてはならない。墓にいるすべての者が彼の声を聞く時が来る。 29 その時には、善いことをした者たちは命の復活へと、悪いことをした者たちは裁きの復活へと出て来ることになる。30 わたしは自分からは何一つすることはできない。聞くとおりに裁く。そして、わたしの裁きは正しい。わたしの意志ではなく、わたしを遣わした方の意志を求めているからである」。

働きにおける父と子の一体性

 そこでイエスは答えて、彼らにこのように言われた。(一九節前半)  直前に批判者たちの質問はありませんが、先行する段落の安息日についてのユダヤ人たちの追及(一六節)に対しての答えとなっています。したがってこの段落は、「わたしの父は今にいたるまで働いておられる。だから、わたしも働くのである」(一七節)という言葉の展開となり、イエスの子としての働きと、神と等しい栄光と権能を語る段落となっています。
 「彼ら(ユダヤ人たち)にこのように言われた」というときの動詞は、過去の継続的な動作または繰り返しを示す形です。この動詞形には、自分を神と等しい者とするとしてイエスを殺したユダヤ教団に対するヨハネ共同体の継続的な反論活動が反映していると見られます。ヨハネ共同体は、以下のような言葉で繰り返しユダヤ教会堂に反論してきたのでしょう。それは同時に世界に対して、イエスがどのような方であるのかを告知する言葉でもあります。著者はその言葉を地上のイエスがユダヤ人たちに語っておられる言葉として書き記すのです。
 このユダヤ人に対する反論、ひいては世界に対して御子としてのイエスを告知する言葉は、「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う」というヨハネ福音書特有の句で導入される三つのアーメン句で宣言され(一九節後半、二四節、二五節)、それに理由や意味を解説する言葉が加えられて、このキリスト論として重要な段落(五・一九〜三〇)が構成されます。。

「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う」という句については、一章五一節の注を参照してください。

 「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。子は、父がなさることを見るのでなければ、何一つ自分ですることはできない。父がなさることは何でも、子も同じようにするのである」。(一九節後半)

 まず働きにおける父と子の一体性が語られます。この内容は直ちに「語録資料Q」に伝えられているイエスの語録を思い起こさせます。イエスはこう言われたと伝えられています。

 「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(マタイ一一・二七、ルカ一〇・二二)。

 この語録が、父と子イエスの一体性というヨハネ福音書の中心主題にあまりにもよく似ているので、「ヨハネ福音書の天空から落ちてきた隕石の観がある」と評した学者がいましたが、この語録はヨハネ福音書のように神とイエスの一体性を直接言い表しているのではなく、人間社会における父親と息子の関係を比喩として、イエスが御自身の立場を語っておられるものです。この語録は次のように訳すと原意に近いでしょう。
 「すべてのことが父からわたしに示されて任されています。父親の他に息子を理解する者はなく、息子と、息子が示してやろうと思う者の他は、父親を理解する者はいません」。
 父親が息子だけに秘伝の技術を伝え、本心を明かし、一切を息子に委ねるように、イエスは神から御旨の奥義とその働きを示され、地上でそれを伝え、成し遂げるように委ねられているのだと、(父子相伝の関係を比喩として)御自身の立場と使命を語っておられるのです。

