第U部 神の民の歩み
1 神の賜物
賜物の約束
神の呼びかけとしての福音
わたしたちはここで「キリストの福音」を宣べ伝えています。それは二千年ほど前、ユダヤ人たちが十字架につけて殺したひとりの同国人、ナザレ人イエスが死人の中より復活して天にあげられ、全世界の主とされ、すべての人の救い主となられたという報知です。この復活して今も生きたもう方をキリストと言います。福音とはこのキリストを宣べ伝える言葉です。神の賜物を知らない
昔、預言者イザヤはこう叫びました。
「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。
あなたがたは来て、金を出さずに、ただで葡萄酒と乳とを買い求めよ。
なぜ、糧にもならないもののために金を費やし、飽きることもできぬもののために労するのか。
わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、
最も豊かな食物で自分を楽しませることができる。
耳を傾け、わたしに来て聞け。そうすれば、あなたがたは生きることができる」。
(イザヤ書 五五章一〜三節)
聖霊の賜物
父の約束
エルサレムの神殿で大きな祭りがあり、大勢の人々が様々な願いをもってお参りに来ていました。その祭りの終りの大事な日に、イエスは群衆の前に立って、叫んで言われました、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受ける御霊を指して言われたのです(ヨハネ福音書七章三七〜三九節)。
わたしたちも、様々な欲望が渦巻く大都会の雑踏の中に立って叫んでいるのです、「だれでも魂に渇きをもつ者、悩み疲れて命に飢えている者は来なさい。この福音を信じ、復活して今も生きたもうイエスのもとに来なさい。そうすれば、聖霊という神の賜物を受けます。この聖霊こそ、人の生きる力、喜び、愛、希望の源泉、死にさえ打ち勝つ生命なのです」。「求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば見出すであろう。門をたたけ、そうすればあけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見出し、門をたたく者はあけてもらえるからである。あなたがたのうちで父である者は、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めてくる者に聖霊を下さらないことがあろうか」(ルカ福音書一一章九〜一三節)。
恩恵の賜物
「求めよ」と呼びかけ、「そうすれば与えられる」と約束し、その根拠として「すべて求める者は得るからである」とイエスは断言される。これは驚くべき言葉です。この世では、どれだけ懸命に求めても得られないのが普通です。値打ちのあるものほど代価は高く、条件は厳しいものです。ところが、神の御霊という最高のものが、すべて求める者に与えられるというのです。ここには何の条件もありません。全く無条件の世界です。神のいのちの世界
十字架と聖霊
わたしたちは、資格がないどころか、神への反逆者であり、この根元的な罪のために死んでいる者なのです。神はこのようなわたしたちに御自身の命の御霊を与えて、神の命に生きる者にするために、罪の根を絶ち、罪の支配を終わらせる大手術をしてくださったのです。それがキリストの十字架です。罪なき神の御子キリストが、わたしたちすべての者の罪を負って、裁きを受け、十字架上に死なれたのです。これはキリストを信じ、彼と結ばれる者がその罪を赦され、約束の聖霊を受けることができるようになるためです。わたしたちが無代価で聖霊を受けるためには、神の御子の十字架が必要だったのです。聖霊の賜物を拒むことは、キリストの十字架を無駄にすることです。御霊による生命
聖霊を受ける場合や体験は様々です。しかし、聖霊の本質的な働きはキリストを示すことです。聖霊を受ける時、復活されたキリストの栄光に圧倒されます。十字架の深い奥義にひれ伏し、神の愛の迫りに魂は捕えられます。聖霊を受けた魂は、磁性を帯びた鉄片がいつも北極を指すように、キリストを慕い求め、キリストと共にいないではおられないようになります。信仰生活はもはや義務の世界ではなく、内から溢れる生命の表現となります。 「罪の支払う報酬は死である。しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストにおける永遠のいのちである」。(ローマ人への手紙 六章二三節)
(アレーテイア 1号 1986年)