市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第39講

第一三章 神の国と地上の富

       ― ルカ福音書 一六章 ―

はじめに

 ルカは、ガリラヤでの福音活動を描く第一部と、エルサレムでの受難を語る第三部ではほぼマルコに従っていますが、その間に第二部として長い旅行記を置いて、そこをマルコにはない「語録資料Q」の素材や自分だけが持っている独自資料を自由に用いる物語空間としています。その中でも一五章から一六章に至る大きな区分(セクション)は、「放蕩息子」、「不正な管理人」、「金持ちとラザロ」など、ルカだけにある重要なたとえ話が集められていて、ルカ福音書の独自性を強く示しています。
 この区分にあるたとえ話は、この区分の最初に置かれている導入部(一五・一〜三)で「そこでイエスは次のたとえを話された」と明言されているように、イエスを批判するファリサイ派の人々に対する反論として語られたものです。その前半の一五章は、失われたものが見出される喜びを主題としていましたが、後半の一六章では、地上の人間の最大の関心事である富が「神の支配」とどのような関係に立つのかが主題となっています。一六章は、この問題を扱う「不正な管理人」(一〜九節)と「金持ちとラザロ」(一九〜三一節)という二つの大きなたとえ話の間に、この主題に関するイエスの語録集(一〇〜一八節)を置いているという構成になっています。


97 「不正な管理人」のたとえ(16章1〜13節)

 新共同訳は一三節までをこの標題の下に置いて一つの段落としていますが、「不正な管理人」のたとえは八節までとして、九〜一三節を別の段落として扱うこともできます(岩波版佐藤訳参照)。たしかにたとえそのものは八節で終わっており、九節以下は、このたとえと同じく、富の扱い方を主題とする語録集となっています。おそらくルカは、手許にもっている富に関するイエスの語録群を、富の利用の仕方でほめられた管理人のたとえをモデルケースとして、その後にまとめて置いたものと見られます。
 この「不正な管理人」のたとえは、イエスのたとえの中で解釈が難しく、最も議論の多いたとえの一つですが、世の富について語っている一六章全体の文脈の中で理解するように努めたいと思います。もちろん、イエスの「神の国」告知の枠組みの中で理解されなければならないのは言うまでもありません。

弟子たちへのたとえ話

 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった」。(一六・一)

 一六章は、一五章から続いていて、イエスが罪人たちと交わり、食事まで一緒にされることに対してなされたファリサイ派の人たちや律法学者たちの批判に答えるという状況(一五・一〜三)で語られた言葉です。そのことは、一四節に「この一部始終を聞いていたファリサイ派の人々がイエスをあざ笑った」とあることからも分かります。ファリサイ派の人々も、一五章に続いて以下のイエスの言葉を聞いています。しかし、ルカはここで「弟子たちに言われた」という句を入れて、以下の言葉(一〜一三節)がとくに弟子たちに向かって言われた言葉であることを明らかにしています。

「弟子たちに」という句の前にある《カイ》は、「(ファリサイ派の人々だけでなく)弟子たちにもまた」と理解することができます(新共同訳)。しかし、その前に《デ》という小辞で場面が対照されているので、「ところでその上、弟子たちには」こう語られたと理解することも可能です。一五章はファリサイ派の人たちに対する語りかけでしたが、ここで向きを変えて弟子たちに語りかけられたことになります。その場合は、弟子たちに語られたイエスの言葉を、ファリサイ派の人たちも横で聞いていたことになります(一四節)。このようなたとえはファリサイ派の人々には語る必要はないのですから、ここは「弟子たちにも」ではなく、後者の理解、すなわち「弟子たちには」と理解する方が適切でしょう。

 当時の資産家は、自分の資産を運用して収益をあげる事業を、一人の有能な管理人に任せる場合が多くありました。ここでは、そのような場合がたとえとして用いられています。ある資産家の資産運用を任された管理人が、主人の資産を「散らしている」と訴えられます。おそらく自分の私腹を肥やすために主人の資産の一部を着服したり、ずさんな運用で損失を出したりしたのでしょう。その事実を誰かが主人に告げ口をします。

 「そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない』」。(一六・二)

 ここで主人は「管理の報告」を提出するように管理人に求めます。管理人の職をやめさせることは決めていますが、管理の実態を知り、やめさせる理由をはっきりさせなければなりません。ここで「報告」と訳されている原語は《ホ・ロゴス》です。《ロゴス》はもともと「言葉」という意味の語で、定冠詞付きの《ホ・ロゴス》は、新約聖書では「御言葉、福音の使信」という意味で用いられる重要な語です。しかし、《ロゴス》には「計算、勘定、会計報告、申し開き」という意味もあり、ここで主人は管理人に「申し開き」として「管理の会計報告」を出すように求めています。

