市川喜一著作集 > 第19巻 ルカ福音書講解V > 第51講

6 洗礼者ヨハネの誕生(1章57〜66節)

 さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。(一・五七〜五八)

 天使ガブリエルが予告したとおり、エリサベトは月満ちて男の子を産みます。この出産は、不妊の女と呼ばれて苦しい思いをしてきたエリサベトに対する主の大いなる恵みとして、エリサベトを知る近所の人々や親類は喜び合います。ルカの誕生物語には、ユダヤ教社会の庶民の素直な喜びが満ちています。これは、外国の博士たちの表敬訪問や権力者による虐殺事件など、権力を象徴する黄金と流血で彩られたマタイの誕生物語と対照的です。

 八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。 (一・五九〜六〇)
 ユダヤ教社会では、男の子が生まれると八日目に割礼を施します(創世記一七・一二、レビ一二・二〜三)。イエスの時代には、そのときに名をつける習慣が確立していたようです(この習慣は洗礼時に名付けるキリスト教会に受け継がれています)。子に名を与えるのは父親の権利です。しかし、場合によっては割礼を施すラビのような立場の人がつける場合もありました。ザカリアはものが言えないのですから、「その子に割礼を施すために来た人々」が代わって名をつけようとしたのでしょう。
 人々は父の名を取ってザカリアと名付けようとします。ところが、母親のエリサベトが、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言い出します。これは、ユダヤ教社会では異例のことです。おそらく、エリサベトは筆談のような手段で、ザカリアから聖所で天使と出会った体験を聞いていたのでしょう。この出来事が神から出ていることを知っているエリサベトは、生まれる子の名は、天使の指示に従って「ヨハネ」とすると、堅く心を決めていたと見られます。

 しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。(一・六一〜六二)

 このエリサベトの決然とした申し出に、周囲の人たちは驚きます。男子の命名に母親が口を出す異例さにも驚いたのでしょうが、エリサベトが申し出た名がユダヤ教社会の慣例に沿わない名、自分たちの常識をはずれる名であったからです。人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言って反対します。そして、本来の名付けの権利者である父親にその意向を確かめます。ザカリアは口がきけないだけでなく、耳も聞こえなくされていたので、手振りで「この子に何と名を付けたいか」と尋ねます。

 父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。(一・六三〜六四)

 ものが言えないザカリアは、字を書く板を持ってこさせて、それに「この子の名はヨハネ」と書きます。その行為によって、彼が天使の言葉に従ったことが示され、彼が信じなかった言葉が主の言葉であることのしるしとして課せられていた聾唖が解かれます。ザカリアは口が開き、舌がほどけ、ものが言えるようになります。今やこの出来事がすべて神の働きであることを悟ったザカリアは、そのほどけた舌をもって、まず神を賛美します。

 近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。(一・六五〜六六)

 ザカリアが人間社会の慣習に反して、天使の指示に従って「ヨハネ」と命名したとき聾唖が解けた出来事を見て、割礼式に来ていた近所の人たちは、この子の誕生に関わる出来事がすべて神から出ていることを感じ、畏怖の念を持ちます。そして、彼らの口伝えで、ヨハネの誕生に関わるすべてのことが「ユダヤの山里」一帯で大きな話題となります。「ユダヤの山里」というのは、交替でエルサレム神殿に奉仕する祭司階級の人たちが住むエルサレム周辺のユダヤ地方の山に囲まれた地域を指します。ザカリアはアビヤ組の祭司でしたから、この噂がこのザカリアが住む地域一帯に広まった、ということです。この出来事を聞いた人々はみな、この出来事を心にとどめ、神の力が及んでいるこの子の将来はどのようなものになるのだろうか、と期待することになります。事実、この子は成人したとき、偉大な主の預言者として、ユダヤの荒れ野に神の言葉を響かせることになります。