この語録がこのような意味をもつものであることは、J・エレミアスがその著『イエスの宣教』(角田訳、新教出版社)111頁以下で詳しく論証しています。

 著者(またはヨハネ共同体)にもこの語録は知られていて、イエスがこの語録で言おうとされたことを、著者(またはヨハネ共同体)は自分の御子としてのイエス理解(告白)に組み込んで、独自の表現を与えたという可能性も考えられます。
 なぜイエスは安息日に病人をいやしたり、床を担いで歩き回るように命じるというような律法違反をするのかというユダヤ教側からの批判に対して、ヨハネ共同体は、イエスはその働きにおいて父と一体であるからだと答えるのです。その一体性は、「わたしの父は今にいたるまで働いておられる。だから、わたしも(そのように)働くのである」というイエスの言葉に端的に表現されましたが、その一体性がここでさらに詳しく語り直されます。
 ヨハネ福音書のイエスは繰り返し、「わたしは自分から語り、ことを為しているのではない」と言っておられます。また、「わたしは自分から来たのではない。父がわたしを遣わされたのだ」と言っておられます。そのことが、ここでは働きの観点から、「子は、父がなさることを見るのでなければ、何一つ自分ですることはできない」と言われます。
 イエスは「何一つ自分ですることはできない」者とされます。すなわち、御自分を無であるとされています。それゆえに、イエスがされることは父がなさることだけです。父がなさることであれば、子であるイエスも同じことをされるのです。「父がなさることは何でも、子も同じようにするのである」。この文は、イエスがされていることは父が(神が)されていることであるという主張です。

 父は子を愛して、御自分がなさることをすべて子に見せるからである。(二〇節前半)

 そして、そのようにイエスが父のなさるのと同じことをしておられる理由が、「父は子を愛して、御自分がなさることをすべて子に見せるからである」と述べられます。「語録資料Q」に伝えられているイエスの語録では、「すべてがわたしに委ねられた(引き渡された)」となっていますが、ここでは「見せる」になっています。父なる神は子であるイエスを愛して、御自分がなさることをすべてイエスに見せられるので、イエスは父がなされるのと同じようになさるのです。イエスの働きは父の働きであることが明確に主張されています。
 なお、ここの「愛して」は、新約聖書特有の《アガパーン》ではなく、肉親の間の情愛を語るときに用いられる《フィレイン》が用いられています。この用語にも人間社会における父親と息子の親愛関係が比喩として用いられていることがうかがわれます。ヨハネはその比喩をこの段落(五・一九〜三〇)で、子であるイエスと父である神との一体性を告知する講話に展開することになります。この箇所(一九節後半と二〇節前半)は、三〇節と共に、この段落を囲む枠となっています。

命を与える子の働き

 そして、このようなことよりももっと大きな業を彼に見せるであろう。 それは、あなたがたが驚くことになるためである。(二〇節後半)

 今イエスが足の萎えた人を立ち上がらせるような驚くべき業をしておられるのは、父がなさることを見て、子であるイエスが同じことをしておられるのですが、「このようなことよりももっと大きな業」を子であるイエスに見せることになるであろう(動詞は未来形)と言われます。これは、それを見せて同じことを行わせることになるであろう、という意味を含んでいます。そして、イエスがそれを行われるとき、それを見て「あなたがたが驚くことになる」であろうと予告されます。すでに足の萎えた人が立ち上がって歩くことが驚きですが、さらに大きな驚くべきことが起こるというのです。その「もっと大きな業」の内容、それを見て「あなたがたが驚くことになる」理由が次節で述べられます。

 父が死者たちを起こして命を与えるように、子もまた同じように自分の望む者たちに命を与えるからである。(二一節)