 「管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ』」。(一六・三〜四)

 会計報告の提出を求められた管理人は、不正は隠しようがなく、解任を覚悟します。ただ解任された後、どうして暮らしていけばよいのか、その目途が立たず途方に暮れます。対応策を思いめぐらしているうちに、一つ方策を思いつきます。まだ管理人の権限がある間に、その権限を用いて、管理者の職をやめさせられたとき自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ、と思いつきます。

 「そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい』。また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい』」。(一六・五〜七)

 彼はすばやく行動します。管理人を解任されるまでの僅かの期間に、管理人の権限を用いて、自分を受け入れてくれる仲間を作るための行動を起こします。権限を利用して相手に利益を与え、恩を売っておけば、職を失ったとき、相手は何らかの形で返礼をしてくれると期待できます。管理人は小作契約や商取引の証書を管理しています。主人の名で取引を行い、証書を作る権限をもっています。彼は主人に借りのある者を一人一人呼んで、証書にある負債額を少なく書き直させます。
 「バトス」は液体の容量を量る単位で、約二三リットルに相当します。「コロス」は固体の容量を量る単位で、約二三〇リットルに相当します。従来はよく「石」と訳されていました。油(普通はオリーブ油を指す)と小麦は、商取引での負債かもしれませんし、小作契約での負債かもしれません。もし小作契約での小作料とすれば、油一〇〇バトスとか小麦一〇〇コロスは、かなり大きな耕作地の小作料となります。古代の小作料の料率は高く、収穫の半分というケースもありました。その毎年の小作料が、油は五〇%、小麦は二〇%少なくてすむのであれば、小作農家はずいぶん大きな利益を得ることになり、この管理人に大きな恩義を感じることになります。

計量の単位についての解説は、新共同訳巻末の解説「度量衡と通貨」によりますが、岩波版佐藤訳の解説では、「バトス」は約四〇リットル、「コロス」は三九三リットルか五二五リットルとしています。どちらが正確であるのか確認できませんが、どちらをとってもこのたとえの理解には影響しませんので、ここでは保留にしておきます。

 この管理人のやり方は、国の資産管理の権限をもつ官僚や、会社の運営を任されている役員が、定年退職でその権限をなくしたときに自分を迎え入れてくれる就職先を確保するために、権限があるうちにそれを利用して、取引先に恩を売っておく姿を思い起こさせます。昔の管理人も現代の官僚や役員も、道義よりも自分の保身を優先する発想は同じです。

 「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」。(一六・八)

 この管理人のやり方は不正です。それは道義的に許されることではありません。ところが、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」というのです。この主人は管理人の不正によって大きな損害を受けているのですから、自分に損害を与えた管理人の「抜け目のないやり方」を知ったうえで、それをほめるという態度は理解しがたいものです。この理解しがたい主人の態度がどうして弟子たちに何かを教えるたとえとなるのか、それがこのたとえの解釈を困難にしています。

八節前半で「抜け目のない」と訳されている語と、後半で「賢く」と訳されている語は同じ語です。それで、前半と後半のつながりを理解するためには、両方を同じ語で訳す方が適切です。前半は、「主人は、この不正な管理人が賢く行動したので、彼ををほめた」と訳す方がよいでしょう。

 ところで、ここで「主人」と訳されている原語は《ホ・キュリオス》です。この語は、ルカ福音書ではしばしばイエスを指すのに用いられています(七・一三、一〇・一、三九、四一、一二・四二、一八・六など)。それで、ここの「《ホ・キュリオス》はほめた」を「主はほめた」と訳し、この「主」はイエスを指すと理解する解釈が出てきます。一八章六節で、「不正な裁判官」のたとえを語られた後、「それから主は言われた」と続いて、イエスご自身がそのたとえの結論を語っておられる例がありますから、ここでも同じように、イエスがこの「不正な管理人」の賢い行動をほめられたと読む理解の仕方も十分成り立ちます。
 それで、この《ホ・キュリオス》がたとえの中の資産家の「主人」を指すのか、またはこのたとえを語られたイエスを指すのかが、このたとえの解釈の最大の争点となります。たとえの中の「主人」でも「主」(イエス)でも、管理人の不正をほめたのではなく、自分の身を守るためにした「賢い」行動をほめたことに変わりはないので、この節の前半の文言からは、どちらであるかを決めることはできません。むしろ、後半の「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」という言葉との関連が手がかりになります。この言葉はたとえの中の「主人」の言葉ではありえません。弟子たちに対するイエスの言葉としなければなりません。そして、この後半の言葉は前半の管理人の賢い行動をほめた理由ないし目的を示していますので、一体として理解するのが自然です。そうすると、前半の言葉もイエスの言葉だとしなければなりません。

