市川喜一著作集 > 第20巻 福音の史的展開T > 第14講

第二節 パウロの回心とアンティオキア共同体の成立

はじめに

 前節で、エルサレムに成立したユダヤ人たちのキリスト信仰の共同体が、使用言語の違いからアラム語系ユダヤ人の共同体とギリシア語系ユダヤ人の共同体に別れたことを見ました。エルサレム共同体はもともと、ガリラヤでイエスの弟子であった「十二人」の使徒たちの福音告知によって成立した共同体であり、「十二人」が代表するアラム語を用いるパレスチナ・ユダヤ人の信仰共同体でした。その共同体にエルサレム在住のギリシア語系ユダヤ人が加わったことによって、エルサレム共同体の福音活動に重大な変化が生じます。ギリシア語系ユダヤ人のグループは、「十二人」の承認の下に「七人」の代表者を立て、周囲のギリシア語系ユダヤ人の間で活発な福音告知の活動を始めます。そのとき、彼らのディアスポラ・ユダヤ人としての体質から、神殿での祭儀や伝統的な律法順守に対して批判的な言動がなされ、それに反発する周囲の律法熱心なギリシア語系ユダヤ人との間に激しい論争が起こり、彼らの代表者であるステファノが石打で殺されるという事件が起こります。今回は、この事件から引き起こされた結果をたどることになります。

T パウロの回心

迫害者サウロ

 ギリシア語系ユダヤ人の間に起こった激しい論争で、ステファノグループを迫害する側の先頭に立ったのは、同じくギリシア語系ユダヤ人の会堂で指導的な立場にいた年若い新進気鋭のファリサイ派律法学者サウロでした。サウロは、ステファノが会堂の衆議所に引き立てられたとき、彼の石打の処刑に賛成し(八・一)、石打が行われたときには、最初に石を投げる証人の上着を預かるなど立会人を務め、積極的にステファノの石打に参加しています(七・五八)。それだけでなく、彼はその後もイエスをメシアと言い表す信者を探索し、見つけ出せば会堂の衆議所に送り、審問にかけるという活動を続けます。ルカは彼の弾圧活動を、「サウロは家から家へと押し入って《エクレーシア》を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」と記述しています(八・三)。
 この迫害の急先鋒となったサウロこそ、後にイエスの僕となり、イエスをキリストとして世界の諸民族に告げ知らせる偉大な使徒となったパウロに他なりません。どうしてこのようなことが起こったのか、それは何を意味するのかを理解するために、ここで迫害者として現れたサウロとはどういう人物であったのかを見ておきましょう。
 サウロは、キリキア州の州都タルソス出身のディアスポラ・ユダヤ人です。サウロの両親は、タルソス在住の敬虔なユダヤ教徒であり、サウロが生まれたとき、八日目に割礼を施し、自分たちが所属するベニヤミン族の英雄サウル王にちなんで「サウロ」と名付けました(フィリピ三・五)。ヘレニズム都市に住むディアスポラ・ユダヤ人の通例として、「サウロ」というユダヤ名の他に、「パウロ」というギリシア語の名前も用いていました。このように二つの名前を持ち、ギリシア文化の中でギリシア語を母語として育ちながら、ユダヤ教の伝統に従って教育を受けるという二重性が、後のパウロを形成することになります。
 サウロの父親は、キリキア特産の天幕布織りを職業としていました。父親はサウロをラビ(ユダヤ教の教師、律法学者)にしようと願ったのでしょう、幼いときからその職業を教え込みました。当時ラビは、無報酬で教えることができるために手仕事を習得することが求められていました。後にこの技術がパウロの独立伝道活動を支えることになります(一八・三)。
 サウロが生まれ育ったタルソスは、当時のヘレニズム世界で有数の文化都市であり、ギリシア文化の学芸が盛んな都市でした。ギリシア語を母語として育ち、ギリシア語を用いる初等の学校で教育を受けたサウロは、当時のギリシア思想文化を深く身に染みこませていたと考えられます。しかし、厳格なユダヤ教徒の家庭に育ったからでしょうか、ギリシア哲学とか文学・演劇などに深入りした形跡はないようです。
 サウロは青年期にエルサレムに行って、そこで律法を学びます。何歳の時にエルサレムに渡ったのかは確認できません。パウロは後に自分がファリサイ派であることを明言していますが(フィリピ三・五)、当時のエルサレムで指導的なファリサイ派のラビはガマリエルでしたから、自分はガマリエルの門下で律法の研鑽に励んだという、ルカが伝えるパウロの証言(二二・三)は十分信頼できます。七〇年以前のユダヤ教で、ファリサイ派ラビの律法教育がエルサレム以外の地で行われることはありませんでした。ガマリエルはヒレルの弟子で、二〇年から五〇年の頃活躍したファリサイ派を代表するラビです。従って、三三年頃に舞台に登場するサウロが、それまでガマリエル門下で学んでいたことは十分ありうることです。
 ガマリエルの下で律法(ユダヤ教)の研鑽に励み、その実践に精進した時代のことを、後にパウロは「わたしは先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年頃の多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」と語っています(ガラテヤ一・一四)。このガマリエル門下での律法の研鑽によって、聖書の言語であるヘブライ語を十分に習得し、また、長年のエルサレム在住によりその日常語であるアラム語も使えるようになっていたことは、十分に推察できます。
 しかし、ギリシア語を母語とするギリシア語系ユダヤ人として、ギリシア語系ユダヤ人の会堂に所属し、そこで律法(聖書)の教師として働き、聖都に巡礼したり在住するようになったディアスポラ・ユダヤ人に聖書を教え、また、ユダヤ教にひかれて聖書を学ぼうとする異邦人に律法(ユダヤ教)を講じ、彼らが割礼を受けてユダヤ教に改宗するように導く働きをしたと考えられます。後にパウロはこの活動を「割礼を宣べ伝える」と表現しています(ガラテヤ五・一一)。
 このようにギリシア語系ユダヤ人会堂で責任ある立場にいたサウロは、イエスをメシアと言い表すギリシア語系ユダヤ人たちが、モーセ律法や神殿祭儀に批判的な言動をするのを見過ごすことはできませんでした。サウロは、イエスと同時代のエルサレム在住のユダヤ人として、イエスがエルサレムの最高法院で裁判を受け、ローマ総督に引き渡されて十字架刑により処刑された事実はよく知っていたはずです。それを目撃したり、その過程にかかわった可能性も十分あります。その後、数人のガリラヤ人によりイエスをメシアと宣べ伝える運動が始まったとき、それがユダヤ教の枠内で行われている限りは、師のガマリエルと同じく、ことの成り行きに委ねることができました。しかし、一部のギリシア語系ユダヤ人がその信仰のゆえに律法(ユダヤ教)そのものをないがしろにするような言動を示したとき、黙って見過ごすことはできませんでした。先にステファノの殉教のところで見たように、サウロは迫害者として舞台に登場します。

迫害者として舞台に登場するまでのサウロと彼の迫害活動について詳しくは、拙著『パウロによるキリストの福音T』43頁以下の「ユダヤ教時代のパウロ」と「迫害者パウロ」の両節を参照してください。なお、そこでステファノの殉教を「リンチ事件」としていることは訂正しなければなりません。先に見たように、ステファノの石打は、民衆の激高によるリンチ事件としての様相も見せていますが、やはり(最高法院ではありませんが)会堂の衆議所の審問と判決を経た処刑と見なければなりません。

復活者イエスとの遭遇

 さらにルカは、「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」と報告しています(九・一〜二)。サウロは、エルサレムだけでなくダマスコの諸会堂にも探索の手を伸ばします。ダマスコにも「この道に従う者」、すなわちイエスをメシアと言い表すユダヤ教徒がいることが報告されてきたからです。この時ダマスコにいたイエスを信じる者たちとは、エルサレムでの迫害を逃れてダマスコに行った人たちを指すのか、その時までにダマスコにも信じる者たちの共同体が成立していたのか、確認は困難です。しかし、サウロを迎え入れた後のアナニアを中心とする彼らの活動を見ますと、この時までにかなりの規模の信者の共同体が存在していたと見る方が順当でしょう。
 そうすると、ダマスコの共同体《エクレーシア》はどのような経過で成立したのかが問題になります。まだエルサレムのギリシア語系ユダヤ人の福音活動はダマスコには及んでいません。エルサレムの会堂との密接な交流によって、メシア・イエスの信仰が伝えられたのか、地理的に近いガリラヤからの伝道活動で信じる者の共同体が形成されたのか、詳しいことは分かりません。ガリラヤからの影響の可能性が高いと考えられますが、ガリラヤでの信仰運動の実態が分からないので、確定的なことは言えません。
 とにかく、ダマスコの諸会堂がこの新しい信仰によって動揺することを恐れたエルサレムのギリシア語系の諸会堂は、迫害の先鋒を担うサウロをダマスコに派遣します。サウロは大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての添書を求めます。他の地域の諸会堂で逮捕連行のような検察官の任務を行うのですから、ユダヤ教の最高機関の承認と任命によることを示す必要があります。おそらく、逮捕連行するための神殿警察隊も同行したと考えられます。ルカは、サウロの迫害行為が大祭司や祭司長たちの承認による行動であることを、繰り返し強調しています(九・一四、二二・五、二六・一〇と一二)。こうして、エルサレムのギリシア語系ユダヤ人の会堂で始まった迫害は、最高法院の権限による広い地域での迫害に拡大します。
 「ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らし」ます(九・三)。それは真昼ごろであり、その昼の光よりも強い光が天から一行を照らします(二二・六参照)。この光は神の栄光の光であり、真昼の太陽の光をもしのぐ強烈な明るさで一行を(照らすというより)打ちます。
 「サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞」きます(九・四)。その光は自然の光ではなく、人格から発する光であることが、その光がサウロの名を呼んで語りかけることから分かります。この語りかけは、「サウロ」というヘブライ名を使っていることから、ヘブライ語(またはアラム語)でなされたことが分かります(二六・一四参照)。

