市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第20講

20 復活に至る命

 イエスを死者たちの中から復活させた方の御霊があなた方の内に宿っているならば、キリストを死者たちの中から復活させた方は、あなたがたの内に住んでいてくださる御霊によって、あなたがたの死に定められた体をも生かしてくださるのです。

(ローマ書八章一一節)


 先に(曙光19で)キリスト者とは死者の復活に与ることを生涯の希望として生きている珍しい人種だと申し上げましたが、このような途方もない希望は何を根拠にしているのでしょうか。その根拠は二つあります。 第一の根拠は神の約束です。神はイエスを死者たちの中から復活させてキリストとされましたが、それは同時に、この復活されたキリストに合わせられて生きるご自身の民を最終的に死者たちの中から復活させてご自身の栄光に与らせるぞ、という約束でもあるのです。福音は神がキリスト・イエスの十字架の死においてわたしたちの罪の贖いのための働きを成し遂げてくださったという事実の告知であると共に、将来ご自分の民を復活させて救いを完成してくださるという約束でもあります。この約束の面を信じない者たちに向かって使徒パウロは、もし神が死者の復活という形で救済の働きを完成しようと定めておられるのでなかったら、救済者であるキリストが復活されることもなかったはずであり、復活者キリストを救済者とする使徒たちの告知は偽証となり、贖罪の事実もなかったことになると論じています(コリントT一五章)。
 第二の根拠は、キリストにある者の内には聖霊が働いておられるという事実です。使徒パウロは、キリストの御霊を持たない者はキリストに属する者ではない、キリスト者とはキリストの霊によって生きる者である、と端的に事実を述べた後に標題の言葉を続けています。ここでパウロは、キリスト者の内に宿り、現に働いておられる御霊は、キリストを死者の中から復活させた方の霊であり、その御霊が頭であるキリストを復活させたように、体であり肢体である民をも復活させてくださるのだと言っています。ここで用いられている「生かす」(未来形)という動詞《ゾーオポイエイン》は、死の中に命を造るという意味の動詞で、復活させると同じ意味の語として互換的に用いられます。今わたしたちがキリストにあって賜っている新しい命《ゾーエー》は、最終的には復活に至る質の命として、わたしたちが将来死者の復活にあずかることの保証であり、初穂とか手付け金と呼ばれます。わたしたちは現在復活にいたる命を生きているのです。