管理人をほめたのはたとえの中の「主人」であると理解する人たちは、イエスが語られたたとえは八節前半で終わっており、後半はルカ(またはルカ以前の伝承)による付加と見る傾向があります。そのさい、「光の子ら」と「この世の子ら」との対照は地上のイエスの用語でありえないとする議論が根拠にされていますが、死海文書で「光の子ら」が「闇の子ら」との対照でよく用いられていた事実からすると、エッセネ派のこともよく知っておられたイエスがこの句を用いられた可能性は十分にあります。

 イエスはなぜ、あるいは何のためにこのようなたとえを語られたのでしょうか。その目的が後半の文で示されています。イエスは弟子たちに、この管理人よりも賢く行動するように求めておられるのです。この管理人が主人の信頼を裏切り、与えられた権限を利用して自分の保身を図った「不正、不義」がほめられているのではありません。彼の本性的な不義にもかかわらず、残された僅かの時を有効に用いて、解雇される危機に備えた「賢い」行動がほめられ、「この世の子ら」が自分の仲間に対して行っているそのような賢い行動以上に、「光の子ら」であるあなたたちは「いっそう賢く」行動するように、と求められているのです。

決算と責任

 この「不正な管理人」のたとえは、わたしたちも決算の日に《ホ・ロゴス》(会計報告、決算書、申し開き書)を提出しなければならない立場であることを思い起こさせます。人間は神に対して責任を負う存在であることを、イエスは「決算」のたとえで語っておられます。「神の支配」は王がその家臣と決算をするようなものです(マタイ・一八・二三)。資産を僕たちに委ねて旅に出た主人は、帰ってきたとき僕たちと「決算」をします(マタイ二五・一九)。管理人は主人に「決算書」を提出しなければなりません。このような「決算」のたとえは、わたしたちが神に対して、すなわち、わたしたちを存在させている方に対して、自分の生き方、在り方に責任を負っている者であることを思い起こさせます。
 人間は自分で存在しているのではなく、わたしを存在させている方によって存在しているのです。その方から「お前はどのように生きたか」、すなわち「わたしが委ねた命や能力をどのように用いたか」と問われるならば、それに答えなければならない立場にあるのです。この「答えなければならない立場」、決算書を提出しなければならない立場のことを「責任」と言います。英語でもドイツ語でも「責任」という語は、「答えなければならない立場」という意味の語です。
 わたしたちの「決算書」は膨大な赤字です。それは、不正な悪しき行為が正しい善い行為よりも多いという意味の赤字ではなく、わたしたちの本性がわたしたちを存在させている方に背いているという根源的な赤字(負債)です。それで、イエスはわたしたちに「わたしたちの負債を赦してください」と祈るように教えられましたが(マタイ六・一二)、同時にこの「不正な管理人」のたとえで、決算の時が迫っている今この時に「賢く」行動するように教えておられるのです。その決算を前にした賢い行動が次節で語られます。

不義の富を用いて友を作れ

 「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。(一六・九)

 「不正にまみれた富」と訳されている句は、直訳すると「不義の富」となります。この表現は、先のたとえの「不義の管理人」と同じ表現です。あの管理人は、自分に委ねられた権限を悪用して、主人の債務者に恩を売り、自分に味方してくれる友を作ることで、自分の身の安全を図りました。彼は「不義の富」を用いて、自分を助けてくれる友を作ったのです。イエスは「そこで」と言って、この「不義の管理人」がしたように、あなたたちも「不義の富」を用いて友を作れ、と勧告されます。「わたしは言っておく」の「わたし」は強調されています。「そこで、このわたしもまた(=さらに)言っておく」という感じです。
 「不義の富」というのは、富を得る手段が正しいか不正であるかという問題ではありません。不正な手段で獲得した富はもちろん、どのように正しい手段で得た富であっても、人間がそれを自分が自由にできる自分の所有物だとするとき、それは「不義の富」となります。さらに、「富」というのは財産とか所有物だけでなく、才能や知識、またそれで得た地位や名誉など、地上で人間が価値あるものとしているものすべてを指しています。それらは本来神のものであって、人間はそれを神の栄光のために、具体的には隣人に仕えるために用いるように、神から委ねられているのです。だから、わたしたちがそれを自分が獲得したものだから自分のために用いるのは当然だとするとき、それらの価値あるものはすべて「不義の富」となります。
 先のたとえでは、解雇されて収入がなくなった管理人を自分の家に迎え入れてくれるのは、管理人に助けてもらった負債者です。それをたとえとして、イエスは「永遠の住まい」に迎え入れてくれる友を作れ、と勧告しておられます。「永遠の住まい」に迎え入れてくれるのは、人間ではなく神です。したがってイエスは、不義の富を用いて神を友とするように生きよ、と勧告しておられることになります。自分に賜っている(委ねられている)一切のよきものを、自分のために用いるのではなく、神のために用いて、神に喜ばれる友として生きよ、と言っておられるのです。世の人たちが自分の危機に対処する機敏なやり方を見て学べ、あなたたちは彼ら以上に真剣にかつ敏速に決算の日に備えよ、と言っておられるのです。わたしたちが世を去るとき、または終わりの日が突如臨むとき、一切の富は無くなります。そのことが「金がなくなったとき」という句で指し示されています。自分が持っているものは何もないのです。あるのは自分だけ、自分と神との関係だけです。その時、神を友としうるように、現在の富を用いることが人生緊急の課題です。
 このことが、さらに続けて一〇節から一三節にかけて言葉を尽くして(=伝承された語録を集めて)説かれます。