新共同訳はこの呼びかけを「サウル」としています。これはギリシア語で、《サウロス》(日本語表記ではサウロ)という人に呼びかけるときの形(呼格)が《サウル》だからです。呼格がない日本語への訳では、「サウロ」のままでよいのではないかと考えられます。

 サウロはこの光に打たれて地に倒れたとき、自分の前に一人の人格が迫っていることを感じます。しかし、それが誰であるか分かりません。サウロに強烈な光として現れた人格は、「なぜ、わたしを迫害するのか」と迫り、サウロがまさに迫害してきた相手であることを告げます。サウロは思わず、「主よ、あなたはどなたですか」と訊ねます。すると答えが来ます、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。(九・五)
 この強烈な光として現れた人格は、復活されたイエスだったのです。復活者イエスが、神の栄光の強烈な輝きをまとってサウロに現れたのです。復活されたイエスが弟子たちに現れるとき、生前のイエスをよく知っている弟子たちでも、それが誰であるか分からないのが普通です。現れた人格が、地上の人間の容相とは違うからです。現れた方が言葉をかけることによってはじめて、それがイエスであることが分かります。この場合も、復活者イエスが顕現されるときの典型的な様相を示しています。
 サウロの場合この体験は、探し求めていた方についにめぐり会ったとか、たまたま出会ったというような性質のものではありません。突然敵将に遭遇したのです。今の今まで敵対し攻撃していた敵軍の将が、突如思いもかけないときに、その強烈な力をもってサウロの前に現れたのです。サウロはその力と威厳に圧倒されて、地に倒れ伏します。
 「主よ、あなたはどなたですか」と訊ねたサウロに、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という答えが響きます。サウロは地上のイエスを知りません。直接イエスを迫害したことはありません。サウロが迫害したのは、イエスを信じるユダヤ人です。しかし、実は彼らの中にいますイエスを迫害していたのです。復活者イエスは、イエスを信じる者とご自分を一体として、彼らを迫害することは自分を迫害することだとされるのです。
 このようにご自身が誰であるかを示された後、「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」と、降参して倒れ伏しているサウロに、これからなすべきことを指示されます(九・六)。
 「同行していた人たち」とは、ダマスコのイエスの信者を逮捕してエルサレムに連行するために、サウロに同行していた神殿警察の一隊でしょう。彼らも光に照らされ、サウロが発する声は聞こえたのですが、だれの姿も見えないので、あまりの驚きにものも言えず立ちつくしていました。「あなたはどなたですか」という問いに対する答えは、サウロの内面だけに響いた言葉であり、ここで復活者イエスを見たのはサウロだけで、同行者はだれも見ず、イエスの言葉も聞かなかったと考えられます(九・七)。
 「サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった」。サウロの目は、あまりにも強烈な光を見たために、見えなくなっていました。それで、「(同行の)人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行」きます(九・八)。

ダマスコでの啓示

 手を引かれダマスコに連れてこられたサウロは、「三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」という日々が続きます。あまりの強烈な霊的体験は、しばしば身体の機能を停止させることがあります。この場合の「食べも飲みもしなかった」のは、サウロが断食をしたのではなく、目が見えなくなったのと同じく、食べることも飲むこともできなくなっていたからと考えられます(九・九)。もちろん、この三日の間、サウロはこの強烈な体験を反芻し、必死に祈っていたことでしょう。
 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいました。最初期には、イエスをメシアと言い表す者は「弟子」と呼ばれていました、おそらくアナニアは、すでに形成されていたダマスコの共同体を代表する中心的な弟子であったと考えられます。彼が祈っているとき、幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけられます。アナニアは、「主よ、ここにおります」と答えます(この呼びかけと応答はサムエルを思い起こさせます)。すると、主はアナニアに詳しい指示を与えられます。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名のタルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ」(九・一〇〜一二)。
 ここでアナニアに語りかける方は、「主《キュリオス》」と呼ばれています。最初期の共同体で復活されたイエスに用いられるようになった称号を、ルカはどこでも当然のこととして用います(この称号については後述)。主である復活者イエスが、弟子であり僕であるアナニアに指示を与えられます。その指示は、訪ねるべき人物の名前、出身地、現在の居所、その家の主人の名まで具体的に与えられています。
 ダマスコはパレスチナの中心都市の一つであり、肥沃な平原にあり、また街道の合流点として、古くから商業都市として栄えました。ダマスコはアブラハムの時代から、歴史の中でイスラエルと密接な関わりをもつ都市で、聖書にもしばしば登場します。ダマスコは前六六年にローマ領となり、属州シリアに属しますが、この時代のダマスコはナバテアのアレタス四世の管轄下にありました。この時代のダマスコには、(ヨセフスによると)一万五千人以上のユダヤ人と、多くのユダヤ教への改宗者がいました。その中のかなりの数の人がイエスを信じるようになっていたと見られます。
 ダマスコは城壁に囲まれた都市で、その東門から西へ「真っすぐ」と呼ばれるメインストリートが通っていました。その通りに面するユダの家は、おそらくサウロ一行がダマスコでの滞在先として予定していた家であると考えられます。その家に行くようにという主の指示を受けて、アナニアは驚いて、サウロの迫害行動を申し立てます(九・一三〜一四)。
 その申し立ての中で、アナニアはサウロが迫害する者たちを、「あなたの聖なる者たち」とか「あなたの名を呼ぶ者たち」と言っています。その呼び方は、イエスをメシアと言い表すことでイエスに所属する者であることを公言し、そのことで他のユダヤ教徒から区別される者たちであることを示しています。そういう者たちを迫害するサウロは、「祭司長たちから権限を受けて」迫害しているのですから、この時の迫害がすでに、イエスを信じるユダヤ教徒に対する大祭司を頂点とするユダヤ教指導層の公然たる弾圧になっていたことを示しています。
 このアナニアの申し立てに対して主は言われます。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」(九・一五〜一六)。復活者イエスは、ご自身のことを世界に伝える器として、自分を迫害する急先鋒であるサウロを選ばれたのです。なぜ迫害者サウロが、イエス・キリストの使徒、それも世界の諸国民にキリストの福音を伝える大使徒パウロとなったのか、その理由とか根拠は、人間サウロの側には何もなく、説明することはできません。そうなったのは、ただ復活者イエスがサウロをそのような器として選ばれたからだ、としか言えません。パウロ自身、自分が使徒であるのは主の選びによるものだ、と繰り返し言っています(ローマ一・一他)。そのパウロの自覚が、ここでルカの筆によって伝えられているのです。なお、ここでその使命が「異邦人や王たち、またイスラエルの子らに」伝えることだとされている点については後述します。
 そこで、アナニアは出かけて行って、指示されたとおりユダの家に入ります。この家は、迫害者サウロの知り合いの家ですから、入るには勇気がいります。アナニアはただ主の言葉に従い、大胆にこの家に入り、目が見えなくなっているサウロに言います。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」(九・一七)。
 アナニアは迫害者サウロに、「兄弟よ」と呼びかけています。アナニアはすでに主から、復活者イエスがサウロに現れ、その光でサウロの目が見えなくなっていることを知らされています。また、アナニアという人が来て、手を置いて祈り、目が元通り見えるようにしてくれることを幻で見ていることも知らされています(一二節)。アナニアは、すべてのことが主から示されたとおりであることを知り、サウロが主の御手の中にあることを知り、仲間として「兄弟」と呼びます。
 アナニアは、自分がサウロに遣わされたのは、彼の目が見えるようになるためだけでなく、「聖霊で満たされるように」なるためであると示されていました。したがって、こう言ってサウロに手を置いて祈ると、「たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった」という出来事は、サウロが聖霊に満たされた結果であることが含意されています。サウロはアナニアの按手によって聖霊を受け、主イエス・キリストを世界に告知する力を与えられたのです。
 サウロがダマスコ途上で復活者イエスの顕現に接したのも、聖霊の働きによる出来事でした。しかし、ここで「聖霊に満たされる」ことにより、福音を告知する使徒としての力を与えられたことになります。これは、ペトロたちがガリラヤで聖霊の働きの結果として復活者イエスの顕現を体験していましたが、ペンテコステの日にエルサレムで聖霊に満たされることで、実際に福音を告知する力を受け、その活動を開始したことに対応しています。
 サウロは「身を起こしてバプテスマを受け、食事をして元気を取り戻し」ます(九・一八〜一九)。ここの「身を起こして」という表現は、ダマスコ途上で強烈な光の中に顕現された復活者イエスの前に「地に倒れ伏し」、その状態の延長にいるサウロを、同じ復活者イエスがアナニアを通してその御手で引き起こしておられる姿を見る思いがします。サウロはバプテスマを受けて、イエスに所属する者であることを公に言い表します。そして、食事をして普段の活動に戻ります。
 このダマスコ途上で復活者イエスの顕現に遭遇してから、ダマスコ市内の家で聖霊に満たされて使徒としての召しを受けるまでの三日間にサウロの身に起こった出来事を、以後サウロの(またはパウロの)「ダマスコ体験」と呼びます。この出来事こそ、後の大使徒パウロの生涯を決定した時であり、パウロ自身が「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき」(ガラテヤ一・一五〜一六)と言っている時、「神が御子をわたしの内に啓示してくださった時」(私訳)、啓示の時に他なりません。この「ダマスコ体験」は、サウロがイエスに敵対する迫害者から、イエスに仕える僕、イエスをキリストとして宣べ伝える使徒へとひっくり返った体験であり、サウロ(パウロ)の「回心」と呼ばれることになります。

