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64 信実な言葉

「わたしは、わたしの言葉を成し遂げようとして見張っている」。

(エレミヤ書 一章一二節)


 この言葉は、エレミヤが預言者として召された時に、主がエレミヤに語られた言葉です。エレミヤは預言者として召されたとき、幻を見せられ、「エレミヤよ、何が見えるか」という主の問いかけを聞きます。それに対してエレミヤは「アーモンドの枝が見えます」と答えます。すると、主が「あなたの見るとおりだ」と言って、この言葉を語られたのです。ここには「アーモンド」(シャーケード)と「見張っている」(ショーケード)というヘブライ語での語呂合わせが用いられています。
 預言者としてのエレミヤの生涯は、主の言葉との格闘でした。北からの災いを預言したのにそれが起こらないとか、心の割礼を叫んで当時の祭儀(宗教)批判をして祭司たちから迫害されるなど、苦難の連続でした。もう主の言葉を語るまいと決心しても、「主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じこめられて、火のように燃え上がり」、ついに「押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」と降参します(二〇章九節)。世界の現実と人間の体験は、主の言葉が空しいように感じさせます。そのような主の言葉と世界の現実との矛盾の狭間で、エレミヤは「わたしの負けです」と自分を放棄し、「わたしは、わたしの言葉を成し遂げようとして見張っている」という主の信実に委ねて、預言者の生涯を生き抜きます。
 わたしも、信仰の歩みを始めたごく初期に、この言葉を読んで、神の信実だけを土台として生きることを学びました。自分の確信とか決意ではなく、福音の言葉を成し遂げてくださる神の信実に自分を委ねて生きるようになりました。福音、すなわち主イエス・キリストを告げ知らせる言葉は、創造者である神が世界に語りかける最終的な言葉です。その言葉の背後には、自分の言葉を成し遂げようとして見張っている神の信実があります。わたしは、自分の「信仰」などは放棄して、自分の存在と生涯をこの神の信実に投げ込んで生きてきました。
 このような信実な言葉があることがわたしたちの救いです。それがなければ、全存在は無意味な混沌に帰します。

                              (天旅 二〇〇六年1号)