 「起こす」《エゲイレイン》は復活させることを意味する動詞です。イエスが復活されたこともこの動詞で語られています。「命を与える」《ゾーオポイエイン》も、命を創り出す、死んでいる者を生かす、すなわち復活させるという意味で用いられる動詞です。この二つの動詞は同意語として組み合わせて用いられることが多くあります。ここはその代表的な場合です(他にローマ八・一一、コリントT一五・二一〜二二)。
 神が死者たちを復活させることは、当時のユダヤ教(ファリサイ派)の信条でした。ユダヤ人(ユダヤ教徒)は、終わりの日に神が死者たちを復活させることを信じていました(一一・二四)。そのことは共通の信仰として前提されています。ここで「あなたがた(ユダヤ人)が驚くことになる」のは、「子もまた同じように・・・・命を与える」からです。「死者たちを起こして命を与える」という神が終わりの日にされる業を、子であるイエスが同じようにするという主張です。イエスが子として、神にだけ属する「命を与える」という権能を行使する、神と等しい方であることを、この福音書は告知しています。これはユダヤ人には驚きを通り越したショックであり、許すことができない?神です。イエスがこのような権能をもつことのしるしとして死んだラザロを生き返らせたとき、ユダヤ教指導層はイエスを殺害することを最終的に決意したのでした(一一・五三)。
 たしかに、地上の一人の人間にすぎない者が、「自分の望む者たちに命を与える(復活させる)」というようなことを言ったら、それは狂気かサタン的な?神でしょう。しかし、ヨハネ福音書のイエスには、復活されたイエスが重なっています。この福音書は復活されたイエスを父と一つである子として告知し、その方を神として拝むのです。ここで「自分の望む者たちに命を与える(復活させる)」と語っておられるのは、復活者イエス・キリストです。死者の中から復活された方として、イエス・キリストは「命を与える霊」(《ゾーオポイエイン》する霊)となっておられます(コリントI一五・四五)。パウロが告白したこの現実を、ヨハネは「子が命を与える(復活させる)」と表現するのです。
 このように、命を与えるのは復活者イエス・キリストですから、命を与えられるのは当然この方に属する者だけです。この方を信じて告白する者だけです。そのことがここでは、子が「自分の望む者たち」に命を与えると表現されます。
 ユダヤ教では、律法を順守するユダヤ人はみな終わりの日の死者たちの復活にあずかるとされていました。それに対して、子であるイエスは「自分の望む者たちに」命を与える、すなわち復活させます。もはやユダヤ人である(ユダヤ教徒である)から復活にあずかるのではなく、子であるイエスが復活させるかさせないかを決めるのです。もはやモーセ律法を順守することは復活にあずかることの根拠ではなく、復活者イエス・キリストに属するかどうかがその根拠になります。その復活させるかどうかの決定が「裁き」という用語で次節に取り上げられます。

 父は誰をも裁かず、いっさいの裁きを子に委ねておられる。(二二節)

 ユダヤ教においては(そして他の一神教においても同じく)、誰に栄光を与え、誰を断罪するか、すなわち裁くことは神の権能です。イエスの父は、自らはこの神としての権能を行使しないで、子であるイエスに委ねたとされます。子は神の権能を行使するのです。子は「自分の望む者たちに命を与える」ことによって、この裁きの権能を行使するのです。

 それは、すべての人が父を敬うように、子を敬うようになるためである。子を敬わない者は、子を遣わした父を敬わないのである。(二三節)

 子であるイエスがこのような権能、すなわち誰に命を与え誰に与えないかを決定する権能を与えられたのは、すべての人が神を敬うのと同じ仕方で子であるイエスを敬うようになるためです。神を敬うことは礼拝ですから、イエスを神として礼拝することになります。この礼拝はイエスが復活者キリストと信じられるときに成立することになります(二〇・二八)。復活者である子は父と栄光を等しくします。ヨハネ共同体は、復活者イエス・キリストを神と重ねて礼拝する共同体であり、ヨハネ福音書は復活者イエス・キリストを神として拝むように世界に呼びかける福音書です。
 「子を敬わない者」、すなわち、イエスを神の子と信じないで、父を敬うように敬わない者は、イエスを子として、すなわち御自身を地上で代表する者として遣わした父を敬わないことになります。使者を敬わない者は、その使者を派遣した者を敬わないのです。

ヨハネ福音書は、全編を貫いてイエスを神から「遣わされた方」として描いています。イエスが神を「わたしを遣わした方(父)」と呼ばれる言葉は、この福音書に二十回以上出てきます。ヨハネ福音書は、光と闇、命と死という、互いに対立し、互いに断絶した二つの世界を前提とする厳しい二元論の立場に立って、イエスを光の世界から闇の世界に「遣わされた方」、父からこの世に「遣わされた子」としています。詳しくは、拙著福音講話集『キリスト信仰の諸相』の第一部第三講「受肉した神イエス―ヨハネのキリスト証言」を参照してください。