顕現体験と召命体験

 後にパウロは、自分の生涯を決定したこのダマスコ体験について折に触れて語ったことでしょう。その内容と、周囲の人たちによって語り伝えられていた伝承を用いて、ルカはパウロの回心物語を形成し、それを使徒言行録に三回繰り返して記述しています。第一は、ここ(九・一〜一九)でルカがこの出来事を歴史的事実として記述しているところです。第二は、エルサレムで逮捕されたとき、興奮するユダヤ人群衆にパウロが弁明している演説で、パウロ自身が語っているところです(二二・六〜一六)。第三は、パウロがアグリッパ王の前で弁明する演説で、やはりパウロ自身の告白として語られています(二六・一二〜一八)。一つの出来事を三回繰り返して語るのは、ルカがこの出来事を、イエスの十字架・復活の出来事と同じように、福音の展開において最大級の重要な出来事としているからでしょう。サウロが顕現された復活者イエスの栄光に圧倒されて地に倒れ伏した後、三日間目が見えず、暗闇の中に飲まず食わず死のような状態にいて、その後聖霊を受けて生き返ったようになったという記述には、三日後に死人の中から復活されたイエスの出来事との対応を見る思いがします。
 序章の「復活者イエスの顕現」で述べたように、復活者イエスの顕現に接するという体験(顕現体験)は、同時にこの復活者イエスをキリストとして世界に宣べ伝えるために召される体験(召命体験)となります。サウロの場合も同じです。ただ、ルカの記述によると、サウロの召命体験は一連の複数の出来事から成り立っているようです。
 九章では、ダマスコ途上で復活者イエスの顕現に接した時には、その栄光の中に現れた方がイエスであることが体験されただけで、まだ召命体験とはなっていません。サウロが「異邦人や王たち、またイスラエルの子らに」イエスの名を伝えるために選ばれた器であることは、三日後にアナニアを通して示されます(九・一五)。ここではダマスコ体験の中に顕現体験と召命体験が(三日の間隔がありますが)含まれています。
 ところが、二二章の神殿での弁明では、ダマスコでの体験は復活者イエスの栄光を見る体験に限定され(二二・一〜一六)、異邦人に福音をもたらす使徒として召される体験は、その後「エルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき」の体験とされています(二二・一七〜二一)。この時は、アナニアを介してではなく、「我を忘れた状態でお会いした主」から直接、異邦人へ遣わすとの召しを受けています。パウロ自身の証言によると、ダマスコ体験の後エルサレムに帰って来たのは「それから三年後」(ガラテヤ一・一八)のことですから、顕現体験と召命体験の間には三年の間隔があることになります。
 しかし、アグリッパ王の前での弁明(二六・一二〜一八)では、顕現体験と召命体験は同時です。ダマスコへの途上で、栄光の中に顕現された方が、自分はイエスであると示され、同時にそのイエスがサウロを「この民(イスラエル)と異邦人のもとに遣わす」と召しておられます。ここでは、アナニアは登場せず、神殿での忘我の祈りもなく、ダマスコ途上でサウロに顕現された復活者イエスが直接彼を証人として召しておられます。この記事は、これまでのサウロの回心・召命の物語を一つにまとめようとするルカの構成が最も顕著に感じられます。
 パウロ自身が手紙の中で自分の顕現・召命体験に触れることは多くありません。最初期の共同体に伝えられた顕現伝承をまとめているところ(コリントT一五・三〜八)で、自分への顕現を最後に位置づけています。また、パウロが使徒であることを問題にした批判者たちに対して、「わたしは使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか」と断言しています(コリントT九・一)。そして、先に引用したように、ダマスコ体験については、「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき」(ガラテヤ一・一五〜一六)と語っているところぐらいです。
 このガラテヤ書の告白では、顕現体験と召命体験が一息に語られていますが、これは二〇年以上も経った時の回想ですから、一連の出来事が一つにまとめられて語られても当然です。実際には、パウロは「まずユダヤ人に、そして異邦人にも」という原理で伝道し、どこに行ってもまず会堂でユダヤ人にイエスを主キリストと告知し、ユダヤ人が拒否するので異邦人に向かうようになるという経過が、使徒言行録の全体に見られます。そのような実際の経過の中で、パウロは異邦人に福音を告げ知らせる使徒として召されているという自覚(ローマ一・五)を深めたものと考えられます。その自覚が、ガラテヤ書のパウロ自身の告白となり、ルカの召命物語に形成されることになります。

ダマスコとアラビアでの福音活動

 このダマスコ体験の後のサウロの行動についてルカが伝えるところによると、サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えたとされています(九・一九〜二〇)。イエスを神の子と宣べ伝えることは、すぐ後に出てくる「イエスがメシアである」と宣べ伝えるのと同じです。
 ところが、パウロ自身の証言によると、パウロはこのダマスコ体験の直後にアラビアに行き、しばらくアラビアで活動した後、「そこから再びダマスコに戻った」としています(ガラテヤ一・一五〜一七)。パウロはたった一行でアラビア行きの事実を語るだけですし、ルカはパウロのアラビア行きについては完全に沈黙していますので、それがどのような活動であったのか、推察する他ありません。このサウロのアラビア行きには、二つの見方があります。
 一つは、イエスが聖霊を受けた後荒野で試みに遭われたように、ダマスコ体験の意義を深く瞑想するためにアラビアの荒野に退いたという見方です。新共同訳が「アラビアに退いて」と訳しているのは、この見方に立っていることを示しています。しかし、ここの動詞は単純に「出て行く」という意味の動詞であって、「退く」と訳すのは解釈です。協会訳は「出て行く」です。「退く」という見方は、アラビア=砂漠・荒野という現代人の思い込みから出た解釈ではないかと考えられます。
 もう一つの見方は、イエス・キリストを証しするためにダマスコから出てアラビアに行ったとする見方です。サウロは回心直後からダマスコでイエスをメシアとして宣べ伝えているのですから、直ちに福音活動に乗り出したとしても不自然ではありません。ダマスコ近郊にも荒野はあるのですから、瞑想するにはアラビアまで出て行く必要はありません。ダマスコでイエスをメシアとして宣べ伝え始めたサウロは、このメシア・イエスをユダヤ人以外の民にも伝える使命を感じて「イスラエルの地」の外に出て行ったと見るべきであると考えられます。
 福音活動を始めるにしても、なぜアラビアに行ったのかは推察する他ありませんが、ダマスコ周辺の他の地域にはすでに他の使徒たちが活動していることを知って、「キリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと」(ローマ一五・二〇)、まだ誰も行っていないアラビアを選んだという理解が、アンブロシウス以来行われています。しかしそれだけでなく、アラビアはイスラエルにとって最も身近な兄弟民族であるアラブの民の国であり(アラブの民はイシュマエルの子孫です)、聖書のでしばしば預言の対象として取り上げられる隣国です。聖書学者のサウロが、まずこの隣国に足を向けたのは自然のことです。
 アラビアは「イスラエルの地」の東側に隣接する地であり、当時その地を支配していたナバテア王国のアレタス王は、その長い在位期間(前九年〜後三八年)の大部分ユダヤ人と友好的な関係にあり、首都ペトラには多くのユダヤ人が住み、ユダヤ教の会堂もありました。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスはアレタス王の娘と結婚していましたが、兄弟の妻ヘロデアと結婚したため、離縁されたアレタス王の娘は父王のもとに帰ります。怒ったアレタス王はヘロデ・アンティパスに戦いを挑み、彼を打ち負かします。このヘロデ・アンティパスの敗戦は、洗礼者ヨハネを処刑したことに対する神の裁きと噂されるようになります。しかし、実際は三四年に亡くなったフィリポの領地をめぐる領土争いであり、三四年から三六年にかけてアレタス王とユダヤ人は険悪な状況になっていました。
 サウロは首都ペトラで活動していたと見られます。サウロは、いつでもそうですが、まずユダヤ教徒と神を敬う異邦人が集う会堂でイエスをメシアとして宣べ伝えます。それ以外の所で福音を告げ知らせる活動は、ほとんど考えられません。サウロのアラビアでの福音活動は、ユダヤ人会堂のあるペトラで行われたと見るのが順当でしょう。何世紀にもわたって砂漠に隠されていたこのペトラの遺跡は、今では世界遺産として脚光を浴びています。
 このアラビアでの福音活動は、回心直後の三三年から始まっていると推察されますが、その三年後(三六年)にダマスコを脱出してエルサレムに行くまでの期間に位置づけられます。そうすると、ちょうどこの時期に始まったアレタス王とユダヤ人の確執(それはローマ軍の介入を招いた戦争に至る政治的対立です)が、サウロのペトラでの福音活動を困難にし、ついには「そこから再びダマスコに戻る」ことを余儀なくさせたと考えられます。サウロは二年近くアラビアで活動したと推定されます。
 もしこの時期に戦争がなく、サウロの活動が順調に進み、アラブの民の間にイエスをキリストと信じる信仰が根付き、福音が東に向かっていたら、その後の世界の歴史は変わっていたことでしょう。歴史に「もしも」は禁句ですが、この時サウロの活動が成功し、アラブの民がキリストの民となっていた場合の世界を想像すると、神の導きの意義を深く考えさせられます。

