市川喜一著作集 > 第8巻 教会の外のキリスト > 第10講

第T部 神の民の形成

9 再臨信仰と黙示録

黙示録の世界

黙示録的状況

 起こつてはならぬことが起こりました。湾岸で対峙していた百万を超える軍勢は、一月十七日ついに戦端の火ぶたを切りました。最後の最後まで平和的解決に期待をつないできた世界の民の願いは見事に裏切られました。野望と利益、大義と正義が真っ正面にぶっつかり、火の海の中で力づくの決着をつけるほかに道がないところまで突き進んでしまいました。軍事力で決着をつけようとする限り、化学兵器や生物兵器、さらに核兵器まで使われないという保証はありません。事態はもはや一地域の紛争ではなく、世界大戦の様相を帯びてきています。現に生命の源である海洋は、人類が今まで経験したことのない規模で汚染され、今後の成り行き次第では地球規模の荒廃をもたらす深刻な環境汚染が心配されるところにきています。もっとも懸念されるのは、今回の戦争を神の名による宗教戦争に転化しようとする動きがあることです。そうなれば歯止めのない破壊を防ぐことはきわめて難しくなります。わたしたちとしては当事者が高度技術時代の戦争による破壊の深刻さに目覚めて一日も早く停戦し、武力による侵犯に対して武力で対決するのではなく、武力以外の方法による解決を国連を通して忍耐づよく続けることを求める他はありません。
 さらに、湾岸戦争と平行して、ソ連では独立自由を求めるバルト三国に対する武力干渉が行われ、ペレストロイカの行く手を暗雲が覆うようになりました。核武装した超大国が睨み合う時代から協調する時代に移り、イデオロギーに硬化した権力によって人権が無残に抑圧された体制が清算され、やっと明るい将来が開けるのではないかという気運が出てきた矢先に、武力で押えつけるほか崩壊を防ぐ方法がないほどの動乱です。世界の失望と落胆は深刻です。
 まさに「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる」という動乱の時代です。聖書に親しんでいる信仰深い人々にとって、これはもう黙示録的な状況に見えます。黙示録が世の終りに起こるとしていることが、いま現に目の前で起こつているのではなかろうか、世界の終局が目前に追っているのではなかろうか、という思いに駆られます。「戦争の騒ぎや戦争の噂を聞く」どころではありません。テレビを通して、いま目の前で戦車が街路を走り、空爆が行われ、ミサイルが飛びかい、海は真っ黒になり、油が燃える煙が天に立ち上っています。日頃聖書に無縁の人々までが、黙示録を開き、ノストラダムスの予言などを話題にしています。このような状況において、わたしたちの信仰はいかなる未来を望み見ているのでしょうか。その希望はどのような根拠に基づいているのでしょうか。わたしたちの信仰は黙示録をどのように受け止めればよいのでしょうか。このような時にこそ、明確に語らなければならないと思われます。

キリスト来臨の希望と黙示録

 わたしたちの信仰は終末的です。その内容を具体的に言えば、わたしたちはキリストの再臨を信じ待ち望んでいます。わたしたちの罪のために十字架の上に死なれたキリストは、三日目に復活して天に上げられ、やがて栄光の中に再び来られると、わたしたちは新約聖書の証人たちと共に信じています。栄光のキリストが来られることは「パルーシア(来臨)」と呼ばれ、初代の信徒たちは自分たちの時代にそれが起こると熱烈に待ち望んでいました。使徒パウロもそのように信じていたことが彼の手紙から知られます。
 ところが、使徒たちをはじめ初代教団の指導的な人々はユダヤ人でしたから、このキリスト来臨の希望が語られる時、当時のユダヤ教に広く受け入れられていた黙示録の用語が用いられました。イエスご自身も、ユダヤ教黙示録に出てくる「人の子」という重要な称号を用いておられます。黙示録ないし黙示信仰についてここで詳しく語ることはできませんが、黙示録ないし黙示文書とは神の御心の中に隠されている将来の出来事や天界の消息の秘密(ミユステーリオン)が、天使などを通して選ばれた人物(エノクやダニエルなど偽名の人物)に啓示され、書きとどめられたとされる文書のことです。これらの黙示文書は「二つのアイオーン(世)」とか「義人と罪人」という激しい二元論を特色としています。現在の「この世」は神に敵対する罪人(異教徒)たちの支配下にあつて、敬虔な義人たちは苦しめられている、しかし宇宙的な破局を経て、神が直接支配される世が間もなく到来する、その「来るべき世」において義人たちは救われ、栄光を受けて輝くことになる、という思想に貫かれています。
 初代教団においてキリスト来臨の希望は、このようなユダヤ教黙示録の図式と用語をもって語られたことが、新約聖書のいたるところに見受けられます。その典型的な文書がヨハネ黙示録です。その基本的な内容は復活されたキリストとの出会いの体験であり、「然り、わたしはすぐに来る」というキリスト再臨の告知であって、きわめて福音的なものです。しかしそれを語る枠組みと用語はユダヤ教黙示録そのものです。その他、福音書にも「小黙示録」と呼ばれる部分(マルコ福音書一三章と並行箇所)があって、同じ傾向を示しています。

黙示思想の克服

まだ終わりではない

 このようにキリスト来臨の信仰が黙示録の枠組みと用語で表現されるようになった結果、来臨信仰の福音的内容が歪みを受ける危険が生じました。その危険を克服しようとする努力が、すでにパウロの手紙や福音書に見られます。その危険の第一は、この世の個々の出来事を黙示録の象徴的な予言に当てはめて、終りの時を計算したり、それが近いことの根拠にしようとする傾向です。地震や飢饉などの天災、動乱や戦争というような社会的災害が起こるとすぐに、それは黙示録のこれこれの予言の通りに起こつているのだから、終りはこれこれの日に来ると言い出す人が出てきます。このような受け取り方に対して、マルコ福音書の「小黙示録」自体がこう警告しています。

