53 死んでも生きる
主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。
(テサロニケ書T 五章一〇節)
ここで「主はわたしたちのために死なれました」とあるのは、他の箇所で語られているような、主がわたしたちの罪のために死なれた贖罪の意義を指しているのではなく、死んだ者たちと一緒にいることができるように、主がひとたび死者たちの領域に入られたことを指しています。たしかに、「主はわたしたちのために死なれた」という言葉は本来贖罪の出来事を告知する言葉ですが、パウロはここでその周知の信仰告白の言葉を、亡くなった者が主から切り離されたのではなく、死者の領域で主と共に生き、最終的に主と共に復活するという希望の根拠として用います。すなわち、キリストがひとたび死んで死者の領域に入られた目的は、召されてキリストに属すようになった者がたとえ眠りについても(死んでも)、その領域で主が彼らと一緒にいることができるようになるため、そしてその結果、亡くなった者が死者の領域で、目覚めていた時(地上に生きていた時)と同じように、「主と共に生きる」ようになるためです。わたしたち復活者キリストに属する者は、死んでも主と共に生きるのです。後にヨハネ福音書(一一・二五)はそのことを、「わたしを信じる者は死んでも生きる」と表現するようになります。それが「救い」の内容です。それが「永遠の命」の質です。「永遠の命」とは、死んでも生きる命のことです。
死んだ後人間はどうなるのか、わたしたちは知りません。しかし、ただ一つわたしたちには確かなことがあります。それは、地上で共に生きていた同じ主が、死後の世界においても一緒にいてくださること、彼方においてもその「主と共に生きる」ことができるということです。この確かさは、現在聖霊によって「主と共に生きる」現実の確かさから来るものです。この「死んでも生きる」という人間の常識を越えた確信を与えるのが、「キリストにあって」という絶対恩恵の場での神の御霊の働きです。ここでは、「主と共に生きる」という現実の前に、生と死が相対化されています。死も「主と共に生きる」ことを妨げることはできません。そして、最終的に、死者の復活にあずかることによって、復活された主イエスと共に生きることが完成するのです。復活の希望も、「主と共に生きる」という救いの現実の一つの相、希望における相なのです。人間は死後どうなるのでしょうかという質問には、わたしはいつもこの聖書の言葉で答えることにしています。
(天旅 二〇〇四年2号)