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76 和解の言葉

 神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」。

(コリントU 五章一九節)


  和解とは、対立・敵対していた相手と親しい関係を回復することです。とくに、もともと親しい間柄であったのに、何らかの原因で対立し、敵対するまでになっていた相手と、その原因が除かれて、親しい交わりを回復することです。人と人、国と国の間でも、その対立が厳しいほど、和解も劇的な喜びをもたらします。
 神はもともとわたしたち人間を対立する相手として造られたのではありません。御自分の愛のパートナーとしてお造りになったのです。ところが人は高ぶり、自分を神として、自分の創造者に背を向けました。これが罪です。人間の根源的な罪です。そのため、創造者なる神は人に対立する方となり、わたしたちは命の源泉である神から何のよきものも受けることができなくなっていました。
 ところが今や、「神はキリストによって世を御自分と和解させ」、その和解の言葉を使者たちに委ねて、世界に告げ知らせておられます。それが福音です。十字架されたキリストを告げ知らせる福音は、神の和解の言葉です。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪とされました」。こうして、神は「わたしたちの罪の責任を問うことなく」、無条件に赦し、「わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖ったから」と呼びかけておられます。
 わたしたちはいくら多くの供え物をしたり、善行を積み重ねても、神と和解することはできません。神が差し出してくださる和解を受ける以外に、神と和解して、命の源である神との愛の交わりを回復することはできません。ただ、福音を信じ、キリストに合わせられて、キリストの内にとどまるとき、わたしたちは神と和解した場にいることができるのです。そして、神との和解の場にいるとき、わたしたちの人生に神が与えてくださるよきもの、神の御霊の命が始まります。
 和解の場においては、神を父と呼んで一切を父に委ねて生きる子の信頼、隣人に対する無条件の愛の交わりと喜び、人生の患難の中にも燃える熱い希望、このような聖霊による信・愛・望が人生の現実となります。これらのよいものはすべて、和解を与えてくださった神から出ます。このような和解の言葉を、どうして聞き逃してよいでしょうか。

                              (天旅 二〇〇八年1号)