神と富に兼ね仕えることはできない

 「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」。(一六・一〇)

 これは当時のことわざ、あるいは格言が引用されているものと考えられます。それは、次節の内容を言うための準備です。次節は、この格言の適用として、「だから」という語で始まります。

ここで、普通は「信じる」と訳される《ピステウオー》という動詞が「忠実である」という意味で用いられ、《ピスティス》(信仰)の形容詞形《ピストス》が「忠実な」という意味で用いられています。反対の「不忠実な」は《アディコス》(不義の、不正な)という語で表現されています。《アディコス》は一〜九節の「不義の」という表現と、《ピステウオー》という動詞は次節の「任せる」という表現とのつながりを示しています。

 「だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」。(一六・一一)

 前節に引用された格言が言っているとおり、「ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」のだから、「不義の富の使い方で不忠実な者」は、大きな事、すなわち「本当に価値あるもの」に不忠実な者として、「本当に価値ある」霊的事態を神から委ねられることもない、ということになります。この節は直訳すると、「だから、あなたたちが不義の富に忠実にならなければ、誰があなたたちに《ト・アレーシノン》(真なるもの)を《ピステウオー》する(任せる、委ねる)だろうか」となります。
 《ト・アレーシノン》(真なるもの)は、ヨハネ福音書がよく用いる名詞の《アレーセイア》とほぼ同じで、新約聖書では空しいもの、象徴にすぎないものに対して、霊的なリアリティーを指します。たとえば「まことのパン」(ヨハネ六・三二)とか「まことのぶどうの木」(ヨハネ一五・一)、また「真の幕屋」(ヘブライ八・二)というときの「真の」という形容詞を用いた表現です。このような霊的現実を与えられて、福音がもたらす霊的・終末的現実に生きる者は、地上の富の使い方についても、神の御心に忠実でなければならない、とこの語録は説いています。

 「また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか」。(一六・一二)

 この節は、一〇節に引用された格言の「小事に忠実でない者は、大事にも忠実でない」を、「他人のもの」と「自分のもの」とに適用しています。他人のものに忠実でない者は、自分のものにも忠実でないのだから、誰が(他人のものに忠実でないような者に)自分のものを与えてくれるであろうか、という意味になります。他人のものに忠実でない者は、性格が真実でないことを示しており、そのような者は自分のことも含め万事に忠実でない、という論理が前提されているようです。
 一一節との並行関係からすると、ここの「他人のもの」は、神から与えられた本来神のものである富を指しており、「あなたのもの」は本来自分に属するべき永遠の命とか自分が生きる《ト・アレーシノン》(真なるもの)を指している、と理解すべきでしょう。本来自分のものではない富の使い方について忠実でない者には、永遠の命のように自分に固有であるべきものについても忠実ではないので、《ト・アレーシノン》(真なるもの)は与えられない、と言っていることになります。

 「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。(一六・一三)

 ここまでルカは自分だけが持っている特殊資料を用いてきましたが、この段落の結論には「語録資料Q」の語録を用いています。並行するマタイ六・二四の文と較べると、マタイが冒頭の言葉を「だれも」としているところを、ルカは「召使い」を入れて、「どんな召使いも」としているところが違うだけで、他はすべて(原文で)字句通りに一致しています。マタイとルカが共通のギリシア語の文書資料を用いていることは明らかです。ルカが「召使い」を入れたのは、この節を「不正な管理人《オイコノモス》」で始まる段落の結論として用いるために同系の《オイケテース》(召使い、家内奴隷)という語を用いたからだと考えられます。