ダマスコからの脱出

 ダマスコに戻ってきたサウロは、イエスがメシアであることを語り続けます。サウロは回心直後からイエスをメシアと宣べ伝えたので、エルサレムでのサウロの迫害活動を聞き及んでいたダマスコのユダヤ人たちは非常に驚きますが(九・二〇〜二一)、「サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせ」ます(九・二二)。サウロの福音活動によって、ダマスコのユダヤ人会堂に大きな混乱が起こります。一部のユダヤ人と異邦人の「神を敬う者」たちは、パウロが語る福音を信じますが、多くのユダヤ人はサウロを生かしておくことができない男として、サウロ殺害の陰謀を企てます。サウロ(後のパウロ)を殺そうとするユダヤ人の陰謀は、このダマスコから始まり、パウロの生涯の最後まで続きます(二〇・三、二三・一二、二五・二)。
 ルカの記事は、回心直後のダマスコでの活動の開始からすぐにサウロを殺す陰謀と脱出につながっていて、アラビアでの二年近くに及ぶ福音活動のことは全然触れられていません。ルカは自分の著述の意図に関わりのない事実は大胆に省略する著者ですから、エルサレムから西に向かいローマに至る福音の進展にとって、東に向かってなされたが後に残る成果がないまま終わったサウロのアラビア伝道は、完全に無視したものと思われます。ルカは、自分の記述に合わせて、最後のパウロの弁明でも、パウロにこう言わせています。「「アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して・・・・と伝えてきました」(二六・一九〜二〇)。
 ただ、ルカの記事にもサウロのアラビア伝道の期間があったことを示唆する痕跡があります。ルカはサウロを殺す陰謀が「かなりの日数がたって」から起こったと書いていますが(九・二三)、これは回心直後の活動から、二年近くのアラビアでの福音活動を経て、サウロのダマスコ入りから見ると三年ほど経った頃を指していると見られます。
 時はまだ来ていません。サウロ/パウロに対する陰謀はいつも露見して、サウロは罠から逃れます。ダマスコでは、「ユダヤ人は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた」ので、「サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、篭に乗せて町の城壁づたいにつり降ろし」て、サウロをダマスコから脱出させます(九・二四〜二五)。
 これがルカの伝えるダマスコ脱出の様子ですが、同じ出来事がパウロ自身の証言にもあります。パウロはコリント第二書簡で自分の苦難のリストをあげた後、最後にこのダマスコ脱出の体験を語っています。パウロはこう言っています。
 「ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、わたしは、窓から篭で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした」。(コリントU一一・三二〜三三)
 ルカの記事と比較しますと、「窓から篭で城壁づたいにつり降ろされて逃れたのでした」という、脱出の様子は同じですが、サウロを捕らえて殺そうとした勢力が、ユダヤ人ではなく「アレタ王の代官」となっている点が違います。当時ナバテア王国を支配していたのはアレタス王四世でした(新共同訳ではアレタ王)。王の支配権はダマスコにも及び、ダマスコには王の代官(行政担当の官吏)が置かれていました。この代官がサウロを逮捕しようとした、とパウロは書いています。アレタス王の膝元のペトラでサウロは二年近くも平穏に活動したのですから、アレタス王の側にサウロを逮捕しなければならない理由はありません。これは、ユダヤ人がサウロを騒乱の元凶としてダマスコの代官に訴えたからだと考えられます。これは、イエスご自身の場合も含め、ユダヤ人が宗教上の敵対者を抹殺しようとするときの常套手段です。したがって、ルカの記事とパウロの証言には矛盾はありません。

回心後最初のエルサレム訪問

 ダマスコを脱出したサウロは、エルサレムに向かいます。ダマスコのイエス信者を逮捕連行するためにエルサレムを出発してから三年が経っていました。。今サウロは、その時迫害したイエスをメシアとして告知する者として、エルサレムに向かいます。パウロはこう証言しています。
 「それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません」(ガラテヤ一・一八〜二〇)。
 「それから三年後」は、回心から三年経った年を指しています。回心は三三年ですから、ユダヤ式の足かけ三年後は三五年になります。その間、敬虔なユダヤ教徒サウロはエルサレムのことを考えない日はなかったでしょうが、エルサレムに上ることはできませんでした。イエスを信じる信仰を撲滅するために送り出されたエルサレムのギリシア語系ユダヤ人の会堂から、裏切り者として追及されることは目に見えています。生命の危険さえ覚悟しなければなりません。そのようなエルサレムに上ることは、サウロにとって大変な覚悟がいることでした。今、命がけでダマスコを脱出して、サウロはその覚悟を固めます。
 危険を冒してエルサレムに上ろうとした動機について、サウロ自身は「ケファと知り合いになろうとして」と書いています。ケファ、すなわちペトロは、イエスの直弟子の代表格ですから、サウロがケファと知り合いになろうとしたのは、ケファからイエスに関する確実な知識を得るためであったと考えられます。イエスをメシア・キリストとして告知する以上、イエスがどのような働きをされ、どのような言葉をもって教え、どのような生涯を送られた方であるかを確実に知ることは必要です。それに、ケファはエルサレム共同体をを代表する指導者として、エルサレム共同体のキリスト告白を体現する人物です。そのケファからイエスの働きと言葉に関する伝承(イエス伝承)と、エルサレム共同体のキリスト告白を受け取ることが不可欠だと、サウロが考えたのも当然です。何といってもエルサレム共同体はイエスの直弟子たちが形成する聖都の共同体です。この共同体との関わり抜きには、イエスをキリストと告知する運動は根無し草になります。
 しかし、このとき危険を冒してエルサレムに上ろうとしたのは、ケファに会うためだけではなかったと考えられます。熱烈なユダヤ教徒サウロにとって、もしイエスがメシア・キリストであるならば、その信仰はまず神の都エルサレムでこそ確立されなければなりません。エルサレムでイエスをメシア・キリストと宣べ伝えることがどれほど危険なことであっても、それを身をもって証しすることが自分の使命であると感じていたからではないかと考えられます。事実、後ほどパウロは自分の伝道活動をエルサレムから始めたと語っています(ローマ一五・一九)。
 サウロの回心後三年目のエルサレム訪問については、ルカも報告しています(九・二六〜三〇)。しかし、ルカの記事はガラテヤ書におけるパウロ自身の証言とは違う点があります。ルカによると、エルサレムの弟子たちはサウロが弟子となったことを信じられないで、信者を探索するための偽装ではないかとして恐れたようです。しかし、バルナバがサウロの回心とその後のイエスの名による活動を証言したので、サウロはエルサレムの使徒たちに受け入れられ、交わりが成立したとされています。バルナバはすでに資産の共有のところに登場していましたが、これからも重要な役割を果たすことになります。しかし、バルナバについては、次章のエルサレム共同体とアンティオキア共同体の折衝を扱うところで詳しく取り上げることにします。
 サウロはエルサレムで十五日間ケファの家に滞在します。後の大使徒ペトロとパウロが十五日間も祈りを共にし、信仰について徹底的に語り合ったのです。二人とも聖霊に満ち、復活者イエスとの交わりを体験しています。一方のペトロはイエスの直弟子として、イエスご自身によって鍛えられ、イエスの働きと言葉の伝承を深く身につけています。他方パウロは、当代きっての律法学者として深い聖書知識を身につけています。この二人がイエスの出来事について、イエスをキリストと信じる信仰の内容について徹底的に語り合ったことは、福音の進展において画期的な出来事であったことは間違いありません。
 サウロはこのときケファからイエスの出来事に関する多くの知識を得たことでしょう。それだけでなく、この頃までに形成されていたエルサレム共同体のキリスト告白を受けたことでしょう。先に見たように、パウロが「わたしも受けたものです」として引用しているキリスト告白の定型文(コリントT一五・三〜五)は、この時にケファを通して受けた伝承である可能性が高いと見られます。
 しかし、この出会いと話し合いは、ケファからサウロへの一方通行ではなかったはずです。サウロも自分のキリスト体験と、その意義について、聖書学者としての知識を総動員して、聖霊の体験の中で得た理解を熱く語ったことでしょう。ケファがどの程度サウロを理解したかは分かりませんが、ルカが伝えるところでは、ペトロは後にかなりパウロの立場を理解して弁護しているようです。少なくとも、後にペトロがヘレニズム世界に福音を伝える働きを進めるようになった背景には、この時のサウロ/パウロから受けたインパクトがあったのではないかと推察されます。
 パウロは、この時エルサレムではケファと主の兄弟ヤコブに会っただけで、「他の使徒にはだれにも会わなかった」と証言しています。これは、自分の使徒職はエルサレムの使徒団から任命されて得たものではないことを強調するためであって、エルサレムでユダヤ人に、とくにギリシア語系ユダヤ人の会堂でイエス・キリストを宣べ伝え、反対するユダヤ人と議論したとするルカの報告と矛盾するものではありません。
 ギリシア語系ユダヤ人の会堂の律法に熱心な者たちは、イエスをメシア・キリストと宣べ伝えるサウロを、裏切り者として激しく迫害し、殺そうとします。彼らはすでにステファノを殺しています。危険を察知したエルサレムの兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこから(おそらく海路で)タルソスに向かって出発させます。
 パウロも、エルサレム訪問の後のことについて、「その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました」と証言しています(ガラテヤ一・二一)。タルソスはキリキア州の州都であり、サウロが生まれ育った都市です。タルソスで何年かを過ごした後、サウロはシリア州の州都アンティオキアで活動します。タルソスに何年滞在したかは確認困難ですが、その期間故郷で静養したのではなく、活発に福音活動を進めたと推察されます。ルカはタルソスでの活動には全然触れていませんが、それはサウロの福音活動を否定する根拠にはなりません。ルカは当然のこととして省略したと考えられます。この時のサウロの活動によって、タルソスにもキリスト共同体が成立したことは、ルカの記事(一五・二三、四一)からも推察できます。タルソスとアンティオキアでのサウロの活躍については、次節でもう少し詳しく見ることになります。

