市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第2講

2 立ち帰れ

「わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」。

(イザヤ書 四四章二二節)


 聖書は万物を存在させている根源の働きを神と呼んでいます。そして、神が万物を存在させる働きを、「初めに神は天と地を創造された」と述べ、その創造の働きが言葉によって為されたことを語ります。神が「光あれ」と言われると光があったのです。こうして万物を言葉によって創造された神が、最後に「御自分にかたどって」、すなわち御自分と同じく言葉をもつ存在として人間を創造されました。それは、言葉によって人間と交わりを持つためです。人間は神の似姿に造られ、人格存在として言葉によって神との交わりをもつために存在しています。
 ところが、人間は神に背を向け、神との交わりを失っています。自分の存在の根源から「おまえはどこにいるのか」という問いかけを聞いてはじめて、自分が自分の存在の根源・根底から離れていることを自覚する始末です。根から断たれた樹は枯れます。源から切り離された流れは涸れます。土台を失った家は倒れます。神は離れ去った人間に、存在の根底である神に立ち帰るように追い求め、呼びかけておられます。
 「おまえはどこにいるのか」という本源からの問いかけは、「そこはおまえのいる場所ではない。わたしのもとに帰ってきなさい」という呼びかけでもあります。今わたしがいる場所は、本来のわたしがいる場所ではないのです。現実のわたしは本源から墜ちています。根源から疎外されています。それは、わたしがわたしの存在の根底たる方に背を向け離反しているからです。この消息をイエスはあの「放蕩息子」のたとえで語られましたが、その中で父の家から出て貧窮に陥った息子に飢えを満たすものを与える者は誰もなかったと語っておられます。人生の空虚を満たすには、自分の存在の根源である神に立ち帰る他はありません。
 わたしを存在させ、わたしと共にいることを求める神に背き離反していることが「罪」です。神はその罪を無条件に赦した上で、「わたしに立ち帰れ」と呼びかけておられるのです。キリストの福音はその神の呼びかけです。わたしは、わたしのために死に三日目に復活されたキリストを告知する福音において、この呼びかけを聞き、キリストを信じました。このキリストにあって、神は背いているわたしを赦し、無条件に受け入れ、子としてくださっています。