死から命に移っている

 先に「命を与える」《ゾーオポイエイン》は、「起こす」《エゲイレイン》と組み合わされて父の終末的な働きとされ、子である復活者イエスが「同じように」働かれることが述べられていました(二一節)。そのさい子の働きについては「起こす」《エゲイレイン》は用いられないで、「命を与える」《ゾーオポイエイン》だけが用いられていました。それは、父の働きについては終末時の死者の復活が語られているのに対して、子の「望む者たちに命を与える」働きについては、著者は現在の出来事として語ろうとしているので、「命を与える」《ゾーオポイエイン》の方が適切な動詞であったからです。眠っている者を「起こす」とか、死者を「復活させる」という動詞《エゲイレイン》は、どうしても終末的な出来事を指す場合に限定されます。それに対して、「命を与える」《ゾーオポイエイン》の方は意味が広く、現在の霊的な出来事を語るのにも用いることができるからです。復活者イエス・キリストは現在「望む者たちに命を与える」働きをされているのです。
 ここまで父と子の働きにおける一体性を語り、子としての復活者イエス・キリストが父の働きを現在行っておられることを語ってきた著者は、ここで「命を与える」子の働きを、結論として二つの荘重なアーメン句で宣言します。それが二四節のアーメン句と二五節のアーメン句です。

ヨハネ福音書に二五回出てくるアーメン句は、福音書成立前のヨハネ共同体において形成されていたものと、福音書成立にさいして解釈や編集を受けて現在の形になったものとがあると見られますが、この段落の三つのアーメン句(一九、二四、二五節)は前者に属すものと見られます。すなわち、福音書成立以前に、霊感により預言者的賜物を受けている人物によって、現臨する復活者イエス・キリストが共同体に語りかける言葉として語り出されたものが、アーメンを繰り返す荘重な定式で保存・伝承されたものと見られます。

 アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は永遠の命を持っており、裁きに到ることなく、死から命に移っている。(二四節)

 「わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者」というのは、イエスが神から遣わされた方であること、したがってイエスが語られる言葉は神の言葉であると信じる者のことです。そのように信じて、イエスの言葉を聞く者は、現在すでに永遠の命を持っているのです。「持っている」は現在形です。
 ここでは聴くことと信じることは一体です。パウロが信じる姿勢で福音の言葉を聴くことが直ちに聖霊をもたらしたと語っている(ガラテヤ三・二)のと同じことが、「永遠の命を持っている」という形で語られているのです。
 ユダヤ教では、また周囲の一般のキリスト教世界では、「永遠の命」とは「来るべき世《アイオーン》」において与えられる命でした。それは未来のことでした。それに対して、ヨハネ福音書は「永遠の命」とは未来のことではなく、神から遣わされたイエスの言葉を聞く現在において起こる出来事であるとするのです。
 また、ユダヤ教や周囲の一般のキリスト教では、人はすべてやがて世界に臨む神の終末審判を受けて、永遠の死か永遠の命に定められると考えられていましたが、それに対してこの福音書は、そのような終末の審判を待つまでもなく、神から遣わされたイエスを信じてイエスの言葉を聞く者は、現在すでに死から命に移っているのだと宣言します。
 そうすると、この死は人生を終わらせる死ではなく、現在人間が陥っている霊的状況としての死であることが分かります。この死と対立する命も、死後の命ではなく、現在生きている生まれながらの命とは別種の命を指すことになります。三章で「新しく生まれる」とか「上から生まれる」と言われていたことが、ここでは「死から命に移る」と表現されます。
 同じことが違う表現を用いて次のアーメン句で繰り返されます。

 アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。死んでいる者たちが神の子の声を聞く時が来る。いや今がその時である。そして、聞いた者は生きる。(二五節)