この節の最初の文の動詞が《ドゥーレウオー》(奴隷として仕える)という語が用いられていることから、また次ぎに引用するトマス福音書の並行箇所が「奴隷」という語を用いていることから、ここの《オイケテース》は家内奴隷を指すとして、ここを「どんな奴隷も」と訳す翻訳もあります(NRSVなど)。
 これとよく似た語録が「トマス福音書」に伝えられています。

 イエスが言った、「一人の人が二頭の馬に乗り、二つの弓を引くことはできない。一人の奴隷が二人の主人に兼ね仕えることはできない。あるいは、彼は一方を尊び、他方を侮辱するであろう」。 (トマス福音書 語録四七・一〜二節 荒井献 訳)
 トマスでは「二人の主人」が誰であるかは特定されていません。トマス福音書のグノーシス主義的な傾向からすれば、おそらく「至高者(父)」と「創造神《デーミウールゴス》」が含意されているのでしょう。トマス伝承と比較しますと、イエスの初期の語録伝承では「二人の主人」を特定しない形であったのが、「語録資料Q」の段階で「神とマモン」と特定されるようになった可能性が推定されます。

 この段落(一六・一〜一三)で、「富」と訳されているギリシア語原語はすべて《マモーナス》です。これは、アラム語の《マモーン(またはマモーナ)》を音写したギリシア語です。アラム語の《マモーン》の由来はよく分かりませんが、ヘブライ語の《アーマーン》(確かな)と関連があるのではないかと見られています。アラム語では(「頼れるもの」という意味からでしょうか)「富」を指す語として用いられていました。ユダヤ教文献では、「不義のマモーン」という用例が多く、不正な手段で得られた富が断罪されています。
 この結論をなす節では、「富」を意味する「マモン」は擬人化されて用いられ、人に仕えられることを要求する主人として、神と対抗しています。イエスは「富」を絶対的な価値として追求する生き方を、「マモンという偽りの神に仕える」こと、まことの神に仕えることと両立しないこととして、断固退けられるのです。
 このことが、当時の奴隷制社会において、奴隷が主人に仕える生活をたとえとして語られます。奴隷は一人の主人に仕えて、全面的にその主人の命令に従わなければなりません。ある面では(または、ある時は)主人に従い、他の面では(または、他の時には)他の主人の命令に従うというような、「二人の主人に仕える」ことは奴隷には許されません。ここで、「愛する」とか「憎む」、また「親しむ」とか「軽んじる」というような感情を示す語が用いられています。本来、主人と奴隷の間に感情が入ることは許されません(憎んでいても従わなければならないのです)が、よい主人に恵まれれば、奴隷が心から主人を愛し親しみ、主人と対立する他の奴隷所有者を憎み軽んじることもありえます。その時、「主人に仕える」ことは完全になります。
 このように、奴隷が「主人に仕える」ことをたとえとして、人が「神とマモンに兼ね仕えることはできない」という命題が提示されます。これは「兼ね仕えるべきでない」という命令とか勧告ではなく、「それはできないことだ」という事実の提示です。それは、神とマモンは完全に対立し、相容れない原理だからです。
 では、「マモンに仕える」ことと対立する「神に仕える」とはどういう生き方でしょうか。経済活動を軽視したり放棄して、宗教活動に熱心に励むことでしょうか。そうではないと思います。「神に仕える」とは、具体的には、神が求めておられることを追求すること、すなわち隣人を愛すること、隣人に仕えることであると考えます。人間を人間として尊び、人間の尊厳に仕えることであると思います。「マモンに仕える」ことと「神に仕える」ことの対立は、具体的には、経済的価値を絶対的なものとして追求する生き方と、隣人を愛することによって人間の尊厳に仕える生き方の対立です。
 現代文明は経済的価値を神として拝み、その神マモンを拝むために人間の尊厳を犠牲として捧げてきました。イエスの言葉は、このような現代文明に対する痛烈な批判であり、これからの進路を指し示す指針です。経済的価値にかぎらず、人間の尊厳以外のものを絶対化し、究極の価値として追求する社会は厳しい審判を招くでしょう。政治も経済も、人間の尊厳、人格と人権の尊重に仕えることが、神の祝福を受ける道です。

一六章一三節についての講解は、著者の理解はマタイの場合と変わらないのと、本書だけを所有される読者のために、「語録資料Q」から採られたマタイの並行箇所(マタイ六・二四)の講解(拙著『マタイによる御国の福音 ― 「山上の説教」講解』305頁以下の「二人の主人」の項)の大部分を(その箇所を参照ではなく)本書に引用しました。