 「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。………最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。(マルコ福音書一三章七〜一三節)

 どのように破局的な戦争や天災が起ころうとも、「まだ終りではない」のです。だいたい歴史上の出来事を終末到来の根拠にすること自体が間違っているのです。初代教団の時代から今日に至るまで、どれほど多くの天災や戦争が終りの前兆とされてきたことでしょうか。けれどもその度ごとに終りの日は到来しませんでした。たしかに歴史の苦難は新しい時代が誕生するための「産みの苦しみ」です。それはすでに始まっています。しかし終りの時は誰も知らないのです。いかなる歴史的事件もその日を確定しません。
 このような動乱の時こそ、キリストに属する者は慌てることなく、「自分のことに気をつけて」いなければなりません。すなわち、自分がいかなる場に立つ者であるかを自覚して、それにふさわしく生きるようにしなければなりません。このような状況でキリスト者の第一の使命は福音の証であることが、ここで語られています。世界の諸国民に福音を証しすること、すなわち自分の中にいますキリストを告白することです。動乱の中では、どちらの陣営にいても、このような態度はこの世の支配者からは憎まれ迫害されるでしょう。しかしこの世の力の前でキリストを告白することは、その時上より賜る聖霊の力によってなされるのであつて、思い患うことはありません。聖霊の力に委ね、忍耐して最後まで告白を全うすることが、このような状況にあるキリスト者に求められています。

隠されているものの顕現

 歴史的な出来事を終末到来の根拠にすることが間違っているのであれば、わたしたちのキリスト再臨信仰はどのような根拠に基づいているのでしょうか。結論を先に言うと、わたしたちの再臨信仰はわたしたちの内なる御霊のキリストの現実を根拠としているのです。
 福音は、わたしたちの罪のために死に、三日目に復活されたキリストを宣べ伝え、信じる者に聖霊の賜物を約束しています。この福音を信じて、全存在をキリストに委ねる者は、聖霊を受けて御霊のキリストとの交わりに生きるようになります。しかし、そのキリストは見えない現実であり、わたしたちの目からもこの世からも隠されています。わたしたちは見えないキリストを信じて、その御力を体験しつつ生きているのです。そして、聖霊の御力により、見えないキリストとの交わりが現実的になればなるほど、隠されたキリストがやがてその栄光を現してくださる時が来ることが、わたしたちの内面において確かになってきます。キリストの再臨とは、この隠された内なるキリストが顕現してくださることです。たしかに、キリストの再臨はわたし一個人の体験ではなく、世界に対する神の支配の顕現の出来事です。しかしわたしにとって、再臨の確かさはわたしの内なるキリストの確かさに基づいていると言えます。
 キリストの再臨は、新約聖書においてしばしば「キリストの顕現《アポカリユプシス》」とも呼ばれています。《アポカリユプシス》という語は、覆いを取り除いて隠されているものを顕にするという意味ですから、この用語はここに述べたような再臨信仰の本質をよく表現していると言えます。ところで、「黙示録」と訳されている語も、実は同じ《アポカリユプシス》なのです。隠されていた秘密が顕(あら)わにされることです。ヨハネ黙示録の表題は「イエス・キリストのアポカリユプシス」(一・一)です。これはキリストによって与えられた将来の出来事の啓示であると同時に、隠されているキリストを顕(あら)わにする啓示の書という意味もあります。ヨハネ黙示録の本来の内容は、実に世界の出来事の背後に隠されている栄光のキリストの顕現であると言えます。

御霊の現実に基づく希望

 この「隠されているものの顕現」は、福音の本来の姿です。「神の国」の宣教において、イエスは黙示録の枠組みを前提にし、黙示録の用語を用いておられるところもありますが、その宣教の本質は神の国がすでに到来しているという面にあります。ただそれは人々の目には隠された姿でイエスの中に到来しているのです。だからイエスは、からし種の譬で代表される多くの譬で、「隠されているもので現れないものはない」という神の国の奥義を繰り返し語つておられます。イエスにおいても、終末はすでに自分の内にある隠された聖霊の現実の顕現として待ち望まれています。イエスは終末の到来を歴史上の出来事と関連させることを拒否して、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」と言っておられます(マルコ一三・三二)。
 パウロの福音宣教においても同じです。パウロも黙示録的な用語を用いていますが、彼の福音の核心は聖霊による復活されたキリストとの交わりにあります。そして、今はわたしたちの朽ちるべき体の中に生きておられる見えざるキリストは、やがて必ず栄光の中に顕現してくださる。その時にはわたしたちキリストに属する者はこの死すべき体ではなく、栄光の霊の体を与えられて復活するという確信が、パウロの終末希望の内容です。彼の終りの日にかかわる希望は死者の復活という一点に集中しています。それは今は隠されている御霊の命の顕現です。パウロはその希望の根拠として歴史上の出来事を指し示すことはありません。
 このように再臨信仰は内なる御霊のキリストの現実に基づいています。ところが、キリストの再臨を黙示録の図式の枠に閉じこめてしまって、外の世界の事件を再臨に関連させるようになると、目は外にばかり向いて、内なる霊の現実が空疎になる危険があります(この黙示録的図式の用い方の違いによって実に様々な教派が生じ、黙示録に基づく自称メシヤがしばしば現れました)。そのような信仰では、外の世界の動乱に慌てふためいて、自分自身の本来の場を見失ってしまうことになります。このような時こそ、わたしたちの終末信仰の質をしっかりと自覚して、動揺しないように気をつけていなければなりません。
(アレーテイア 51号 1991年2月)