U アンティオキア共同体の成立

アンティオキアでの福音活動

 「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々」の活動については、すでにルカは使徒言行録八章でフィリポのサマリアと沿岸地方での活動を伝えています。また、「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害」の立役者であるサウロがダマスコ途上で復活されたイエスと遭遇して回心した出来事を九章で語っています。その後一〇章(正確には九・三二〜一一・一八)で、ペトロの沿岸地方での活動を記述した後、再び「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々」の活動を取り上げます(一一・一九)。
 「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった」。(一一・一九)
 ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、ギリシア語系ユダヤ人でした。彼らはディアスポラのユダヤ人であり、地中海世界に位置する大都市からエルサレムに来ていて、あるいは移住してきていて、復活者イエスをメシア・キリストと宣べ伝える福音に接し、信仰に入ったのでした。彼らが迫害でエルサレムから追われたとき、親戚や知人のいる出身地の都市に避難したのは当然です。彼らの多くは、エルサレムに比較的近いフェニキア、キプロス、アンティオキアから来ていたユダヤ人であったのでしょう。そのような地域に避難・移住する者が多くいました。
 フェニキアはパレスチナの地中海沿い北寄りの地域であり、ティルスとかシドンなどが含まれます。キプロスはパレスチナ北部の海岸から二〇〇キロほど西にある大きな島です。これらの地域は、シリア州の州都である大都市アンティオキアと共に、ユダヤ人が多く住んでいる地域でした。これらの地域のユダヤ人は、エルサレム・ユダヤ・ガリラヤのユダヤ人共同体と活発な交流を持っていました。
 エルサレムでの迫害から逃れてこれらの地域に難を避けたギリシア語系ユダヤ人たちは、当然その地域のギリシア語系ユダヤ人にイエスのことを語り伝えましたが、彼らの活動はギリシア語系ユダヤ人の間に限られ、ユダヤ人(ユダヤ教徒)以外の異邦人(異教徒)には働きかけてはいませんでした。
 「しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた」。(一一・二〇)
 「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々」の中に、キプロス島やキレネ出身のギリシア語系ユダヤ人がいて、その人たちがアンティオキアに行って、「ギリシア語を話す人々」にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせます。キプロス島については先に触れました。キレネは北アフリカのキレネ州の州都であり、アフリカではアレクサンドリアに次いでユダヤ人が多く住んでいる大都市でした。キレネのユダヤ人共同体はエルサレムと密接な交流があり、イエスの十字架を代わって担ったのも、キレネのユダヤ人でした。
 この節の「ギリシア語を話す人々」のギリシア語原語は《ヘレーニスタイ》であり、六章一節の「ギリシア語を話すユダヤ人」と同じ用語です。しかし、ここでは「ギリシア語を話すユダヤ人」ではなく、その原意の通り「ギリシア語を話す人々」、すなわちギリシア人と理解しなければなりません。それは、この節が前節と「しかし」で結ばれ対比されているので、ここは前節の「ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった」に対して、「ユダヤ人以外にも語りかけた」、すなわちギリシア人にも語りかけたと理解しなければなりません。
 これまでは、ギリシア語系ユダヤ人が福音を語るのは、同じギリシア語系ユダヤ人か、会堂に集う「神を敬う者」だけでした。ところがここにきて、あるギリシア語系ユダヤ人が、会堂の外にいる非ユダヤ教徒(=異邦人)に語りかけたのです。ユダヤ教徒でない者にイエスをメシア・キリストと宣べ伝えるという大胆な一歩がここで踏み出されたのです。彼らの名は伝えられていませんが、彼らは実に重要な一歩を踏み出したと言えます。
 「主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった」。(一一・二一)
 この異邦人にイエスをキリストとして告げ知らせるという大胆な働きを主が助けられたので、多くの異邦人が「信じて主に立ち帰り」ます。イエスをメシア・キリストと信じることが、ここで「主《キュリオス》に立ち帰る」と表現されていますが、この表現については後で触れることにします。
 こうして、アンティオキアというヘレニズム世界の大都市にキリストの民の共同体が呱々の声をあげることになります。この共同体は初めからユダヤ人だけでなく異邦人を含む共同体として出発します。そして、異邦人に向かって活発な福音活動を進め、異邦人への福音活動の拠点として、その存在は最初期の福音の進展においてきわめて重要な意義を担うことになります。このアンティオキア共同体の活動と意義については、次章で詳しく扱うことになります。

バルナバの派遣

 アンティオキアに異邦人を含む信者の共同体が誕生したという「報知がエルサレムにある共同体の耳にまで聞こえてきます」。それでエルサレム共同体はバルナバをアンティオキアに派遣します(一一・二二の一部分を直訳)。

ルカはここで「エルサレムにある《エクレーシア》」と単数形で《エクレーシア》を用いています。当時すでに各地で複数の集会が活動していたと見られますが、ルカは信者の共同体全体を一つと見て、《ヘー・エクレーシア》(冠詞つきの単数形)で指し、それに「エルサレムにある」という限定をつけています。ここでは《エクレーシア》を「共同体」と訳しています。

 バルナバはすでに使徒言行録では四章(三二〜三七節)の資産の共有のところで登場しています。ここで再び舞台に登場して、パウロと共にアンティオキア共同体を代表する人物として活躍する重要人物ですので、そのプロフィールを見ておきます。
 バルナバは、キプロス島出身のレビ族のユダヤ人で、本名はヨセフです。後に使徒たちから「慰めの子」という意味で「バルナバ」と呼ばれるようになり、使徒言行録ではもっぱらこの名で登場します(四・三六〜三七)。新共同訳は「キプロス生まれの」と訳していますが、原語は出身とか家系を指す語で、必ずしも出生地を指すとは限らず、キプロス系ユダヤ人の家族がエルサレムに移住してきていて、バルナバはエルサレムで生まれた可能性もあります。バルナバは両親の言語であるギリシア語で育ったギリシア語系ユダヤ人ですが、エルサレムで生まれ、あるいは幼少のときからエルサレムで育ち、アラム語にも習熟して、バイリンガルな(二言語の)生活をしていたと見られます。
 バルナバは、エルサレムで復活者イエスをメシアと宣べ伝える福音活動が始まったとき、イエスを信じて共同体に加わります。そのとき所有する畑を売って、その代金を使徒たちに委ねます。先に見たように、エルサレム共同体はかなり初期からアラム語系ユダヤ人とギリシア語系ユダヤ人の交わりに別れたようですが、どちらの言語にも堪能なバルナバは十二人が代表するアラム語系の共同体に参加していたと見られます。
 ギリシア語系ユダヤ人の「七人」の指導者の名簿にバルナバの名はありません。ギリシア語系ユダヤ人がエルサレムから追放された後も、バルナバはエルサレムに残り活動しています。また、彼はアラム語系の使徒たちから「バルナバ」というアラム語の呼び名を与えられています。このような状況を考慮に入れますと、バルナバは初めから十二人を代表とするアラム語系ユダヤ人のエルサレム共同体に加わっていたと考えられます。ギリシア語を母語とするディアスポラ・ユダヤ人にもアラム語をよくして、アラム語の共同体に参加する人たちがいたことは、マルコやシラスの例にも見られます。バルナバはその中でも重要な人物です。