 「死んでいる者たちが神の子の声を聞く時が来る」というのは、典型的な黙示思想の確信です。終わりの日には、神は御自身の裁きを執行する方(その方は人の子とか神の子と呼ばれる)を天から派遣して、地上に生きている者もすでに死んでいる者もすべてみ前に呼び出して裁きの言葉を宣言されると信じられていました。周囲のキリスト教世界にも残るこのような黙示思想的な将来待望に対して、この福音書は「いや今がその時である」と宣言するのです。この言葉こそ、この福音書の特色をもっとも鋭く表現する言葉です。この福音書は、新約聖書のすべての文書の中で、終末的将来待望をもっとも徹底的に現在化しています(この問題は後で項を改めて取り上げます)。
 終わりの日を待つまでもなく、今現在、死んでいる者が神の子の声を聞いているのです。イエスは神から遣わされた「子」です。すなわち「神の子」です。そのイエスが語る言葉を聞くことは、「神の子の声を聞く時が来る」として将来に待ち望んだ出来事をすでに今体験しているのです。そのように、イエスの言葉を神の子の声として聞くとき、「聞いた者は生きる」ことになります。復活者イエス・キリストこそ、終わりの日に出現して命を与える「神の子」だからです。先に「永遠の命を持っている」と言われたことが、ここでは「生きる」という一つの動詞で表現されます。この「生きる」は未来形ですが、この未来形は終わりの日の出来事を指しているのではなく、現在の地上の出来事として、神の子の声を聞くときには「(永遠の命に)生きることになる」という意味で用いられています。
 この二つのアーメン句で宣言されたこと、すなわちイエスを神の子と信じる者が現在すでに永遠の命に生きるようになる理由が述べられます。

 父がご自分の内に命を持っておられるように、子にもまた命を与えて、子が自分の内に命を持つようにされたからである。(二六節)

 この段落では、まず働きにおける父と子との一体性が語られ、次いで子が父と同じ権能を持つことが宣言されました。続いて、子がそのように父と同じ働きをされ、また同じ権能をもっておられることが、命の質における父と子の一体性によって理由づけされます。子は父と同じ質の命《ゾーエー》をもっておられるので、その命を今「望む者たちに」与えることができるのです。
 「父が子にもまた命を与えて、子が自分の内に命を持つようにされた」のは、本来は復活によってです。十字架上に死なれたイエスは、死者の中からの復活によって神の子として立てられ(ローマ一・四)、自らの内に命を持ち、彼に結ばれる者に「命を与える霊」(コリントI一五・四五)となられたのです。しかし、この福音書は復活者イエス・キリストを万物に先在する御子とし、同時に地上のイエスと重ねて描くので、もはや父がいつ子に命をお与えになったかは問題にならなくなっています。この福音書のイエスは、子として永遠に父と同じ質の命に生きておられ、御自分に属する者にその命を与える方なのです。

「人の子」による裁き

 ところで続く三節(二七〜二九節)で、終末を徹底的に現在化しているこの福音書に、突然黙示思想的な終末待望の言葉が入ってきます。

 そして、裁きを行う権能を子に与えた。彼は人の子だからである。(二七節)

 まず、父は子に御自分と同質の命をお与えになった(二六節)だけでなく、「裁きを行う権能」をも子にお与えになったことが宣言されます。そして、その理由が「彼は人の子だからである」と続きます。(二七節)。この理由を示す文で、「彼」は直前の「子に与えた」の「子」を指していますから、この文は「子は人の子だからである」となります。この文が「父は子に裁きを行う権能を与えた」の理由になるのは、「人の子」が本来終末時に神の世界審判を執行する人物の称号であるからです。

「人の子」という称号はイエスご自身が用いられたものとして、イエス伝承に深く組み込まれています。しかし、その意味内容は一様ではなく、四福音書には様々な用例が見られます。しかし、この称号の発生の場であるユダヤ教黙示思想においては、終わりの日に天から現れて全世界を裁く超自然的人格を指しています(ダニエル書七章など)。福音書においても、このような本来の意味で用いられている場合が多くあります。この箇所の用例も、このような本来の黙示思想的な意味であると見られます。「人の子」称号の詳細については、拙著『マルコ福音書講解T』44「苦しみを受ける人の子」を参照してください。