バルナバはステファノ・グループの一員であって、迫害でエルサレムから追われ、アンティオキアまで行って異邦人に福音を伝えた「キプロス出身の」ユダヤ人(一一・二〇)であるという推察もあります(佐竹明『使徒パウロ』)。しかし、ここにあげた事情や、この後バルナバがエルサレム共同体とアンティオキア共同体の橋渡しの役を果たしている事実からすると、やはりバルナバはエルサレムのアラム語系共同体の一員であったと見る方が適切であると考えられます。

 「バルナバはそこ(アンティオキア)に到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた」。(一一・二三〜二四)
 バルナバはアンティオキアで起こっていること、すなわち異邦人がイエスを主《キュリオス》と信じて言い表し、神の民に加えられている出来事を見て、それが神の恵みの業、律法の枠を超えた神の恩恵の働きの結果であることを認め、大いに喜び、彼ら異邦人が異邦人のままで神の民の共同体に受け容れられていることを無制限に肯定します。これは、バルナバがエルサレム共同体の使徒団から信頼されていると同時に、サウロの福音理解に深く共感していたからであると考えられます。このようなバルナバをルカは、「立派な人物で、聖霊と信仰に満ちていた」という最大級の賛辞でほめています。
 バルナバは「聖霊と信仰とに満ちていた」だけでなく、エルサレム共同体のキリスト信仰とイエス伝承を身につけてアンティオキアに来て、呱々の声を上げたばかりの共同体に伝えたことが重要です。アンティオキア共同体は多くの異邦人を含んでいましたが、その共同体にユダヤ教の揺籃の中で生まれたイエス・キリストの福音を伝えることができたのは、バルナバがギリシア語系ユダヤ人だったからです。アラム語もよくするユダヤ教徒として、バルナバは十二人が代表するアラム語系ユダヤ人のエルサレム共同体で、そこに伝えられたイエス伝承を十分身につけると同時に、その共同体で形成されたキリスト信仰を深く理解して、その両方を生まれたばかりのアンティオキア共同体に伝え、共同体を指導しました。すぐ後にアンティオキア共同体の指導者のリストが上げられていますが、バルナバはその筆頭者です(一三・一)。バルナバこそ最初期のアンティオキア共同体を代表する人物です。

主《キュリオス》であるイエスの告知

 このアンティオキアにおける福音活動を伝える段落では、「主」《キュリオス》という称号が繰り返し用いられていることが注目されます。ステファノの事件でエルサレムから追われたギリシア語系ユダヤ人の中で、キプロス島やキレネ出身のある者がアンティオキアに来てギリシア語を話す人たち(ギリシア人、異邦人)に始めて福音を語ります。その福音活動は「主イエスを(福音として)告知した」と表現されています(一一・二〇)。イエスは、ユダヤ教でいう「メシア」ではなく、「主《キュリオス》」という称号で呼ばれています。彼らはイエスを《キュリオス》と告知したのです。
 さらに、彼らの福音活動を「主が助けられた」ので、多くの者が信じて「主に立ち帰った」と記述されています(一一・二一)。ここの「主が助けられた」の「主」は、神を指すとも復活者イエスを指すとも取れますし、「主に立ち帰った」の「主」も、主イエスに立ち帰ったとも受け取れますが、異邦人が偶像を捨てて唯一のまことの神に立ち帰ったと理解する方が適切ではないかとも考えられます(テサロニケT一・九参照)。
 アンティオキアにおけるバルナバの働きも、「主から離れる」ことのないように勧め励ますとか、彼によって多くの人が「主に導かれた」と、「主」《キュリオス》という称号だけを用いて語られています(一一・二三〜二四)。ここの「主」も、偶像と対比された唯一の神とも、復活者イエスを指すとも理解できます。
 このようにアンティオキアにおける福音活動の記述においては、これまでよく用いられていた「メシア・キリスト」は出てこないで、もっぱら「主」《キュリオス》という称号だけで語られているのは偶然ではありません。この《キュリオス》という称号こそ、アンティオキアから始まる異邦人伝道の信仰告白において中心を占めることになるのです。このことは次節「V ギリシア語系ユダヤ人の福音告知」で詳しく検討することになりますが、ここでは、アンティオキアでの福音活動を記述するルカの記事が《キュリオス》をいう称号だけを用いているという事実を指摘するにとどめます。これは、ルカがアンティオキアで得た資料を用いて記述した結果であり、ルカの歴史家としての正確さを示していると考えられます。

バルナバとサウロの協力

 「それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会(アンティオキア共同体)に一緒にいて多くの人を教えた」。(一一・二五〜二六前半)
 バルナバはすでに、サウロが回心後三年目(三五年)に初めてエルサレムを訪れたとき、迫害者として彼を恐れるエルサレム共同体にサウロの回心とダマスコでの働きを証言して、サウロがエルサレム共同体に受け容れられるようにしました(九・二六〜二八)。先に見たように、サウロは回心後しばらくダマスコでイエスをメシアと宣べ伝える働きをしていますが、すぐにアラビヤに赴き(ガラテヤ一・一七)、「かなりの日数がたって」ダマスコに戻り、再びメシア・イエスを宣べ伝えています。そのとき彼を殺そうとするユダヤ人の陰謀が発覚し、ダマスコを脱出してエルサレムに行ったのでした(九・一九〜二五)。
 バルナバがサウロのダマスコでの働きを見たのは、サウロの回心直後(三三年)のことか、またはアラビヤから帰ってからのこと(三五年)か、決定は困難ですが、直後ではまだサウロの回心はエルサレムに伝わっておらず、おそらく「かなりの日数がたって」ダマスコの様子が伝わってくるようになったとき(三四〜三五年)、(アンティオキアへの派遣と同じように)エルサレム共同体はバルナバをダマスコに派遣したのではないかと推察されます。
 サウロがダマスコから脱出したとき、エルサレムに向かったのは、バルナバの勧めがあり、バルナバが同行したからではないかとも推察されます。エルサレムでバルナバがサウロのダマスコでの働きを証言したというルカの記事は、このような推察を促します。そして、サウロがエルサレムのギリシア語系ユダヤ人の会堂で激しく論争し、彼らがサウロを殺そうとしたとき、「それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させ」ます(九・二九〜三〇)。その「兄弟たち」の中にバルナバがいたのではないかと推察されます。バルナバはサウロをタルソスに送り出した「兄弟たち」の一人であり、サウロがタルソスに行ったことを知っているので、そしてその後も何らかの接触があり、サウロがタルソスにいることを知っているので、「サウロを捜しにタルソスへ行った」という行動になったと考えられます。
 故郷のタルソスに戻ったサウロは、故郷の町で休養していたのではなく、活発な福音活動を進めていたはずです。回心直後から、ダマスコ、アラビヤ、エルサレムで激しく活動してきたサウロが、タルソスでは何年も無為に過ごしたとは考えられません。サウロの福音活動によってタルソスにはかなりの規模の共同体が成立し、活動するようになっていたと考えられます。
 しかも、その共同体はかなりの割合で異邦人を含むようになっていたと見られます。それは、サウロが当初から異邦人への福音告知を自分の使命と自覚していたことと、後にエルサレム使徒会議の後「使徒と長老からアンティオキアとシリア州とキリキア州に住む異邦人の兄弟たちに」送られた手紙(一五・二三)から知ることができます。タルソスはキリキア州の州都であり、「キリキア州に住む異邦人の兄弟たち」とは、実質的にはタルソスの共同体を指していると考えられます。この手紙は、タルソスにおけるサウロの福音活動を証言していると言えます。
 タルソスは、その後二〇〇年にわたって福音告知の歴史に名が出てきません。しかし、二五〇年頃に「タルソスの司教ヘレノス」がアンティオキアでの司教会議で活躍したことが報告されています(エウセビオス『教会史』六・四六・三)。タルソスには、この時のサウロの福音活動以来、キリスト者の共同体がずっと存在し、キリキア地方で指導的な役割を果たしていたと推察することができます。
 アンティオキアに派遣されて、異邦人を多く含むアンティオキア共同体で教えていたバルナバは、サウロの協力を必要と感じたのでしょう、「サウロを捜しにタルソスへ行き」ます。バルナバはサウロが異邦人に福音を告げ知らせるために神から選ばれた器であることをよく理解していたのでしょう。ダマスコでのサウロの働きや、エルサレムでのギリシア語系ユダヤ人との激しい論争などを見て、サウロのユダヤ教律法に対する姿勢や彼の福音理解に深く共感するところがあったものと考えられます。サウロも生涯、バルナバを「同労者」として信頼しています。
 バルナバは、タルソスで活動しているサウロを見つけ出して、アンティオキアに連れ帰ります。サウロを見つけることは、それほど易しいことではなかったと考えられます。サウロはタルソス周辺の都市にも伝道に出かけていたことでしょうから、彼を見つけるのにかなりの時間がかかったかもしれません。ようやく見つけて、サウロを説得し、アンティオキアに連れて帰ります。それが何年のことか確定することは困難ですが、多くの研究者は三九〜四〇年のことであろうと見ています。そうすると、サウロは三五年から四,五年の間、タルソスで働いたことになります。このタルソス時代のサウロについては、ルカは沈黙していますので、詳しいことは分かりませんが、先に見たように、活発な福音活動を続けたことは確実でしょう。
 「二人は、丸一年の間そこの教会(アンティオキア共同体)に一緒にいて多くの人を教えた」とありますが、この「丸一年の間」がどの出来事までの期間を指しているのか、明記されていません。ルカの記述では、すぐ後にバルナバとサウロが「クラウディウス帝の時に起こった飢饉」(四七〜四八年)の時、援助の品をエルサレム共同体に届けたという出来事が記録されていますが(一一・二七〜三〇)、これはすぐに戻ってきているのでしょうから、「丸一年の間」の終点にはなりません。また、年代的にも無理があります。
 次にバルナバとサウロが出てくるのは、二人がキプロス伝道に送り出される時ですが(一三・二〜三)、それまでの一年間という意味に取るには、これも年代的に無理があります。おそらく、周辺の地域に伝道に出かけることなく、「丸一年の間」じっくりとアンティオキア集会に腰を据えて教えたという意味でしょう。
 ルカがここでわざわざ「丸一年の間」という期間を明記したのは、おそらくこの期間の特別な性格によるものと考えられます。この期間の記述が修飾している動詞は、新共同訳は「そこの教会に一緒にいて」と訳していますが、この「一緒にいて」は、バルナバとサウロが「一緒にいて」ではなく、「その共同体《エクレーシア》で集まりをして」と訳すか、「そこの共同体で(客として)サポートされて」と理解すべきでしょう。サウロがアンティオキアに来た三九/四〇年の頃は、カリグラ帝時代の事件でアンティオキアではギリシア語住民の反ユダヤ人感情が高揚して危険な情勢でした(これは次章で)。二人は若い共同体が信仰にとどまるためにはしっかりと教えなければと感じて、「丸一年の間」アンティオキア集会に腰を据えて教えたのでしょう。