 このような意味内容をもつ「人の子」称号を用いて、「父は子に裁きを行う権能を与えた」ことの理由とすることができるのは、ユダヤ教黙示思想が理解されている世界でのことです。すなわち、この箇所(二七〜二九節)は、この福音書がユダヤ人読者を(少なくともおもな)対象として含んでいることを示しています。この福音書は異邦人世界において成立したと見られますが、福音書を生み出したヨハネ共同体にはユダヤ人が多くおり(ヨハネ共同体は本来ユダヤ人の共同体であると考えられます)、またヨハネ共同体が厳しく対立して反論する相手はユダヤ教会堂であることから、ユダヤ人である著者の論争の中にユダヤ教黙示思想からの根拠づけが自然に入ってくるものと考えられます。
 著者は、イエスが「人の子」であるという伝承を受け継いでおり、ここでそれを用いていると見られます。イエスが御自分を「人の子」であるとされた語録は、共観福音書に多く保存されて伝えられていますが、ヨハネ共同体もそれを知っており、ここでは共観福音書と同じく、「人の子」を終末的審判者の称号として用いて、子であるイエスが「裁きを行う権能」を与えられた方であることを理由づけています。

 このことを驚いてはならない。墓にいるすべての者が彼の声を聞く時が来る。(二八節)

 「このこと」は以下(二八〜二九節)に述べることを指しています。この箇所は、二五節が言明していることを、(ヨハネらしからぬ)きわめて黙示思想的色彩の濃い表現で語り直しています。そのため、二七節が三〇節に自然に続くこともあって、この箇所は最終編集者が後で加えたものであるという見方もあります。しかし、(先に見たように)著者ヨハネがユダヤ人読者を相手に古いユダヤ教伝承をそのまま用いたと見ることもできます。ヨハネ共同体は、信じる者は現在すでに命を持っているという現在終末論の立場に立ちつつ、二一節が示すように(また後に六章で詳しく扱うように)終末時の死者の復活をも受け入れている面があります。
 「墓にいるすべての者が彼の声を聞く時が来る」は、二五節の「死んでいる者たちが神の子の声を聞く時が来る」と並行しています。二五節では、死の領域にいる者たち、すなわち霊的な意味で死んでいる者たちが神の子であるイエスの言葉を聞いて生きるようになることを語っているので、「いや今がその時である」と言って、その時がすでに来ていると言明しました。しかし、ここでは神が「人の子」によって生ける者と死せる者すべてを裁かれる終末の審判が語られているので、当然「今がその時である」という句はありません。

 その時には、善いことをした者たちは命の復活へと、悪いことをした者たちは裁きの復活へと出て来ることになる。(二九節)

 「命の復活へ」と「裁きの復活へ」というのは直訳ですが、「復活して命に至るために」、「復活して裁きに至るために」と意訳することもできます。この二重の復活の思想は、ダニエル一二章二節から始まり、その後のユダヤ教黙示思想において展開されたものです。すなわち、神の終末的な審判の時、義人(神の律法に従った者たち)は復活して永遠の命に至り、罪人(神の支配に反抗し義人を迫害した者たち)は復活して永遠の苦悩に定められるとされていました。原始パレスチナ教団は、このような黙示思想の枠組みでイエス・キリストによる救済を考えていました。
 「出て来ることになる」という表現は、二八節の「墓にいる者たち」について語られているのですから、「墓から出て来る」ことを意味します(ヨハネ黙示録二〇・一三参照)。原始パレスチナ教団で、死者たちの復活が「墓から出て来る」という素朴なイメージで語られていたことは、マタイ福音書(二七・五二〜五三)が伝える伝承にも見られます。
 「その時」、すなわち終末時の審判において、復活して命に至るのは「善いことをした者たち」であり、復活して裁きに至るのは「悪いことをした者たち」であるとされていることが注目されます。イエスを信じるかどうかではなく、善いことをしたとか悪いことをしたというような一般的な表現で語られているのは、これがキリストの福音の言葉ではなく、ユダヤ教黙示思想の伝承であることを示しています。もっとも「善いこと」を神が遣わされたイエスを信じること、「悪いこと」をそのイエスを拒否することとすれば、福音の言葉とすることも不可能ではありませんが、それでもなおここに語られているような二重の復活の思想は福音的ではありません。
 たしかに、ユダヤ教黙示思想を強く引き継いでいるヨハネ黙示録には、そのような二重の復活を語っていると理解できる箇所もありますが(黙示録二〇・一一〜一五)、パウロが死者の復活について語っているところからすると、死者の復活の希望はあくまで個々のキリストにある者の御霊による生き方の中で主体的に受け取られるべき希望の内容であって、黙示思想におけるように、すべての人間が終わりの時に復活して二分されるようような客観的な出来事ではありません。
 ヨハネ福音書は、神の子であるイエスの言葉を聴いている者はすでに永遠の命を持っているという現在終末論の立場を基本にしながら、この箇所(二七〜二九節)のような黙示思想的な終末待望を語る言葉も含んでいます。この福音書の複雑な編集過程を考えると、このような黙示思想的な箇所を編集者による挿入であるとする見方も否定することはできませんが、わたしたちにとって重要なことはその編集過程を分析することではなく、(このような黙示思想的な箇所を含む)現形の福音書を生み出したヨハネ共同体の信仰の質を理解することです。先に述べたように、この福音書は、なお黙示思想的終末待望を強く残している原始キリスト教の諸文書の中で、その終末待望をもっとも徹底的に現在化している特異な文書ですが、それでもなおユダヤ教会堂との論争の場にあって、ユダヤ教黙示思想独特のイメージと概念を用いて論争せざるをえなかったのだと理解できます。このような箇所があるからといって、この福音書の現在終末論の基本的立場が修正される必要はありません。ヨハネ共同体は、このような黙示思想的用語も駆使してユダヤ教会堂と論争しつつ、自分たちは現在すでに復活者イエスにあって終末的な命を生きているのだという独自の現在終末論を、内外に証言するのです。

キリストの福音における黙示思想の位置と意義については、拙著『パウロによるキリストの福音T』の「第八章 福音におけるユダヤ教遺産の継承」を参照してください。パウロの終末思想とヨハネ福音書の現在終末論の関係は重要な問題ですが、適当な機会に改めてまとめてみたいと思います。

 最後に、「人の子」としてイエスの裁きが公正な裁きであることが、イエスが子であることを根拠にして確言されて、この段落が締めくくられます。

 わたしは自分からは何一つすることはできない。聞くとおりに裁く。そして、わたしの裁きは正しい。わたしの意志ではなく、わたしを遣わした方の意志を求めているからである。(三〇節)

 イエスは子として、父が見せてくださること以外のことは、自分からは何一つすることができないと語っておられます(一九節)。そのことがここでもう一度繰り返されて、イエスは裁く権能を委ねられた者(二二節)として裁くときも、自分の判断とか意志で裁くのではなく、自分を遣わされた父の意志を求めて、父の裁きを聞いて、父が裁かれる通りに裁くので、その裁きが正しいことが保証されます。
 イエスが自分の意志ではなく、自分を遣わした方の意志を求めておられることは、共観福音書の伝承にも多く伝えられています。主の祈りの「父よ、あなたの意志が行われますように」という祈りは本来イエス自身の祈りであり、また、ゲッセマネでの祈り(マルコ一四・三六)も、この祈りがイエスの生涯を貫いていたことを示しています。そのことを、ヨハネはこのような形で明らかにしていることになります。
 このように、イエスは父から遣わされた方として、自分から何一つなすのではなく、ただ父から示されたことだけを行われる方であるという文に前後を囲い込まれて、この段落(一九〜三〇節)は、イエスがそのような方として父の権能を委ねられて行使される子であることを、内外に(共同体の人たちおよび敵対する者たちや世界に)宣言する内容になっています。