ここで「一緒にいる」と訳されている動詞は、「合わせて」と「持ってくる」が合成された動詞で、「集める、招集する」とか「(客として)受け容れる」という意味がある動詞の受動態です。ここは「(客として)迎えられて」という受動の意味に理解できます(織田・ギリシア語小辞典)。この動詞は、マタイ二五・三五、三八、四三で「(客として)受け容れる」という意味で用いられています。このように集会のサポートを受けて活動することは、当時の伝道活動では例外的であったので、ルカはこの特別な性格の活動期間を明記したとも考えられます。しかし、使徒言行録における他の用例から、「集まりをする」と訳すことも十分可能です(岩波版荒井訳)。どちらの場合も「丸一年の間」という期間がつけられているのは、その期間二人が他の土地に伝道に出かけることなく、アンティオキアにとどまって活動したことを指していると理解できます。これは、コリントやエフェソでの活動期間を特記したように、ルカがアンティオキアでの滞在と活動の期間を特記したと見ることができます(ヘンゲル)。

「キリスト者」の呼び名

 共に聖霊と信仰に満ちた二人の有能な伝道者バルナバとサウロの働きにより、アンティオキアには異邦人を多く含む信者の共同体が成立し、活発に活動するようになっていました。異邦人を多く含む集会は、もはやユダヤ教会堂内で交わりを進めることはできません。おそらく有力な信者の家に集まり、共同の食事を含む礼拝の集会をしていたと考えられます。
 このように共同体がユダヤ教会堂の外で活動するようになったこともあって、これまでユダヤ教の内部での新しい信仰運動と見られていた福音活動が、ユダヤ教とは別の信仰運動であることが外部の人たちにもはっきりと見えてきます。その結果、イエスを信じる者たちは、もはやユダヤ教徒の一部ではないことが明らかになり、ユダヤ教徒《ユーダイオイ》とは別の名で呼ばれるようになります。
 「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者《クリスティアノイ》と呼ばれるようになったのである」。(一一・二六後半)
 《クリスティアノイ》(複数形)は、《クリストス》に属する者たちという意味のギリシア語です。《クリストス》は「油を注がれた」という意味のギリシア語で、ユダヤ教での「メシア」の訳語として用いられていました。もともとメシアとしての称号であったこのギリシア語は、「イエス・キリスト」と一つの名として用いられ、異邦人の間では一人の人物を指す名となっていきます。この変化の過程は、かなり速く進んだようで、アンティオキアの異邦人の間ではすでにこの信仰の創始者であり信仰の対象となっている方の個人名として用いられるようになっていたので、この「キリスト」という人物に属する者たちという意味で、イエスをキリストと信じる者たちがこう呼ばれるようになります。
 この呼び名は、外部の人たちが用いた呼び名です。イエスをキリストと信じる者たちの共同体内部では、「弟子」とか「兄弟」とか「聖徒たち」という呼び名が用いられていました。彼らは外の人たちから《クリスティアノイ》と呼ばれたのです。イエスをキリストと信じる人たちは、もはやユダヤ教徒の中の一派としてではなく、ユダヤ教徒とは別の信仰共同体と見られるようになります。とくにローマの権力者層から「キリスト派」とか「キリスト党」という意味合いで注目されるようになり、迫害に関するローマ側の文書に出てくるようになります。
 したがって共同体内部の文書である新約聖書の中では、この《クリスティアノイ》という呼び名はほとんど出てきません。パウロの裁判でアグリッパ王が用いているケース(二六・二八)と、迫害する者が信者を呼ぶ呼称として出てくる場合(ペトロT四・一六)の二箇所だけです。両方とも単数形《クリスティアノス》で「キリスト教徒」とか「キリスト者」(新共同訳、新改訳、岩波版荒井訳)と訳されます。英語ではChristian(クリスチャン)ということになります。協会訳はここを「クリスチャン」と訳しています。
 このように、もともとは外部の人たち、とくに迫害する側の人たちが、信者を差別し、非難するときに用いた呼び名が、信じる者たちに受け容れられて、自分たちを指すときに誇りをもって用いられるようになり、現在に至っています。そのように用いられるようになるまでには何世紀にもわたる長い期間がかかったようですが、その出発点はすでに新約聖書の時代にあります。迫害時に書かれたペトロ第一書簡に、「しかし、キリスト者《クリスティアノス》として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、その名で呼ばれることで、神をあがめなさい」(四・一六私訳)とあります。《クリスティアノス》と呼ばれて迫害された信徒は、自分は《クリスティアノス》であると、誇りをもって言い表し、それを誉れある自分の名としたのです。

V ギリシア語系ユダヤ人の福音告知

ギリシア語による福音告知

 本章「ユダヤ教の外に向かう福音」において、ギリシア語系ユダヤ人の福音活動を見てきました。エルサレム共同体におけるギリシア語系ユダヤ人の分離、「七人」の指導者の選出、その代表者であるステファノの活動と殉教、「七人」の一人であるフィリポの福音活動、ギリシア語系ユダヤ人信者の迫害者であったサウロが回心してイエスをキリストと宣べ伝える福音活動を始めたこと、そしてアンティオキアに異邦人を多く含み、異邦人に福音を告知する活動を活発にする共同体が成立したことなどを見てきました。では、そのギリシア語系ユダヤ人が告知した福音とはどのような内容であったか、これはこれからの本稿全体の主題であり、簡単にまとめることはできませんが、ここで一応この段階でのギリシア語系ユダヤ人が告知した福音の内容、またその告知の仕方の特徴について簡単に触れておきましょう。
 先に「第一章・エルサレム共同体の成立」の最後に「エルサレム共同体のキリスト告知」の項を設けて、エルサレム共同体が告知したキリストがどのようなキリストであったかを概略まとめておきました。そのエルサレム共同体の一部であったギリシア語系ユダヤ人の福音告知も、その内容において変わるものではありません。同じキリストを福音として告知したのです。しかし、最初期のエルサレム共同体がそれをアラム語で告知したのに対して、ギリシア語系ユダヤ人は同じ福音をギリシア語で告知したことが最大の変化です。
 ギリシア語系ユダヤ人が福音をギリシア語で告知することは当然のことです。しかし、この使用言語の違いは、たんに伝達のための手段が違うようになったというだけでなく、違った言語がもつ違った文化的背景のために、その内容に微妙な違いが出てきます。最初にこの問題を一瞥しておきます。
 まず第一に目につくことは、「キリスト」という語の意味が変わったことです。最初期のエルサレム共同体はナザレのイエスが復活されたことを告知し、その復活されたイエスを「メシア」と宣べ伝えました。「メシア」はヘブライ語の《マシアーハ》、アラム語の《メシハー》の日本語表記ですが、このヘブライ語とアラム語は「油を注がれた者」という意味であり、旧約聖書では油を注がれてその地位についた王や祭司を指していました。その語がイエスの時代には、終わりの日に現れる救済者、神から霊を注がれた者としてイスラエルに現れて民を救うと約束された救済者を指す用語になっていました。最初期のエルサレム共同体は、復活されたイエスをそのような「メシア」として告知したのです。
 ところで、ギリシア語系ユダヤ人がギリシア人に福音を告げ知らせるときにはギリシア語を用いるわけですが、そのとき「メシア」をギリシア語にして語らなければなりません。彼らは当然、七十人訳ギリシア語聖書で「メシア」の訳語として用いられている《クリストス》(たとえば詩編二・二)を用いることになります。《クリストス》というギリシア語は、「油を注がれた(塗られた)者」という意味のギリシア語であり、聖書の「メシア」の訳語として広く用いられていました。この《クリストス》の日本語表記が「キリスト」です。
 イエスをこのようなキリストとして宣べ伝えるとき、本来終末的救済者キリストであるイエスを指す「キリスト・イエス」とか「イエス・キリスト」という呼び方が違った仕方で理解されるようになります。もともと終末的救済者の到来を待望するというメシア思想のないギリシア人の間では、「キリスト」というメシア称号が理解されず、「イエス・キリスト」が一人の人物の名前のように受け取られるようになります。ローマ社会の習慣に従って、「イエス」は個人の名前であり。それにつけられた「キリスト」は姓とか家名とかあだ名のように理解されて、「イエス・キリスト」が一人の人物の名前として扱われるようになります。この変化はかなり急速に進んだようです。先に見たように、アンティオキアで信者が外の人たちから《クリスティアノイ》と呼ばれるようになったのも、《クリストス》が一人の人物の名前として理解されるようになっていたことの現れでした。

《キュリオス》としての復活者イエス

 そうするとイエスが神から世界に遣わされた救済者であることを指す称号として「キリスト」以外の称号、それもギリシア人に理解されやすい称号を用いる必要があります。その称号としてギリシア語系ユダヤ人の福音告知において用いられるようになったのが、《キュリオス》(主)という称号です。とくにギリシア人に福音を語るようになったアンティオキアの共同体でよく用いられるようになります。先にアンティオキア共同体の成立を見たときに、その成立を語る使徒言行録の記事(一一・一九〜二六)ではイエスの称号として「主《キュリオス》」だけが用いられていることを見ましたが、これは偶然ではなく、ルカが用いたアンティオキア資料がもっぱらこの称号を用いて福音を語っていた結果であると考えられます。
 《キュリオス》というギリシア語は、もともと家や農場など財産(とくに奴隷)の「所有者」を指す語で、奴隷や雇い人に対して「主人」を指す語として、世俗の世界で広く用いられていました。その延長上で、皇帝も《キュリオス》と呼ばれるようになります。同時に、宗教的な用語としては、当時のギリシアの神々の世界でゼウスとかイシスという神々を指す用語としても使われていました。ギリシア世界には「多くの神々、多くの《キュリオス》たちがいると思われていた」のです(コリントT八・五)。
 ユダヤ教においても神を指すときに「主」という意味の語を用いていました。すでに前二世紀と前一世紀のパレスチナのユダヤ教徒は、神や「ヤハウェ」を指すときに、ヘブライ語では《アドーン》とか《アドーナイ》、アラム語では《マーラー》、ギリシア語では《キュリオス》と、いずれも「主」を意味する語を用いるようになっていました。

新共同訳をはじめ多くの日本語訳(そしてほとんどの欧米語訳も)は、ヘブライ語聖書の《ヤハウェ》を「主」と訳していますから、いつから神とか《ヤハウェ》を「主」という意味の語で指すようになったかを議論する資料にはなりません。岩波版旧約聖書では《ヤハウェ》を「ヤハウェ」という語で訳しているので、旧約聖書では《ヤハウェ》を「主」という語で指していないことがよく分かります。新約聖書で《ヤハウェ》を《キュリオス》で指しているのは七十人訳ギリシア語聖書の用例に従ったものだと考えられてきましたが、七十人訳ギリシア語聖書においても《ヤハウェ》を《キュリオス》と書いているのは五世紀から六世紀以後のキリスト教側の写本であって、キリスト教以前のギリシア語系ユダヤ人の用いたギリシア語聖書には《キュリオス》ではなく、YHWHのヘブライ文字が書き込まれていた写本もあったようです。それで、パレスチナ・ユダヤ人が神や《ヤハウェ》を「主」と呼ぶことは考えられないとされてきました。しかし、前二世紀から前一世紀にかけてのユダヤ教文献に、その時代のパレスチナ・ユダヤ教徒が《ヤハウェ》を「主」という語で指すようになった実例が見られるようになっています。それが新約聖書で神と《ヤハウェ》を《キュリオス》というギリシア語としている準備をしたものと考えられます(新約聖書釈義辞典)。

 アラム語を用いる最初期のエルサレム共同体が、復活されたイエスを「主」と呼んでいた痕跡が新約聖書に残されています。パウロは手紙の結びで「マラナ・タ」というアラム語の言葉を(ギリシア語文字で表記して)引用しています(コリントT一六・二二)。このアラム語の句は、《マーラー》(主)に接尾辞がついた《マーラナー》(われらの主)に、《ター》(来てください)がついた形で、「主よ、来たりたまえ」という祈りの句、あるいは典礼で用いられた定型句とされています。アラム語を用いるパレスチナの共同体で形成され、エルサレム共同体でよく用いられたと考えられるこの祈り(あるいは叫び)の言葉は、最初期の信者の合い言葉のように広く用いられたようです。それで、パウロもアラム語のまま異邦人の共同体に伝え、ギリシア語世界の信徒の間でもアラム語のままで唱えられるようになっていました。パウロは、読者の間で現に広く用いられているこの言葉で、勧告を締めくくるのです。
 このように、最初期のエルサレム共同体をはじめ、パレスチナのアラム語を用いる共同体は、復活されたイエスを「主」と呼んでいたことが分かります。そうであれば、最初エルサレム共同体と信仰を共にしていたギリシア語系ユダヤ人が福音を語るさいに、復活されたイエスをギリシア語で《キュリオス》(主)と呼んだことは、ごく自然なことです。ギリシア・ローマ世界の《キュリオス》称号を転用した(宗教史学派)とする必要はありません。そして、先に見たように、メシア思想がなく「キリスト」という称号が理解されないギリシア語世界では、復活されたイエスを指す称号として、この《キュリオス》だけが用いられるようになります。これは、すでに初期のアンティオキア共同体で起こっていました。アンティオキアでは、伝道者は「主イエスについて福音を告げ知らせた」と言われています(一一・二〇)。

一一章二〇節は、直訳すると「《キュリオス》イエスを福音した(福音として告げ知らせた)」となります。「告げ知らせる」の目的語は「《キュリオス》イエス」です。《キュリオス》であるイエスを告げ知らせることが福音です。

 このように、復活されたイエスを《キュリオス》として告げ知らせることが福音ですから、その福音を聞いて信じることは、「イエスを《キュリオス》と信じて言い表す」と表現されることになります。異邦人に福音を宣べ伝えた使徒パウロは、こう書いています。
 「口でイエスは主《キュリオス》であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」。(ローマ一〇・九)
 これはパウロ独自の発言ではありません。アンティオキア以来、異邦人への福音活動の中で形成されてきた共通の信仰告白形式を、パウロが引用しているのです。「口でイエスは主《キュリオス》であると公に言い表す」ことと、「心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じる」ことは一体です。心で信じたことを口で公に言い表すのです。「信じる」という行為は、心と言葉において一体です。そして、イエスが死者の中から復活されたということは、イエスが《キュリオス》であるということと同じです。イエスは復活によって《キュリオス》とされたのです。
 《キュリオス》であるという事実の中に復活が含まれているので、この信仰告白はさらに簡潔に、「イエスは《キュリオス》である」という形にまとめられます。この形がもっとも簡潔な信仰告白として異邦人諸集会で用いられていたことは、パウロがコリントの集会に書き送った書簡(コリントT一二・三)で、聖霊による叫びとしてこの句を引用していることからもうかがわれます。
 イエスが《キュリオス》であるという告知で重要なことは、復活されたイエスが唯一の《キュリオス》として告知されていることです。ギリシア世界では多くの神々と多くの《キュリオス》がいると考えられていましたが、福音はその世界に向かって、唯一の神、万物の創造者であり完成者である唯一の神を告知し、唯一の《キュリオス》、万物がその方によって存在する唯一の《キュリオス》としてイエス・キリストを告知するのです(コリントT八・五〜六)。
 先に見たように、ギリシア世界では「キリスト」がメシア称号としては理解されず、「イエス・キリスト」が一人の人物の名前になっていたので、この方が《キュリオス》であるということを指し示す称号として「主イエス・キリスト」《キュリオス・イエスース・クリストス》という形が広く用いられるようになります。この形は、パウロ書簡やパウロ以後の書簡に繰り返し現れるようになります。
 復活されたイエスが《キュリオス》であるならば、新約聖書で同じく《キュリオス》で呼ばれる神とどのような関係になるのか、この《キュリオス》は世界とどのように関わるのか、この《キュリオス》の救済の働きはどのような内容になるのかなど、福音が告げ知らせる《キュリオス》については、なお確認すべき多くの課題があります。しかし、これは新約聖書神学全体の課題であり、ここで扱うことはできません。本章では、ギリシア語系ユダヤ人の福音が、イエスを《キュリオス》と告知する形をとったというもっとも基本的な事実だけにして、その多様な内容については、次章以降で順次扱うことになります。